私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

志方城跡・三木城跡

2012-11-07 15:08:05 | 歴史探索
 11月 7日(水)  天気:晴れて穏やか   室温:19.6℃

 きょうは ”黒田官兵衛ゆかりの地を巡る” の パンフレットにある 志方城跡と三木城跡を訪れまし
た。 官兵衛は 22歳で 家督を継ぎ 小寺政職の姪で 志方城主・櫛橋伊定の娘を娶った。 官兵
衛は この時代には 珍しく 一夫一婦を生涯守りました。 志方城は 今は 観音寺になっています。
 三木城の別所長治は 毛利氏と結び 織田信長に反旗を翻し 籠城した。 羽柴秀吉は 兵糧攻め
を行って 三木城を落とした。 官兵衛とのつながりは?
 ついでに 志方城と三木城の間にある 法道仙人開基の 鉾礼山・正法寺にも寄りました。 

 9:03 出発。 姫路バイパスは きょうは スムース。 加古川に入り 加古川西ランプで降りて 県
道43号線を北へ。 投松の交差点で 左折して 西へ戻り 志方の信号で 曲がりますが・・。 細い
道に入ってしまい 観音寺の山門前に出て 停められません。 細い道を戻り 境内の広い駐車場
に停め直しました。 9:45 駐車。 加古川西ランプから 5.3km、家から 31.8km。


 山門を入ったところに 観音寺城(志方城)跡のボロボロに錆びた標柱と 説明板があり そ
れによると 志方城址は 市易城とも呼ばれ 城の規模は 現在の当観音寺の境内を 本丸と
し 本丸を囲む内堀の周囲に 二の丸(志方小学校辺り)、西の丸(旧志方町役場辺り) と か
なりの規模の城でした。
 この城の城主・櫛橋家は 藤原氏の末裔で 伊朝を元祖とし 代々 赤松氏の家臣でした。
伊朝より五代の孫・櫛橋左京亮則伊は 赤松政則に仕えて 大いに重んぜられ 祖父の例に
ならって 播磨・備前・美作の三国の財産・出納の役を つとめ 文明13年(1481) 志方天神
山に 城を築き ついて 明応元年(1492) この地に 志方城を築いた。
 以来 伊家、伊定と 父子三代 88年間続いたが 天正7年8月 羽柴秀吉の攻略にあって
落城。 今は 山門の周りの石垣にのみ 当時の面影を残しているのでしょうか?


 宝積山・観音寺について 書かれた由緒などは ありません。 曹洞宗のお寺なので 禅宗系で
す。 建物は 簡素で 木鼻などの飾りものはありません。 駐車場の横に 墓地があり 陸軍伍長
とか 空砲撃雷鳴居士 という墓があり これは 一種の戦争遺跡といえる?
 結局 志方城跡(観音寺) に 官兵衛ゆかりのものを 見付けることは できませんでした・・・。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・
 正法寺へ向かいます。 県道65号線を東へ走り 加古川大堰を見ながら 上荘橋を渡り 左折。
川沿いに県道18号線を北へ行き 山陽道の手前の正法寺のの信号で右折。 しばらく進むと 左
に 大きな正法寺の表示があります。 ここで V字に折り返し 細い山道を登ると 終点が 正法寺
です。 観音寺から 13.2km、10:53 山門の前に駐車。
 正法寺には 今は 誰も住んでいなようで 寂れた感じです。 このまま 廃れるのでしょうか? 


 山門の右に ”心のふる里曼陀羅の丘” の説明板があり 寺歴が 書かれています。
高野山真言宗の鉾礼山・正法寺の本尊は 十一面千手観世菩薩。
 人皇36代 孝徳天皇の御代 法道仙人の開基、大化五年 (649) 創建。
 天正八年(1580) 三木合戦の折 秀吉軍の兵火に遭い 焼失。
 天正11年(1583) 快秀上人によって 三院、三坊を再建。
 元和元年(1615) 明石城主・小笠原忠政より 高20石寄進賜わる。
 慶安元年(1648) 将軍・徳川家光公より 御朱印下賜。
 明治維新の排(廃)仏棄釈により 約20年間 無住。
 明治22年(1889) 石野大秀により 復興。 ・・・・


 山門の手前から右に 階段があり この周りには 多くの仏像がありました。 修行大師、
子安観音、ぼけ封じ観音・・。 護摩堂十三仏もあり 十三仏が コ字形に並んでいて 中心
は 初七日の不動明王。 上には 左に 金剛界五仏(五智如来)の石仏、右に 胎蔵界五仏
があり 中央には 高い金色の平成観音像があります。 周りには 33ヵ所石仏もあった?


 コンクリート製の山門は 絵本にでてくる竜宮城のようです。 門を潜ると 正面に庫裏、
左奥に大師堂があるだけです。 右にあるレンガ造りの蔵のような建物は?
 曼陀羅の丘にある境内案内図に 山門の左奥に 本堂跡が描かれ 宝篋印塔もある
ようなので 行ってみましょう。 いい山道があり これなら楽勝? ところが 行けども
本堂跡はありません。 2、300m登ると 峠のような所に出て 先は下り。 左のやや急
な道を登りましたが・・・。 200mほど登ったでしょうか? 三角点もどきの所で 諦めて
引き返しました。 きょうは 山登りの日ではない・・。 なぜ いい道があるのか?
 帰って 2.5万の地図を見ると ずーっと登ると 電波塔のある正法寺山と言われる
三角点のある152mの山に登るのでしょうか?  本堂跡は どこに? 

 ・ ・  ・ ・  ・ ・  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 11:39 車に戻り 三木城に向かいます。 県道を真っ直ぐ走り 国道を横切り 三木市街
に入り 福有橋を渡り 左折。 三木城跡の方へ入る道が分かりません。 右にカーブして 約
200m先で 右折。 ガード下を潜り 坂を登り 丘の上に上がり 図書館の前の駐車場に 駐
車。 11:57 駐車、正法寺から 6.0km。 とりあえず 図書館で トイレ。


 隣の建物は 堀光美術館で 前にある彫刻は 名久井十九三の「女像」。 車は 停めら
れたのですが ここはどこ? 城跡は どっち? 城跡のある上の丸公園は 北のようです。


 駐車場の北の門を抜け 上の丸公園へ。 稲荷神社があるので お参りします。
拝殿に 絵馬がありますが プラのカバーがあり 光が反射し 写真が撮れない・・。
稲荷神社の周囲には 丸い石が 石碑のように 設置してあり 正一位のものも・・。


 右には 三木金物神社があり 金物資料館もあります。 資料館の前には 「村の鍛冶屋」
の歌碑があります。 資料館の中を覗くと 館長さんが 出て来られ いろいろ説明して頂き
別所長治の三木合戦の資料を頂きました。 この資料は 三木城、別所長治に関して 文
字は 小さいのですが 詳しく書かれていて 大変 参考になります。
忠魂碑を見て 天守跡へ。 ここには 別所長治の辞世の碑があり 辞世の句は
  ”今はたた うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば”
後ろには 家臣の句碑もあります。 ここは 高台なので 三木市街を望むことができます。


 毛利氏と結び 信長に反旗を翻した別所長治は 秀吉の兵糧攻めに遭い 自刃するのです。
長治は 12歳で家督を継いだため 二人の叔父(別所賀相、重棟)に後見され 成長した。 
 長治は 名門の当主に相応しい教養、品格をもち容貌、心映えも涼やかな若者で 家中の
敬慕を受け 君臨していた。 政治軍事の宰領は 二人の叔父が 専らにしていた。
 この二人の叔父は 仲が悪く 二人の対立は 賀相の毛利びいき、重棟の信長びいきに 発
展し・・。 長治は 重棟と共に 信長に謁して 交誼を深め 雑賀攻めに従軍するなど 信長に
忠節の証を見せていたが・・・。
 賀相は 秀吉を見下し 長治に 信長からの離反し 毛利氏との同盟を 決意させた・・・。 


 三木城は 室町時代の後期 東播磨八郡の守護代となった 別所則治によって 明和年間
(1492~) に築かれました。 五代城主・長治のとき 秀吉に攻められ 秀吉は 三木城を取
り囲むように 32余りの付城を築き 兵糧攻めにしました。
 この戦いは 三木合戦といわれ 天正六年(1578)4月より 1年10ヵ月に及び 籠城の
悲惨さから ”三木の干殺し” として 有名です。 天正8年1月15日 長治は 降伏を決意し
秀吉に書状を送り 長治・友之の兄弟と 賀相の3人が 自刃するから 城内の3000余人を
助命してほしいと 申し入れた。 秀吉は これに応じ 17日 長治(23歳)は 自刃・・。
 最後まで 徹底抗戦を主張した 別所賀相も 死亡し 三木合戦は 終わった・・・。
長治一族の自害によって 開城し 籠城した人々の命が助けられました。 大坂夏の陣の
直後 江戸幕府が 打ち出した 一国一城令によって 天和三年(1617) 廃城となりました。 


 下の図は 合戦のとき 三木城を取り囲んだ付城で 右に 羽柴秀吉、荒木村重、竹中半兵
衛の陣が 左に 別所重棟の陣が 見られます。 突如 荒木村重が 戦線離脱し 有岡城に帰
ってしまった・・。 荒木村重は 毛利氏・本願寺の誘引工作をうけて 盟約した。 これにより
本願寺(現大坂城の地)、その北西14kmにある有岡城、三木城の連携ラインができた。


 黒田官兵衛が登場するのは このときでしょうか。 官兵衛の主人・小寺政職も 毛利方になり・・。
天正六年(1578)11月 荒木村重と面識のある官兵衛が 村重を説得するため 単身 有岡城
に行きますが 捕らわれの身となって 1年間 狭い石牢に幽閉され 栗山善助に助け出された
時には 骨と皮になっていた? このときの 面白い裏話は 司馬遼太郎の 「播磨灘物語」 に書
いてある? 牢の小窓から見える藤に 命を懸け・・。 家紋を 藤巴にした? 秀吉は 官兵衛が
裏切ったと思い 息子を殺せ! そのとき 竹中半兵衛が それがしが・・・。


 天守台の奥に 「かんかん井戸」 があります。 径3.6m、深さ約25mで 石を投げ込む
と カンカンと音がするそうです。 館長さんは 子どもの頃 この井戸は 抜け穴で 籠城した
とき 離れたところから 食料を運んだ と聞いていたそうです。 それで 2年近く持ち堪えた。
その後の調査で 井戸には 抜け道は なかった・・・。


 ついでに 雲龍寺へ行きます。 西へ真っ直ぐ下ると 山門の前に出ますが 先は 行き止まり。
お寺の駐車場へ行けません。 車は来そうにないので 山門の前に停めました。 図書館から
300m。 高源山・雲龍寺は 曹洞宗で 禅宗系のお寺で 本堂の造りは 簡素です。


 雲龍寺は 天徳二年(958) 村上天皇の勅命を受け 慈恵僧正が創建しました。 三木合戦
のとき 三木城内にあったため 焼失。 天正八年(1580) 一族の最後を弔うために 雲龍寺
七世の住職・春泰禅師が 当時の城主・長治公の自害の席に招かれたとき 長治公は 後事を
禅師に 託し 愛用していた天目茶碗と 唐子遊びの軸を 形見として贈った。
 三木城開城後 寺院を再興。 秀吉から 30石の寄進状、以後 代々の徳川将軍家より 御
朱印状を承りました。 後醍醐天皇のとき 天皇の勅願所となり 文明年間になり 城主・別所
就治が 異忠禅師を招いて 再建。


 裏には 長治公夫妻の首塚があります。 長治公 自刃後 首級は 秀吉の陣地より
安土の信長のもとに送られし という。 雲龍寺七世・安室春泰和尚が 安土より 長治公
の首を持ち帰り これを 懇に 埋葬祭祀せり・・・。 これで 本日の行程は 終了・・。
 13:01 帰路につきます。 県道に降りる道が分からないので 来た道を戻りました。
公民館の信号で 曲がり 城山橋を渡ると 三木城跡のある丘を眺めることができます。


 県道に戻り 福有橋を渡り 県道23号線を北へ戻り ジャスコの手前で 左折して 国道
175号線に出て 北へ行き 13:40 三木小野ICから 山陽道に入ります。
権現湖PAへ寄り 昼食。 朝 山陽道で 事故と言っていましたが 処理は終わったようで
平日の昼間 山陽道は 空いていました。 14:23 花田ICを 通過。
 三木~花田間は 25.9km、700円。 姫路バイパスを走り 14:48 帰着。
本日の走行距離は 往路:観音寺まで 31.8km 正法寺まで 13.2km 三木の図書館
まで 6.0km 雲龍寺まで 0.3km 復路:52.9kmで 計:104.2kmでした。

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