私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

宮本武蔵「生誕の地」に勇姿 銅像寄贈

2024-08-24 15:11:37 | 歴史探索

  8月24日(土)    天気:晴れ    室温:33.4℃

 きょうは、21日の新聞に載っていた ”宮本武蔵 「生誕の地」 に勇姿” を 見に行きました。 新聞によると、

太子町宮本の宮本公園に 映画監督の三上康雄さんが 私費を投じて 寄贈した 銅像が建てられ、除幕式があった。

 お披露目された銅像は 高さ1.6mあり、躍動感のある二刀流の武蔵が 表現されている。

 

 映画「武蔵ーむさしー」で 出生地を播磨として描かれた 脚本・監督の三上康雄様より 武蔵の出生地として、太子町

宮本を認定され、武蔵像が寄贈されました。 なお、佐々木小次郎も 福岡県田川郡添田町を出生地を認定され、小次郎

像を寄贈されました。 そのご縁で 太子町と添田町との交流が 始まりました。

 佐々木小次郎のが 添田町の出身だという説が  佐々木小次郎 豊前添田説 に書かれています。 

 以前、公民館の歴史教室で、宮本武蔵の話があり、生誕地と言われる 美作市の大原、佐用町の平福、太子町宮本

の石海神社、高砂市の米田町を 訪れたことがあります。 太子町の宮本は、江戸時代に書かれた 「播磨鑑」に 生誕

と書かれているようですが、大火事が 二度もあり、資料が何も残っていないのは 残念です。

 「播磨鑑」に 「武蔵 揖保郡鳩ノ庄 宮本村ノ産ナリ 若年ヨリ兵術ヲ好ミ修行シ・・」とあり、また、武蔵が

晩年に書いた兵法書「五輪書」にも 「生国播磨ノ武士」となっている。 今は 涸れて当時の面水はないが、この

井戸で 汲まれた水で 生まれて初めて入湯したのである。 井戸の脇の家が 武蔵の生家と言われている。

 逆さ椋の由来:この椋の木は、推定樹齢500年と伝えられている。 今から 250年前の宝暦年間と明治20年

の2回 火災で 村の大半が 焼失した。 その時、この椋木も 地面より3.5mを残し、無残な姿と化したが、「根っ

こ」が 強力で生きのびた。 その後、長い年月を経て、少しずつ 新しい目が 吹き出した。 現在では 根っこに負け

ないくらいの立派な枝振りを見せている。

 

 石海神社のご祭神は、舎人親王(とねりしんのう)。 神社の創立年月日は 不詳ですが、楠の大木が 生茂り、古灯

籠や拝殿の絵馬が 歴史を物語っています。 本堂は 明治32年の再建です。 舎人親王は 日本書紀の編集者です。

   

 岡山県美作市の宮本も 生誕地を主張していますが、その根拠があるのでしょうか。 吉川英治が 小説で 美作を

生誕地としていますが、この本には 事実でないことが 多く書かれているので、信用できません。 ここだけの話で

すが、吉川が 本を書くため 美作を訪れたとき、地元の人が 接待してくれた。 それで 生誕地にしたとか・・。

 佐用町平福には、何らかの記録が 残っているようで、武蔵が 13歳のとき 処刑場で 最初の決闘をしたというのは

事実のようです。 武蔵が どこで生まれたにせよ、幼いころ この辺りで 剣術の修行したようです。

 もう一つ 高砂市米田町も 生誕地を主張しています。 私は 米田町は かなり信頼性が高いと思っています。 とい

うのは、武蔵が 小次郎と 下関沖で決闘したあと、兄の子・伊織を養子にします。 伊織が 九州へ行ったのち、帰

ってきて、加古川の泊神社を修復し、高砂の米田天神社も修復します。 このことから 伊織(武蔵の兄も)は 米田

町辺りに住んでいたと 考えるのが 自然ではないでしょうか。 しかし、米田町に 武蔵の足跡がない・・。

 ついでにもう一つ、二つ。 武蔵は 17歳のころ 関ケ原の戦いに参加したと思っていましたが、最近、関ケ原の

とき、九州で、黒田官兵衛が 戦いを起こしていた。 その戦いに 武蔵が 参加していたとの記録が 発見された・・。

 もう一つは、最近 テレビで 佐々木小次郎という人物は 散在しないと言っていました。 小次郎は いたようです

が・・。 また 巌流島も 存在しない。 佐々木小次郎とか 巌流島は 江戸時代の歌舞伎か何かで 演じられたもの。

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