私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

宮本武蔵 ゆかりの地を訪ねて 高砂・加古川

2020-02-19 17:02:35 | 歴史探索
 2月19日(水)   天気:晴れ   室温:18.1℃

 きょうは 宮本武蔵 ゆかりの地めぐり 第2弾として 高砂市米田町と加古川市加古川町を
訪れ、西光寺、生誕地碑、米田天神社、田原家跡、泊神社などをめぐりました。
 米田町の西光寺には 宮本武蔵・伊織の銅像、五輪の庭があり、近くに 生誕地として 大きな
石碑があり、武蔵の父親とされる 田原家貞の田原家跡の碑があります。 また 宮本武蔵が 養子
にした 田原久光の次男・伊織が 奉納した額が 加古川市加古川町の泊神社にあります。
 20日の新聞の告知板に、「宮本武蔵が残した「野田派二天一流」を体験」の催しが 市総合
体育館で 3月1日に行われると 載っていました。 高砂市は 本気のようです。

 あるところに 車を停めさせていただき 高砂市米田町を歩きます。  田原家跡を捜すのに 苦労し
ました。 宝殿中学の北にあると思ったのに 県道43号線の米田橋交差点の角にありました。
 まず 米田小学校の南にある 西光寺へ行きます。 浄土宗西山禅林寺派の西光寺は 本尊は 阿弥陀如
来 、開創は 鎌倉時代中期の建治元年(1275)で、 開山は 伊予の地頭、川越四郎兵衛信義という武将
が、発心出家の志を懐き、播磨へ至り、時光上人の弟子となり、遊向上人と称され 西光寺を開かれた
ものである。

 本堂は 明治二十四年に火災にあい 焼失し、同二十七年に再建された。 山門は 亨保十七年(1732)、
鐘桜は 天明四年(1784)にそれぞれ建立されている。
 平成十三年に営まれた善導忌の記念事業として、「九品来迎之庭」が造られ、庭園研究家西桂先生に
よる「五輪之庭」が造成された。
 近年、当地が 宮本武蔵と、その甥で武蔵の養子となった伊織の生誕地であることが 大きく取り上げ
られているが、岡本家から宮本武蔵、伊織(当時は 田原家といった)の一族が 出ているという説もある。

門を入ると 五輪の庭があります。
 五輪は 仏教でいう「地・水・火・風・空」の五大五輪をかたどり、『五輪書』は、宮本武蔵が 著した一書
であるが、たんなる武術の指南書や奥義書ではない。人間の真実、人生の真実をも解きあかした古今有
数の思想書といわれる。  そこで、作庭にあたっては、武蔵の生誕地でもあることから「五輪之庭」を
テーマにした創作を試みた。つまり、「五輪」を 仏教でいう五大五輪と形や五方にちなみ、かつ武蔵の
著した『五輪書』の趣旨を生かした作庭とした。

 西光寺の南に 生誕地碑があります。 この碑は 宮本武蔵・伊織の生誕地として、平成2年6月、
武蔵・伊織顕彰会の手によって 建立されたもので、碑題は 細川 第25代当主 細川護貞氏の筆による
もので、使用石材は 地元の名産・竜山青竜石である。 なお 武蔵の由緒の地については 次の各地が
挙げられている。  播州高砂は 生誕之地、 作州大原は 修練の地、 豊前小倉は 大成の地、
肥後熊本は 終焉の地。  「独行道」 の詳細については 2月4日の歴史教室のページを見てください。



 米田天神社は 生誕地碑の北にあります。 前は 桜公園。 米田天神社は 米田(米堕)地名
発祥の地です。 祭神は 天照大神、国懸大神、少彦名大神。 
 由来:元は 加古川市泊神社の末社であった。 旧社殿は 宮本武蔵の養子・宮本伊織が 泊神社を
改築寄進した際、旧社殿を 当所へ移築したものである。 当社には、伊織とその弟・小原玄昌に
よって 甲田重信他筆による三十六歌仙扁額36面が 奉納されている。 また 伊織の一族大山久
太郎政次によって 石灯籠も寄進されている。
 伊織は、赤松氏の流れをくむ田原家の出身で 当町に生まれ、宮本武蔵は 田原甚兵衛久光の弟で
天正年間に 作州の宮本無二之助一真の養子となっている。


 田原家跡の碑は 県道43号線の交差点・米田橋北にあります。
 この辺りは、古より 播州印南郡雁南庄米堕と呼ばれ、ここは、この地の庄屋であった田原家
の屋敷跡の一部とされる。 田原家は 戦国大名・赤松家を祖先とし、赤松円心より四代目の赤
松持貞の代に 生を田原と改め、代々ここ米田の地に 住むことになった。 また、田原家は 武家
としての人材も多く輩出し、天正十年(1582)には、剣豪宮本武蔵も生まれている。

 車へ戻る途中、米堕山神宮寺へ寄りました。 田原家跡を捜しながら 宝殿中学の北辺りを
彷徨っていて ある人に尋ね 教えていただきましたが 神宮寺に鰐口があると教えていただ
きました。 米田天神社の隣に 公民館(公会堂?)があり その東に ちいさなお寺・神宮寺が
あります。 神仏混淆のころ 米田天神社の付属寺院で 本尊は 薬師如来、開基は 法道仙人。
 鎖にぶら下がっている鰐口は 銘から 正保三年(1646)に 宮本伊織が 寄進したもの。 

 国道250号線を東へ行き 加古川を渡り 2つ目の信号・鳩里小南の信号で 左折し 北へ行
くと 泊神社があります。   泊神社の由緒
 神代に、天照大神が 天岩戸にお隠れになったとき、大神の怒りを解くために 群神事計り 御鏡
を造った。 後に 一つは 伊勢神宮に祀られ、一つは 海に流された。 大和時代に それが 泊まり
着いた所に 檍(あおき)の木があり、檍原大明神として 祀ったのが 当宮の起こりである。


 現在の社殿は 承応2年(1653)武蔵の養子・宮本伊織が 改築したときのものといわれて
います。 石弾(いしはじき)城の石垣や 伊織 寄進の花崗岩製の燈籠(279cm)、・田原正
久寄進の燈籠(165cm)、36歌仙図絵馬、棟札などが 残っています。




  
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 この前 太子町の歴史資料館でもらった 「石海神社と宮本武蔵」 の資料から 「宮本伊織 泊
神社 奉納額の要約」(抜粋)を下に記しておきます。
 ①私の祖先は、62代・村上天皇の第7王子・具平親王より 流転して、赤松氏の出である。
  赤松持貞の代、時運が振るわず、故に そのよく知られた赤松の氏を 避けて、田原に改称し、
  播州印南郡河南庄米堕邑(米田町)に住み、子孫代々ここに生まれた。
 ②私の曽祖父は 左京太夫貞光、祖父は 家貞、父は 久光といい、貞光以来すっと小寺氏の摩下に
  属してきた。 故に 筑前に、子孫がいるのである。
 ③作州のよく知られた氏に 新免という者があった。 天正年間、後継ぎが無いまま、筑前で
  秋月城で 亡くなった。 その遺を受け 家を継承したのを 武蔵掾玄信という。
  武蔵は、後に 宮本と改称した。 また 子が無かったので、私が 義子(養子)となった。
  故に 私は 今 その宮本氏を称している。
 ④私が 元服した頃、信州に生まれた小笠原忠政に、播州明石において 仕えるようになり
  そして今また、それに従って 豊前の小倉にいる。
  木村・加古川・西宿村・・・・塩市・今市、総17村の氏神を 泊大明神と号し 奉っている。
    ・・・・・・
  謹んで告げる。家の兄田原吉久、弟の小原玄昌と工事を行い、新しい二つの社殿を得た。
 ⑤その玄昌(弟)が 小原を氏とするのは、摂州小原城主・上野守信利の嗣子・信忠には、
  男子が無く、信忠は、天正年間、朝鮮で戦死してしまった。 故に 母が命じて、玄昌に
  その氏(母の実家の小原氏)を継がせたという。
 ⑥時に 承応2年(1653)5月日、宮本伊織源貞次、謹んで 白す。

 これから、伊織のルーツが 高砂米田村であることはわかりますが (あくまで伊織の自己主張
ではある)、武蔵のことを云々するものとはいえません。 なぜ、これが 武蔵高砂生誕説の根拠
といえるのでしょうか? 
 
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