私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室 「名門本多家の系譜 と 本多忠政」

2021-04-20 14:15:07 | 歴史探索
 4月20日(火)   天気:晴れ   室温:19.9℃

 きょうは 公民館の歴史教室4月に 出席しました。 今月は 元城郭研究室長
中川秀昭先生の 「名門本多家の系譜と姫路藩主 本多忠政」 です。 来月も 中川
先生の 「むかしの姫路城」 が予定されています。

 ・・・・・・ 名門本多家の系譜と本多忠正 ・・・・・・

Ⅰ.名門本多家の系譜
 1.本多氏とは
  ・本姓:藤原氏(藤原氏北家兼通流)
  ・助秀:豊後国日田郡本多郷に住み、郷名をもって 本多氏を名乗る
  ・助定:足利尊氏に仕え、建武4年(1337)、尾張国横根・粟飯原の地頭職

  
 ◇数多くの分家(大名13家、旗本45家、ほかに 加賀前田家、越前松平家 家老など
  ・助時系:本多宗家(伊勢桑名・播磨姫路~三河岡崎藩主)、播磨山崎、陸奥泉藩主等
  ・正時系:近江膳所・伊勢神戸・三河西端藩主  ・定吉系:安房長尾藩主
  ・正吉系:信濃飯山藩主        [以上は 明治に至った大名家8家]
   ※定吉系に 徳川家康側近として活躍した本多正信・正純
   ※正時・信正系に、本多重次系の越前丸岡藩主(初代・本多成重・重次長男、幼名仙千代)がいる
 

 2.三河譜代・本多氏
  ※三河譜代:松平氏を主家として 代々従った家臣(酒井氏、石川氏、大久保氏など)
  ・本多助時が 三河国伊奈郷に住み 松平泰親(松平氏2代)に仕え、以降 代々松平氏(徳川氏
                       前身)の譜代家臣(三河譜代)として仕える
  
  ・松平清康:岡崎城を拠点に 三河を支配し、戦国大名に躍進。
  ・松平広忠:10歳で 父清康が殺害され、松平氏内紛で 岡崎を追われるが、・・・
  ・本多忠豊:忠高とともに、松平清康・広忠に仕える。 織田信秀と三河安祥城をめぐる戦いで・・
  ・本多忠高:天文18年(1549)、織田信広が守る安祥城攻防戦で 討死。

 3.徳川四天王ー本多忠勝の活躍
 ・本多忠勝(天文17(1548).2.8~慶長15(1610).10.18 63歳没)
  ・徳川四天王、徳川十六神将
  ・三河国額田郡(現・岡崎市)で 生まれる(本多忠高長男)
  ・幼い頃から 徳川家康に仕え、永禄3年(1560) 桶狭間の戦いに 13歳で初陣。
  ・家康の三河一向一揆・東河平定・遠州平定に従軍ー永禄9年 19歳で旗本先手役に抜擢。
  ・三方ヶ原の戦いの前哨戦、一言坂の戦いで 一戦を交えたときに 武田方から
    「家康に 過ぎたるものが 二つあり、唐の頭と本多平八」 『武田軍艦』
    ※本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」(天下三槍)
  ・天正16年(1588):叙位・任官 従五位下中務大輔(なかつかさたいふ)
  ・天正18年(1590)小田原北条攻めと 家康の関東移封⇒忠勝に上総大多喜城10万石
  ・慶長5年(1600):関ケ原の戦いー井伊直政・本多忠勝・・・軍艦(東軍諸將の指揮)
  ・慶長6年(1601):伊勢桑名藩主10万石(桑名城修築、慶長町割り、東海道宿場整備)
  ・慶長15年(1610):桑名で没、63歳(家臣・中根忠実、榊原忠殉死)
     生涯50余の戦いに かすり傷ひとつうけなかったという
  ・正室:阿知氏女  2男(本多忠政・本多忠朝)、5女
   
Ⅱ.四天王の血を引く本多忠政

 1.本多忠政の生涯
  ・本多忠正(天正3(1575)~寛永8(1631).8.10 57歳没)
   ・天正3年(1575) 三河国生れ(本多忠勝長男)
   ・天正18年(1590):小田原北条攻めで 戦功(初陣・16歳)
         松平信康(徳川家康長男)の次女熊姫(ゆうひめ)と婚姻
   ・慶長3年(1598):叙位・任官 従五位 美濃守
   ・慶長5年(1600):関ケ原の戦い 秀忠に従い 信濃・上田城攻め
   ・慶長15(1610):本多忠勝の跡を継ぎ 伊勢桑名藩主に
   ・慶長19年(1614)~同20年(1615) 大坂冬の陣・夏の陣で 戦功
     大坂夏の陣で 弟・本多忠朝は 壮絶な討死。忠政次男・政朝が 大多喜城主に
   ・元和2年(1616):家康の命により、長男本多忠刻・千姫婚姻
   ・元和3年(1617):伊勢桑名10万石から 15万石に加増、播磨姫路に転封
               千姫化粧料として 本多忠刻に 10万石
   ・元和7年(1621):本多忠刻・千姫 長男幸千代 没、3歳
   ・寛永3年(1626):本多忠刻、姫路城で 没、31歳ー千姫、勝姫を伴い江戸へ。
   ・寛永5年(1628):勝姫(徳川秀忠養女)と 鳥取藩主 池田光政 婚姻
   ・寛永6年(1629):黒書院溜間出座命じられる・・・「溜間の制」の萌芽
   ・寛永8年(1631):大御所 徳川秀忠の見舞いに 急遽、姫路を発つ
   ・同    8.10 :江戸城西の丸下屋敷に着き、沐浴しようと湯殿に入り、没、57歳
               書写山円教寺 本多家廟所にほうむる
   
 2.なぜ本多忠政が姫路に転封になったのか
  ◇大坂の陣ののち 幕府体制の確立を目指し、幕府は 全国的な所領の再配置を進めた
   ・外様大名を畿外へ転出させ、譜代大名で 畿内(大坂周辺)を固める
   ・大坂の直轄領化(大坂城代配置)と 徳川大坂城築城開始(元和6年)
   ・譜代大名の播磨への進出-本多・小笠原氏の播磨入封<播磨は「西国の藩鎮」>
   ・元和3年(1617):本多忠政  伊勢桑名10万石→播磨姫路15万石
                 忠刻           忠刻・千姫化粧料10万石
   ・元和3年(1617):小笠原忠真 信濃松本8万石 →播磨明石10万石
   ・元和3年(1617):本多政朝  上総大多喜5万石→播磨龍野5万石
   ・元和3年(1617):戸田氏鉄  近江膳所3万石 →摂津尼崎5万石
3.本多忠政の姫路藩主としての主な治績
   ・西の丸造営、西の丸御殿(中書丸)・西の丸櫓群 築造
   ・船場本徳寺の創設(元和4年~東本願寺派の再興
   ・船場川を改修し 舟運を開く(飾磨樋門(大樋))
   
   ・高砂堀川の町割りと 高砂神社の遷座修築
   ・八家塩田の開拓(2町4反)
   ・寺社の保護と社殿などの修築ー書写山円教寺、播磨国総社、廣峯神社、加茂神社など

 4.本多忠政(本多忠刻)以降~
  ◇本多忠刻没後(寛永3年)の後
    本多忠刻遺領10万石ー本多政朝5万石 龍野藩主→姫路城部屋住・忠政次男
      の配分     ー本多忠義4万石 姫路城部屋住・忠政3男
              ー小笠原永次1万石 本多忠朝の後、龍野藩主に(6万石)

  ◇本多忠政没(寛永8年(1631))、次男・本多政朝が 姫路藩主に
   ・本多政朝(慶長5年~寛永15年 没、39歳
    ・慶長5年(1600):上総大多喜生まれ
    ・慶長17年(1612):叙位・任官 従五位下 甲斐守
    ・寛永8年(1631):本多忠政没により 家督継承、姫路藩主に、32歳
    ・寛永15年(1638):姫路城で没、39歳 本多家廟所(書写山)に葬る
     ※政朝は 学問を好み、詩歌・和歌・書・茶の湯などを嗜む風流大名

  ◇本多政朝没(寛永15年)の後、従弟の本多政勝が 姫路藩主に
   ・本多政勝(慶長19年(1614)~寛文11年(1671)没、58歳)
    ・慶長19年(1614):上総大喜多生まれ(本多忠朝長男)
    ・寛永8年(1631):政朝から 忠刻遺領5万石のうち 4万石拝領、姫路城部屋住
    ・寛永15年(1638):本多政朝没により 家督継承、姫路藩主に、25歳
    ・寛永16年(1639):松平忠明と入れ替わり 大和郡山藩主に 転封

  ◆本多忠朝と酒封じ祈願
   ・慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣で 壮絶な討死を遂げた本多忠朝。
    死に臨んで深く酒弊を悔い、将来、酒のために身を誤るものを助けんと 誓って
    瞑目したと伝わる。
     爾来、酒封じの神として、酒に苦しむ当人や家族が 多数参拝。 酒弊の除滅に
     信を得ている。 杓文字は、参拝者による酒封じ祈願。
     
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4 コメント

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Unknown (ゆき)
2021-04-21 03:33:31
本多家というのは、そういう風に姫路へと繋がっていったのですね。
日本の歴史ってついつい漢字ばっかりで、読んだり考えたり、ふうっ、です。
日本人でありながら、本当に何も知らなくて、、
今に続く本多家の末裔、いらっしゃるのでしょうね??
本多家 (YS11)
2021-04-21 10:24:50
ゆきさん おはようございます。
実をいうと 年取ってから歴史を勉強するようになり
それまで 本多家についてほとんど知りませんでした。
なので きのうの歴史教室は 退屈でした。
ただ 千姫が結婚したのが 本多忠刻ということだけ知っていました。
千姫は 姫路城とゆかりがあるので 姫路では 有名?

ところで コロナが第4波の流行で 姫路では 毎日20~30人が感染していますが
そちらは どうですか?
Unknown (ゆき)
2021-04-23 06:29:21
美之さん、こんにちは。(失礼じゃないかしら??)

日本にいたら、更に日本の歴史に疎かったかもしれません。

離れたからこそ、今ちょっと関心があるんだと思います。

名前が両親から次の代へと、受け継がれるから、似たような名前のために、こんがらがってしまいます!

でも自分が生きている以上、どこかから血脈が続いているのか、と不思議に感じます。

ドイツのコロナもかなり増えています。
今週末日曜日に、ワクチン接種の予約が
やっと入りました。

一般には、まだまだかかりそうです。
わたしはピアノを教えているのですが、
勤めている公立の音楽学校からの要請(?)
子供に接する仕事上、早く順番がきたようです。
でもまだ当分の間、オンラインでのレッスンです。
注射、ちょっとドキドキします、、
歴史? (YS11)
2021-04-23 15:23:44
ゆきさん こんにちは。
若い頃 歴史には 興味がありませんでしたが
何年か前  黒田官兵衛を NHKの大河ドラマにと誘致し
姫路で いろいろな資料が 配布され,
私も退職後 暇を持て余していたので、歴史に興味を持つようになりました。

広島にある墓には 江戸時代に亡くなった先祖の墓がありますが
父親以前の人については 何も分かりません。
私の子供は 女二人なので 家は私の代で終わりです。

コロナのワクチンは 5月にならないと いつ摂取できるか分かりません。
姫路は 遅れているような・・。

ピアノの先生なら 目の前で トルコ行進曲でも弾いてほしいな・・・。

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