私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

山崎 最上山公園 もみじ祭り と 碑

2017-11-13 15:55:36 | 日記
 11月13日(月) 休刊日   天気:晴れ    室温:20.1℃

 きょうは 山崎の最上山公園へ 先週の新聞に載っていた 黒田官兵衛の次男 ”黒田熊之助
ゆかりの地” の碑を 見に行きました。 碑は 公園の駐車場のあり もみじ祭りをしていたので
モミジの紅葉も見てきました。 山崎の街を歩いて 防災センターに戻り ついでに よい温泉へ
行き 水を汲み 帰りに 買い物をして帰りました。 きょうも 有意義な一日を過ごせました。

8日(水)の新聞には 概略
 黒田官兵衛の次男・熊之助の息子の記念碑が 最上山公園にできた。 熊之助は 官兵衛が
山崎城を建てたとき 産まれたとされ 官兵衛・長政が 朝鮮に出兵の際 官兵衛を追って 海
を渡ろうとして 遭難死した・・・。  山崎では 知られていなかったが 福岡市の菩提寺の
墓碑に そう刻まれている・・。

 新聞には 碑は 最上山公園に設置されたとあったので 防災センター前に駐車し センター
で 場所を確認しますが 分からず・・。 山の上の地図の最上山公園を書かれた辺りにあるか
と思い 恵比寿神社から山へ上がろうと 神社の前まで行くと うまい具合に 高齢の人が歩い
てきて 西へ突き当たって右の駐車場にあると 教えていただきました。  おかげで 山に登ら
ずに 済みました。 駐車場には 係員もおられ 碑は すぐ分かりました。 弁天池の下です。


 石碑の裏には 以下のように 刻まれています。
 古来 宍粟郡山崎の地は 南北には 山陽と山陰、東西には 近畿地方と中国地方の交通
の結節点として 重要な位置を占めてきました。 とりわけ 戦国時代末期にあっては 東か
ら織田信長、羽柴秀吉の勢力と 中国地方の毛利氏の勢力が 対峙した地域でした。
 宍粟郡周辺を治めていた 宇野政頼・祐清父子は 最後まで 秀吉勢力に抵抗しましたが
天正8年(1580) 秀吉の軍勢の攻撃によって 長水城、篠ノ丸城は ついに落城すること
になりました。


 天正12年(1584) 黒田官兵衛孝高が 秀吉より 「宍粟郡一職」(黒田家文書)を与えら
れ 後の黒田家隆盛への 「飛躍の地」 となりました。
 黒田孝高の子息には 福岡藩・初代藩主となった 黒田長政がいましたが 福岡藩が 編纂し
た 「黒田家譜」 によれば 天正10年(1582) に  「次男熊之助生る」 と記されています。
 また 黒田家の菩提寺である福岡市の崇福寺にある 「黒田熊之助碑」 には 「黒田熊之助君
孝高公次子、而長政公同母弟也、天正10年、生干播磨山崎城」 と刻まれており 熊之助の山
崎生誕説を裏づけるものとなっています。


 碑文は 福岡黒田家十三代・黒田長成侯の起草になるものであり 「播磨の山崎城で生る」
とあるのも 「黒田家譜」 を典拠としたものとみられます。 黒田熊之助については 若くして
亡くなったといわれ 謎の部分も多くありますが ここに 黒田氏と 山崎の地を結ぶ縁を刻し
記念碑を建立します。          平成29年10月吉日



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