私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

英雄たちの選択 福島正則

2016-03-21 14:39:31 | 歴史探索
 3月21日(月)  天気:晴れ   室温:19.9℃

 3月17日(木) 8:00から BSプレミアムで ”英雄たちの選択 ~福島正則 広島城改修事件~”
が放送されました。 私は 広島で 生まれ 育ち 子どもの頃 広島城の下の広場で よく野球をして
遊んでいました。 そのころは お城には 全く関心がありませんでしたが 暇を持て余す現在は 広
島城・福島正則を 勉強するいい機会です。

 福島正則は 1561年 尾張国生まれ。 母・松雲院は 秀吉の叔母。 幼少時より 秀吉に仕え
山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどで 数々の軍功を挙げ 清州城の城主(24万石)となる。 清州城
は 前は 関白・豊臣秀次が 城主を務めていた 豊臣政権にとって 特別な意味を持つ城。

NHK ONLINE には
 戦国の猛将・福島正則が 迫られた究極の選択。 それは居城 「広島城を破壊せよ」という 2代
 将軍・徳川秀忠の命令。 これは 時代と関係なく、あなたも 直面するかもしれない 人間の生き
 方の選択だ! 武将にとって 城は プライドの象徴。 命令を受け入れれば 正則の武威は 地に
 落ちる。  一方 無視すれば どのような処分を 下されるか分からない。  屈辱を受け 入れ生き
 延びるか、 誇りある滅びを選ぶか。  日本の運命を決めた 猛将 vs 将軍 の行方は?
 【司会】 磯田道史、渡邊佐和子  【出演】 萱野稔人、中野信子、山本一力、山本博文

 関ヶ原の戦いの前 小山評定で 家康が 意見を聞いた時 正則が 最初に 三成を討つべしと
言ったということになっていますが 本当は 正則は 参加していない? 正則は 清州城に残って
三成と対峙するよう 命じられていた? 
 関ヶ原の戦いでは 東軍・徳川家康につき 最前線で戦い 論功により 安芸・備後49万石を
賜わり 広島城を築城。 広島城は 太田川に囲まれた広大な城で 天守の規模も 当時として
は 全国一だった。  櫓も 80以上あった・・。



 1615年 大坂夏の陣で 豊臣秀頼が 自害し 豊臣家は 滅亡。 夏の陣では 正則は 江戸に
留め置かれ 戦いには 参加せず。 正則は 秀頼は まだ若いので 命だけは助けてくれと歎願する
も 聞き入れられず・・・。
 夏の陣は 関ヶ原の戦いに 参加できなかった 戦い知らずの徳川秀忠の戦いの場でもあった。
秀忠は 兵を動かして 勝てる男と 世に示しておかないと 統治できない・・。

 夏の陣のあと 「武家御法度」 が発布されます。 これには 城の修理は 許可を得なければいけ
ないと・・。 「武家御法度」 は 江戸城の築城などの普請、役務命令行為と 城を造る時は 許可を
求めよという、許認可行為があり 全国の武士に対する 指揮監督権を 維持することを明確にした。

 こんな時 広島に大雨が降り 大洪水に襲われ 本丸、二の丸、三の丸、多くの櫓が 被害を
受けます。 正則は 本多氏に 城の改修の許可を 申請していた という話もありますが 秀忠から
広島城改修は 「武家御法度」 に背いた、破却せよとの命令が・・。   正則は 悩みます。
 屈服して 生き延びるか 敗北覚悟で 城を守るか・・。 屈辱の生か?  誇りある滅びか?

 この時 正則には 2つの選択肢がありました。 1つは 本丸以外 全て壊す、2つ目は 城の
一部だけを壊す。 正則は 秀忠の意向を くみ取ることができなかった。


 正則は 本丸の石垣、櫓の一部だけを壊しますが・・・。 正則は 秀忠の本心を 推し量ろうと
したのでしょうか。  秀忠の怒りに触れ 元和5年 改易となる。
 安芸・備後49万石を 没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と 越後国魚沼郡の4.5万石に減封・
転封される。 移封後、正則は 嫡男・忠勝に 家督を譲り 隠居し 出家して 高斎と号した。
寛永元年(1624) 死去。 享年64.

 秀忠は 全国の大名に 幕府の意向を示すため みせしめとして 正則を罰した?
それとも 正則が 豊臣恩顧の武将だから 正則の力を恐れた?


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コメント
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