西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

地域ブランド

2011-08-22 21:59:43 | 日記
昨日撮った写真を、DVDにコピーして一件は郵送、一件は手渡ししてきました。
もう一件は仮プリントしてみて、ちょこっと編集してプリント作業です。
そんな風に今日は始まりました、あとは市役所に缶詰で一般質問の構想を練っていました、ということで今日は大して報告すること無いな・・と思っていましたら、忘れていました金曜夜の講演の報告を。
これはとっても面白かったので、いつものようにザックリ(こればっかし)報告します(その上、聞いてから3日たちます、老いた私の脳みそは記憶をあらかた飛ばしてしまっています)。

まず講演の名前なんですが、「第五回 明日の西都を語る会」というもので、講演者は食環境ジャーナリスト・食総合プロヂューサーの金丸弘美さんです。
さてこれは語る会という題でわかるように講演プラス対談という形だったのですが、肝心な対談相手橋田市長が東京出張からの帰りの飛行機が羽田の豪雨で運休になり、講演だけで進めることになりました。

ところがこの金丸さんは、話のたねの引き出しが多いみたいで、2時間近くを色々な事例織り交ぜながら、一時も観客を飽きさせずに講演しました。
この話ホントに面白く、また地域の住民が考えなければいけないことが一杯でした。

テーマは「<食>を活かした地域づくり~地域ブランドを引き出す力 トータルマネジメントが西都を変える!~」です。
小売業の状況は、これまでは大量につくり都会に販売するという構造は完全に曲がり角です、人口が減り、高齢化が進み、若い購買層が減ってきて、スーパーやデパートの売り上げが下がってきている、その結果全国で50万m2のスーパーがつぶれている状況でだそうです。
その上安売り競争が、原価を抑えるため生産地域(私たちの住むところ)を圧迫しているそうです。
ところが地域は地域のメリット活かした道があると説き、地域で経済が回る仕組みを金丸氏はアドバイスしています。
今からは6次産業(生産+加工+販売)が重要であり、事実16000件の直売所が誕生しています。
但し良いところと悪いところが2極化しています、この原因は確立した「コンセプト」があるかないかが分かれ目だそうです。

成功するための5つの力の法則があります、①発見力②ものつくり力③ブランドデザイン力④食文化力⑤環境力の5つです。

事例を話されました「常陸秋そば」をブランド化したいと市から依頼があったそうです。金丸氏の手法はこの秋そばを観察して、テキストつくりに乗り出します。
そばを蒔くところからはじまり、そばの花が受粉するための虫の話(日本ミツバチ)、収穫、そば打つところなど最初から最後までのテキストをつくったのです。
つまりただの「常陸秋そば」という商品の背景をテキストという形で出しました。情報発信は地元に住むそば打ち名人を探し出し(海老ひや子さんというおば~ちゃん)、情報発信できる人たちつまり新聞社・マスコミ・ミニコミ誌・有名人を集めテキスト配り、そのおばあ~ちゃんのそば打ちイベントをしたそうです。
見事ブランド化に成功しました。(背景をくっきりと出したことが素晴らしい・・私の感想)

「大分県竹田市のサフラン」やはり農家から始まるテキスト作成、サフランを使った一流シェフによるワークショップ(パテリアを使った料理)で大成功

「すくなカボチャ」20年前からつくっている1本が4kgほどのカボチャですが、同じく思いのこもった(背景たっぷりの)具体的なテキストをつくり、東京のイタリア料理店(なんと4000店舗あるそうです)むけに農家と料理家のコラボレーションを行いました。そしてすくなカボチャツアーなど行いブランドかに成功

「長崎県大村市シュシュ」農家が出資し農家の女性が中心となり運営し年間50万にが訪れる施設になりました(女性陣の参加・地域素材の利用と手作りが成功の元)

「今治市」完熟タルト、完熟なので産地でしか販売できない。それを逆手に取りジェラード(形の悪いもの)にしたり、雑魚と言われた魚を調べ抜いて、フランス(だったと思います)料理の高級魚と煮ていることをつかみ、高級魚としてブランドか成功

「JAうんなん鳥取県」若者が立ち上がり、物作りは自分たちがやると構想を練り直販大成功、子供向けの食教室などおこない学校当局とコミィニケーションをはかり学校給食の大部分を地場産の食材へ

「内子町 フレッシュパークからり」(個人的にはここを視察してみたいと思いました) 1978年より町並み保存を行いその先駆性が、住んでいる方の愛着を生み、観光客の増加につなげています。
この町では「1億円創生基金」を使わず、その利子で職員をドイツに派遣し学ばせたそうです、また同じように地元の子供達を30年間にわたってドイツに留学させ続けています。その中の何人かは職員となり、環境先進国のドイツの方向性を内子町は取り入れてきました(30年間にわたる、住民への投資が実ったわけです・・素晴らしい)

それ以外もグレーンツーリズムの話などがありました。
これらの直販店のシステムで取り入れているのは、生産者とのダイレクトな情報を大切にしています。
つまりレジを商品が通ると、生産者の携帯に残数の情報が入ります。
商品が切れる前に補充がなされ、購買者はいつも新鮮なものが買えるわけです。
そして生産者の方はちょっとびっくりするような売り上げがあがります。
そういた評判が評判を生み、新しい商品、地域の再発見が行われます。

そして最も大切なのは地元民が地元を知ること、地域調査をしあるものを掘り起こし街の地図づくりをすること。
情熱を持ちながら、つまり地域の活性は、地域を知り地域の特産化することから始まる事を知る。
今からは、生産地を抱え、生産者の顔がわかる田舎の時代だということです。

良い講演でした、でも聞くだけでなく実行をしなければと思っています。
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ただいまです

2011-08-21 21:55:54 | 日記
先ほど帰ってきました、え~ととりあえずザックリと紹介を・・・。

子ども会については以前にもこのブログで書きましたが、西都市は県内でも活動的な子ども会であるし、組織運営も全市で取り組んでいます。
つまり、各学校単位で子ども会に加入促進を行い、市の社会教育課に子ども会の窓口を作り、バックアップしているのです。

各単位子ども会を引っ張っていく、子供達のリーダー(6.5年生)を研修するのが今回の子ども会リーダー研修です。
参加者は主人公の子供達、子育連役員、子育連指導者、社会教育課、そしてもう一つの主役ジュニアリーダーです。
ジュニアリーダーは中学生から高校生のボランティア団体です。
年間通して子ども会の行事の手伝いをしてくれます、この研修会でも各班に1人ないし2人が専任で担当して子供達と一緒に活動してくれます。

実は西都は例の口蹄疫のため、昨年はリーダー研修を中止としました。
指導者としては、昨年の経験がない上、世代代わりしたのでジュニアリーダーの経験不足を心配していました。
ところが、ほんとに素晴らしかった、子供達の面倒を見て、優しく指導し、子供達が自らやれるような雰囲気をつくっていました。
私も久しぶりの参加だったのですが、いいな~と感じいったし、研修所となった「むかばき山青少年研修センター」の職員の皆さんは、子供達が実に楽しそうに、また規律正しくやっているのをとても感心していました(県内でも最高です、といっていました)

滝トレッキングしたり、キャンドルサービスしたり私も楽しみました、また事故、怪我もなく良かったです。
写真はキャンドルサービスの一場面です。
この中で歌う「今日の日はさようなら」はいいですね~、歌いながらジ~ンとします。
「い~つまでも 絶えることなく~ 友だちでいよう 明日の日を夢見て・・(略)・信じ合う喜びを大切にしよう 今日の日はさようなら またあう日まで またあう日まで」(グスッ・・)

でむかばき(延岡)から宮崎市に移動して、先日紹介した「色空」の藤原新也さんの写真展「メメント・モリ」の講演会とイベントへと向かいました。
私は写真撮影班として参加しました。
藤原さんについては先日紹介しましたが、今日参加者の面前で「書」を披露されました。
藤原さんは書にたいしても、並々ならぬ力量を持っており、表現者の媒体として「写真」「文章」「書」で展開しています。
事前に書く字を決めず、その場に立ちそこからわき起こる感情を全身で受け止めて字を決めていくそうです。

今回も真っ白な紙(麻で出来た高知産の特別な紙だそうです)の前で、すっくと立って暫く瞑想をしていました。
息をのむような緊張の時間が続きました、そしておもむろに大筆を取り、全身全霊で書き上げました。
写真がそれです

その後3時間にわたり、スライドを交えた、とっても濃~ゆい講演が続きました。
藤原新也氏の人となりが、良く理解しました。

その後、高鍋に行き、友人の同窓会の集合写真を撮って、帰宅です。
明日からは、一般質問の準備をしなければ~、と言う事で今からはちょっと焼酎を飲んでゆっくりします。
それでは・・(最近、一日に1500件ほどアクセスがあったのですが、有り難いやら、気の毒やらです・・。有り難うございます)
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さ~て、ちょっとバタバタしてきました

2011-08-19 17:30:23 | 日記
お盆も終わり、日本の夏の風物詩、甲子園は明日決勝です。
なんか甲子園が終わると思ったら、あ~夏が終わったと感傷的になるナイーブな私です
(ん~何か飛んできた)
さて、またそろそろ忙しくなってきました。
今日はいまから空手の練習をちょっと見て、文化ホールである第4回「明日の西都を語る会」に参加して、その足で「むかばき青少年自然の家」に行き2日間子ども会のリーダーキャンプに参加、日曜は延岡→宮崎→高鍋で帰宅。来週は高校PTAで北海道の全国大会参加、9/1から議会が開会するので、一般質問の準備(今回も希望します)、議会委員会、地区の敬老会の準備、西都原古墳群空手道大会、第10回フラクタス展作品制作・・・などなど(他いっぱい)。
そろそろ、ちゃんと計画しないと自分の首を絞めてしまいそうな気がします。

さて何から手をつけようか・・・。

とりあえず、2日間は家を離れるので、むかばき青少年自然の家にPCが無ければ、明日は更新できないと思います。

以前書いた、長文のブログでも見ていてください(多分、読み切れなかったいうか、あまりの長さに読む気がなくなったと思いますから、是非この機会に・・・)
それでは行ってきます。
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空手の話、深い

2011-08-18 21:54:25 | 日記
ブログで空手の話をずっと続けていますが、今日はちょっと番外編です。
空手をやりながら、色々と考えています。

それは簡単に言うと「伝統と進化」と言うことです。
このブログを見ている人はわかると思いますが、私の空手歴は何にも知らず自ら地獄に足を踏みいれた大学時代、漫画に感化されて社会人の時行った超人気空手、そして今やっている空手(大学時代と同系統)です。

大学時代は船越義珍先生直系松濤会系、社会人は極真会館の支部指導員、そして大学系統だけど全空連に加盟させていただいた空手を今やっています。
つまりおおざっぱに言って、3系統の空手をやらせてもらいました。

初めて空手にふれたのは35年前、知ってのとおり、ブルース・リーと空手バカ一代が大ブームでした。
空手がなんたるか知らずに、空手はみんな一緒と思っていた私は体育会の空手道部に入りました(このあたりの事情は、以前書きました)。
兎に角、基本、形を重要視する空手道部でした。
学連に加盟していなかったので、対外試合はほとんどしませんでした。
組手は約束組手が中心で週に一回ぐらい自由組手を行いました。
自由組手は顔面有りの(というかfOBから、顔を狙えと言われていました)、金的ぐらいが禁止のやつでした。
そうなると、間合い(闘うものの間隔)が離れてきます。
形は義珍先生時代のまんまだったと思います(これは確認とれていません)

学生時代から、社会人にあたり大山倍達氏の「100万人の空手」「秘伝極真空手」という教本を読んでいて、著者の言った、「現代の空手マンは歴史上の空手家を凌駕した」という記事を読んでいて「そりゃそうだよな、オリンピックなんか見ても記録は飛躍的に伸びているし」と思ったものでした。
社会人の時は宮崎県出身の中村誠氏が世界チャンピオンになったときでした。
宮崎に凱旋されて、指導をしてもらった覚えがあります。
指導員はその時3人(多分)いて、稽古の仕上げで中村師範と組手をしました。
知ってる方は知っていると思いますが、中村師範は身長180CM以上、体重は120kgあったと思います。
かたや私はあの頃は細くって、60kg半ばでした。
中村師範は地方指導員との組手ですから、試合の時みたいに本気では無かったと思いますが、それでも1発1発は重く、パワーがありました。
でも技は見えるので、受けることが出来ます、只攻撃しようと思っても、下段蹴りをしたって蹴った足が痛くなり、ボディーへの突きは全く効いた様子がありません。
やることが無くなり思わず、学生時代の癖で顔に正拳を当ててしまい、ちょっと顔色が変わったのを覚えています。
それからは、ブンブン蹴りや突きがきました。
兎に角、膝蹴りだけはもらわないようにと必死でした(前の2人は膝蹴りで撃沈していました)。兎に角動いて受けて、上段回しは両手で受けてと・・、何とか時間が過ぎダウンだけはまぬがれましたが、何か耳が変だなと思って翌日耳鼻科に行くと、鼓膜がすぽんと大きく破れていました(受けはしたけど、風圧で破れたみたいです)。
中村師範と稽古後飲みにいって、色々と話を聞きました。
「僕みたいに体の大きいものでも、怖く感じる空手家がいる、それは川畑幸一氏(本部生で、それから京都支部長だったと思いますが、ある大会で上段回し蹴りを中村師範に放ちダウンを奪ったことがあります)みたいな空手、君はそういったのを目指すと良い」と言われたのを覚えています。
そんなこんなでこりゃ~力が大切だと思い、パワーリフティングを始めました。
そうしたらある時期空手よりそちらが主となりました。

その後今、色々な方の応援で全空連に加盟して、一所懸命やっているわけです。
そうした中で、本好きな私は空手の本をむさぼり読んでいました。
その中で空手の流行廃り(こんな言い方は悪いですが)があるのに気づきます。
分かり易くするため、ザックリと書きますと。

*1970年代はマスコミ(漫画)と梶原一騎氏の影響で極真館が脚光を浴びてきた
60年代から70年代初めは、まだ伝統的な空手の技術が使われていました。
*1980年代はルールに特化した戦い方になる(間合いが極端に近い)
それでもマスコミの影響でこれこそ最強という伝説がつくられました
(オープントーナメントといったって、考えてみれば伝統派の例えば大学選手権で勝負するような選手は絶対出場しなかったはずです)
ここで注釈ですが、大学空手道部の練習量は兎に角多かったです、練習量は強さに比例します、ですから漫画でのようなことは(空手ダンスとかの中傷)現実的では無かったと思います。
そしてその時代の極真館の練習はやはり量が半端無く多かったです(特に移動稽古の量が多かったで、頭より体にしみこませようと思ってたみたい)、私が指導員の時も体がカラカラになるほど基本・移動をやりました。
純粋な選手同士なら、単純に練習量の大小が勝敗を左右すると思っています(それとルールね、レスリングのグレコとフリー以上に違うから同じ土俵で強弱は比較できない)。
そこに、マスコミを利用した宣伝が虚構の伝説をつくったと思っています(ここで注意なんですが、極真館の選手が弱いわけではないです、むちゃくちゃ強かったです、でもおなじようにむちゃくちゃ強い伝統派の空手家もいたと言うことです)。
*2000年前後になると異種格闘技やK1の戦い方で、極真式空手の強さにクエッションが出てきます。
*このあたりで、懐古的な説が出され始めます。
曰く、昔の空手は実戦的だったと言うものです。
私も漫画の洗脳から解き放たれ、色々と形を調べ始めますが、たしかに護身的です。
というか競技になりようがありません、なんせ目つき、貫手、一本突き、金的蹴り、関節技に関節蹴りがちりばめられているわけですから。

*ここで原理主義的な表現も出てきます、つまり先人がつくった形が最高だというものです、変えられた形はダメだというものなのです。
ある面納得できるけど、進化した部分もあるんじゃないかと思ってもいます。
今有り難いことに、パソコンで色々と形が見る事が出来ます。
そこで顕著なのは、伝達のされ方で形が変わってしまっていることです。

空手は首里手系、那覇手系、泊手系とおおきく3つの流れがあります(異論がある人がいるとは思いますが)。
これらは元々の形は全くと言って違う技ですが、沖縄の手が盛んになったとき融合しています。
例えば松濤館系は首里手系ですが、鉄騎、バッサイは泊系、半月はどう見ても那覇手です。で今やその元となった形とはだいぶん変わってきています。
それは和道も糸東もそうです、剛柔流・上地流だけは割と近代中国から持ってきたのでそれほど違いがないと思いますが、それでも三戦などは動きが違います。
つまり教えられた方の癖や時代(教える人が教え方を変えたかも)によって違ってきたのではと感じてしまいます。
今みたいにビデオがあれば、良かったんでしょうけど、あの頃は1対1で教えていたそうなので、教える人が教え子の体格や運動神経などを見てその人にあっていればそれを進めたとも考えられます。
それほど、違っています。
松濤館の形は、見栄えがよく、体育的に変換されたと言われますが、もしかしてそれは進化の部分でもあるんじゃないかと思っています。
空手が日本にきて90年ぐらい経っています、その中ではキラ星のごとく輝く空手家達がいました、彼らが変えた部分もあるならそれは進化といっても良いのかなと思っています。

昔の形を絶対変えないと言っている流派の形も見ましたが、結構技の力の入れ方は松濤館に似ていてびっくりしました(立ちとかは違いますよ、力のいれ具合です)。
また沖縄の現存している名人の技を見ましたけど、やはり流派、会派によって違っているように見えます(これは、私の見る目が無いせいかもしれません、ただ違って見えるというだけです)
空手で最も大切なナイファンチンでさえ、松林流の新里先生のは特徴があります(同じ沖縄の大家の形とは違う)し新里先生はインタビュ~で私の形を進化させようとしていますといわれ、研究を怠らないようです。

さて結論なのですが、あまりそれらブーム(古伝だニュ~ウエ~ブだとか)に乗らされない方がよいかなと言うことです。
今やっている流派の形をまずは一所懸命やること、そしてその中の技の精度と体使いによる威力の出し方を学ぶ事が大切かなと思っています。

空手の伝統と進化を考えるだけで、「深いな~」と思ってしまう今日この頃です。

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メメント・モリ

2011-08-17 21:47:35 | 日記
この言葉は、私にとって写真の見方の要素であり、私の写真の大テーマです(死とエロス)。
この言葉を分かり易く表した言葉がありますので書いてみますね。

哲学者の土屋賢二氏が『ツチヤの軽はずみ』(文藝春秋)でおもしろおかしく(この人は何冊か本を書いていますが、ほとんど冗談で埋め尽くされています・・そこが私の気に入っているところですが)次のように書いています。 

 古来多くの人が「死を忘れるな」という警告を発してきた。ヨーロッパ中世の絵画には、通常の絵の隅にどくろを描いて死を思い起こさせる趣向のものがある。

 このように警告が鳴らされるには理由がある。死を忘れていると、生きていることのありがたさを忘れてしまう。死に直面するとき、はじめて人間は生きることの大切さを知る。それまで、異性に恵まれていない、脚が短い、金が自由にならない、病気ばかりしている、と不平ばかりいい、目先の利害に一喜一憂している人が、死を意識すると一時的に真人間にもどり、それまでの生活を悔い改め、自然の美を見出し、人類愛に目覚め、脚が短いことにも感謝するのである。人間が愚かな行為をするのは死を忘れているからだ。死と向かい合って生きるのが人間のあるべき姿である。こう考えられるのだ。

冗談ぽく書いているけど、ものすごく分かり易いでしょう。
さて、写真界でメメントモリと言ったらtoshiro~じゃなくって(失礼)藤原新也さんですね。
彼についてのエピソードをザックリ書きますと(記憶を思い出しだし)

23歳の藤原新也はアジアをこの目で見たくなり、放浪したくなります。
時は1960年代で若者一人が外国に行くことは難しく、まだ1ドル350円の時で、貧乏な学生であった彼は当然お金がありません。
親戚から借りたりしますが、まだまだ足りません、それで彼は考えます、新聞社だったらこういった冒険にお金かしてくれるかも。
ある新聞社に飛び込むわけです。
自分の思いを熱く語ります、するとこの担当者は「面白い、ちょっとやらせてみるか」と渡航費用の一部を負担することになりました(良い時代だったんですね)。
但し条件を出されます、紀行文を書くこと、そして写真を撮ってくること。
写真を撮ったことのない彼は親戚(だったと思う)からカメラを借りて、使い方を教わり、新聞社からもらったフイルムとともに、インドに旅立ちました。

若く感受性の豊かな藤原青年にとって、インドは驚愕の連続でした。
カメラを向けることを忘れるくらい、ひきつけられたそうです。
でも、約束だからと思い、カメラを向けました。
夢中でシャッターを押しますが、なんせカメラに慣れていないので、撮り方もわかりません、押さえだとかも(失敗を防ぐため、違う角度で撮ったりすること・・私がよくやります失敗が怖いんで・・)せず、よし撮った!で終わったそうです。

多分頂いたフイルムは使い切れず、旅費の足しに売ったという記憶がありますが・・?。

そして、約束とおり、フイルム(少し少なくなった)を新聞社の渡したわけです。
で、担当者はその写真を見てびっくりします、今までにない新鮮さと、迫力にです。
藤原青年に写真に合わせて紀行文も書いてもらい、新聞社のグラフ誌に載せました。

グラフ誌が発売されて一夜明けたら、写真家として、文筆家として日本中に知られる事になりました。

写真家・藤原新也の誕生です。

ここからお知らせです(なが~い、あまりに前ふりがなが長過ぎる~・・・と言う声が)
以前、このブログでも紹介した「Artspace色空」で現在藤原新也写真展「メメント・モリ」が開会中です。

オーナーの川添さんは藤原さんの大ファン(交流もあったそうです)で、自分たち夫婦の夢であったギャラリーのオープニングは絶対、藤原さんと決めていましたし、藤原さんの承諾も受けていたそうです。
ただ今回の3.11東日本大震災で写真家である藤原氏は時間が取れなくなって、今月まで延びてしまいました。

ですが川添さんにとって今回の「メメント・モリ」がオープン記念特別企画展です。

写真に興味のある方、文章に興味ある方、こぞって見に行ってください。
8/31までです。
と言う事で今日の写真は、写真展のチラシです・・ちび子という猫が撮影のじゃまにきました。


私が好きな「鉄輪」と一緒に

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