以前も書きましたが、「割れ窓理論」という理論があります。
ほとんどの皆さんは知っておられるでしょうが、ちょっと書かせてもらうと。
治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。
1.建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。
2.ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
3.住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
4.凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。
したがって、治安を回復させるには、
一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。
警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。
地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。
(ウイクペディアより、引用しています)
これは1970年代、大犯罪都市といわれたニューヨークが現在見事に治安が復活させた理論でもあります。(同時に「ゼロトレランス」という、非寛容主義なる理論も併用しましたけど。)
初っぱなから難しい事書きましたが、私が思っていることをザックリ書きますと、街角にゴミが落ちていると、色々な問題の発端になると思っていることです。
今日道路愛護一斉行動が行われました。
県(西都土木事務所)・建設業・西都市・市議会・商店街・他の皆さんが市内のゴミ拾いをしました。
街中のゴミ拾いというのは、多岐にわたる効果をもたらすと思っている私は喜んで参加しました。
やはりゴミの落ちていない道路に、ゴミを捨てるというのは結構勇気がいるし(抑止力)、結果ごみがへります。
また道ばたにゴミの落ちていない西都市を見たら、観光客を含め我が市を訪れた方は、ここは「何か違う」と思ってくれたら、良き効果を及ぼすと思います。
人って案外そう言うところに目がいきます、ディズニーランドが出来て直ぐ、妻と子供を連れて遊びに行ったとき、捨てられたゴミが「あっ」という間に片づけられたシーンを見て、この経営者の理念のすばらしさを感じ、また来ようと思ったものです。
社員(従業員)教育の徹底が、そしてその方針の正しさが見て取れました。
逆が、悲しいけれど「シーガイア」でした、こりゃダメだなと応援していた県民の私が思ってしまいました。
何が?それは「金になるところだけに注視し、儲からない事は排除してしまった、おもてなしの心を無くした、サービスだった」ということです。
いろいろありましたが、その一つは私はカレーを注文しまして、同時に水をくださいといったとき、「水はありません、ジュースかなにかを御注文ください」といわれました。
あ~ダメだここは、リピータを考えていないと思いました。
そして結果は皆さんご存じの通りです。
あのうもう一つ言わせてもらうと、公衆便所が汚い観光地は絶対ダメですね。
遅かれ早かれそんな観光地は没落します。
「トイレ掃除は経費がかかります」てな言葉を言わせたら、回り回って自分の首を絞めていきます(しかもその時は何故自分の首が締まっているか、わからない・・・つまり対処にしようがないという事です)。
今回は愛護日という特別事業という感じでしたが、西都市内で日常に行っている個人や団体、会社もあります。
出来たら自分の家の周りは、そこに住む人たちがボランティアできれいにするという習慣が出来るのが望ましいでしょうね。
そこに地域の教育が育まれるでしょうし、先に述べましたが多岐にわたる効果が出てくると思います。
さて最後に愚痴を一つ、私は挨拶運動を終えて、ゴミを拾いながら家にもどっているんですが、いくつかのゴミが落ちていたり、公園のベンチにビール缶や弁当殻が置いてあるのは(いやだけど)まだ我慢が出来きます、だけど垣根の中にわからないように、空き缶やペットボトルをつっこんで、隠しながら捨ててあるのは、その捨てた人の人間度に低さを見せつけられる気がしていやになります。
「見えなくなったら、いいや」。または「見えたら捨てたという良心の呵責を感じるから、見えないように隠して・・ほっと安心」「見えなくなったら、捨てたという事実も無くなった」といった気持ちなんでしょうか?
あのね、垣根の中に手を突っ込むのは結構大変なのよ、(痛いし、時計も傷つくし、白魚のような指や手も傷が付くのです)どうせ捨てるのなら堂々と「今から、僕はここに見えるところにゴミを捨てます、文句あるなら携帯に電話しろ」なんて書いてあれば、頭に来るけど「もしかして、ここにゴミを捨てるのは彼の哲学かもしれない」なんて思うかもしれません(勿論電話しますよ)。
ダメよ、隠すなんて卑しいことは、そう言えばどっかの国で電車埋めてしまった事もあったですね。
(持って帰ったゴミを分別している市の職員の方々)
ほとんどの皆さんは知っておられるでしょうが、ちょっと書かせてもらうと。
治安が悪化するまでには次のような経過をたどる。
1.建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出す。
2.ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪が起きるようになる。
3.住民のモラルが低下して、地域の振興、安全確保に協力しなくなる。それがさらに環境を悪化させる。
4.凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになる。
したがって、治安を回復させるには、
一見無害であったり、軽微な秩序違反行為でも取り締まる(ごみはきちんと分類して捨てるなど)。
警察職員による徒歩パトロールや交通違反の取り締まりを強化する。
地域社会は警察職員に協力し、秩序の維持に努力する。
(ウイクペディアより、引用しています)
これは1970年代、大犯罪都市といわれたニューヨークが現在見事に治安が復活させた理論でもあります。(同時に「ゼロトレランス」という、非寛容主義なる理論も併用しましたけど。)
初っぱなから難しい事書きましたが、私が思っていることをザックリ書きますと、街角にゴミが落ちていると、色々な問題の発端になると思っていることです。
今日道路愛護一斉行動が行われました。
県(西都土木事務所)・建設業・西都市・市議会・商店街・他の皆さんが市内のゴミ拾いをしました。
街中のゴミ拾いというのは、多岐にわたる効果をもたらすと思っている私は喜んで参加しました。
やはりゴミの落ちていない道路に、ゴミを捨てるというのは結構勇気がいるし(抑止力)、結果ごみがへります。
また道ばたにゴミの落ちていない西都市を見たら、観光客を含め我が市を訪れた方は、ここは「何か違う」と思ってくれたら、良き効果を及ぼすと思います。
人って案外そう言うところに目がいきます、ディズニーランドが出来て直ぐ、妻と子供を連れて遊びに行ったとき、捨てられたゴミが「あっ」という間に片づけられたシーンを見て、この経営者の理念のすばらしさを感じ、また来ようと思ったものです。
社員(従業員)教育の徹底が、そしてその方針の正しさが見て取れました。
逆が、悲しいけれど「シーガイア」でした、こりゃダメだなと応援していた県民の私が思ってしまいました。
何が?それは「金になるところだけに注視し、儲からない事は排除してしまった、おもてなしの心を無くした、サービスだった」ということです。
いろいろありましたが、その一つは私はカレーを注文しまして、同時に水をくださいといったとき、「水はありません、ジュースかなにかを御注文ください」といわれました。
あ~ダメだここは、リピータを考えていないと思いました。
そして結果は皆さんご存じの通りです。
あのうもう一つ言わせてもらうと、公衆便所が汚い観光地は絶対ダメですね。
遅かれ早かれそんな観光地は没落します。
「トイレ掃除は経費がかかります」てな言葉を言わせたら、回り回って自分の首を絞めていきます(しかもその時は何故自分の首が締まっているか、わからない・・・つまり対処にしようがないという事です)。
今回は愛護日という特別事業という感じでしたが、西都市内で日常に行っている個人や団体、会社もあります。
出来たら自分の家の周りは、そこに住む人たちがボランティアできれいにするという習慣が出来るのが望ましいでしょうね。
そこに地域の教育が育まれるでしょうし、先に述べましたが多岐にわたる効果が出てくると思います。
さて最後に愚痴を一つ、私は挨拶運動を終えて、ゴミを拾いながら家にもどっているんですが、いくつかのゴミが落ちていたり、公園のベンチにビール缶や弁当殻が置いてあるのは(いやだけど)まだ我慢が出来きます、だけど垣根の中にわからないように、空き缶やペットボトルをつっこんで、隠しながら捨ててあるのは、その捨てた人の人間度に低さを見せつけられる気がしていやになります。
「見えなくなったら、いいや」。または「見えたら捨てたという良心の呵責を感じるから、見えないように隠して・・ほっと安心」「見えなくなったら、捨てたという事実も無くなった」といった気持ちなんでしょうか?
あのね、垣根の中に手を突っ込むのは結構大変なのよ、(痛いし、時計も傷つくし、白魚のような指や手も傷が付くのです)どうせ捨てるのなら堂々と「今から、僕はここに見えるところにゴミを捨てます、文句あるなら携帯に電話しろ」なんて書いてあれば、頭に来るけど「もしかして、ここにゴミを捨てるのは彼の哲学かもしれない」なんて思うかもしれません(勿論電話しますよ)。
ダメよ、隠すなんて卑しいことは、そう言えばどっかの国で電車埋めてしまった事もあったですね。
(持って帰ったゴミを分別している市の職員の方々)