以前、長崎をテーマにした写真展をしました(その時の説明文はブログの「3/2写真の話し②」に詳しく載せていますから見てください。)。
写真展をしようと思ったきっかけは「生ける伝説の写真家東松照明」と会えた興奮、そして原爆記念館に入って、映像で原爆落下から爆発するまでの映像を見たことです。
カメラのフラッシュに似た閃光が光った瞬間、当時の人口24万人の約1/3に相当する7万4千人が命を落としました(原爆症で時間を経て亡くなった方を含む)。戦争は戦士同士の戦い(19世紀まではそうだったと思う)から、市民が巻き込まれる無制限の戦いになってしまったのです。
その光を見た瞬間思いました「この光は絶対忘れるべきでない」。
物事は見る角度からいろいろな解釈が出来ます、事実当事者である米国はこれ以上の戦死者を出さないための、やむおえない方策だった、と言う論調が有力のようです。当然日本は違いますね。
この状況で「私が正しい、君は間違っている訂正しなさい」と互いに言い合うのは、突然生命を奪われた非戦闘員の長崎市民に対して間違っていると思います。
自分の考えに固執して相手をやりこめる(一種の原理主義です)のは、更なる戦いしか生みません(中東が良い例です)。
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」これは広島の原爆碑の言葉です。主語がない(過ちは米国だ、と言う考えの基に)とその言葉を汚した人もいたようですが、その様な無理解なことが起こります。
ブッシュのよく言う「正義か、非正義か」、という2極の硬直した考えが更なる犠牲を生んでいます(第2次大戦後最も戦争をしているのは、正義だと言っている米国です)。
負の遺産は皆にこう告げます「誰が、誰に対して」という考えでなく、「何故、どうして」です。
今の私たちは未熟な判断しかできません、現に市民運動と称しているものの一部は「恨みを作り出し、増殖させる」効果だけです。
その先の何故こんな事が起こってしまったんだと言う所に考えが行かないと、「血の連鎖」に陥るばかりです。
そういった意味で。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」この文は良くできた文章だと思います。
何故唐突にこんなブログ(それも、わかりにくい文)を書いたかというと、未曾有な被害を及ぼした口蹄疫を県民は「負の遺産」としてとらえる大切さがあると思うからです。
二度とこのような悲劇は繰り返さないと言う「義務」いや国民に向けて言える「権利」を県民は持ったのです(その権利をないがしろにする知事の言動は変だと、私は思います)。
負の遺産として考える時、大切なのはもっと根源的(緊急時に対応できない、功利主義的な畜産のあり方・グローバルな時代になった現代にあった防疫システム・食料自給率の見直し等)な事であって、国と知事が言い合うことでないです。
写真展をしようと思ったきっかけは「生ける伝説の写真家東松照明」と会えた興奮、そして原爆記念館に入って、映像で原爆落下から爆発するまでの映像を見たことです。
カメラのフラッシュに似た閃光が光った瞬間、当時の人口24万人の約1/3に相当する7万4千人が命を落としました(原爆症で時間を経て亡くなった方を含む)。戦争は戦士同士の戦い(19世紀まではそうだったと思う)から、市民が巻き込まれる無制限の戦いになってしまったのです。
その光を見た瞬間思いました「この光は絶対忘れるべきでない」。
物事は見る角度からいろいろな解釈が出来ます、事実当事者である米国はこれ以上の戦死者を出さないための、やむおえない方策だった、と言う論調が有力のようです。当然日本は違いますね。
この状況で「私が正しい、君は間違っている訂正しなさい」と互いに言い合うのは、突然生命を奪われた非戦闘員の長崎市民に対して間違っていると思います。
自分の考えに固執して相手をやりこめる(一種の原理主義です)のは、更なる戦いしか生みません(中東が良い例です)。
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」これは広島の原爆碑の言葉です。主語がない(過ちは米国だ、と言う考えの基に)とその言葉を汚した人もいたようですが、その様な無理解なことが起こります。
ブッシュのよく言う「正義か、非正義か」、という2極の硬直した考えが更なる犠牲を生んでいます(第2次大戦後最も戦争をしているのは、正義だと言っている米国です)。
負の遺産は皆にこう告げます「誰が、誰に対して」という考えでなく、「何故、どうして」です。
今の私たちは未熟な判断しかできません、現に市民運動と称しているものの一部は「恨みを作り出し、増殖させる」効果だけです。
その先の何故こんな事が起こってしまったんだと言う所に考えが行かないと、「血の連鎖」に陥るばかりです。
そういった意味で。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」この文は良くできた文章だと思います。
何故唐突にこんなブログ(それも、わかりにくい文)を書いたかというと、未曾有な被害を及ぼした口蹄疫を県民は「負の遺産」としてとらえる大切さがあると思うからです。
二度とこのような悲劇は繰り返さないと言う「義務」いや国民に向けて言える「権利」を県民は持ったのです(その権利をないがしろにする知事の言動は変だと、私は思います)。
負の遺産として考える時、大切なのはもっと根源的(緊急時に対応できない、功利主義的な畜産のあり方・グローバルな時代になった現代にあった防疫システム・食料自給率の見直し等)な事であって、国と知事が言い合うことでないです。