2015年3月21日、1年半前に急逝した母の納骨でした。
急逝と言っても、92歳の安らかな旅立ちでした。
母は生前に献体の手続きをしていたので、ようやく今月の7日、母が望んでいた「最後の役目」を果たして、骨となって帰ってきました。
白い骨壺がお墓に納められるのを、二人の兄とともに見届けました。
そして親戚の人々と母を偲ぶひと時を過ごしました。
母が亡くなった後、遺品の整理をしてくださった義姉が私にと、まとめてくださったもので帰りは荷物がふくらみました。
手仕事が好きだった母の自作の鎌倉彫の手鏡。毎日、母の傍らにありました。
リュウマチを患って、鎌倉彫の彫刻刀が持てなくなってからは、小さな筆で絵を描きました。
毎日のように、身の回りにある花や野菜を描いていました。
そして、母が愛用していたパジャマ。今の季節に着るジャケット。
母と密度濃く、一緒に過ごしたのは大阪での7年間でした。
私にとっても娘たちにとっても、かけがえのない時間でした。
そして母にとっても、大阪での7年間は、楽しく輝いた日々だったと思っています。
今も、ふと母の息遣いを感じるような気がします。
急逝と言っても、92歳の安らかな旅立ちでした。
母は生前に献体の手続きをしていたので、ようやく今月の7日、母が望んでいた「最後の役目」を果たして、骨となって帰ってきました。
白い骨壺がお墓に納められるのを、二人の兄とともに見届けました。
そして親戚の人々と母を偲ぶひと時を過ごしました。
母が亡くなった後、遺品の整理をしてくださった義姉が私にと、まとめてくださったもので帰りは荷物がふくらみました。
手仕事が好きだった母の自作の鎌倉彫の手鏡。毎日、母の傍らにありました。
リュウマチを患って、鎌倉彫の彫刻刀が持てなくなってからは、小さな筆で絵を描きました。
毎日のように、身の回りにある花や野菜を描いていました。
そして、母が愛用していたパジャマ。今の季節に着るジャケット。
母と密度濃く、一緒に過ごしたのは大阪での7年間でした。
私にとっても娘たちにとっても、かけがえのない時間でした。
そして母にとっても、大阪での7年間は、楽しく輝いた日々だったと思っています。
今も、ふと母の息遣いを感じるような気がします。