2年前の今日、母とお別れした。
92歳の大往生だった。
初めての市議選を翌年に控えた秋、母が住み慣れた街を離れ、私と幼かった子どもたちのところへ来てくれたのは、母67歳のとき。
その時の母の年齢に近づいている。
若い人たちに交じって「社会発展史」の講義を聞くために、夕方の電車に乗って出かけたのは70歳の頃。
「もの覚えが悪くなった」と嘆きながら、好奇心は衰えなかったし、納得するまで考える人だった。
母が亡くなったとき、たくさんの方から「いつも穏やかなお母さんでした」と言っていただいた。
母は、私の前では、「いつも穏やか」ではなかった。
よく怒り、よく泣く人だった。
森友問題、南スーダン日報問題、過労死を生み出す「働きかた」、子どもの貧困。
どんな言葉で怒りをぶつけたことだろう・・・。
そんなことを想いながら、今日一日を過ごした。
92歳の大往生だった。
初めての市議選を翌年に控えた秋、母が住み慣れた街を離れ、私と幼かった子どもたちのところへ来てくれたのは、母67歳のとき。
その時の母の年齢に近づいている。
若い人たちに交じって「社会発展史」の講義を聞くために、夕方の電車に乗って出かけたのは70歳の頃。
「もの覚えが悪くなった」と嘆きながら、好奇心は衰えなかったし、納得するまで考える人だった。
母が亡くなったとき、たくさんの方から「いつも穏やかなお母さんでした」と言っていただいた。
母は、私の前では、「いつも穏やか」ではなかった。
よく怒り、よく泣く人だった。
森友問題、南スーダン日報問題、過労死を生み出す「働きかた」、子どもの貧困。
どんな言葉で怒りをぶつけたことだろう・・・。
そんなことを想いながら、今日一日を過ごした。