♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■仕える喜び

2009年03月31日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日もさわやかに一日を始めていきたいですね。 

 私たちの人間関係を破壊するものがあるとするなら、その一つは自分勝手な心がある、ということだと思うんですねえ。 自分勝手な人のこと大好き!という人に私は今迄出会ったことがありません。 みんな、あの人ほんとにさ、自分勝手なんだから、もう頭にきちゃうよ。 普通こういう反応をします。

 それでは自分勝手な人に対して頭にきちゃってる人に、あなたは今迄自分勝手なことをしたことがありませんか?と尋ねると、今度は頭を掻きながら、いやあ私も自分勝手な所が結構あるんですけどね、と言うに違いありません。

 人は自分勝手なことが大嫌いなくせに、自分の心の中には嫌いなはずの自分勝手な自己中心的な思いを持っているんですね。 自分の身勝手さにはあまり気がつかずに、人の身勝手さにはものすごく敏感なんです。

 イエス・キリストはこう言われました。 マタイの福音書7章3節から。 
 「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁 ---(ま、これはあのう柱をつなぐために架け渡す木材ですよねえ)--- には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」 (7章3節から5節)

 ああこれは強烈なそして厳しいことばですね。 人の目のちりはよく分かるけど自分の目には大きな梁がある、という訳です。 でも真実だと思いませんか? 私たちはついつい人の欠点や悪い所だけを見つめて批判し攻撃してしまいます。 でもまず、あなたの中にある大きな大きな梁を取りのけなさいとキリストは言われているんですねえ。 

 私たちの大きな梁の一つは何でしょう。 それは先程言ったように、自分勝手な心が、自分さえ良ければ良いというそういう梁があるんです。 聖書はこれを罪と呼んでいるんですねえ。 その罪をそのままにしておくことは決して良い筈がありません。 どのようにその罪を取り除くことができるのでしょう。

 まず自分の心の罪を正直に認めることです。 聖書は、その罪のためにイエス・キリストが身代わりに十字架に背負ってくださり、赦し、救ってくださると約束しています。 罪を認め、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れること、これが自分の目の中から梁を取り除く出発です。

 (PBA制作「世の光」2009.3.31放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■人生における収支のバランス

2009年03月30日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気でしょうか。 村上宣道です。 

 あのう、新約聖書のピリピ人への手紙の中に、ちょっと聖書では珍しい表現だなあと思うんですけれども、「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福」(ピリピ人への手紙 4章17節)というそういう表現があるんですね。 

 「収支を償わせて」・・・つまり収入と支出ですねえ、そのバランスがちゃんとうまく行くようにや、それ以上に霊的な祝福が豊かに与えられるように、というふうな意味のことばなんですねえ。 

 で、三月というのはその年度末の決算を迎えるという方々が多いのではないかと思いますけれども、昨年からですねえ本当に経済的な状況が一変して非常に厳しい決算を迎えるに至ったという方々もおられるかなあと思うんですけれども、私たちの生涯のですね人生にとっての収支のバランスはどうだろうかということを考えることも必要だなあと思うんですね。 

 で、パウロという人はこのピリピ人への手紙の中でですねえ、「損」とか「益」というそういうことばを何回か使っているんですねえ。 これも珍しい、聖書の中では、見られる表現なんですけれども。 で、「私はキリストのために、他の人から見たら何て損をするんだろう、何て馬鹿なんだろう、と思えるようなことを敢えてしてでも、しかしキリストを得るということのためにそれ以上に優る得はないと私には思えるので、すべてのものを損というふうに自分は計算をした。 そしてキリストを得ることが何にも優る大きな利益だ、というふうに私は計算をした。」(と。) 英語の聖書を見ますと、アイ・カウンティッド・・・フォー・クライスト I counted ・・・for Christ  キリストのために計算をしてみた、というふうに書いてあるんですね(ピリピ人への手紙3章7節 KJV訳参照)。

 イエス様もおっしゃったことがあるのですけれども、
 「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マタイ 16章26節 口語訳聖書)というふうにおっしゃったことがあります。 自分自身の目先のことだけを追い求めて、そして永遠的なもっと大事なものを失ってしまうとしたら、たとい全世界を儲けたとしても何にもならないではないか、というその辺の確かな損益のバランスをきちんととることが必要だということなんですねえ。 

 「収支を償わせて余りある霊的祝福」 私たちは目に見えるものだけではない霊的な豊かな祝福を得ることができる、そういうバランスシートをきちんと得たいと思いますねえ。

 ( PBA制作「世の光」2009.3.30放送でのお話しより)

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■命を得よ

2009年03月28日 | Weblog

世の光の時間です。 いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。 

 えー、私は今日でこの番組を降りることになりました。 いろいろありがとうございました。 

 ところで私たちの教会に、ある新聞社の論説委員を務め、その後またある大学で国際社会を教え、数年前のクリスマスに洗礼を受けた方がいます。 末期に近い癌と診断された方でした。 少し長いですがその時の心境を書かれたものを御紹介したいと思います。 

 病気知らずできた私には鉄鎚で頭を打ち砕かれたような衝撃だった。 しかしこれらのことを通して私は神の御前に一人の罪人であることに気付き始めたのですある。 2003年のクリスマス・イブの日、私は前立腺癌と診断され、翌年一月に手術を受けた。 私は内心で、神様は意地の悪いクリスマスの贈り物をくださったものだ、と感じたものだが、妻は、神様は必ず良い結果に導いてくださると、むしろ神の恵みとさえ受けとめているようだった。 私は生まれて初めて自らの死と正面から向きあった。 何事にも自力を信じてきた私の胸中に、何かに縋りたい、助けを求めたいという気持ちが急速に芽生えていった。 日曜ごとに教会に足を運び、聖書に多少なりとも馴染むにつれ、私の心を強く捕らえたのは「永遠のいのちを持つ」というくだりである。 もちろんこれは肉体のいのちが永遠に続くことを意味しない。 私自身それを願っている訳ではない。 私の理解では、永遠のいのちを持つということはキリストを信じ義と認められた者は滅びない、救われるということである。 永遠であられる神によって新しいいのちを与えられるのである。 キリスト教に殆ど無関心であり批判的でさえあったこの私に、永遠のいのちを与えてくださるためにキリストは私の身代わりとなって十字架に死なれたのだ。

 この方は病気を通じて永遠の神とそのいのちに触れました。 聖書はこう言っています。 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

  ( PBA制作「世の光」2009.3.28放送でのお話しより )

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■本当の神、本当の力  -- 詩篇を味わう(4) 

2009年03月27日 | Weblog

世の光の時間です。 お変わりありませんか? 岩井基雄です。 

 私たちの人生には様々なターニングポイントがありますねえ。 今も私たちは季節の分岐点、年度のターニングポイントを迎えています。 この変化の中で行くべき道を思案したり、変化に対応する力を求めていらっしゃる方も少なくないでしょう。 あなたはいかがですか? 

 今日の詩篇は第18篇です。 一緒に力について考えましょう。 31節から33節をお読みします。 

 「まことに、主のほかにだれが神であろうか。 私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

 私たちを取り囲む状況や世界の変化の中で、岩のように揺るぎない存在は私たちに力を与えます。 聖書が語る神の他には神はいないこと、岩のように揺るぎない存在は聖書の語る唯一の創造主であることをこの詩篇の作者は告白しています。 この方こそ私たちに真の力を与え、あなたの歩みを完全にしてくださるのです。 

 この完全は、私たちが失敗しない、間違うことがない、ということではありません。 揺るがされやすい私たちに、どんなに失敗しても立ち上がることのできる、いのち溢れる完全を、完全である神様が与えてくださるということです。

 そして神様はあなたの歩みを祝福し、どのような問題の中をも、まるで雌鹿が岩々を軽やかに飛び跳ねていくように高く高く上っていくことができるのです。

 この祝福はあなたにも用意されています。 あなたがどのような中にいても、揺り動かされる状況や変化の中で立ちすくむような問題や恐れを持っていても、まことの神様はあなたにいのちと力を与え、あなたの歩みを軽くし、高く上らせてくださいます。

あなたもこの神様に信頼しませんか? この神こそあなたに力を帯びさせて、あなたの道を完全にされる。 神はあなたの足を雌鹿のようにし、あなたを高い所に立たせてくださるのです。 

 ではまた聴いてください。

(PBA制作「世の光」2009.3.27放送でのお話しより)

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■わたしが道である

2009年03月26日 | Weblog

世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。
 今日のバイブル・メッセージは「わたしが道である」です。 
 それでは聖書の中のヨハネの福音書14章6節から読んでみましょう。 

 イエスは彼に言われた。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
  わたしを通してでなければ、
  だれひとり父のみもとに来ることはありません。」


 以前バンコクへ行きました時に、一人で街を歩き回ろうと出かけたことがあります。
 ところがバンコクの町並みにある標識はすべてタイ語で、タイ語を読むことのできない私は、どこをどう歩いているのかさっぱり分からず困り果ててしまったことがありました。 せめて英語の標識があれば少しでも見当がつくのに、と思いながら見知らぬ外国の街で心細く感じていました。 そこで現地に住む友人に連絡をとって友人が現れた時には、本当に救われた思いがしたものです。 あとは道案内をしてくれる友人にくっついて街を歩いただけでした。 しかしそれによって私は自分の目的のすべてを達成することができたのです。 

 さて私たちは神を信じると言っても、神様というのは一体どこにおられるのか、神様に近付くためにはどうしたらよいのかまったくもって分からない、ということがあるものでしょう。 そういう私たちにイエス様はイエス様御自身が神のもとへと導く道案内人であると語っているのです。

 神様というのは自分の頭であれこれ考えていても分かりません。 ああだこうだと想像しても無駄です。 むしろ聖書を通してイエス様が語っていることに耳を傾けていく時に、私たちは神様がどのようなお方であるのかが分かってくるのです。

 また、神様と親しくなる方法についても、神様の力を人生の中で味わっていく方法についても、みなイエス様が説き明かしてくださることですから、イエス様のお話をしっかり受けとめていくことが大切です。 

 あなたを大事にしておられる神様がおられます。 その神様を知るためには、まずイエス様に目を留めていくことが大切です。 神様を信じるというのは、イエス様の良き知らせに耳を傾けることから始まるのです。 

 どうぞあなたも聖書を読んでみてください。 
 
  (PBA制作「世の光」2009.3.26放送でのお話しより)

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■いかに生きていくべきか(3) 神の御名 大切なものを大切に

2009年03月25日 | Weblog
 
世の光の時間です。 お元気ですか? 安海靖郎です。 

 今日は「今いかに生きるべきか」というシリーズ第三回めです。 旧約聖書の十戒に従ってお話をしています。 今日はその第三回で、こんな内容です。

 「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。 主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト記 20章7節 、申命記 5章11節)  

 聖書の神様は、神の名前をみだりに使うなって言うんです。 なぜならそうしていると本当に必要な時に神の助けや支えを知らないままで惨めなことになりますよ、と言うことです。 

 それでは神様の名前をみだりに唱える、っていうことはどういうことでしょう。 

 英語の訳の聖書では、「神様の名前を空しく使うな」また「誤って使うな」となっています。 ですから神様がどういう方かを知らないで、ただ神様、神様、という名前だけを使って約束したり誓ったり自分の拠り所とするということです。 

 聖書では神がすべての良いこと、良いものの源、愛や正義や平等の根源である、と説明しています(ヤコブ 1章17節参照)。 ですからその神を正しく知り、敬い、信頼していくところにその良きもの・幸いを自分で経験し、自分のものとすることができると言うのです。 

 そういう意味で日ごろから神様を正しく知り、身近に感じ、心の拠り所、生きる支えとしていくことが大切だ、っていうんです。 

 ま、そんな生活ができるようにと自分を羊飼いに例えたイエス・キリストが、神を知り神と共に生きる生き方、その救い主として私たちを導いてくださる。 ま、これが新約聖書のメッセージ・福音なのです。 

 イエス・キリストは将来のことを心配せず、何よりもいま神を求め、信頼していきなさい。 必要なものはすべて与え備えられます、とこう言っています。 マタイの福音書の6章33節です。 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 

 こんなキリストのことば、真実な神を信じて信頼して生きる喜び・確かさをあなたも求め、またそれを体験してみてください。 神を信頼して生きる確かさ、そんな生き方をしていこうではありませんか。 

 ( PBA制作「世の光」2009.3.25放送でのお話しより )

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■仕える喜び

2009年03月24日 | Weblog


世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日もさわやかに一日を始めていきたいですね。 

 今日は初めに河野進(こうのすすむ 玉島教会名誉牧師)という人の詩を紹介します。 

  一人に仕えられて不満である
  十人、百人に仕えられて更に不満であり
  千人、万人に仕えられていよいよ不満であり
  ついに人生は不満である

  一人に仕えて感謝である
  十人、百人に仕えて感謝であり
  千人、万人に仕えていよいよ感謝であり
  ついに人生は感謝である

 
 まあ人は仕えるよりも仕えられることを願いますね。 一人でも多くの人に仕えられたいと求め、それはどんどんエスカレートしていきます。 でもそれは決して心の満足を得ることができないんですねえ。 逆に仕えることを考えて生きるなら人生の景色は少し違ったものになっていくでしょう。 

 イエスろ・キリストの歩まれた姿を見ると、その最も大きな特徴の一つは、しもべとして仕えるために来てくださった、ということです。 

 新約聖書マルコの福音書10章45節には
 「人の子が来たのも、」 ---これはイエス・キリストが来たのもという意味ですねえ--- 「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 
 このように記されています。 イエス・キリストは神の独り子であるにも関わらず、徹底して人のために生きてくださり、人の罪のために命さえも惜しまずに十字架についてくださいました。 徹底的に仕えることにより救いの道を開いてくださったのです。 
 
 仕えるということを好む人はあまり多くはいないでしょう。 でもあなたがもし健康を願うなら、この仕えるということが健康の基本であるということを知るはずです。

 例えば体は互いに仕え合うことによってバランスがとれていきますね。 もし口が、もう俺はものを食べるだけじゃあいやだ、と言ってボイコットしたらどうでしょう。 鼻が、空気を吸って吐いているだけじゃあ物足りないって主張したらどうでしょう。 もし体の細胞が自己主張し始めたらどうでしょう。 体全体のバランスは崩れてしまって、遂には死をもたらしていきます。 体はそれぞれの器官が仕え合うことによって最も健康を維持することができるんですね。 

 人生において仕えることをやめてしまうなら、それは決して潤いのある豊かな人生を得ることはできません。 イエス・キリストはあなたのためにいのちを捨てるほど仕えてくださいました。 だからこそ私たちも仕えることをほんの少し考えて生きていくとき、人生は更に豊かになっていくのです。 

 (PBA制作「世の光」2009.3.24放送でのお話しより)

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■天に上るには

2009年03月23日 | Weblog

世の光の時間です。 御元気でしょうか。 村上宣道です。

 えー、当然ですけれども梯子(はしご)とか階段とかは地上から段々上の方に伸びていく訳ですよね。 上がっていく訳ですねえ。 ところが不思議な階段のことが聖書の中に出ているんですけれども、創世記の、聖書の一番最初の創世記の28章という所に出てくるんですが、ヤコブっていう人のお話の中にですね。

 で、ヤコブっていうのは有名なアブラハムっていう人の孫にあたる訳ですけれども、ちょっと兄弟との間がうまくいかなくなって家にいられない事情ができてですねえ、旅に出る訳ですねえ。 そうして長い旅をしていて野宿をしておりました時に、夢を見たんですね。 石を枕にして寝てたっていうんですけれども、そこにこういうことばが出てくるんです。 
 「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 」(口語訳聖書 創世記 28章12節)っていうのですねえ。

 天の使いが上ったり下ったりしてた訳なんですけれども、その階段のことが「地に向かって伸びており」ってこう書いてあるんですね。 「天まで達する階段が地に向かって伸びており」っていうのは、この階段は上から吊り下ろされてできている階段という意味なんですね。 

 で、これはですね、人間が天にまで通ずる天国に行くことができる、神が求めている高さにまで至ることのために、この地上でどんなに努力をしても頑張ってみても修養をしてみても、それによって天の高さにまで達するということは絶対に不可能なんですね。

 もし天に達することができる方法があるとするならば、天から吊り下ろされたその階段・その梯子を上っていくときに初めて天にまで達することができるっていうことなんですね。 

 実はイエス・キリストがこの地上においでになったというのは神が天から吊り下ろしてくださったそれは梯子・階段のようなもので、ここを上ってきたら確実にあなたは天に達することができる、天国に行くことができる、神の標準に達することができるという意味なんですね。

 ですからイエス・キリストを信じるときに、私たちのわざとか修養とかではなくって天に至ることができるということ、それがここの真理に含まれているんですえ。

 ( PBA制作「世の光」2009.3.23放送でのお話しより)

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■食べよ、しかし未来を失うな

2009年03月21日 | Weblog

世の光の時間です。 いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 新約聖書ヘブル人への手紙12章にはエサウという人のことが書かれています。 「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売った・・・俗悪な者」(ヘブル 12章16節)と書かれています。 

 エサウは野の獣を捕る狩人でした。 ある日エサウは、くたくたに疲れ、空腹状態で狩りから戻ってきました。 ちょうど弟のヤコブが煮物を料理している所でした。 それを見るとたまらず、「そこの赤いもの、赤いのを食わせてくれ」と叫んだのです。 レンズ豆の煮物でした。 弟ヤコブはすかさず「では兄さん、長子の権利を譲ってください」 そう言って交換したのです。 この長子の権利は高い地位が保証され、相続財産では二倍の権利がありました。 エサウは後になってその権利を取り戻したいと涙を流しましたが、もう後の祭りでした。 

 このエサウの話は決して他人(ひと)事ではありません。 エサウに限らず人の心の中には欲望という野獣がいるものです。 それはある程度は理性や立場で押さえることができるでしょう。 けれどもたった一杯の食物を目の前にした時、人は押さえられなくなるのです。 エサウは狩人でしたが自分の心の中の野獣は押さえられませんでした。 今も目の前のたった一杯の食物のためにどれだけ多くの有能な人々が信用を失い、家庭を崩壊させ、未来を失っていることでしょう。 ゲームのために盗みをした少年、欲望を押さえ切れずに少女を買春する教師、わすかな金のために人殺しさえする人。

 ではどうしたらそんな欲望という野獣を支配することができるのでしょう。

 死ぬことだ、と聖書は言うんです。 欲望は死んでしまえばなくなるからです。 もちろん聖書が言う「死ぬ」というのは自殺のことではありません。 十字架のキリストを信じることです。 キリストはあなたの心に巣食う欲望や罪をすべて引き受け、それらを全部帳消しにするために十字架にかかって死なれました。 そのキリストを信じることが自分に死ぬことなんです。

 聖書は言っています。 
 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ 5章24節)

 キリストと共に死んだ人はキリストと共に新しい人生を始めることができるのです。
 この十字架の中にあなたの未来はあります。 


  ( PBA制作「世の光」2009.3.21放送でのお話しより )

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■揺るがされない人生 --- 詩篇を味わう(3)

2009年03月20日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気ですか? 岩井基雄です。 

 さっそく聖書をお読みしましょう。 今日は詩篇第16篇8節です。
 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

 この詩篇の作者はイスラエルの王ダビデです。 どんな権威や力を持つ王も不安や恐れを持ちます。 しかしダビデはどんな中にあっても揺るがされない秘訣を知っていました。 それはいつも自分の前に神様を置くということでした。

 こういうと何か神をかたどる像のようなものがあってそれを自分の前に置いているかのようですが、決してそうではありません。 聖書が語る神様は、目には見えませんが、すべてのことに主権を持っていらっしゃいます。 この神様に心から信頼し、祈りつつ歩むこと、それを彼は揺るがされない秘訣としていたのです。 

 もう一度読んでみましょう。 
 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

 ここで彼は、自分の前に置いた主が自分の右におられる、と告白します。 神様が動いたというようなことではありません。 「右」とは主権や権威また力を表す表現です。 神さ様が私の右にいてくださる。 私の主権は神様にあり、神様にこそ私の力がある、と告白しているのです。 

 すべてのことに主権を持っていらっしゃる神様をダビデは親しく「あなた」と呼び、こう詩篇を続けています。
 「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16篇11節)と。 

 神様を前にして歩む人生は揺るがされない人生であると同時に、喜びと楽しみが永遠にある人生です。 あらゆるものを所有する王様に憧れる方も少なくないでしょう。
 しかしこのダビデ王の永遠の喜び・楽しみは神様の御前に出ることでした。 そして神様に心から信頼して歩みを続けることでした。

 聖書が語る神様はどこにでも、どんな時にもあなたと共にいてくださいます。 あなたもダビデと一緒にこの神様に心から祈ってみませんか? 
 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

 ではまた聴いてください。

(PBA制作「世の光」2009.3.20放送でのお話しより)

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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