♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ことばと心を失った人

2005年06月30日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 京都大学の霊長類研究所教授をされてらっしゃる正高信男(まさたかのぶお)さんはですね、少年犯罪についてこんなふうに言ってるんですね。凶悪としか言いようのない少年犯罪が頻繁に報ぜられるようになって久しい。それらに対して、なぜと問いかけても答えが見つかることは少ないようだ。そのたびにマスコミは「心の闇」といった表現を用いる。しかしこういった発想は本質を見謝っている気がしてならない。正岡子規の表現を借りるならば、「一匹の人間としてこの世に生を受ける。その後成長していく中で、ことばによって思考していく術(すべ)を普通は学んでいく。ところが成人してなお一匹として暮らす者の数が急増しつつあるらしい。」こんなふうに言っているんですねえ。ま、成人してなお一匹として暮らす者というのは、つまり人間としての一人ではなくて哺乳動物の一匹としてということなんでしょうか。犬やネコの方がましじゃないかというなことばがありますが、学校で知識は詰め込まれていく訳ですけれど、ことばによって思考して心で受けとめていく術(すべ)を身につけることができないまま体が成長していくんでしょうか。人間が他の動物と異なる点は火を用いることとか道具を用いることとか着物を着ることとか話すこと聞くこと、そんなことがあげられますよね。ことばを使うのは人間だけです。

 新約聖書のローマ人への手紙の1章の20節には、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性--神の性質ですね--は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」こんなふうなことばが書かれています。実はここにですね、人間がことばを失い、心を失った原因が記されていると思います。それは造り主である神を神としてあがめず感謝もしない、人間の傲慢な姿ではないかと思うんです。したがってその思いは空しくなり、 その無知な心はますます暗くなってしまったという訳ですねえ。これはもう少年だけではなくて、今の日本全体がそうじゃないかと思います。信心する心の尊さを言いながら、まことの神・天地万物の造り主、そしてすべてのものにいのちを与え生かしておられる神、そして私たちのために身代わりとしてキリストのいのちをかけて愛しておられる神を神として生きていかない。ここに大きな原因があるのではないでしょうか。

(PBA制作「世の光」2005.6.30放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせて日曜日の朝、教会に行ってみましょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■わたしは聞く

2005年06月30日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。長野県東御市にお住まいの清水ノブさんからいただきました。

 きのう、町の健康診断があり、まったく異常なし。ここ奈良原に来て10年。「薬も飲まず、風邪もひいたことない」と言ったら保健婦さんがビックリ。「こんないいところ、自然がいっぱい。良い人ばっかりの所で生活してますから。」と私。まことに主の御憐れみと皆様のお祈りに支えられ、恵みいっぱいいただいて何と感謝です。主をあがめます。

 清水ノブさん、ありがとうございます。
 さ、今日の約束のことばです。
 旧約聖書、イザヤ書65章24節のことばです。
 「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

 私は耳が悪く電話に困ります。しかし世の中には声に敏感な方があり、私が「もしもし」と言っただけで「あ、羽鳥さん。おはようございます。」と答えてくださるのでびっくりします。今日の神様のお約束のことばによると、神様の耳は我々の耳よりもっともっとすばらしく神様はもっとも弱々しいためいき・うめきの声にも涙ながらのひとことばにも誰の声が今泣いてる・うめいている・すすり泣いていると分り、何のためのそんなか細き声なのかも知って分かっていてくださるのです。

 昔の流行歌に、「星は何でも知っている」という句がありましたが、私はその歌を聞くたびに、イザヤ書のこの神様のことばのことを思い出しました。神様は罪を悔いてうめく声も、悲しみの最中にもらす「助けてー」のことばも、全部分かっていてこたえてくださるのです。神様はことに私たちが初めての神様の対して悔いるうめきに敏感で反応してくださいます。神様は私が16歳の時に、幼稚園の子どものようにうめき祈ったことばを聞き届けて、私の罪を赦し、私を罪の裁きから解放し、永遠のいのちを与え、死からいのちに移してくださったのです。

 今日の約束のことば。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」イザヤ書65章24節のことばです。


 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.6.29放送でのお話しより )

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■人として生きる

2005年06月28日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 こんな話しを聞いたことがありました。暴れる象を手なづけるためにはどうすればよいかという話しなんですよ。野生の象を捕まえて長い鎖をその足に巻き、先端を太い菩提樹の木に結わえる。大きな象は全力で引きちぎろうとしますけれどもびくともしない訳です。何日も暴れまわり、もうこれ以上やっても無駄だと悟った時、ドスンと地面に膝まづいてしまうそうです。この時初めて調教師はその象を本当に獲得できたと考えるそうです。なぜならサーカスのテントに連れて行き細い杭に鎖を結わえるだけですから、象の力で簡単に逃げられるんです。でも象は太い菩提樹に繋がれていると考えて決して引っ張ろうとはしないというんですね。

 またこんな話しもあります。ぴょんぴょん跳ねるノミをガラス箱に入れます。もちろんその上に蓋をしました。ノミははじめ思いっきり跳ねる訳です。でも必ず蓋にぶつかってしまうんですよ。それを繰り返しているうちにノミも学習して、今度は蓋を取っても一匹も逃げなくなってしまう。楽々飛び越えるジャンプ力があるにもかかわらずです。

 どうでしょうか。私たちは時々あのノミと同じように考えることがありませんか。(どうせ駄目さ)っていつも考えている人は結局何もしなくなってしまいます。何回かの失敗を重ねてしまうと、もう試そうとも思わなくなってしまう。そしていつのまにかあの象やノミのように、(どうせ抜けっこないし、どうせ飛んでも蓋にぶつかってしまうだけだ)と考えてしまうんですね。どうでしょうか。あなたはそんな人生を送っていませんか。

 本来、人間・人とはギリシャ語でアンスローポスと言います。このギリシャ語で「人」とはですね、「上を見る」という意味があることばなんです。人間は本来どのように造られたかといいますと、どんな中でも上を見上げる、見上げるように造られた者だというんです。何を一体見上げるんですか。自分を抑圧している蓋を見るんですか? そうではありません。天の父なる神様を見上げながら生きていく者がまさに人としての姿なんです。

 聖書の一番最初に創世記という書物があります。その1章には、神様がこの世界を創造されそして人間をも創造されたことが記されています。そして神様はその造られたものを御覧になってこう言われました。「見よ。それは非常に良かった。」神様は私をそしてあなたを最高傑作品として造ってくださいました。だからこの神様を見上げて生きる人生こそあなたにふさわしい生涯であり、人としての歩みの基本なんですね。

 ( PBA制作「世の光」2005.6.28放送でのお話しより )

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■心の美学

2005年06月27日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 あのー、日本人の美意識・美しさに対する意識ですねえ、これには4つの特徴があるというふうなことをアメリカのコロンビア大学の教授のドナルド・キーンという人はこんなふうに言ってるんですね。
 
 第一は暗示的であること。わずか17文字で自然と人間の関係を審美的に表現する俳句とか。単純な線で表現する墨絵なんかには暗示的なものが多いって訳ですね。

 第二は奇数文化。俳句は17文字ですねえ。和歌は31文字。他人に何かあげる時には奇数の5とか7とか好みますよねえ。

 第三は簡素で、料理も建築の様式も簡素で自然に近いものを表現してるって訳です。

 第四は滅びやすさを表現するという言い方ですね。徒然草には「世は定めなきこそいみじけれ」とか言ってますけれども、日本人の多くが桜の花を愛するのはつかの間に美しく咲いて散っていく、その滅びの美学に惹かれるっていうふうなこと。まあ、分るような気がするんですけれども。

 ノートルダム清心女子大学の学長だった渡辺和子って方が、『女から女への注文』という本の中でですね、もし一つだけ女から女へ注文するとしたら即座に美しさと答えたいとこう言っていますね。まあ女性は一にも二にも三にも美しくあって欲しいという訳なんですけれども、それは必ずしも綺麗になれということではなくって当然その外側にもあらわれる美しさというものはただ外側だけではどうにもならない、心の美しさの反映でなければならないというふうに言っている訳ですねえ。

 あのう、聖書の中にですねえ、あなたがたは白く塗った墓のようなものですって、--いま美白、なんかそんなような化粧の方法、いろいろあるみたいですけど、--、墓はその外側は美しく見えても内側にはいろいろな汚れがいっぱい満ちている。まず内側を綺麗にしなさいというふうにイエス様が言われたところがあるんですねえ。まず内側を綺麗にしなさい。そうすれば内側も美しくなりますよというふうに言われているんですけれど、まあ外見を美しくするだけではなかなかその人の美しさは本当の意味では現われてこないということを考えましたら、どうか私の内側をまず点検してください、そしてきたないよごれたものがありますならばそれを取り除いてくださいという(祈りがありますが)、イエス様が私のために十字架にかかってくださったというのは、そういう内側のけがれを取ってくださるためだということを知って私たちの人生を美しく生きたいとそう思いますねえ。

 
 ( PBA制作「世の光」2005.6.27放送でのお話しより )

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■あなたを強め、あなたを助け

2005年06月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せくださる、「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 徳島県徳島市にお住まいの藤岡久美子さんは旧約聖書イザヤ書41章10節のことばをお寄せくださいました。お読みします。

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

 31年も前の出来事です。当時山口県岩国市の教会に所属しておりました。粉雪の降る寒い日、主人は会社から帰って、約束していた教会の開拓伝道に参加しました。瀬戸内海の、阿多田島に向かって10名が新しく作られたばかりの福音丸に乗り込みました。悪天候の中を無理をして出発をしました。しばらくして船底から浸水し、船は転覆してしまい、全員が海に投げ出され、7名が凍死しました。私は幼い二人の子どもを寝かせて一晩中無事であるように祈っていました。明け方に胸騒ぎがして教会に行きましたが誰もいません。よもやと思って海上保安庁へ急ぎました。そこでこの事故のことを知らされました。大勢の人が右往左往していました。深い悲しみの時は涙も出ません。「神様助けてください。なぜこのような大事故なのでしょう。大黒柱の主人がいなければ残された私たちはどうすればいいのですか。」信仰のないようなお祈りでした。でもその時このイザヤ書のみことばが与えられたのです。神様の恵みは十分でした。背後にある兄弟姉妹の篤き祈りに支えられてまいりました。今では悲しみは喜びに、苦しみは楽しみへと変えられました。現在は娘夫婦とかわいい孫と幸いな生活ができますことを日々感謝しております。

 藤岡久美子さんの心に残る聖書のことば。
 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」旧約聖書イザヤ書41章10節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2005.06.25放送でのお話しより )

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              藤岡久美子さんの体験談と御家族の写真を見つけました(ここをクリック)



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■神の導きを知る方法

2005年06月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。
 今日は、自分の将来をどのように知り、また決めてったら良いかということについて考えてみたいと思います。
 
 ま、どんなに科学が進み、情報が豊かになっても、自分の明日どうなるか分らないという面がありますね。まして先々将来どうなるか、どうしていけば良いか不確かです。そこで占いとか、おみくじ、そしてちょっとあぶない予言などが流行る訳ですね。

 旧約聖書は神がイスラエル民族に約束を与え導かれた歴史でもあります。その歴史から私たちは、今も大切な神様の導きを知って、将来どうなっていくのか、今どうすれば良いかということを知ることができます。

 『十戒』の映画にもなりましたが、神様はモーセを通してイスラエルの民をエジプトの圧政から救い出しました。その後、後継者のヨシュアが替わってイスラエルを導きます。どのようにこの若いリーダーが神様の導きを知って何百万(人)もの民族をリード出来たのでしょうか。

 その方法、旧約聖書のヨシュア記の3章の初めのところに、こんなふうに言っているんです。神が共にいるというしるしである契約の箱、その後二千キュビト・900メートル間を置いて従って行きなさい。そうすると行く道を知ることが出来ますっていうんですねえ。900メートルで荒野や草原地帯だったら見失ってしまうかもしれません。なぜなんでしょうか。ま、これは尊厳の距離・畏敬の距離とでも言えるでしょうか。神と人間との境界線(を)、はっきりするということです。

 今、心理学・カウンセリングの世界で境界線・バウンダリイということばがよく聞かれます。多くの人間関係がこじれ心の傷を負う。それは自分と相手の バウンダリィ・境界・境があいまいなことから起こるというんですね。自分を正しく知り、自分に出来ること・出来ないことをはっきりする。そしてそれを相手に伝えていく。そうすると過度の期待をされたり、また失望したり・させたり、過度の介入・お節介を防げるという訳です。人間関係もバウンダリィ・境界が必要です。

 神と人間との関係も、神は人間とは異なる本当に偉大な知恵と力と愛に満ちたお方だと知って、畏敬の念をもって恐れおののく思いをもって聖書を読んでいく。すると神様が、どのように生きるべきか、神と共に生きるとこうなっていく、それを知ることができると聖書は言っているのです。

(PBA制作「世の光」2005.6.24放送でのお話しより )

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■仲人不要

2005年06月23日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 リクルートが夫婦4790組を対象に実施した結婚トレンド調査によりますとですね、結婚式で仲人を立てたカップルの割合は全国で4.6パーセント。首都圏では何と1.0パーセントで共に過去最低だったそうです。首都圏では結婚するカップル100組に対し仲人を立てるのはたった一組ということになりますよね。ま、その主な理由としては終身雇用が崩れ、職場を意識する必要がなくなったと分析しています。結婚する若者としては仲人を頼むのに気を遣い、時間を使い、お金も遣いということでまあ面倒を一切なくしたいということになるんでしょうか、結婚式だけの頼まれ仲人は要らないという合理的な考え方かもしれません。

 ところがですね、挙式・披露宴などの費用は3年連続で増えているってんですね。ま、こだわる部分には費用をかけている。単なる「じみ婚」ではなくなっていると最近の傾向を分析していました。

 さて今や結婚式で 仲人を立てるカップルが首都圏では1パーセントということなんですが、何と聖書を見ますとねえ、実はキリストが私たち人生の仲人だというような所が書かれているんですよ。仲人というのはそもそも結婚する男女の仲立ちになる訳ですが、イエス・キリストは神と私たちの仲立ちなんだって言うんです。

 新約聖書ヘブル人への手紙の2章の17節という所にはこう書いてあります。
「(キリストは)あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、・・・すべての点で・・(私たち)・・と同じようにならなければなりませんでした。」

 ここでキリストは「大祭司」と言われています。この大祭司とはですね、人々の苦しみや悩み、病いや涙を受けとめ、神に向かって執り成しをする役割を持っている人物なんです。また人々が犯す罪の赦しのために犠牲を捧げて祈ります。

 同じヘブル人への手紙の7章の25節には、「(キリスト)によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」 こんなふうにあるんですね。

 ま、頼まれ仲人というのは言うまでもなく結婚するカップルのほうからそれなりの関係のある先輩のカップルに結婚式のために仲人をお願いする訳ですよねえ。ところがキリストは違います。キリストのほうから私たちのために神に執り成し、いのちをかけて私たちの救い主・助け主・仲立ちとなってくださる為に、この世においでくださったんですねえ。ですから頼まれ的・またその場だけのではなく私たちの生涯にとことんまでつきあってくださるお方。それがイエス・キリストです。

(PBA制作「世の光」2005.6.23放送でのお話しより )

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■求め続けなさい

2005年06月22日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光、まず皆様からのお便りの紹介です。長野市にお住まいの小田切しろうさんからいただきました。

 SBC信越放送で放送される世の光・羽鳥牧師の素朴な真摯な講話が心身に癒しを与えてくれます。今後とも一層の御活躍を。

 84歳の老人にお掛けくださるおことば。ありがとうございます。また放送をお聞きください。

 さ、今日の約束のことばです。新約聖書マタイの福音書7章7節。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 恵み深い励ましの約束ですねえ。でもこれには前提があるのです。イエス・キリストは十字架上の身代わりの苦しみ、身代わりの死によって信じる私たちに神様と和解する道を開いてくださいました。神の敵、罪人である私たちの罪が赦され、裁きから解放され、永遠のいのちを与えられ、 神の子どもとなりました。神様と、もの言う道が開かれたのです。神に聞いていただけるようになりました。しかし自分中心ばかりの私たちは神に祈ることを忘れ、何もかも自分でやろうとし、思い悩んでしまう。神に祈らない、神に寄り頼まない、神に求めない昔のままの私が出てくるのです。

 しかしこの前提を踏まえて神に求め続け、捜し求め続け、門を叩き続けるとその時に私たちは与えられ、見い出し、開かれるのです。この前提に立って神に求め続け捜し続け叩き続けると、求めるもの以上の本当に必要なものを与えられる。捜しているこの世のものではなく価値のある永遠に良いものを捜し求める。門を叩き続けてみると天への道が開かれるのですね。忘れないで求め続けることが大切な条件ですね。これこそ大切な神様の約束のことばです。

 今日の約束のことば。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」新約聖書マタイの福音書7章7節のことばです。それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.6.22放送でのお話しより )

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■過去を見つめる

2005年06月21日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 人は自分の人生経験の中で得てきた事が否定されたりまた覆されてしまう時に大きな不安や失望を覚えるものです。特に一生懸命信じてきた内容がある時違っていたと分かったら、それでは今までやってきたことは何だったんだろうということになりますよね。

 私の父は昔、戦争の時に予科練に入隊したそうです。そして戦争が終わった時何とも言えない空しさを感じたと話してくれたことがありました。それは戦争に負けた途端、以前は白だと教えられたことが黒になってしまい、黒だと教えられたことがいきなり白だということになってしまったからだそうです。一体何を信じていいのか分らなくなり、大きな虚無感に襲われたと話してくれました。まあ自分が信じていたことが覆されるという経験はその人にとっての大きな衝撃ですよね。だからある人は自分が行っていることが間違っていると薄々分かっていてもそれが覆ってしまった後の生活を考えるととても不安になってしまうんです。

 ある人は、「神様なんかさあ、いるもんか。頼れるのは俺だけだ。」と言って生きています。それが一番いいとは決して考えていないんですが、だからといってそれを変える勇気がないし、それを変えた後の生活を見い出すことができないんです。なぜなら今までの自分を変えることは自分が惨めになるというような錯覚を持つからなんですね。また、今までの自分が否定されてしまうかのように思うからです。人がその歩みを方向転換する時、その後に何か得るものがないって考えるならどうして人は方向を変えようとするでしょう。

 よく教会は、なかなか敷居が高くてねえとおっしゃる方がいます。またある人は教会に来るなりですね、先生、今の生活を変えなければクリスチャンにはなれないですか、と尋ねてくる方もいます。何か過去が否定され今までやってきた事が全部拒否されてしまい、こうでなければならないというような生活を強いられるのではないかと感じる人もいるんです。

 イエス・キリストはこうおっしゃいました。マタイの福音書11章28節。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」こう言われました。イエス・キリストはあなたの過去を否定される方ではなく、あなたが過去を正直に見つめ、過去に引きずられる生き方ではなくて、イエス・キリストの与える安らぎをもって新たな人生を歩むようにと今日も招いているんですね。過去を見つめ直し、新たな出発がキリストのうちにあるんです。

 ( PBA制作「世の光」2005.6.21放送でのお話しより )

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■ヘピとハト

2005年06月20日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 あのー、どんなに良いものでも極端に走り過ぎると、過ぎたるは及ばざるがごとしであんまり良くないみたいですよね。何事にもバランスが必要なんだろうなと思うんですけれども、聖書に「蛇のように聡く鳩のようにすなおでありなさい。」ということばがあるんですけれども、ま、懸命さと純真な素朴さとの一致ということ。これはイエス様の言われたことばなんですけれどもね、パウロによっては「愛をもって真理を語りなさい。」とこう言われているんですけれども、愛と真理は必ずしも対立概念だとは思いませんけれども、愛だけを強調しすぎると真理を貫くっていう点で疎かになる危険性がある。また反対に真理だけを主張しすぎると時にはするどい剣のように人を突き刺して愛に欠けることもあり得るというふうなことですね。

 まあどうすれば知と情それから賢明さと純真素朴さが一致して愛と真理が調和するのかなあと思うんですけれども、イエス・キリストっていうお方を見ますとですね、この方の中には賢明さと純真素朴さ、つまり愛と真理がまったく一つに溶け合っているということが分るんですねえ。イエス・キリストはいつでも真理をゆがめることなく率直に語られる方で、人間がどんなに罪深いものであるか、その罪に対して神の裁きは容赦ないものであるということをはっきりと大胆に語られる訳です。それは真理だからですね。でもそれだけでしたら人の心を突き刺して苦しませて悩ますだけで、ああ人間はどうせ駄目なんだあと思ってしまうことであったかもしれませんけれども、しかしイエス・キリストは私たち人間のすべての罪を負って神様の裁きを身代わりとなって受けてくださった訳です。それを前提として私たちに悔い改めを迫ってくださっていたということ。これは大事なことですねえ。愛のない真理は人を倒してしまいますけど、真理を失った愛は人を生かすってことはない訳ですよね。お医者さんが、この人は悪い病気を持っていると分かっていても、まあそんなのは大したことないよということ、それは決して優しさではない訳で、はっきりこれは大変な病気だっていうことを指摘してくれる。でも指摘してくれただけでは困る訳で、大丈夫そこを私はちゃんと治療してあげますから。こういう薬もありますし、というふうにおっしゃってくださると、ああ大丈夫なんだなあと思う。その両方のバランスが必要なんだと思うんですね。愛を持って真理に生き、真理に従って愛に生きることができたらどんなに幸いかなと思うんです。イエス・キリストこそはその模範だなというふうに思うんですね。
 
 ( PBA制作「世の光」2005.6.20放送でのお話しより )

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