♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■無駄でないですか?

2009年06月30日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日、さわやかに過ごしていきたいですね。 

 新約聖書のヨハネの福音書12章という中にこんな麗しい記事が出てきます。 それはイエス・キリストが十字架につけられる週のことでした。 ベタニヤという小さな村に住むマルタとマリヤの家に(イエスが)行った時のことです。

 この家に住むマリヤが非常に高価な純粋な香油を300グラムとってイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でイエス様の足を拭(ぬぐ)ったのです。 家は香油の香りでいっぱいになりました。 ところが弟子の一人で、あのイスカリオテ・ユダはこう言いました。「なぜこの香油を300デナリに売って貧しい人々に施さなかったのか」 彼は、何て無駄なことをするのか、とまあ彼女を叱責したんですね。 もちろんユダは貧しい人々に心をかけていたのではなく、彼は財布を預かっていて「その中に収められたものを、いつも盗んでいた」(ヨハネ12章6節)、と聖書に書かれている通り、彼の興味はお金でした。

 ある書物の中でこんなことが書かれていました。 人生に成功するためには無理をなくせ、むらをなくせ、そして無駄をなくせ、と書かれていました。 しかしこの無駄をなくすということは、とても大切だと思うんですが、でも私たちの人生には一見無駄と思えることの中に実は大切なこともありますよね。

 私たちはあまりにも合理的に物事を見、判断していくとき、何かとても冷たい存在になってしまうことがありますよねえ。 あの香油をマリヤがイエス様に注いだことはユダにしてみれば、何という無駄なことだ、と考えました。 しかし、イエス・キリストに対する感謝と愛の現れは決して無駄にはなりません。 奇しくも、この行為はイエス様の葬りの準備となった、とあります。

 マリヤはイエス様が十字架につけられるなどとは決して考えませんでしたが、しかしこの出来事を通して、イエス・キリストが私たちのために十字架の道を歩まれることがより確かなものだということを示す出来事になっていったんですね。

 そしてイエス・キリストの十字架こそそれは一見無駄な死のように見えるものでした。 極悪人がつけられる十字架に罪のない神の独り子がつけられるなど犬死にのように見えますよね。 しかしその十字架の死こそ私たちの罪の身代わりの死であり、私たちに本当の罪の赦しをもたらす壮絶な愛を示す場となったのです。

 マリヤは感謝をこめて香油を注ぎました。 マリヤのできる最善の感謝の行為でした。 そしてイエス・キリストは私たちのためにいのちを注いでくださいました。 それは最高の愛の現れでした。 今日、あなたはこのキリストの愛に何をもって応えていきますか?
 
 (PBA制作「世の光」2009.6.30放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■友なるイエス

2009年06月29日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。

 えー、1900年の今日、6月29日にですねえ、『星の王子様』で有名なサン・テグジュペリがフランスに誕生したという日なんですねえ。 で、リスナーの中にも『星の王子様』を愛読しておられる方が結構いらっしゃるんじゃないかなあ、と思うんですけれども。

 この方はですねえ、第二次大戦中に、アメリカに亡命していた彼が母国のフランスにいる無二の親友に二度とこの世で会えなくなるかもしれないっていうふうに思って、それならば友情だけでなくって魂そのものまで形見に遺さなければというので、あの『星の王子様』ってのを書いたんだそうですね。 つまり無二の親友に心を込めて書いたものということで、彼はその中でも、あの人こそ私の友だちだということのできる人は稀だ、っていうふうなことも言ったりしてるんですけれども、お聴きの方々はいかがでしょうかねえ。 私には無二の親友がいるっていうふうに言える方は幸せかなあというふうに思うんですけど。

 私は幸い無二の親友というのは与えられていましてですねえ。 同じようにクリスチャンなんですけれども、初めは私はその人のことをあまり好きではなかったんですが、一緒にこう神様を讃美しておる時に、本当に心いっぱい、涙を浮かべながら神様を讃美している姿を見て、ああこの人は神様を愛している人なんだ、そしてこの人は神様に愛されている人なんだ、と思ったら、無性にその人が好きになってですね、それから50年もこの友情は続いているんですね。 しかしその共通のその神様の愛ということによって結ばれているお互いだということを思うんですけども。

 聖書の中にですね、「わたしはあなたがたを友と呼んだ。」(ヨハネの福音書 15章15節 口語訳聖書)ということばがあります。 これはイエス・キリストが弟子たちに向かって言ったことばなんですね。 で、ある方々は、私には本当に無二の親友なんかはいないなあ、ほんとの何でも打ち明けられる、私のことを理解してくれる友だちがいないなあ、という方がおられるかもしれませんけれどもね、有名な讃美歌に「慈しみ深き友なるイエスは」という讃美がありますけども、イエス・キリストは「わたしはあなたのことを友と呼んだのだ」(とおっしゃる方。) それは単なる口先ではなくって、---友のためにいのちを捨てる、これほど大きな愛はないっていうことを(イエス・キリストは)おっしゃいましたけれども---、イエス・キリストは事実私たちを、友のためにいのちを捨てて罪から救い出し、神の子どもとしてくださった、という、いのちがけで愛しておってくださるという友がいる、ということを知ったら、その人生は変わるんじゃないか、と思うんですね。 どなたもが、あなたの友となってくださるイエス様を知っていただきたい。 そう思うんです。 

 ( PBA制作「世の光」2009.6.29放送でのお話しより)

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■神のみこころを行う

2009年06月27日 | Weblog

世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか。 山中直義(なおよし)です。

 新約聖書マルコの福音書3章34節、35節にこんなことばがあります。
 
 そして、(イエスは) 自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 この時イエス様の回りに座って、そのことばに耳を傾けていた人たちはとっても驚いたと思うのです。 イエス様が突然、「ご覧なさい。彼らこそ私の親しい身内の者、神のみこころを行う人たちだ。」と賞賛してくださったからです。 

 イエス様のことば・聖書のことばに丁寧に耳を傾けている人たち、彼らこそが神の御心を行う人・本当に幸いな人たちだ、と聖書は教えています。 

 昔も今も神様の回りには二種類の人たちがいると言えます。 一方は、自分の願いを叶えていただくために忙しくいろんなことを申し立てている人たち。 もう一方は、神様が願っていてくださることは何なのか、それを知ろうと丁寧に耳を傾けている人たちです。 一体どちらが本当に幸いな人たちだと言えるでしょうか。

 私たち人間はいろんな意味で限界のある不完全な存在です。 そんな私たちの願いがすべて叶えられたからといって、私たちは本当の意味で幸せになることなどできません。 いや、そうではなく、私たちを愛し私たちのすべてをようく知っていてくださる神様の願いが一つまた一つと実現していく、そういう人生こそ本当に幸いだ、ということが言えます。 

 イエス様のことばに丁寧に耳を傾ける人たち。 聖書のみことばにようく耳を傾けようとする人たち。 彼らこそ神の御心を行う人、神が願っていてくださることを受けとめそれが実現していく人たちだ、と聖書は教えています。 

 自分の願いを忙しく申し立てるよりも、丁寧に神様の願いに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。 その時にこそ本当の幸いがあなたにも訪れます。

  ( PBA制作「世の光」2009.6.27放送でのお話しより )

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■隠された罪を認める勇気

2009年06月26日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気ですか? 岩井基雄です。 

 聖書の中の放蕩息子という喩え話がありますが、この話しには続きがあります。

 実はこの放蕩息子にはお兄さんがいたのです。 この兄は、放蕩三昧をしぼろぼろになって父のもとに帰ってきた弟を快く迎えられませんでした。 まじめでいっしょうけんめい働いてきた兄でしたから、女性に溺れ、財産を使い尽くし、恥ずかし気もなく戻ってきた弟を赦せません。 そして弟を歓迎する父親に怒りを表します。 聖書にこう書いてあります。 

 兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。・・・それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』(ルカの福音書 15章29-30節より)

 私はこの兄の気持ちがよく分かります。 父の扱いは不公平で理不尽だと思うのです。 しかし、それは違っていました。 この兄は喜んで父に従っていたのではなく、いやいやながら従い、時に自分の評価を求めて、評価をして欲しいから従っていたのです。 ですからこの兄は自分を立派だと思うゆえに、そうできなかった弟を裁いていたのです。 この兄の心には高慢や傲慢の問題が隠れていました。

 聖書はこう続いています。 

 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』(ルカの福音書 15章31節 新改訳聖書第二版)  

 この父のことばには、なぜお前は他の人のことを喜べないのか、なぜ他の人を見下したままなのか、自分の傲慢さに気がつかないのか、というメッセージがそこにあります。

 この兄も父から愛されていました。 しかし彼は父なる神様の愛に気がつかず、他の人や神様を裁き、みずからを正しいとしていたのです。  あなたはいかがでしょうか? 

 どんな人にも神様の愛は注がれています。 自分のきたなさに気づき、その愛を受け入れるかがどうかが大切なのです。 あなたも自分の隠された罪、高慢や傲慢さを認め、神様の愛を受け入れませんか?
 
 ではまた聴いてください。 

   (PBA制作「世の光」2009.6.26放送でのお話しより)

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■変わることのない神のことば

2009年06月25日 | Weblog
世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか。 福井 誠です。

 今日のバイブル・ルッセージは「変わることのない神のことば」です。 それでは聖書の中のペテロの手紙第一 1章24節、25節から読んでみましょう。
 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。

 ローマ皇帝のディオクレティアヌスは紀元303年、すべての聖書を廃棄するように定める法令を出したと言います。 キリスト教徒というのは聖書を信じる者なのだから、というので聖書を廃棄すればキリスト教徒も根絶できる、と考えたのです。 この計画はうまくいくように思われたのでしょう。 ディオクレティアヌスはその法令を出した後で、ラテン語で「クリスチャンの名は抹消された」と書かれた記念碑を建てたと言われます。 しかしその後、10年もせず紀元312年、ディオクレティアヌスに替わってコンスタンティヌスが皇帝となり、実にキリスト教が国教として認められる大逆転が起こったのでした。 

 さてコンスタンティヌス帝から1400年経ってから、フランスの無神論者ヴォルテールが「これから100年後には物好きな古物蒐集家(こぶつしゅうしゅうか)が持っているのは別として、聖書というものはこの地上から消えてしまうだろう」と大胆な予告をしたというのです。 ところがヴォルテールが他界してから20年後、ジュネーブ聖書協会は聖書を印刷するために彼の家を購入したのでした。 聖書の滅亡を予告したヴォルテールの家は聖書を保管し、ヨーロッパ中に配付するイギリス外国聖書協会のパリ本部になったのです。 

 聖書というのは本当に不思議な書物ですねえ。 人間の歴史の中で度々抹殺されそうになりながらも生き延びてきました。 また「こんな宗教書、時代遅れになって誰も見向きもしなくなるだろう」と思う人があっても、相変わらず世界のベストセラーとして親しまれています。 そして「草は枯れ、花はしぼむ。しかし神のことばは決して変わることはない」(イザヤ書 40章8節参照)とあるように、書かれた神のことばは永遠に変わることなく伝えられてきました。 そんな不思議に満ちた書物の内容をあなたにもぜひ確かめていただきたいと思います。

  (PBA制作「世の光」2009.6.25放送でのお話しより)

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■第四の人---信仰の戦い その3

2009年06月24日 | Weblog

世の光の時間です。  御機嫌いかがですか。 板倉邦雄です。 今日は「第四の人---信仰の戦い その3」をお話ししましょう。 旧約聖書のダニエル書の続きです。 

 さて、ダニエルの三人の仲間、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはバビロンの王様の怒りを買ってしまいました。 そして三人は衣服を着たまま縛られ、燃える火の炉に投げ込まれました。 王様が激怒のあまり、炉を熱くするように命じたので、炉を燃していました兵士たちが(三人を)炉に投げ込んだ時、噴き上げる炎が兵士たちを焼き殺したほどです。 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは縛られたまま、ごうごうと音を立てて燃える炎の中に落ち込んでいきました。

 突然、じっと見つめていた王様が驚いて立ち上がり、側近の者たちに叫びました。 「炉に投げ込んだのは三人ではなかったか?」 「左様でございます。陛下。」 「だがよく見ろ。 四人いるではないか! 縄を解かれて火の中を歩いているぞ。 第四の人はまるで神様のようだ。」
それから王様は燃える炉の縁に出来るだけ近付き、こう叫びました。 「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。 いと高き神のしもべたちよ。 出て来なさい。 すぐに出て来なさい。」 

 すると三人は出て来たではありませんか。 (金の像の落成式典の)来客は駆け寄って三人を調べました。 驚いたことに焼かれた痕は少しもありません。 頭の毛も焦げず、上着も焼けず、煙りの臭いさえしませんでした。 王様は思わず感嘆の声を挙げました。 「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神様は何と素晴しいお方だ。 王の命令を拒み、自分たちの神様以外の偶像の神々を拝むぐらいなら死も厭(いと)わないほど信仰に徹したしもべたちに御使いを送って救い出してくださるとは!」

 ところで、この燃える炉の中で三人と一緒にいた第四の人とは誰でしょう。 私たちの救い主イエス・キリストではなかったでしょうか。

 この救い主イエス・キリストは天地が造られる前からおられ、神を信じる者と共におられ、この世の終わりまで神を恐れ敬う者たちを、共にいて救ってくださるのです。 生まれる前から、そして今も、やがて死ぬ時も、私たちと共に苦しみや痛みを共有してくださる方なのです。 生きる時も死ぬ時も唯一の慰め主なのです。 あなたはこの第四の人と共に人生の戦いを戦い抜いてください。

 キリストのことばです。
見よ、わたしは世の終りまで、いつも (--すべての日々に--) あなたがたと共にいるのである」。
マタイ福音書の 28章20節 (口語訳聖書)

  ( PBA制作「世の光」2009.6.24放送でのお話より )

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■死んでも生きる?

2009年06月23日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日、さわやかに過ごしていきたいですね。 

 昔のことですが、ソビエトの時代にスターリンという人がいました。 彼はですねえ、何と不老不死の薬を研究開発させるためにシベリアに秘密の研究所を作ったというんですねえ。 もちろんそんな薬を作り出すことはできませんでした。 

 私たちの抱える大きな問題の一つ、それは死という問題ですね。 イエス・キリストがある時、ベタニヤに住むマルタとマリヤの家に行かれました。 その兄弟であるラザロは病気になってしまって遂に死んでしまったんですね。 多くの人は死を悼(いた)み悲しみ涙を流していました。 しかしイエス様は人々が涙を流しているその時にこう言われたんです。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11章25節)

 とても不思議なことばですよね。 イエス・キリストというお方の中にはいのちが満ちている。 死というものさえも乗り越えるいのちをイエス・キリストは与えることができるのだ、とイエス・キリストはそこでおっしゃったんです。 そして墓に眠るラザロを何と、よみがえらせてくださいました。

 この出来事はイエス様がこの地上に来られたことの意味と約束を明確に示す出来事になりました。  

 まず第一に、イエス・キリストは、死は終わりではない、とはっきり語られたんですね。 誰にも容赦なく襲う死という事柄、これは例外なしです。 すべてを奪い去るかのような悲しみのもとです。 しかしイエス様は、その死は終わりではない、と言われたんです。 

 第二に、死を乗り越えるいのちがある、と言われました。 イエス様は、死んでも生きるという世界があるのですよ、死は終わりではなく、死を乗り越えるいのちがあるんですよ、と言われたんですね。 

 そして第三に、イエス様ご自身がそのいのちそのもので、イエス・キリストを「信じる者は死んでも生きる」と言われました。 イエス・キリストを信じていたって私たちはみな死んでいきますよね。 でもイエス様は「死んでも生きる」と一人ひとりに語りかけてくださったのです。 

 イエス様がご自分の生涯を懸けて取り組まれたことは、私たちが避けようのない罪を取り除くという働きでした。 それはどのようになされたのでしょう。 イエス様ご自身が私たちの罪を背負い、その報いである罪と死を十字架上で受けてくださるというものでした。 十字架で死なれましたが何とイエス様は三日めに復活されたのです。 そのことを通してイエス様は死を乗り越えたお方であり、私たちにもこの復活のいのちを与えることができる方として今も生きておられるのです。 

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11章25節) あなたはこのことを信じますか?

 (PBA制作「世の光」2009.6.23放送でのお話しより)

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■子らに遺す

2009年06月22日 | Weblog

世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。

 えー、昨日の日曜日は父の日でしたねえ。 母の日に比べるとだいぶん影が薄いかなあ、っていうふうな感じがしますが、母の日にはきちんとした謂(いわ)れがありますけど、父の日はどうなんでしょうかねえ。

 まあそれにしてもですね、それぞれお父さんに感謝の気持ちを表したり、また表してもらったりした人もいらっしゃることだと思いますが、私も娘から「お父さん最高!」とか言ってですねカードが送られてきたりすると悪い気持ちはしないのですけれども。

 私も自分の父のことをこう思い起こしておりました。 父はこの地上に何一つ財産といったようなものを遺したりはしなかったんですねえ。 なまじ財産を遺してその後は子どもたちで何だかんだって難しいことがあったりする訳ですけれども。 えー、父の書いた本にでね、『子らに遺(のこ)す』という本があるんです。 『子らに遺す』 で、何を遺したっていうと、それはやっぱり信仰を子どもたちに遺してくれたということなんですねえ。 

 私の妹三人おりますけど、結局父の子どもたち四人はみんなクリスチャンになり、そして神学校を出て神様の御用をさせていただいている、というような意味でですね、父が何を遺してくれたかというと、これは最高のものだということを私たちに聖書を通して信仰を通して遺してくれた。 それがかけがいのないものだったなあ、というふうに思わされている訳ですね。 

 父は非常にこう貧乏だって言いましょうか、そういう中で育ってですねえ、自分が教えてたその人が中学に入れたけれども自分は貧乏のために入ることができないというふうなこともあったり身体が弱かったりですね、鉛筆なんか削ってちょっと試し書きなんかする時には決まって「人生は悲哀なり」ってこう書いたそうなんですね。 けれども父はそういう中でイエス・キリストを通してですね、本当に人生の中に真の喜びを見い出して、彼が亡くなる直前にはですね、「私の葬式にはあの結婚式の『妹背を契る』ってあの歌を歌ってくれないかなあ」って言ったくらいなんですよ。 もう葬送行進曲なんてしめっぽいんじゃなくって、できればあのジャンジャッカジャーンっていうあのウェディングマーチをやってもらいたい、って言ったくらいにですね、自分は凱旋するんだという、死ではなく凱旋だ、というそういうふうにまで変えられていった。 そうした信仰の素晴しさを私たちに遺してくれた。

 私たちはこの地上に何を遺すことができるか。 イエス・キリストというお方を示すこと。 これが最高ではないでしょうか。

 ( PBA制作「世の光」2009.6.22放送でのお話しより)

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■空の空

2009年06月20日 | Weblog

世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか。 山中直義(なおよし)です。

 突然ですが、人生とは何か、そのように問われるならあなたは一体どのようにお答えになるでしょうか。 

 「空の空。 すべては空。」(伝道者の書 1章2節) すなわちすべては空虚で空しい。 旧約聖書にある伝道者の書にはそのような人生観が示されています。 すべては空虚で空しい。 悲観的と言えばあまりに悲観的な人生観ですが、この伝道者が語っている理由を聞けば、なるほど、と言わざるを得ないかもしれません。 彼はこう言います。 「知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。」(伝道者の書 2章16節)

 確かに私たち人間がどれほど苦労したとしても、そしてそうやって知識と名誉と財産を貯えたとしてもやがて塵に帰る、というのでは「空の空。 すべては空。」と言わざるを得ないかもしれません。

 では聖書は私たちの人生をそのように空しく意味のないものだと教えているのでしょうか。 いいえ、決してそうではありません。 聖書は私たちに死をも凌駕するいのちの希望を約束しています。 イエス・キリストは言われました。 「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
(ヨハネの福音書 11章25節)

 様々な苦労の末に塵に帰っていく私たちがイエス・キリストを信じることによって、死んでも生きる。 すなわち死後に復活し、神と共に生きるようになる、と聖書は約束しています。 そしてここにこそ希望、人類最後の敵である死をも打ち破る希望がある、と言います。 イエス・キリストによって罪が赦され、一度死んでもなおよみがえって神様と共に歩む、そんないのちを聖書は約束しているのです。 

わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 イエス・キリストが語られたこの約束にこそ「空の空」で終わることのない真に幸いな意味がある、と言えます。 この約束を信じ、イエス様によって与えられるいのちを持つことで、あなたも感謝と喜びに満ちた幸いな人生を歩んでくださいますように。 

  ( PBA制作「世の光」2009.6.20放送でのお話しより )

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■ 父のもとに帰る

2009年06月19日 | Weblog
 
9月になれば更新を盛りかえしたく願っています。
どうぞ宜しく。 

またのお越しを




世の光の時間です。 お元気でしょうか。 岩井基雄です。

 先週の金曜日から学んでいる放蕩息子という喩が聖書にあります。 自分勝手に生きることを求め、父親の財産を奪うようにして家を出た弟息子と父親の話です。 この息子の噂が父に届きますが、それは悪い噂ばかりでした。 すべての財産を使い果たし、女性にも溺れ、ぼろぼろになっている、というのです。 それは自業自得であり、当然の結果です。 しかし、この弟息子は、自分のわがままさ、自分勝手な罪を認め、父親のもとに帰り始めます。 調子の良い息子のように思えます。 では父親はどのようにして彼を迎えたのでしょうか。 少し長いですが、聖書をそのまま読んでみます。

 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。   新約聖書ルカによる福音書 15章20節から24節 

 父を捨て、すべての財産を使い果たして戻ってきた息子です。 しかられてあざけられて当たり前の場面で父親のほうが息子に近づき、愛をもって包みます。 「死んでいた息子が生き返った。 いなくなっていた息子が見つかったのだ。」と、父は言います。 そして、「もう息子の資格はない」と悔い改める息子を愛する息子として迎えるのです。 ここに聖書が語る父なる神様の愛があります。 神様はあなたが自分の罪を認め、神様のもとに帰るとき、あなたを愛する息子として神の子として迎えてくださるのです。 あなたもこの神様の愛の中に帰りませんか? あなたを愛する神、父なる神様があなたを待っているのです。 

 ではまた聴いてください。 

   (PBA制作「世の光」2009.6.19放送でのお話しより)

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