♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■ノアの時代 / 板倉邦雄

2011年11月30日 | Weblog
2011/11/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「ノアの時代」という題でお話しましょう。ノアの父はレメクと言いました。父はノアが生まれた時、「この子供こそ骨おり働く我々を慰める者となるだろう。」と言い、ノアと名付けました。ノアとは休息の意味を持っています。いつの時代も労働は骨が折れるような辛いものだったのです。

 さてノアの時代はどのような時代だったのでしょう。創世記6章1節からはいくつかの特徴が書かれています。まず第一は、自分の好き勝手な結婚がなされていたようです。神様を信じている人たちが美しい女を見染めるとそれぞれ気に入った女を妻にしてしまった、と書いてあります。すべての時代、結婚の乱れが社会や国家の乱れに繋がってゆくようです。結婚が悪いのではなく、自分の好みで結婚したり、離婚したり、複数の女性を持ったりすることです。そのために子供たちも犠牲になりますねえ。

 次に、男女の乱れから人間の悪が地上にはびこっていくことになりました。それは雑草のように協力でした。しかもすべての人の心に思い計ることがいつも悪いことばかりでした。それは神様の目にも人々の目にも明らかでした。

 イエス様のことばを思い出します。
 「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。 (マルコ福音書7章21-23節 口語訳聖書)」

 さて第三に、父なる神様は人間を造ったことを悔いたのです。心を痛めました。心が掻きむしられるような辛さではなかったでしょうか。そして決意します。わたしが創造した人間をこの地上から拭いそろう。残念だが人間だけではなく、動物もだ。爬虫類や鳥もだ、と言われたのです。自分で作った作品しかも最高傑作を自分で壊すということは無念だったでしょうねえ。しかしこれ以上、人間にこの地上の営みを任せることは腐敗と汚染が進むばかりだったのです。もう一度やり直したい。そのやり直しの白羽の矢が立ったのがノアとその家族だったのです。

 聖書にはこう書いてあります。
しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 」創世記の6章8節 (口語訳聖書)

 ( PBA制作「世の光」2011.11.30放送でのお話より )

 

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■ようやく手に入れたのだから / 山中直義

2011年11月29日 | Weblog
2011/11/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 山中直義です。

 愛されることを求めて苦しんだ一人の女性の話をしたいと思います。

 旧約聖書創世記30章に登場するこの女性はレアと言いました。彼女は夫であるヤコブとの間に4人の子供を設けていましたが、二人の関係は長い間冷え切っており、レアはヤコブに嫌われていた、と聖書は言います。ある年の麦刈の頃、レアの長男で5歳前後であったと思われるルベンが恋なすびと呼ばれる植物を見つけ、レアのために持って帰ってきました。

 この恋なすびは当時男性に対する精力剤あるいは女性に対する不妊治療薬として知られており、単語そのものも愛を元にしていました。物語の舞台パレスチナでは非常に珍しいものであり、なったとしても麦刈の頃ではなかったと言われています。愛されることを求めて苦しんでいる母親を何とかして幸せにしてあげたい。そう願って懸命に恋なすびを探し歩いていた年端もいかない幼い者の純粋なせつない想いを思わされます。

 さてこの恋なすびを巡って物語は進展していきます。結論から言うならば、レアは息子が探し出てきたこの恋なすびのゆえに夫ヤコブとの間に再び子供たちを得るようになりました。恋なすびそのものに呪術的な力があったということではありません。母親の幸せを願う息子の純粋で切実な思いのゆえにレアはヤコブと向き合う勇気を得て、ヤコブはレアとの関係の改善に乗り出したということだと思います。

 私はこのエピソードを読むときに、イエス・キリストの愛を思い起こします。神様から離れて生きる私たち人間を何とかして神様のもとへ導こうと切に願って十字架にまでおかかりくださったあのイエス・キリストの愛を思わされるのです。私たちはあのイエス・キリストの十字架のゆえにようやく神の愛の深さに気づき、ようやく神様との交わりに生かされるようになった、と聖書は言います。また神様が私たちに向けていてくださるどこまでも深い愛はあのイエス・キリストの十字架の愛のゆえである、と聖書は教えています。

 イエス・キリストがまさに命をかけて与えてくださった神様との交わりです。ようやく与えられたこの恵みを心から大切にさせていただきたいと思います。そしてあなたにもこの恵みを知っていただきたいのです。

    (PBA制作「世の光」2011.11.29放送でのお話しより )

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■礼拝とは何?  献げる / 関根弘興

2011年11月28日 | Weblog
2011/11/28放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今月はキリスト教会で毎週日曜日に行われている礼拝ということについて一緒に考えています。今日は「礼拝とは捧げる時」ということについてお話をしたいと思います。

 ま、私たちの生き方は時々、とても貪欲な姿がありますよね。これも俺のもの、あれも俺のもの、お前のものも俺のもの、と言わんばかりの姿。これは人としてあるべき姿ではありません。聖書は私たちに、お互いの持てるものを差し出すことによってさらに豊かになるという世界があるんですよ、と教えます。

 ある時イエス・キリストのもとに沢山の群衆が押し寄せてきました。イエス様は突然、弟子の一人にこう言われたんです。「どこからパンを買ってきてこの人々にさせようか。」 すると、この弟子は「イエス様、冗談じゃないですよ。こんな大勢の人たちに少しだけ食べさせたって大金が必要ですよ。」 ま、こう言ったんですねえ。すると別の弟子の一人が「イエス様、イエス様、ここに少年が持ってきた五つのパンと二匹の魚があります。」と差し出したんです。それは粗末なその少年のお弁当でした。しかしイエス様はその少年の差し出したパンを手に取って、何と座っている群衆に分け始めたんです。するとどうでしょうか。どう見ても群衆に配るだけの量ではないのに、何と人々は満腹になり、余ったパン切れが12かごいっぱいになったんですねえ。すごい奇跡ですね。一人の少年の小さな捧げるという行為が多くの人を養うことになった、という訳です。

 これは何と勇気づけられる出来事でしょう。私たちは時々、こんな小さなものが何になるだろう。こんな私は何の役にも立たないんじゃないだろうか、そういう風に思ってしまうことがありますよね。でもイエス・キリストの手に握られていくとき、あなたが何かができるできないに関係なく神様の働きのために用いられ生かされていくのだと聖書は教えるんです。

 教会の礼拝は讃美を捧げ、祈り、みことばを聞き、捧げる時なんですね。それはあなた自身の人生を神様の手に委ね、今週私の人生は神様あなたの手の中にあることを感謝し、精一杯私の人生を生かし用いてください、と応答して行く時なのです。

 そして教会の礼拝では献金の時もあります。決して献金は強制ではありません。強いられることは決してありません。献金は心からの感謝を込めてなされるものなんです。

 そしてあの少年がイエス様に自分のお弁当を差し出したように、あなたのできることを差し出していくとき、更に豊かな恵みを味わうことに繋がるんですね。

 どうぞこれを機会にお近くの教会に足をお運びください。心からあなたのお越しをお待ちしています。

 (PBA制作「世の光」2011.11.28放送でのお話しより)

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■災いの中で ヨブへの神の答え / 羽鳥頼和

2011年11月26日 | Weblog
2011/11/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。
 
 さて今日も旧約聖書に出て来るヨブという人についてお話します。ヨブはお金持ちで10人の子供に恵まれていました。そんな彼がある時一日にして自分の財産を失い、自分の子供たちを事故で失ってしまいました。その上自分は全身に悪性のできものができてしまい、大いに苦しみます。そんな苦難の中でヨブは「神様。あなたは私を造られました。それなのにあなたは私を滅ぼそうとされるのですか。」と訴えます。しかし神様は答えてくれませんでした。

 そして長い沈黙の後、神様はやっとヨブに答えられました。それは予想以上に厳しいことばでした。「知識もなく言い分を述べて私の摂理をないがしろにしている。」(ヨブ記 38章2節参照)と神様はヨブを責めました。神様は直接ヨブの苦難の理由を示すことをしないで、むしろヨブの心の姿勢を鋭く追求します。ヨブは苦しみの中で自分の潔白を主張するあまり神様に頑なな態度をとってしまっていたのです。神様はヨブに厳しく問いかけます。「あなたは私のさばきが不当であり、神である私に罪があるというのか。」(ヨブ記 40章1節参照)と。いつの間にかヨブは「自分が正しい」と高慢になってしまっていたのでしょう。

 ヨブは神様の鋭い追求に自分が高慢であったこと、自分が神様の前に何も知らないものであることを認めました。そして神様に訴えようとする態度を改め、ヨブは「私は神様に尋ねます。私に示してください。」と語ります。そして「私は神様の噂を耳で聞いていました。しかし今この目であなたを見ました。」(ヨブ記 42章5節参照)と神様を喜び、神様に心から悔い改めたのでした。

 私はこの神様の厳しいことばの中にも神様の哀れみを感じました。まず神様に向かって語ったヨブのことばを神様は聞いておられたという事に神様の哀れみを感じます。そして神様がヨブに対等に語りかけていることも神様の哀れみをまた感じます。神様が自分のことばを聞き、自分と対等になって議論しようとされていることはヨブが願っていたことでした。それを神様かなえてくださったのです。

 神様はきよく正しく厳しいお方であると共に、哀れみ深く、情け深く、愛に満ちたお方です。私たちはこの神様に叫び求めることができるのです。神様は必ず私たちの叫びを聞いてくださいます。悲しみ苦しみにあるときにこそ神様に救いを求めましょう。

  ( PBA制作「世の光」2011.11.26放送でのお話より )

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■感謝の達人に / 岩井基雄

2011年11月25日 | Weblog
2011/11/25放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 きのうは11月の第4木曜日、欧米ではサンクス・ギビング・デーでした。おとといの11月23日は日本でも勤労感謝の日でしたね。この日は、勤労を尊び生産を祝い互いに感謝し合う日ですね。この両方の国の記念日に共通するのは感謝です。今日はこの感謝についてご一緒に考えていましょう。

 皆さんの周りにも沢山の素敵な方がいらっしゃるでしょうね。センスの良い服をきている方や優秀な方、美しく見栄えの良い方もいらっしゃるでしょう。しかし、誰からも好感をもたれる内面が素敵な方はいかがでしょうか。

 考えてみますと、どんな小さなことにも感謝をしいつも喜んでいらっしゃる方って内面が素敵だなあって思うのです。皆さんの周りにもいらっしゃいますか? またあなたはいかがでしょうか。逆に「不平不満がいっぱいで、いつもつぶやいています」なんて反省する方もいらっしゃるかもしれませんね。確かに私たちの心は、ついついつぶやきや不平不満で満ち易いものですね。

 聖書の中にこんなことばがあります。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 新約聖書テサロニケ第一の手紙5章16節から18節 

 「いつも喜び、すべてのことを感謝する」って素晴らしいですが、かなり難しいことではないでしょうか。そのヒントはその間にある「絶えず祈りなさい。」っていうことにあるかなと思います。祈りは自分の思いや願いを神様に伝えるだけではなくて、思いや考えを神様におまかせし委ねる事です。たとえ自分にとって喜べないことでも感謝できないことでも、その結果や現実をすべて神様に委ねて歩むとき、あなたは感謝の達人になります。祈りの中ですべてをお任せするとき、あなたの心には艱難や痛みを超えた深い感謝が沸き起こって来るからです。それは神様があなたを愛しあなたに最善の計画をもっていらっしゃるからですね。

 あなたも、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する人生、感謝の達人への人生へと歩み始めませんか?

   (PBA制作「世の光」2011.11.25放送でのお話しより)

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■あなたの信仰のとおりになれ / 福井 誠

2011年11月24日 | Weblog
2011/11/24放送
 
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブルメッセージは「あなたの信仰の通りになる」です。それではマタイの福音書9章28、29節から読んでみましょう。

 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。

 この箇所には少し私の思い入れがあります。20年前に東京でゼロから教会の働きをスタートした時に、「ここで果たして教会を最後まで建られだろうか」と思い悩んだことがあります。田舎から出てきた私に都会での牧師がつとまるだろうか。しかもゼロから教会を建て上げるなど、そんな大それたことができるだろうか。・・・ いろいろと考えさせられて祈らされた時があります。そして3日間断食して祈りながら、聖書を読み続けた時に、このことばに出会ったわけです。この箇所を読みながら、そうか、イエスは「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言っている、これは大きなチャレンジだ、と思わされるところもありました。それから20年。いろいろな苦労を通らされるなかで、信者も加えられて会堂も持つことができるようになりました。そういう意味ではいつでも神様に信仰を抱くことは大事だと私は強く確信するところがあります。

 さて、二人の盲人がイエスにつきまとって叫び続きました。彼らは、イエスが自分たちの目を癒してくださる方であると信じて、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」(マタイ 9章27節)と叫び続けたのです。このように固い信仰を表明する彼らに対して、イエスは彼らの願い通りに答えられました。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」 これは途方もなく大きなチャレンジを私たちに与えてくれることばですね。

 信じれば何でもそのようになる、というのは違うのではないかという御利益的な発想を戒める考えもあると思いますが、神様は私たちの欲からではない本当の必要には豊かに答えてくださるお方であると思います。「あなたの信仰の通りになれ。」 神様を信頼してどんなことでも乗り越えていきたいものですね。

  ( PBA制作「世の光」2011.11.24放送でのお話より )

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■神とともに歩む / 板倉邦雄

2011年11月23日 | Weblog
2011/11/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「神と共に歩む」という題でお話しましょう。「神と共に歩む」とは、別のことばで言い換えますと「神様を信じて歩む」あるいは「神様の御心にかなって歩く生涯」でしょうか。

 さて旧約聖書の創世記5章はアダムの系図が描かれています。その中にエノクという人物のことが描かれています。このエノクという人物の系図だけは他の人々と異なった描き方をしています。たとえばエノクという人物の前はヤレドという人ですが、こう書いてありました。

 「ヤレドはエノクを生んだ後、八百年生きて、男子と女子を生んだ。 ヤレドの年は合わせて九百六十二歳であった。そして彼は死んだ。 」 5章の19節から20節(口語訳聖書)

 ところがエノクの場合は、「エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。 エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。 エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」 創世記の5章の21節から24節(口語訳聖書)

 エノクという人物が死んだという記録は無く、「神がエノクを取られたのでいなくなった」と書かれているのです。エノクの生涯は他の人々の寿命よりも最も短く365年でした。しかし、彼の生涯の終わりは死を見ることがないような結末だったと聖書は描いています。その理由と言いますか、その原因は何でしょうか。それは彼の生涯に二度も繰り返されていることばです。すなわち、「エノクは神と共に歩み」ということばです。神と共に歩む生涯は、神が取られていなくなる人生だと言っているのです。「神に召される」とは言いますが、「神が取り去る人生の終わりだった」と語っているのです。神と共に歩む人はこの人生の途上で倒れても神様に起こされて行きます。ですから人生の最後で倒れ伏してしまっても神様が立たせ起こし、取り去ってくださるのです。イエス・キリストのことばです。

 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」  ヨハネ福音書11章25節、26節(口語訳聖書)

 ( PBA制作「世の光」2011.11.23放送でのお話より )

 

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■死の物狂いの争い / 山中直義

2011年11月22日 | Weblog
2011/11/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 山中直義です。

 幸せを求めて死に物狂いの争いをした一組の姉妹のお話をしたいと思います。

 旧約聖書創世記30章に登場するこの姉妹、姉はレア、妹はラケルと言いました。二人は共にヤコブという男性と結婚していましたが、妹のラケルだけには子供がいませんでした。

 ある日不妊で苦しんでいたラケルはどうしようもない妬み、自分ではどうすることもできない思いに駆られて、ヤコブに訴えました。「私に子供をください。でなければ私は死んでしまいます。何とかして幸せになりたい。自分の思い描く人生を歩みたい。切に願ったラケルの訴えでした。そしてラケルは自分では子供を産むことができないと分ると、自分のしもべであるビルハという女性を妻として夫に与えることにしました。そしてヤコブとビルハとの間に子供が生まれると、ラケルはその子供を自分のものにしてこう言ったのです。「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」(創世記 30章8節) 人間の力では決して変えることができないような事柄を私は変えてみせた。・・・ラケルのそんな思いが伺えます。しかし、ラケルはやはり自分自身の子供が欲しくなって、心が再び不平不満で一杯になった、と聖書は言います。

 私たちはどうでしょうか。自分の思い描く幸せを得ようと死に物狂いになってはいないでしょうか。そして何とかしてそれを手に入れたと思っても、やはり本当の幸せは得られないままでいる。それが私たちの姿ではないかと思わされます。

 それでは一体どうすれば真に満ちたりた心を持つことができるのでしょうか。聖書は、神様を信頼し神様にすべてを委ねるように、と私たちを教えています。私たちが神様を本当に信頼してすべてを委ねるとき、その時私たちは満ち足りて生きる、本当に幸せな歩みをすることができる、と聖書は言うのです(イザヤ書 30章15節、詩篇 55篇22節、1ペテロ 5章6-7節、1テモテ 6章6節参照)。

 神様を信頼するなら神様は必ずあなたを幸せにしてくださいます。あなたも神様を信頼し神様にすべてを委ねてみませんか。

    (PBA制作「世の光」2011.11.22放送でのお話しより )

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■礼拝とは何? 聴く / 関根弘興

2011年11月21日 | Weblog
2011/11/21放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今月はキリスト教会で毎週日曜日に行われている礼拝ということについてご一緒に考えていきます。今日はですね、礼拝それは神様のことばを聴く(ことから)、ということについてお話をしたいと思うんですね。

 新約聖書のローマ人への手紙10章17節にこう書かれています。
 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 信仰は何かを一生懸命するとか善行を重ねるとか修行するとかそういうことからではない、聴くことから始まるんだ、と聖書は教えています。そして何を聴くかというと、キリストについて聴くことから始まるのだと教えています。一体それはキリストの何について聴くのでしょう。

 第一は、キリストが来られた目的を聴くのです。イエス・キリストは、失われた人を探して救うために来た、と言われました(ルカ 19章10節参照)。イエス・キリストが来られた目的は救いを与えるためです。自分の人生を見失い、どのように歩んで行ったらよいか分からない。まるで羊飼いのいない迷った羊のような一人一人を救うために来てくださったんです。

 第二は、キリストの語られたことばを聴くのです。イエス・キリストは失われた人を救うために来ました。そして素晴らしい説教をなさいました。イエス・キリストは「人はたとえ全世界を手に入れても魂(まことのいのち、自分自身)を損したら何の得になるのか」(マタイ16章26節、マルコ8章36節、ルカ9章25節参照)と言われ、人の価値高さを教えられました。互いに愛し合うことの大切さを教えられました。人が生きていく上で最も大切な愛を持って生きることを自ら実践し教えられたんです。ですからこのイエス・キリストの語られたことばを聴いていくんです。

 そして第三は、キリストのなされた「みわざ」を聴くのです。イエス・キリストは素晴らしい説教をしただけはありませんでした。人々を癒し、慰め、そしてイエス・キリストの最後はむごたらしい十字架に貼り付けにされていきました。そこには深い意味が込められています。本来私達は神様の前に出たら皆罪人で、滅ぼされても文句を言えないような一人一人です。しかし私たちを愛してくださっている神様は独り子なる罪のないイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪をイエス・キリストがすべて背負ってくださったんです。十字架で死んで身代わりとなって私たちに代わって罰を受けてくださいました。キリストが行なってくださったことはあなたのために命を捨ててくださったということです。そして三日目によみがえり今も生きておられるんですね。

 礼拝は聴くことです。それはこのキリストによって示された神の愛と恵みを聴き、その聴いたことばに生きるときなんですね。


 (PBA制作「世の光」2011.11.21放送でのお話しより)

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■災いの中で 神の沈黙 / 羽鳥頼和

2011年11月19日 | Weblog
2011/11/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 旧約聖書に信仰深いヨブという人が出てきます。彼はお金持ちで10人の子供に恵まれていました。そんな彼がある時、一日にして自分の財産を失い、自分の子供たちを事故で失ってしまいました。その上自分は全身に悪性のできものができてしまい、大いに苦しみます。そのヨブは、どうして自分がこんな苦難に遭うのか神様は答えてくれない、と嘆きました。ヨブは神様が沈黙していると思いました。

 私たちも災いに遭うとき神様は沈黙していると感じてしまいます。たとえ災いに遭わないにしても私たちには様々な苦しみがあります。そんな現実の中でやはり神様は黙っている。そのように感じるのではないでしょうか。

 ヘルムート・ティーリケというドイツの牧師は神様の沈黙に失望してはいけないと言っています。ティーリケは「神様の最大の沈黙は十字架でした」と語っています。

 十字架が神様の沈黙であったというのはどういうことなのでしょうか。イエス様が十字架にかけられた時のことです。昼の12時になった時、何と全地が暗くなって、それが午後3時まで続きました。この暗闇が神の沈黙の時でした。この暗闇の中でイエス様は非常な苦しみの中にありました。そしてイエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫びました。それでも神様の沈黙は続き、とうとうイエス様は十字架で死んでしまったのです。神様はご自分の子であるイエス様が十字架で死ぬ時、黙っておられたのです。

 しかし神様は何もされなかったわけではありません。神様はイエス様が死なれたちょうどその時、神殿の幕を上から下まで真っ二つに裂いたのです。これは一体どういうことでしょう。

 神殿の幕とは、人が罪のあるままで神様に近づくことができないようにかけられている幕のことです。それが裂けたということは、人が神様に近づくことができるようになったことを意味しています。神様は神殿の幕を裂くことによってイエス・キリストの十字架の意味を教えられたのです。イエス・キリストが十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったことによって神様はすべての人の罪を赦してくださいました。それで人は神様に近づくことができるようになったのです。このように神様は私たちに救いの道を用意してくださいました。

 苦しみの中で神様が黙っていると思えるとき、このイエス様の十字架を思い出してください。神様はあなたを愛し、あなたを救おうとされているのです。

  ( PBA制作「世の光」2011.11.19放送でのお話より )

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