♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■神にふさわしく歩む/羽鳥頼和

2016年01月30日 | Weblog
2016/1/30放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は新約聖書テサロニケ人への手紙第一の2章からお話ししたいと思います。この手紙を書いたのは使徒パウロです。2章は、パウロがかつてテサロニケで行なった働きを振り返っている箇所です。

 パウロは、「私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。」と語っています。パウロがテサロニケで伝道したのは数週間でした。信仰を持つ人々が起こり、教会ができました。しかしパウロに反感を持つ人々が騒ぎを起こし、信者になった人々に暴力を振るったため、テサロニケでの伝道の中止を余儀なくされたのです。パウロはやむを得ずテサロニケを去りました。しかしてテサロニケで信者となった人たちのことを心配して弟子のテモテをテサロニケに派遣したのです。返ってきたテモテはパウロに、テサロニケの様子を話しました。そして信者の人たちが信仰と愛をもって教会を支えていることをパウロは知ったのです。それでパウロは先程のことば通り、「自分のしたことは無駄ではなかった。」と励まされたのです。

 励まされたパウロはテサロニケでどのような思いで神の福音を語ったかを教えました。パウロは言います。「私は神に福音を委ねられた者です。ですから人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。・・・そして私は、父がその子どもに対してするようにあなたがた一人ひとりに神の国と栄光とに導いてくださる神にふさわしく歩むように勧めたのです。」(参照 2章4節、11節、12節) パウロは神に喜ばれるために神の福音をテサロニケの人々に語りました。もちろんパウロはテサロニケの人達への配慮を怠ることはありませんでした。むしろ信仰の父として深い愛情をもって接したのです。それで父のように厳かに命じたのです。

 その命令とは、信者としてどのように生きるべきか、ということでした。パウロは、救いを与えてくださる神にふさわしく歩むように(参照 2章12節)、と勧めたのです。テサロニケの信者はパウロの勧めを守って歩みました。パウロは言います。「あなたがたは私の勧めを神のことばとして受け入れてくれました。この神のことばは、信じているあなたがたの内に働いているのです。」(参照 2章13節) 教会の礼拝では神のことばである聖書のメッセージを聞きます。今も神のことばは私たちの内に働いているのです。

 (PBA制作「世の光」 2016.1.30放送でのお話より )
 
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 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神の御手に導かれて~新島襄~/岩井基雄

2016年01月29日 | Weblog
2016/1/29放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日は同志社大学の創立者である新島 襄(にいじま・じょう)について学んでみましょう。

 江戸時代末期、上州安中藩の下級武士の子として生まれた新島襄は若い頃に触れたアメリカの地図が記された本に感銘を受け、二十歳の時、初めて漢訳聖書と出会います。彼は旧約聖書の「初めに神、天地を造り給へり」という最初の一句から、天地万物の創造者である神様の存在に驚きます。自分の理解をはるかに超える世界に憧れた彼はアメリカ合衆国への密航を計画し、成功します。そして渡米後に聖書を学び、救い主イエス・キリスト信じてて洗礼を受けるのです。そして十年の学びの後に彼は身分にかかわらず誰もが学べる学校を聖書に基づいて日本に作りたいと考えたのです。明治時代の初期、仏教の勢力の強い京都でのキリスト教に根差した学校の設立は大変なことでしたが、困難の中で新島の信仰が強められていき、ついに完成した同志社英学校の校長に就任するのです。

 しかし生徒の無届け集団欠席という一種のストライキが勃発し、生徒たちの処分問題がもち上がる中、苦しみ抜いた新島は朝礼の場で、「今度の事件は教師の罪でも生徒諸君の罪でもない。すべて私の不徳のいたすところです。されば校長である私はその罪人を罰します。」と言うなり、右手に持っていたステッキで自らの左手を打ち始めたのです。二つに折れ、短くなったステッキで彼はなおも左手を打ち続けます。この新島の姿にキリストの愛を見た生徒たちは深い反省と共に真の従順を学んだのです。

 新島 襄は自分の人生を振り返ってこう語っています。「私の一生は神の見えざる御手アンシーン・ハンド Unseen Hand に導かれて今に至っている。今後も私はこのアンシーン・ハンドの導くがままに行くべきところに行くのである」。また彼の妻・新島八重は夫について、「信じること、哀れむこと、耐え忍ぶこと、人を抱擁する力、これらすべては私が彼から学んだことでした。」と語っています。私たちもまた神様の愛の御手に導かれて歩んでいきたいですね。

 聖書のことば

  「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
    新約聖書 ローマ人への手紙 8章28節

(PBA制作「世の光」2016.1.29放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■愛の契約を結ぶ/福井 誠

2016年01月28日 | Weblog
2016/1/28放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「愛の契約を結ぶ」です。
 それではイザヤ書55章 3節から読んでみましょう。
 「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
 「ダビデへの変わらない愛の契約」・・・このことばは旧約聖書を理解する上での重要な鍵となることばですね。ダビデは紀元前1000年頃のイスラエルの王様です。神様に忠実に生きて神様を第一として栄えた王様ですね。そのダビデと神様は契約を結ばれました。それはダビデの王国を祝福し、その王国を永遠に守られる、というものです。

 果たしてイスラエルの国はその後、ダビデの子ソロモンが継いで最盛期を迎えます。しかしソロモン以降、イスラエルは北と南の二つの王国に分かれ、南はダビデの子孫が王国を継承して行きました。ぜひお時間を取って旧約聖書のサムエル記、列王記、また歴代誌と言ったイスラエル王国の歴史の記録を読んでいただきたいと思います。それは単なる退屈な歴史ではなく、まるでドラマのように書かれている部分もあり、なかなか面白いものですね。

 ともあれ、その歴史を読んでいきますと驚くことは、ダビデの子孫は王位を巡る争いや戦争でたくさんの王子が殺されその存続を危ぶまれた時代が幾度もありました。また神様の御心に背く悪い王様が出てきた時も、神様はこのダビデとの契約のゆえにその王様に対するさばきをためらったことが書かれています。その悪い王様はやがて自ら滅びて行き、新しいダビデの子孫が立てられていきます。しかし神様はどこまでもご自分が建てた契約に忠実であろうとしていることが聖書に証明するように記録されていることはとても重要なことですね。

 神様は私たち一人ひとりに対しても、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶと語りかけています。ダデデを愛し守り安息を与えられた神は、そのダビデへの変わらない愛の契約を私たちにも結んでくださると言うのです。つまり私たちとも結ばれた約束は最後まで忠実に守られるというのですね。

 そのような神様が私たちのそばにおられます。ぜひその神様に心を開いて神様のことばに耳を傾けて歩んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.1.28放送でのお話より )

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■神に会わせるために / 板倉邦雄

2016年01月27日 | Weblog
2016/1/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神に会わせるために」という題でお話ししましょう。

私たちはこの世において神様に会ったり神様を見たりすることができる、と言うことです。そのためには第一に、主なる神様のことばに接しなければなりません。

 さてモーセは、主なる神様が語り約束したことばを人々に伝えました。その約束のことばとは、「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。」(出エジプト記 19章5節 口語訳聖書)と言うことでしたねえ。

 この約束を聞いた人々は答えて言いました。「私たちは主なる神様が言われたことを、みな行います。」(参照 出エジプト記 19章8節)

 次に、神に会うためには、自らを清めなくてはなりません。主はモーセに言われました。「あなたは人々の所へ行って今日と明日、彼らを清め、彼らの衣服を洗わせ、三日目までに準備させなさい。三日目に主なる神様がすべての人々の目の前でシナイ山に下るからである。」(参照 出エジプト記 19章10-11節)

 そこでモーセはシナイ山から民の所に降り、民を清めました。イエスは言われました。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 」(マタイによる福音書5章8節 口語訳聖書)

 第三に、神に会うためには指導者が必要です。三日目の朝になって雷と稲妻と厚い雲がシナイ山頂にありました。モーセは人々を神に会わせるために宿営から導き出したので人々は山のふもとに立ちました。主なる神様は火の中にあってシナイ山頂に降られました。神は雷をもってモーセに応えられたのです。そして主なる神様がモーセを山頂に召されたのでモーセは登っていきました。

 さてここから、現代においても私たちが神とお会いすることができると言うことが分ります。主なる神様を発見できるのです。

 第一は、主なる神様のことばである聖書のことばに聞き、信頼し、従うことに於いてです。

 第二に、自らを清め、良心に従って潔い生活をすることによってです。

 そして第三に、主なる神様が造られた自然を通してではないでしょうか。

 聖書のことばです。
 「 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
   わが助けは、天と地を造られた主から来る。

             詩篇121篇1節と2節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2016.1.27放送でのお話より )

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■外側と内側を造った方 / 板倉邦雄

2016年01月27日 | Weblog
2016/1/27放送

 板倉邦雄です。 今日はですね「外側と内側を造った方」という題でお話ししましょう。

 「ぼろは着てても心は錦」という歌があります。逆に新築の家でも玄関に入ったらゴミ屋敷という現実もありますねえ。とかく私たちは外側だけを気にして内側は余り注意しない傾向にあるようです。

 さてイエス様が人々にお話をしておられる時でした。一人のパリサイ派・分離主義者(※律法を守らない人々から自分たちを分離 )に属している人がイエス様に申し出ました。「先生、私の家で一緒に食事をしていただけないでしょうか。」 イエス様と弟子の一行はパリサイ派の人の申してを受け入れ、家に入って食卓に着かれました。ところが、イエス様一行が食事の前に手を洗うことをしなかったのです。それを見てパリサイ派の人は不思議に思いました。驚いたのです。

 当時の人々は外から帰ったら、必ず手もちろん足も洗いました。食事前の衛生的なことからではなく宗教的な面から食事の前に手を洗わないことは神様の前で汚(けが)れた人間になってしまい神様に受け入れてもらえないと考えられていたのです。

 そこで主イエスは食事に招いてくれたパリサイ分離主義者に言われました。
 「あなたがたパリサイ派の人々は杯やお盆の外側を清めますが、あなたがたの心の内側は貪欲と邪悪とで満ちています。愚かな人たちだ。神様は外側だけを造られたのですか? そんなことはありません。神様は内側も造られたのです。だからまず内側の心を強めましょう。内面の清さは行いに現れて来るからです。そうすれば一切があなたがたにとって清いものとなるのです。」  (参照 ルカ 11章37~41節)

 「人は外の顔や形を見る。しかし主なる神は心を見る。」(参照 サムエル記第一 16章7節)ということばが聖書にあります。私たちは心を見られる神様よりは人の目を気にして生きていないでしょうか。そのため内側の心よりは外側の姿や形だけにこだわってしまうようです。しかし、実際は内側の心が私たちの外側を形造って行くのです。

 聖書のことばです。
 「あなたがたは髪を編み、金のアクセサリを付け、服装を整えるような外面の飾りではなく、隠れた内なる人、柔和でしとやかなあ霊という朽ちることのない飾りを身に着けるべきである。これこそ神の御前に極めて尊いものである。」
             (参照) ペテロ第一の手紙3章3節と4節 

 (PBA制作「さわやか世の光」2016.1.27放送でのお話より )

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■主の祈り - 47 / 大嶋重徳

2016年01月26日 | Weblog
2016/1/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りは「我らを試みにあわせず悪より救い出だし給え」ということばで祈ります。

 この祈りは、神様に弱さを持っている私を助けてください、という祈りです。私たちは自分の弱さを認める祈りをしているでしょうか。私たちは自分の弱さを告白しない所があります。「以前は神様に助けていだきましたが、最近ではもう大丈夫です。」あるいは逆に、弱さに開き直り、この弱さはどうにもならないと諦め、神様の前に祈りを差し出さないということがあります。祈れない弱さとはこういうことなのです。弱さを祈り得るならばそれは強いのです。更に言うならば、祈られなければ本当の意味で強く立つことなどはできません。

 私は「罪の告白を聞いてください」と求めて来る人に与えられた信仰の強さを思います。犯した罪を隠したままにしていることの方が簡単です。しかし自分一人だとまたその罪に陥ってしまうかもしれない。だから「聞いてください。私と一緒に祈ってください。」と言える人は悪の誘惑から守られる唯一の道を知っている人だと思います。

 主の祈りは「我ら」と祈る祈りです。試みられた時に、私たちは一人で抱えているのではなく、共に抱えてもらい、祈ってもらう必要があります。私たちは祈られなければ強くあることはできないのです。本当に強い人とは、「助けてください」と言える人でしょう。「助けなど要らない。自分は自分でやれるんだ。」ということばには自分の弱さを認めることのできない弱さがあるのです。

 聖書に出て来るパウロという人は、「祈ってください」と言える人でした。ピリピの教会に、エペソの教会に、「こういうことがあって自分は大変だ。祈ってください。」(参照エペソ 6:19-20、コロサイ 4:3-4)と言うことできました。祈られることこそ大切なことです。祈りあうこと、これが祈りなのです。祈りは必ず祈り合う所へと向かっていきます。祈り合う強さがそこで生まれていくのです。ぜひ番組にお便りをください。番組のスタッフ一同、皆さんのことを祈らせていただきたいと願っています

  ( PBA制作「世の光」2016.1.26放送でのお話しより )

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■無尽蔵な富/関根弘興

2016年01月25日 | Weblog
2016/1/25放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 新約聖書のエペソ人への手紙はパウロが記しました。彼はこの手紙の中でこう記しています。3章の8節

 「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝える」と書いたんですね。

 「測りがたい富」ということばは「無尽蔵な富」とも訳されます。つまりパウロは、イエス・キリストの無尽蔵な富を世界中の人々に給仕することが私の使命なのだ!と語っているんですね。

 感謝なことに、キリストの測りがたい富は決して品切れになることはないんです。

 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストが五千人の人たちのお腹を満腹させた、という記事が出てきます。イエス・キリストの手元には一人の少年が差し出した五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。

 弟子の一人が言いました。「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネ 6章9節)と言ったんですね。

 しかしイエス様がパンを手にとり、感謝をささげてから割いて分け始めると、そこにいた五千人の人たちのすべてのお腹が満腹になるまで分け与える事ができたというんですね。

 またヨハネの福音書6章35節では、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とイエス・キリストはお語りになりました。

 ラジオを聴いているあなたに私はね、お伝えしたいんです。キリストの恵みは無尽蔵なんです。尽きることはないんです。私たちはよく落ち込みますし、時々行き詰まってしまうことがあります。ああーっ、自分に足りないものがたくさんあるなあ、という事を思い知らされることがたびたびありますね。

 しかし旧約聖書の哀歌3章22節にはこう書かれています。
 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」
  主の恵みはそして主のあわれみは尽きることがない、と記されているんです。こうして生かされている日々の中に、毎日毎日新しく注がれている主の無尽蔵の恵みがあることをあなたは御存知ですか?

 私たちの周りにはたくさんの恵みが溢れています。だから主に信頼する者は失望に終わることが無いのです。確かに人生には失望が襲います。でも失望のまま終わる事は決してない、と聖書は約束しています。なぜならキリストの恵みは無尽蔵であり、この方の中に測りがたい富が満ちているからです。

 (PBA制作「世の光」2016.1.25放送でのお話しより)

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■つぶやくものへの神の対応/羽鳥頼和

2016年01月23日 | Weblog
2016/1/23放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 エジプトを脱出したイスラエルの民はシナイ山のふもとでしばらく宿営をしました。そしてエジプト脱出から二年目の2月20日、シナイ山を出発しました。その頃の出来事が旧約聖書の民数記11章に記されています。

 シナイ山を出発して三日目に事件が起こりました。人々がひどく不平を言い始めたのです。聖書は、「民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。」(民数記 11章1節)と語っています。人々は「神に聞き従うことが難しい、嫌だ。」とつぶやいたのです。神はそれを聞いて怒られ、つぶやいた人々の宿営に火を降しました。人々はすぐにリーダーのモーセに助けを求めました。モーセが神に祈ると火は消えました。(参照 民数記 11章2節)

 しかし人々の欲望の火は消えませんでした。人々は今度は「肉が欲しい」と神につぶやき始めたのです。(参照 民数記 11章4節)

 神はモーセに言いました。「イスラエルの長老たちの内からあなたの良く知っている70人を集めなさい。わたしは彼らにあなたの働きを担う力を与える。あなたはもう一人ですべてのことをしなくてよい。」(参照 民数記 11章16節、17節)

 更に神は人々に言いました。「明日から1ヶ月、あなたがたに食べ飽きるほどの肉を与える。それが余りにも多いので、あなたがたは吐き気を催すほどになる。それはあなたがたが主をないがしろにしたからだ。」(参照 民数記 11章18節~20節)

 神は、人々のつぶやきに対しての懲らしめとして肉を与えられる、と言われたのです。
 次の日、たくさんのうずらが風に乗ってやってきました。人々はその日も次の日も、一日中出て、ウズラを捕まえました。ところがその肉を食べ始めた時、人々に神の怒りが降り、その人々は死んでしまいました。つぶやいた者を神は罰せられたのです。(参照 民数記 11章31節~33節)

 神へのつぶやきとは神に聞き従わないで神の祝福を求めることです。私たちは神につぶやかないように気をつけなければなりません。(参照 1コリント 10章10節)

 では神に聞き従うにはどうすればいいのでしょう。私はまず神を礼拝することだと思います。神に礼拝を捧げましょう。神はその人を祝福してくださいます。

 明日は日曜日です。神を礼拝するためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。礼拝では出席してくださった方の祝福を祈っています。

 (PBA制作「世の光」 2016.1.23放送でのお話より )
 
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■あなたはわたしの愛する子 マルコ④/岩井基雄

2016年01月22日 | Weblog
2016/1/22放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もマルコの福音書から学びたいと思います。

 前回はバプテスマのヨハネが人々に神への悔い改めを促し導いたことから、罪を悔い改めるということの大切さを学びました。私たち人類の代表として罪の裁きを身代わりに受けてくださるためにこの地上に来られたイエス・キリストは私たち罪人と同じ立場に立ち、悔い改めの洗礼であるバプテスマを受けてくださいました。それは私たちへの模範を示すためであり、私のすべてを受け入れてくださるためでもあったのです。

 そのイエス・キリストの洗礼の時に、天から声がしました。
 聖書にはこう記されています。
そして天から声がした。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

新約聖書マルコの福音書1章11節

 それはまさに父なる神様からわが子への愛のことばでした。父なる神様が子なる神であるイエス・キリストをどれほど愛してくださっているかということを示していたのです。

 それだけではなく、それはまた私たちへのメッセージでもあります。なぜなら徹底して弱い私たちの立場に立ってくださったイエス・キリストに注がれたこの神の愛を私たちもイエス・キリストを通して受け取っていことができるからです。

 またこの愛のメッセージの後、イエス・キリストは荒野での40日間の断食を経験されます。その後、サタンと呼ばれる悪魔から誘惑を受けるのですが、その試練の前に主なる神様がイエス・キリストへの愛を表してくださったとも言えるのです。

 また同じ天からの愛のメッセージは、このイエス・キリストの十字架の試練の前にも注がれたからです。

 神様はあなたを豊かに愛してくださっています。そしてあなたの存在そのものを喜び、受け入れ、慈しんでいてくださるのです。その愛を私たちが心から受け取っていくとき、私たちもまたどのような試練の中にあっても神様の愛と神様のことばによって勝利を得ていくことができるのです。

 聖書のことばをもう一度お読みします。
   そして天から声がした。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

新約聖書マルコの福音書1章11節

 神様から豊かな愛を受けた私たち、神様から喜ばれた私たち、どうぞこの愛をもって周りの方々を愛し、周りの方々に祝福を注いでいく、そのような存在とされていきましょう。

(PBA制作「世の光」2016.1.22放送でのお話しより)

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■あなたは恥をみない/福井 誠

2016年01月21日 | Weblog
2016/1/21放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたは恥を見ない」です。
 それではイザヤ書53章 5節から読んでみましょう。
 「恐れるな。あなたは恥を見ない。
  恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。


 イザヤがこのように語りかけたのはバビロン捕囚からの解放を願うイスラエル人を想い描いていることと言われています。イザヤはイスラエルが神に心を向けず自ら滅びに向かっていく様子を見て、イスラエルの民が確かに神の裁きを受けて戦争に敗れ、バビロンに捕虜として連れて行かれる時代が来るであろう、とあらかじめ預言しました。

 しかしそうなった暁には、これは神の裁きであると落胆してはいけない。そこで悔い改めて神の救いを待ち望むように、また神がイスラエルの国を再建してくださることを期待するように、と促すのです。創造主である神の愛は永遠に変わらないからだ、と言うわけですねえ。

 大切なのはこれは単なる歴史の一時期の人々に希望を与えるメッセージとなったのみならず、どの時代の人々にも語りかけているものだと言うことです。つまり永遠に生きておられる神様は、いつの時代であっても、これは神の裁きだと打ちひしがれた人々に、まだまだ望みはある、と語りかけておられるのです。

 どうでしょう。人生に敗れた思いになっている人は居ませんか? 自分の人生には何の実りもない。闇の中に捨てられた者のようだ、と。まさに神の裁きを受けたのだなあ、と肩の力を落としている人は居ませんか?

 神様はそういう人々に語りかけてくださっています。
 「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたは恥ずかしめを受けない。」と。「まだやり直しはできる。」と。

 イザヤの預言はやがて成就し、バビロン捕囚という悲しい出来事をイスラエル人は通り抜けますが、その中で打ちひしがれながらも聖書のことばを信頼して、「恐れてはならない。恥じてはならない。」と、闇の時代を生き延びて確かにエルサレムが再興される祝福を味わった人々がいました。

 神のことばは真実です。どんなに自分の人生が暗闇に滑り落ちた、これは神の裁きだ、と思わされることがあっても、「恐れてはならない、恥じてはならない。」と再起を約束される神様を信じて、忍耐をもって歩み続けていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.1.21放送でのお話より )

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