♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■十字架

2005年03月26日 | Weblog

3/27(日)より4/2(土)まで記事更新をお休みします!!


また来てくださいね!





 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
 語り続けてまいりましたイースター・スペシャル、今日はその6回め、いよいよ十字架です。

 金曜日の朝のことです。叩かれ打たれて、皮は裂け、肉も裂け、血まみれになったイエス・キリストは、処刑の地、ゴルゴダに連れて行かれます。そしてその手に足に、大きな釘を打ち込まれ、十字架の上にさらされます。その苦しさの中からさえイエスは、敵なる罪人に赦しのことばをかけ、同じ時に十字架に処刑に遭った犯人には、救いのことばをかけられました。

 さて12時から、全地が暗くなり、そして3時になると、イエスは大きな声で言われました。「エリ、エリ、レマ サバクタニ」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛極まりないおことばですね。父なる神から見捨てられた苦難の主の絶叫です。この叫びの中に十字架の意味が示されています。

 第一に、主にとって十字架とは、神に見捨てられることでありました。全人類の罪を、罪のないその御自身に担われて人に代わって神に裁かれる、神に捨てられる事だったのです。

 第二に、ですからつまり十字架の死は、全人類から神の裁きを除き去り、そして贖(あがな)う身代わりの死だったのです。

 第三に、罪を悔い改めてこの救い主を信じてより頼むすべての人の罪を赦し、裁きから解放し、死の代わりに永遠のいのちを与える救いのことばだったのです。

 パウロは言いました。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 こうしてよみがえられた主キリストは、完全な救い主となられたのです。

 聖書のことば。
キリストは・・・ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。
ヘブル人への手紙 7章25節のことばです。

 ではまたお聞きください。

 ( PBA制作「世の光」2005.03.26放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。



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■ゲッセマネ

2005年03月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 今週と来週はイースター特集です。今日3月25日は金曜日、グツド・フライデーと英語で呼ばれています。イエス・キリストが十字架にかかられた日の事です。 ま、今日はそれにちなんでキリストが十字架にかかる前にゲッセマネの園で最後のお祈りをしたことについてお話しをいたします。

 ゲッセマネの園は、エルサレムの城壁を見上げる向い側の小高い丘にあります。ゲッセマネという名は、油絞りという意味で、この丘には油が採れるオリーブの木がたくさん植えられ、オリーブ山とも呼ばれています。今でも樹齢何百年と言われる、岩を積み重ねたような
ゴツゴツした老木があります。二千年前、キリストはこの木の下で祈ったのかしらなんて思ってしまうほどです。

 確かにキリストは、このオリープ山、ゲッセマネの園でよく一人で祈っていたと聖書に書かれています。ローマの兵隊に逮捕され、十字架につけられる時が近づいてきた時も、このゲッセマネの園で祈っておりました。このように祈りました。 ルカによる福音書22章42節です。
父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。

 目の前に迫っている十字架という苦しみを取りのけてください。しかし自分の願いではなく父なる神の御計画通りにしてください、という祈りです。この祈りによってキリストは、逃げる事も逆らう事もせず、ただ父なる神の御心、十字架への道を選んだのです。このゲッセマネの祈りがキリストの十字架への道を決定づけました。

 今日このゲッセマネの園の囲いの塀に、キリストがうつぶせになって祈る姿が彫刻されています。 そしてその絵の下にこう書かれているんです。 「この祈りは世界を変えた」 この祈りによるキリストの十字架が、世界の罪とその結果であるあらゆる混乱とゆがみ、その身代わりとしての贖(あがな)い、救いとしてなされたのだ、という意味において、確かに世界を変えたと言えるのではないでしょうか。そしてその祈りはあなたのためでもあるのです。


 ( PBA制作「世の光」2005/03.25放送でのお話しより )

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■ユダの裏切り

2005年03月24日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 この番組では、イエス・キリストが地上で最後の一週間を過ごされましたそんな苦難の日々と言いましょうか、キリストが苦しみを受けたその足跡を辿っている訳ですけれども、今日はですね、ユダがイエス・キリストを裏切ったというそんな場面を聖書からお話し申し上げてみたいなあと思っています。

 マタイによる福音書の26章の14節から16節までに、このような事が記されています。
 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

 そのときからユダはイエスを引き渡す機会をねらっていたという所ですねえ。まああの裏切りということは歴史の舞台に登場する多くの出来事の中で多くの人々が裏切られたり裏切ったり、またそんなドラマにもなっている訳なんですけれども、実はユダという人は、イエス・キリストを売った、お金で売った。結果的にはキリストは十字架に磔(はりつけ)にされて殺された。ユダは、まさかそんな所まで展開するとは思ってもみなかったそんな現実にぶつかった時に、責任を取って自殺したというふうに聖書は記しています。なんでキリストをユダは売ってしまったんだろうか、いろんな事が言われています。まああのユダはですね、弟子たちの会計を仰せつかっていた。ところが何かの事でその会計に穴を開けてしまった。何とかその穴を埋めるためにというような事でキリストを金で売った。憎しみや妬みを持っていた宗教家たちに売った。でもキリストは実際に裁判を受けたってすぐに赦されて戻ってくるに違いない。そんなような安易に考えたユダ。そんなことがキリストを売ったという事ではなかろうかというふうに言われる説もあります。けれどもむしろキリストに対してのユダの期待が裏切られたという事もあったでしょうか。その当時テロやクーデターがいっぱい起こっていました。そしてキリストと一緒ならば俺は出世できるぞというようなそんな野望もあったのかもしれません。それらのものが全部裏切られたという結果でしょうか。まあ先程申し上げましたように、キリストを売ったユダは自殺しました。キリストを否定しきってしまった弟子のペテロは赦されてキリストのために生きる人生を送りました。責任を取って死ぬ生き方も、赦されてキリストのために生きる生き方もあるってことを知っていただきたいのです。

(PBA制作「世の光」2005.03.24放送でのお話しより )

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■最後の晩餐

2005年03月23日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。イースター、イエス・キリストのよみがえりの日が近づいてまいりました。そこで私たちはイースター・スペシャルをお送りしていますが、今日はその3回め、最後の晩餐の話です。

 いよいよ十字架にかかる前の晩の事です。イエス・キリストはその11人の弟子たちのために最後の晩餐を持ちます。有名な話です。イエス・キリストは父なる神の御許にゆくべき最後の時が迫った事を知って、弟子たちに御自分の愛を残る所のなく示されたと聖書に記されています。最後の晩餐には、際立った二つの事があります。

 その第一はパンを割いて弟子たちに与え、ぶどう酒をも同じように一人一人に同じ杯から飲ませました。パンを割いて「これは十字架の上であなたがたのために割くわたしの肉です。」と言い、ぶどう酒を与えて「これはあなたがたのためにわたしが十字架の上で流すわたしの血です。」と言われました。これこそ今全世界の教会で行われている聖餐式の原形ですね。イエス・キリストはいのちを与えて罪人を救うという極みのない愛を、このことによって示されました。

 その第二のことは、イエス・キリストが腰にまとっていた手拭いで一人一人の弟子たちの足を洗われた事です。弟子のペテロは、先生に足を洗わせる事を恐縮して断ります。しかしイエスは言われました。「もしわたしが洗わなければあなたはわたしと何の関係もありません。」ペテロは大慌てして、「主よ、私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言ったくらいです。主イエス・キリストは弟子の足を洗う事によって、このキリストに従う者はすべての人の足を洗うほどの奉仕をしなければならない模範を示されました。

 最後の晩餐で、イエス・キリストは、この二つの事で弟子たちに愛の極みを示されました。主は弟子たちを御自分の愛でしっかりと結びつけてくださったのです。

 聖書のことば。
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
 ヨハネの福音書13章1節のことばです。

また聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.03.23放送でのお話しより )

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■宮きよめ

2005年03月22日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 さて今週は、イエス・キリストが十字架につけられ復活に至るまでの一週間の出来事の中から、イエス・キリストがエルサレムの神殿に行かれた時の事をお話ししましょう。

 当時の神殿、それは豪華な建物でした。大理石が豊富に使われ、そしてたくさんの金細工も施されていました。

 さてユダヤの人にとっては最大の祭り「過越し祭り」が迫っていた時の事でした。イエス様はその神殿に入られると、その中で商売人たちが売り買いしているのを見たんです。するとイエス様は突然その商売人たちや両替人たちの台をひっくり返して彼らを追い出されてしまわれました。そしてこう言われたんです。「ここは祈りの家と呼ばれている。それなのにお前たちはここを強盗の巣にしている。」と。

 この人たちはどういう種類の商売人であったかというと、それは神殿に礼拝に来る人のために動物を売っていたんです。そしてこの神殿に来た人たちはその動物を神殿に感謝をもって捧げていった訳ですねえ。そして両替人たちもいました。それは神殿で使われるお金というものは一般の社会で使われ流通しているお金とは区別して、特別に神殿専用の貨幣が使われていたんです。ですから神殿に来る人たちにとっては、この商売人たちは無くてはならない存在だったんですねえ。でもいつしかこの商売人たちは自分たちの金儲けの事だけを考えていました。そして暴利を貪っていたんです。本来、真心こめて神様に感謝を捧げる礼拝でなければならないのに、その心はどこかに失われてしまい、お金儲けの道具になってしまったんですねえ。人が生かされていく上で大切な事の一つは、天地を創造された神様の前にひざまづき、真心から感謝を捧げ、祈りを捧げる一時をあなたが持つことです。でもその場所が商売の道具の場所に掏(す)り替わってしまったのですから、イエス様が怒られるのも無理はないですよね。

 さて今日、昔のような神殿はありません。それではイエス様は私たちに何を教えていらっしゃるんでしょう。聖書は、「あなたは生ける神の神殿である」と教えているんです。そうであるなら、あなたの中に祈りの家を持つ必要があるという事なんですよ。心静める祈りの一時をあなたはお持ちですか? あの神殿を商売人たちが占領したように、あなたの心が自分さえ良ければ良いという勝手な思いだけで占領されていませんか? この一時、あなたの心に神様に向かって祈る心を回復していく、そんな必要がありませんか?


 ( PBA制作「世の光」2005.03.22放送でのお話しより )

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■エルサレム入城

2005年03月21日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 今日から二週に渡ってイースタースペシャルをお送りすることになっていて、今日がその第一回めになります。

 実は昨日から、キリストの十字架の苦しみを偲ぶための受難週が始まりました。昨日は、キリストが十字架につけられる事を目的としてエルサレムにお入りになったことを記念する日でした。

 キリストがエルサレムにお入りになった時の様子は、ちょっと人々の意表を突くような様子だったんですが、といいますのは、キリストはロパの子にまたがってエルサレムに集まっている群集の前に現れなさったんですねえ。で、群集は、棕櫚(しゅろ)の葉を振って「ホサナ、ホサナ、万歳、万歳!」というようにして、キリストを迎えたんですね。

 どうしてキリストは馬ではなくてロパの子にまたがってエルサレムにお入りなさったのかというと、これは旧約聖書の中に予告されているメシヤの姿であったからなんですねえ。聖書に預言されている姿で現れなさる事によって御自分が聖書に書いてある通りのメシヤである事をお示しになる事が一つの目的だった訳です。そしてそれがいわゆる強そうな軍馬ではなくて、ロバの子に乗ってというのは、ほんとの救いはいわゆる軍事力とか政治力とかという力ではなくって、一見弱そうに見える柔和さをもってあくまで平和をもって人々の心と生活に救いを与えるメシヤであるという事を表すためであったんですね。

 この時、まあ、ラザロをキリストが死から復活させたという大きな出来事の直後でもありましたので、群集にはもっと摩訶不思議なことがあるんじゃないかというふうな期待もあったと思うんですが、キリストを大歓迎した訳なんです。しかし彼らの期待していたメシヤというのは、当時自分たちを支配していたローマから解放する力による改革者としてのメシヤでしたから、結局は平和をもって救おうとするキリストに失望してですね、まもなくして同じ大歓迎したこの群集が、「キリストを十字架につけろ!」と叫ぶようになるんですねえ。

 この豹変ぶりには驚かされます。これはキリストを無き者にしようとするグループから買収された者たちが群集を扇動したからのようです。群集心理といいますか、主体性がないといいますか、その時のムード次第であったり、どっちについた方が自分たちにとって有利なのかという、全くエゴイスティックな判断で行動を決めるというのがこの群集であった訳ですね。

 「私はこんな群集とは違う」と言える人はどれだけあるでしょうか。少なくとも私はその群集の一人だなと思わされます。キリストは、そういう場面になる事を初めから予測されて、敢えてエルサレムにお入りになったのです。それは私たちの罪のために十字架におかかりになる必要があったからなんです。その意味でのエルサレム入城だった事を知っていただけたら幸いです。

 ( PBA制作「世の光」2005.03.21放送でのお話しより )

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■主の良くして下さった事を何一つ忘れるな

2005年03月19日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。
 
  東京都にお住まいの石井まき子さんは旧約聖書詩篇103篇2節のことぱをお寄せくださいました。
 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 私のようなわがままな罪深い者が、今も神様の御愛のうちに入れていただき、日ごとにみことばにより生かしてくださっておりますことを感謝いたします。たくさんのこみことばを通して、落ち込んでいる所から立ち上がる力を数える事ができないほどに与えていただきました。その内の一つだけ記させていただきましたのが、この詩篇103篇2節です。 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」「何一つ、何一つ」とみことばが押し寄せて来て、私を、「主よ、ごめんなさい。」とお詫びいたします。また別なことで悩んでいる時にも、同じように「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と与えられます。主はいつも最善にしてくださいました。夜明けが来ないと思った時にも、ちゃんと光をくださいました。日々の忙しさで、私が私がと自分が先頭に立って出発した日には、人を傷つけてしまいます。みことばを握り一日を出発した日には、笑顔と勝利があります。今までにたくさん与えていただきましたみことばを一つも無駄にする事なく、初めの愛を忘れる事なく歩んでいきたいと思います。

 石井まき子さんの心に残る聖書のことば。少し長く御紹介しましょう。
 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
詩篇103篇1節から5節までです。

 それではまたお聞きください。

 ( PBA制作「世の光」2005.03.19放送でのお話しより )

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■うたの力

2005年03月18日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 今日は、歌は力を与えるっていうことについてお話しをします。

 昨年の十月、続いてやってきた台風、その中で、京都府でバスが濁流に襲われ、立ち往生し、逃げられなかった乗客が37人も一晩中バスの屋根の上に取り残された出来事がありました。何とあの人たち、平均年令70歳を超えていたというのです。奇跡的な、救出と言いましょうか力でした。

 なぜ助かったのか、実は、坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」という歌を何度も何度も歌って、そしていろんな歌を歌い続けてみんなで励ましあって、疲れて眠くなって手を離して流されそうになると大きな声で歌を歌った。ま、それでみんな頑張れたって言うんですねえ。歌は生きる力を与えるっていうことを感じさせられました。

 また、讃美歌を聞いたり歌うと心が洗われるような思いになる、心が浄められたような思いになるっていうことも聞きます。讃美歌は聞く者の心、歌う者の心にまた新しいさわやかな力を与えます。それはあの有名な讃美歌「アメイジング・グレイス」のように美しい、心に響くメロディーの素晴らしさもあります。更にそこで歌われている内容、ことばが、国や文化を超えて人の心に響き訴えるものがあるからだと思います。なぜなら、讃美ってことばは、聖書の原語の意味で、「神を語る」「神について言う、語る、歌う」というような意味です。ですから讃美歌っていうのは人の心を創造主なる神に、恵みと愛に満ちた神様に向けさせるという訳です。そこで心が神の愛、恵みに触れて、さわやかに、豊かになるというのです。

 ですから讃美歌を歌うというのは、何か嬉しいから何か調子がいいから口ずさむって言うよりも、どんな時にも、いや辛い時や苦しい時にこそ歌う、そういう意味もあります。

 ダビデというたくさんの讃美、詩を作った王は、旧約聖書の詩篇の中で、「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。」と、苦しい苦しい中で歌いました。「賛美は力です。」とも歌っています。私たちもこんな讃美を口ずさみながら歩んでいきたいですね。

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■キリストは悲しみの人で病を知っていた

2005年03月17日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 3月といいますと、年度が終わるというこの月ですよね。 また学校も終わり、もう卒業された方もいらっしゃって、ほっとしているのではないかと思うんですが、また、終わるという事は、新しく始まるという時でもあるなあというような事も感じさせられます。

 ところでこの年、3月の27日にあたるんですけれども、私たち教会ではですね、イエス・キリストが復活されたというイースターを記念する日を迎えようとしています。これはもう全世界の教会で記念される日なんですが、この事を思いながら、キリストが最後の地上での苦難の日々、そしてまた十字架の死、そして復活、そんなような事にスポットをあててみたいなあと思うんですが、

 今日はですねえ、イエス・キリストがそのように裁判を受け、そして苦難の十字架を背負い、磔(はりつけ)にされて死んでいくというようなそんな事をですねえ、何とキリストが生まれる400年も500年も600年も前にですね預言されていた、そんなような事を御紹介申し上げてみたいなあと思っています。

 旧約聖書のイザヤ書の53章という所に書かれていますが、
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」 --キリストの姿を描いていますよねえ。 --
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
 実に人々はですね、救い主に向かって、「お前がほんとに救い主なのか、人を救っておきながら自分が救えないのか」(と)、そして馬鹿にして、つばを吐きかけ、棍棒でこずき、というようなそんな扱いを受けながらキリストは、黙々と十字架を背負っていく姿ですよねえ。

 そしてこのイザヤ書の53章の4節には、こんなことが書かれています。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

 そのキリストの苦難、この預言がですねえ、何と私たちの病を負い、私たちの痛みを担う、そんな所にまで言及しているんですねえ。そしてこのように書かれています。
「彼は私たちのすべての咎を負ってくださった。」あの十字架を担いで「骸骨の丘」を登られたキリストはまさしく私の苦難を背負い、私の病を背負い、私の罪を身代わりに背負っていった姿なんだ。

 こんなような3月の時に、ぜひ教会においでくださって、このキリストと出会っていただきたい。そんな願いで一杯です。

(PBA制作「世の光」2005.03.17放送でのお話しより )

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■夕、朝、真昼に

2005年03月16日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日の世の光はまず皆様からのお便りの紹介です。

 兵庫県西宮市にお住まいの、しばたゆきこさん、84歳の方はこうお書きくださいました。
 「毎朝、放送をありがとうございます。羽鳥先生が放送に帰って来られ、嬉しいことです。スタッフの皆様、御身お大切にあそばされませ、祈りあげます。」

 84歳と言えば私と同年ですね。お互いに毎朝、毎昼、毎夜、元気で主に愛されて生きてまいりたいものですね。しばたさん、ありがとうございました。

 さあ今日の約束のことばです。今日は旧約聖書、詩篇の55篇16節、17節のことばです。
私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。

 私たちにはルンルン気分で歩むことも、万事順調でスラスラの時もありましょう。しかし私たちの人生、朝嘆き、昼うめき、夜もまたうなる、そんな時も多いことでしょう。そんな時に神様は、夕べも朝も真昼でも、いつでも構わず「わたしに呼び求めなさい。わたしはあなたの声を聞いてあげよう。」と言われるのです。神が聞いてくださる。慰め助け、力づけ、導き、助けてくださるというのです。神様は、神様を信ずる私たちにとってそんなお方なのです。

 神様にうめいても嘆いても聞いてはくれないと思っていらっしゃる方が大勢いることと思います。わめいても叫んでも神様は聞いてくださらない、応えてくださらない、これでいいはずがないのです。神様は血を流していのちを与える愛の切り口を私たちのために備えてくださったのです。悔いた、砕けた心で、信じる心の切り口を持って神とつながりなさい。呼べば答える神様とつながるのです。

 今日の約束のことば。
私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。
詩篇55篇16節、17節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.03.16放送でのお話しより )

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