♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■天国はあるの?/関根弘興

2015年08月31日 | Weblog
2015/8/31放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 番組にこんな質問が届きました。「天国は本当にあるのでしょうか。」 こんな質問です。

 誰もが死んだあとどうなるのだろう? どこにゆくのだろう? と考えます。またある方は、いやいや死んだあとは何もない無である、と言われます。それでは聖書は一体何と言っているのでしょう。

 まずイエス・キリストのことばを紹介しましょう。新約聖書ヨハネの福音書11章25節
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

 イエス・キリストが来られた大きな大きな目的は、死んでも生きるといういのちを与えるために来てくださった、というんですね。これはとても不思議なことばです。死んでも生きる、ということはイエス・キリストが約束されたことは私たちのこの体のいのちを超えた命があなたがたに与えられるというふうな約束ですよね。そうすると、そのように約束されたイエス様はもちろん死んでおしまいという方ではありません。イエス・キリストは十字架について死なれました。しかし三日目に死を打ち破り、復活されたのです。そしてその復活の目撃証言者たちによって新約聖書が書かれていきました。イエス・キリストの約束は信じる一人ひとりに尽きることのない命を与えるという約束です。尽きることのない命のことを聖書では「永遠のいのち」というふうに記されています。イエス・キリストは信じる一人ひとりに永遠のいのちが与えられると約束しました。死んだ後もこの命に生かされるのですよ、ということなんですね。

 考えてみてください。もし天国がなければイエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きる」などと言う必要がありませんね。また、天国が無いとするならば、そういうことを語るイエス・キリストのことば自体がでたらめになってしまいます。つまり、イエス様はご自分が復活されたことを通して、天国はあるのですよ、永遠に続くいのちがあるのですよ、ということをはっきりと証明してくださったとも言えるんです。

 そして天国があるということは最終的な希望を持って生きていくことができます。この地上の生涯には辛い事も悲しみも涙もあります。でも最終的に神様がそうしたすべての悲しみや涙を拭いとってくださると聖書は約束しているのです。

 新約聖書 ヨハネの黙示録21章4節
 「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
 このようにはっきりと約束されているのです。

 (PBA制作「世の光」2015.8.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■救いを求めよう/羽鳥頼和

2015年08月29日 | Weblog
2015/8/29放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 ある日イエスは12弟子をそばに呼んでこう言いました。
 「さあこれから私たちはエルサレムに向かっていきます。救い主についてい預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。わたしは異邦人に引き渡され、そして彼らに嘲られ恥ずかしめられ、つばきをかけられます。彼らはわたしを鞭で打ってから殺します。しかし私は三日目によみがえります。」(参照 マタイ 20:18、19節、マルコ 10:33、34節、ルカ 18:31 -33節)
 
 イエスは十字架にかかって殺されるまでのことを詳しく語り、三日目によみがえることまで語られたのです。しかし弟子たちにはこれらのことが何一つ分りませんでしたがイエスに尋ねることもしませんでした。まだ分っていない弟子たちを連れてイエスはまずエリコの町に向かわれました。そこでもう一人イエスの十字架のことを知らない人が登場します。

 その人は道で物乞いをしていた盲人です。彼もイエスが自分のために十字架で死のうとしておられることを知りませんでした。しかし盲人は大声で、「イエス様。私を憐れんでください!」と言ったのです。周りにいた人は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます「私を憐れんでください!!」と叫び立てました。彼はイエスの全部を知りませんでしたが、イエスが多くの病を癒されていたことを知っていました。それでイエスにすがったのです。イエスは立ちどまって彼に、「わたしに何をして欲しいのか?」と尋ねました。すると彼は、目が見えるようになることを求めました。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたをなおしたのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについてきました。(参照マタイ 20:30-34、マルコ 10:46-52、ルカ 18:35-43 )

 盲人はイエスを完全には理解できていませんでした。全部が分かって納得がいった訳ではありません。けれど、盲人は自分の知っているイエスを信じて目が見えるようになることを求めたのです。

 人はなかなか信じることができません。分からないことがあると信じられないのです。でも求め続けてくださいイエスは必ずあなたに救いを与えることのできる方です。イエスも、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ 7章7節)と言われています。ぜひイエスの救いを求めてください。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。教会には必ず救いがあります。

 (PBA制作「世の光」 2015.8.29放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■最初の日本語聖書翻訳者 チャールズ・ギュッツラフ/岩井基雄

2015年08月28日 | Weblog
2015/8/28放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の最後の金曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は明治期最初の宣教師としてまた最初に日本語の聖書を翻訳したと言われるギュッツラフについて学んでみましょう。

 1803年にドイツに生まれ、ベルリンの宣教師養成学校で学んだチャールズ・ギュッツラフはロンドン宣教会の宣教師としてタイと中国で神の愛とキリストの福音を宣べ伝えました。彼は更に朝鮮や台湾そして日本にも関心を持ち、1832年から船旅をする中で鎖国中の日本にも入国を試みたのです。しかし残念ながらそれは実現しませんでした。同じ年の8月に彼は琉球王国の那覇に寄港します。それは先月学んだベッテルハイムよりも早い時期でした。ギュッツラフの一行は那覇の臨界寺の近くに上陸します。そしてその時集まった民衆と役人に漢訳聖書---中国のことばに訳された聖書---を配布したのです。何とかして神のことばである聖書のメッセージを伝えたいと彼は願っていましたが、ことばの壁はどうすることもできませんでした。中国に戻ったギュッツラフは日本人の三人の漂流漁民であった音吉、岩吉、久吉を引き取って彼らから日本語を学んでいきます。そして彼らの助けを借りて聖書を日本語に翻訳し(※)、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一、第二、第三の日本語訳を完成したのです。シンガポールで出版されたこのギュッツラフ訳聖書こそ日本語に訳された最初の聖書とも言われています。ことばの壁を越え、日本人が自分のことばで神のことばである聖書を読むことができようにと多くの宣教師たちが犠牲を払ったのですね。自分の国のことばで神のことば・聖書を読むことができるのは当然のことではありませんね。

 聖書のことば
 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
     新約聖書 ペテロ第一の手紙1章23節

 あなたも生けるいつまでも変わることない神のことばである聖書に親しみ、新しい人生、希望と喜びに溢れる人生へと一歩踏み出してみませんか? 神のことばはあなたの心にいのちと喜びと輝きを与えるのです。

 (PBA制作「世の光」2015.8.28放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■弱った手を強め/福井 誠

2015年08月27日 | Weblog
2015/8/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「弱った手を強め」です。それではイザヤ書の35章3節をお読みしましょう。
 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。

 イザヤ書前半のまとめの部分であるとされます。先に34章では、さばきが語られました。そして神のことばに注意するように促されていました。ここではさばきに続く回復が書かれています。何かホッとする所ですね。神様は正しいだけのお方ではありません。基本的に愛のお方ですから、必ずさばきには恵みのことばも加えてくださるのです。ここで語られていることは、裁かれて国を失い、多くの民が捕虜としてバビロンという国に連れ去られたイスラエル人が、やがてその捕囚期間を終えて帰ってきてイスラエルの国が回復されることを語っていますね。

 荒野と砂漠の荒廃したイメージから始まり、水が湧き出し川が流れ、焼けた地が沢となり、花咲き乱れる祝福のイメージでまとめられています。先週は血みどろの山、虐殺・凄惨なイメージでした。今回は喜びと歌の明るい心温まるイメージになってますね。

 そして神様は言います。
 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。

 確かに他国の侵略を受け自分の国が滅びた悲しみを味わい、捕虜としての苦しみを味わった人々は、このことばに回復の希望を見出したことでしょう。

 詩人のホイットマンは、寒さに震えた者ほど太陽の温かさを感じる、と語りましたが、手が弱くなり膝がよろめき失意に遭った人ほどこの回復の約束に希望と励ましを繋いだはずです。そういう意味では今も荒野や荒地に放り出されたと思っている人々にとって、このイザヤのメッセージは味わい深いものでしょう。自分に何の希望があろうかと思うならば、「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(4節)という神の力強いことばに耳を傾け信頼を寄せたいものですね。

 更にイザヤは神の約束のことばを伝えます。
 「楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」(10節)
 信じるところに想像もしなかった未来が開かれることでしょう。神を信じましょうね。

 (PBA制作「世の光」2015.8.27放送でのお話より )

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■主の祈り 30 / 大嶋重徳

2015年08月25日 | Weblog
2015/8/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。
主の祈りには、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りがあります。御心ということばは英語ではWill ウィルです。つまり意志です。御心ということばは神の意志、神の願い、ということです。

 では神様が願っておられることとは何でしょうか。聖書の第一テサロニケ4章3節には「神の御心はきよくなることです。」とあります。ここではっきりと分るのはあなたの生き方やあなたの選択はきよさにつなげることなのか、ということです。もしあなたのこれからの進路選択を考えるとき、神の御心を求めるのならば、その選択は神のきよさに繋がることなのか、を問うことです。

 ではきよさはどうしたら分るのでしょうか。ヨハネの福音書17章には、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(17節)とあります。聖書のことばこそがきよさに生きる要だということです。つまり、聖書のことばに生きる生活をしているかということです。みことばを読む生活をしていなくてきよさに繋がることはないというのです。神の御心がこの地上で実現するようにと祈る祈りは、みことばを読む生活へと連れて行こうとします。つまり聖書を離れては私たちは神様の御心は分からないのです。

 では聖書から神の御心をどのように知ることができるのでしょうか。聖書は何か神のお告げを知るためのような占いの本ではありません。聖書には、神様の願い、神様の意志、神様のものの味方・考え方・センスが記されているのです。聖書を読むとき、そこで私たちの価値感や意志、ものの味方が少しずつ少しずつ聖書の価値感と一つにさせられていくということを経験します。

 私は大学4年生の時、進路を考えました。その時考えたことが、中学校の教師になるか聖書を学ぶ学校に行くか、ということでした。しかしそこで教えられたことは、右に行くか左に行くかではなく、誰と行くかということでした。イエス様と共にいるのかということです。怖い話ですが、イエス様と共にいない牧師ということだってあり得る訳です。そして問われたことは、イエス様と共にいる学生をしているのか、ということだったのです。

 今日も聖書を読みイエス様と共にあろうとする時にイエス様は、あなたは神の御心にかなっているよ、と言ってくださるのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.8.25放送でのお話しより )

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■いつまでも残るもの-希望 2 / 関根弘興

2015年08月24日 | Weblog
2015/8/24放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今日も聖書から、お互いの人生に大切な大切ないつまでも残るものとは一体何か、という事を考えていきましょう。

 まず聖書のことばを紹介します。新約聖書コリント第一 13章13節
 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

 いつまでも残るものはまず信仰です。それは決して変わることのない方を信頼し生きること、そしてその信頼に生きるときに決して失われることない希望が与えられる。その希望とは失われることのないいのちが与えられるということでしたね。

 末期患者の在宅ケアをされている一人のお医者さんが、在宅ケアを受けている人もケアをしている方々にとってもどうしても必要な人生の見方がある、とおっしゃっていました。それは未来から現在を見る眼差しだと言われたんですねえ。希望というものを見つめながら今この瞬間を生きていくと言う、こういう眼差しですね。

 私たちは過去の様々なことを通して今を見つめる生き方をよくします。昔はこうだった、ああだった。だから今は・・・、こういう視点ですね。過去がこうだったから今はこうなのだ、というそういう人生の見方です。

 しかしもう一つの見方は、未来を見つめることによって今を見ていくという生き方もある、という訳ですね。まだ見ぬ将来に思いを託し今を生きる、という訳です。永遠に変わることない希望に生きるということは、まだ見ぬ将来に思いを託し今を生きる生き方なんです。

 私たちのいのちは永遠に続く事はありません。いつかは過ぎ去ります。どんなに華やかなものでもいつかは朽ちていきます。永遠に続くものではないからです。しかし聖書が約束しているように、永遠の天の御国があるとするならば、まだ見ぬ天の御国を想い見つめながら今というこの瞬間を積極的に生きてことができるはずです。

 私は小さい時、銅山で有名であった足尾町という所に住んでいました。私の家の隣にはお寺のお墓がありまして、そのお墓には立派な一つのお墓が建っていました。そこの時世の句にはこんなことばが刻まれていました。 「行く先の知らぬ旅路や衣替え」 正直な句だと思います。自分が死んだ先どうなるか分からない、というそんなことばなんですね。

 でもこのお墓の斜め後ろに一人のクリスチャンのお墓が建っていました。そこには「我らの国籍は天にあり」と記されていたのです。聖書が約束する希望は天にまで繋がる死を乗り越えて生きることへの希望なのです。

 (PBA制作「世の光」2015.8.24放送でのお話しより)

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■放蕩息子とその兄と父 / 羽鳥頼和

2015年08月22日 | Weblog
2015/8/22放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 イエスは神の愛を教えるために放蕩息子の譬えを話されました。(ルカの福音書 15章11節から32節)

 ある人に二人の息子がいました。その弟が、「お父さん。財産の私の分を分けてください。」と言いました。そこで父親は二人に財産を分けてやりました。すると弟はもらった財産を全部持って遠い外国へ行ってしまいました。そしてそこで財産を全部使い果たしてしまったのです。彼は食べることにも困ってしまいました。そこで彼は父親の所に帰る決心をします。父親は遠くに帰って来る息子見つけると彼の所まで走ってき彼を抱きしめます。弟は心から父親に自分のしたことを謝ります。そして、「私はもう息子と呼ばれる資格はありません。あなたの使用人にしてください。」と言います。しかし、父親は彼を使用人にするなどとは思いませんでした。父親は息子が帰ってきたことを喜び、綺麗な着物を彼に着せて、ごちそうを作ってお祝いをすることにしました。

 さて、その事を知った兄は怒りました。そして家に入ろうともしませんでした。父親は家から出て、兄の所にやってきて、彼をいろいろとなだめてみました。しかし兄は、「私は弟のように家を出ることなく、あなたにずっと仕えてきました。しかしあなたは私に、『友達と遊べ』と言って子山羊一匹くれたことがありません。それなのにあなたはあんな弟のために牛をごちそうするのですか?」 父親は兄に言いました。「息子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だがおまえの弟は死んでいたのが生き帰ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

 ここに神の愛があります。二人の息子の父親は神のことです。この父親は二人の息子を同じように愛しました。いつも一緒にいることを喜び、すべてのものを与えることを惜しみませんでした。神は同じようにあなたを愛しておられます。あなたが弟のようであっても兄のようであっても、変わらずに共にいようと近づき、語りかけ、共にいることを喜んでくださり、すべての必要を与えてくださるのです。

 明日は日曜日です。神に出会い、神からの語りかけを聞くために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。神はあなたが来られるのを待っておられます。

 (PBA制作「世の光」 2015.8.22放送でのお話より )
 
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■ちょっと分かりにくい用語 45 聖書の写本 / 岩井基雄

2015年08月21日 | Weblog
2015/8/21放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日は聖書の写本についてです。

 写本とは手書きで複製された本や文章のことで、原本と対比して写本と言います。古代や中世の本は写本を専門とする人々によって大切に書き写されてきたのです。聖書も同様ですが、その信頼性、聖書の信頼性は他を圧倒しています。

 まず旧約聖書ですが、数千に及ぶ旧約聖書の写本と断片が中近東や地中海沿岸などで発見されています。またその内容も、ヘブル語からギリシャ語に翻訳された紀元前3世紀の70人訳という旧約聖書と比較するとき、その一致の見事さに驚嘆すると言われます。更に1947年から56年にかけて、イスラエルの死海という大きな湖のほとりで大量に発見された死海写本はその写本の数の多さと共に記述の年代の古さを通して旧約聖書の驚くべき信頼性を立証しました。

 次に新約聖書ですが、新約聖書の次に写本が多いのはホメロスの『イリアッド』で、643の写本が発見されています。新約聖書の写本は2万5000に及び、約5600に上る断片もあります。また新約聖書の記述年代は、紀元1世紀の初期から3世紀までのもので、中には直筆で書かれたものとの間が40年から60年という短い期間に写本されたものも残っています。ほかの古文書と比較すると、シーザーの『ガリア戦記』は発見された10の写本のうち一番古い写本は1000年後の写本ですし、ツキジデスにによる歴史も8つの写本が発見されていますが直筆から1300年後のものなのです。聖書がいかに大切に保管され、また信頼される書であり、人々の心や人生に影響を与えてきたかが、この聖書の写本からも分りますね。

 聖書にはこう記されています。
 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
   新約聖書 テモテへの手紙3章16節、17節
 
 あなたも神のことばである聖書より神の愛を受け、恵みと祝福の人生へと一歩進んでみませんか?

 (PBA制作「世の光」2015.8.21放送でのお話しより)

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■主の書物を調べて読め / 福井 誠

2015年08月20日 | Weblog
2015/8/20放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブルメッセージは「主の書物を調べて読め」です。それではイザヤ書の34章16節からお読みしましょう。
  「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。

 これまでイザヤは繰り返しイスラエル以外の国々に神のメッセージを聞くように語ってきました。ここではそれらのすべてを総括して、「国々よ、諸国の民よ」と呼びかけています。そして虐殺と血によって溶けたと山々と、何か恐ろしいイメージを示しながら主は全ての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、「彼らを聖絶する」とさばきを宣告していますね。

 パレスチナの山地は乾燥していて一度雨が降ると山肌が溶けたような状態になるので大量の血が流される結果になるだろうという訳です。一種、世の終わりのような黙示的な宣言です。実に神の裁きは地上を恐怖に満ちた恐ろしい状況に変えてしまうのですねえ。

 更にイザヤは続けて言います。
 「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。

 地上ばかりではない、天においてもそのさばきは表され天も滅びるのだ、というイメージです。地上も天上も失われる。それは新約聖書のヨハネの黙示録に描かれた終末のファイナルシーンそのものです。やがて来る神の最後の審判について語っているようですね。

 何か恐ろしい気がしますか? けれども聖書は基本的に救いと恵みを語ろうとしている書物です。こういうさばきのことばにおじけづかず、むしろ本当に何が書いてあるのかしっかり読むことの方が大切です。

 そういえばヨハネの黙示録でもその最初のページに
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(黙示録 1章3節)と語られています。

 イザヤも言います。
 「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。
 具体的にはこれまでイザヤが預言したこと、書き留められたものを意味しているのでしょう。それらの内容は消して失われることはない。だから主のことばを調べて読み、それが確かであったこと、いやそればかりか確かに起こるべきであることを確認せよ、ということなのでしょう。

 ぜひ皆さんにも教会へ行って主の書物つまり聖書のお話に耳を傾けていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2015.8.20放送でのお話より )

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■旅立ち / 板倉邦雄

2015年08月19日 | Weblog
2015/8/19放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「旅立ち」という題でお話ししましょう。私たちの人生には時々新しい旅立ちの時があります。イスラエルの人々も430年にわたるエジプトでの寄留生活を終えてふるさとパレスチナへ向けての旅立ちになりました。

 さて、イスラエルの人々は住み慣れたエジプトのラメセスを出発してスコテに向かいました。徒歩の男性は約60万人でした。その他に女性と子どもたち、老人、エジプト人や外国人も含めますと、何と200万近くの人々が大移動ということになりました。更に牛、羊、山羊、鶏といった家畜も共に旅立ったのです。一つの民族の大移動でした。そして人々はエジプトから携えてきました練り粉をもってイースト菌の入らないパン菓子を焼いて食べました。それは人々はエジプトを追い出されて滞在する所もなくまた何の食料も整える暇もなかったからでした。まさに人生は旅であるということをこれからイスラエルの人々は身をもって証明してくれます。そして主なる神様は神礼拝をしながら人生を旅するイスラエルの人々と共にいてくださること証明してくださるのです。

 神の独り子イエス様のことばです。
 「見よ、わたしは世の終りまで、いつも、すべての日々に、あなたがたと共にいる。」 (マタイ 28章20節参照)

 ところでイスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は430年でした。飢餓のためにヤコブが60名の一族と共に故郷のパレスチナからエジプトへ移住してからの歳月です。430年の終わりとなって、主の全軍すなわち主なる神の全軍であるイスラエルの民族はエジプトの国を出発したのです。何のための旅立ちだったのでしょうか。奴隷の苦役から解放されたいという願いもあったでしょう。毎日、仕事仕事の奴隷、食べて生きてゆくだけの毎日の虚しさからの解放もあったでしょう。しかし何よりも主なる神の民として主なる神様を礼拝し、神を喜び、感謝し、お仕えしたいためだったのです。

 イエス・キリストのことばです。
 「人はパンだけで生きるものではなく、神のことばによって生きるものである。」
                        マタイの福音書4章4節(参照)

 (PBA制作「世の光」2015.8.19放送でのお話より )

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