♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■育ててくださるのは神様

2005年09月30日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 「三つ子の魂、百まで」と言われます。ま、幼児期に受けた十分な愛と適切な方向づけは将来の良い人生の基礎になるということでもあるでしょう。埼玉県にある狭山ひかり幼稚園の様子とその園長である東(あずま)さんのお話しを聞いて、ま、そのための示唆をたくさんいただきました。

 まず、共に育つということです。子どもだけではなく先生も親も園長も共に育つという心だと言うんです。ついつい私たちは子どもを育てるんだ、しつける、教育するという意識を強く持ちます。そこにしばしば反発や行き詰まりを経験します。そうではないんだ。親も先生も環境も共に育っていくという視点。ま、そこから子どもに対しても、相手の心に通じる優しさや共感が生まれる。そして、深く影響し合う関係が築かれるようになる。ま、そこで初めて安定した安心して育つ土台としての家庭や幼児教育がまあ始まっていくという訳です。

 ま、次にそのためには何よりも祈りと愛が必要だということです。いくら目を光らせ、口で言っても、手で叩いても思い通りにならないのが子育てと言われます。ま、思い通りにならないのは私たちの人生も同じではないでしょうか。クリスチャンのベテランの先生方と園長が毎朝心を合わせて真剣に子どもたちのために祈る姿が心に残りました。天地の創造者、まことの神に心から祈る。そしてキリストを通して与えられる神の愛で心豊かにされる。ま、それが他者に対しての余裕や適切な対応・優しさとなって表れるというのです。

 一人一人の子どもと握手をし、抱き締めて送り帰す先生方の姿に、ま、お母さんが感動していました。私たちは祈りと愛を持って努力します。そして育ててくださるのは神様なのだという思い。それが支えとなっていきます。聖書には、こんなことばがあります。「大切なのは成長させてくださる神なのです。」こんな思いを持って、祈りを持って、キリストを通して与えられる神の愛を持って、子どもに接していけたら、いいえ子どもたちだけでなくお互い接し合えたら、何とほのぼのとした豊かな心、家庭、育っていくんではないでしょうか。

(PBA制作「世の光」2005.9.30放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会もPBAで紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
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■傷物でなくレアもの

2005年09月29日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 中谷彰宏(なかたに・あきひろ)さんという方の『なぜあの人は困った人とつきあえるのか』という著書にですね、神様は困った人の姿をして現われると、こう言っているんですねえ。さてその困るという字なんですが、そもそも木が囲みの中にあって伸び悩むということから出来たらしいんですね。ですから困る、苦しむ、悩む、というような意味になる訳です。お互い、自分にとって困った人は五万といるかもしれません。困った人さえいなかったらどんなに楽だろうと思います。でも自分も誰かにとって困った人の一人となっているかもしれませんよ。

 ところでこの中谷さんは読者に、困った人を傷物扱いにしていませんか、と問いかけているんですねえ。しかしコレクターつまり収集家の世界ではですね、傷物という発想はないんだそうです。例えば印刷がずれている切手があるとしますよね。切手コレクターにとっては、これ、傷物として扱うんじゃなくてですね、レア物つまり、まったく珍しい物・めったにない物としてですね、大変貴重に扱うんだそうです。そこで、困った人というのは実はレア物なのですと指摘しているんですねえ。

 ところで旧約聖書イザヤ書の43章4節には、神様の私たちへのお心が記されています。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」ということばです。つまり神様の目に映ったあなた、神様の目に映った私は、高価で尊い、愛しているという存在だというんですねえ。私は少なからずショックでした。当然ながら、自分なんか取るに足らない人間だし、大した役にも立たないし、ましてや神様に対してはどこまでも汚(けが)れた存在であり、時にはわがままで不信仰。いわば困った人なんです。そういう自分に対して、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(と。) 恥ずかしくもあり、もったいなくも感じるのです。このような傷物をレア物として扱ってくださるのは万物の造り主なる神です。その神がキリストの命を賭けて傷物である私を愛してくださっているってことを思う時、生きる力が湧いてくるんですね。私にも困った人がいるけれども彼も彼女も実はレア物なんだ、高価で尊い存在なんだってそんな風に受け留めていきたいなあ。そうしますと何か人間関係においても、大丈夫だ。やっていけそうだ。そんな力、勇気が生まれてくるような気がします。さあ、神様の御愛をしっかりと受け留めてまいりたいと思います。

(PBA制作「世の光」2005.9.29放送でのお話しより )

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■寂しい所へ行って、しばらく休みなさい

2005年09月28日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。千葉県千葉市にお住まいの土橋けい子さんから頂きました。

 先日は突然お宅に訪問をしてしまい失礼いたしました。市川市に相田みつおのギャラリーがあると聞き、見学に親子三人で行きました。その前に置いてある「どうぞ」の椅子に座った時にふと思い出しました。羽鳥先生のお宅、この御近所じゃなかったかしら。主人も、そうだなと申し、私たちは先生のお宅をとうとう探し当てました。先生はお留守でしたが、奥様に良くして頂きました。ありがとう存じました。

 お会いできなくて残念でしたが、どうぞまた懲りずにお出かけください。

 さ、今日の約束のことばです。新約聖書マルコの福音書6章31節。

 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。

 弟子たちは二人一組になってイエス様に遣わされてあちらこちらで精一杯イエス・キリストの福音を語りました。彼らはイエス・キリスト様の所に帰ってきて、逐一報告をしました。彼らは疲れ切っていたでしょう。新しい仕事に緊張して一生懸命でしたからさぞかし、へとへとに疲れていたことでしょう。イエス様はその事をようくお知りになっておられてこう言われたのです。彼らはいつもイエス様と一緒の時にいつも大勢の人に囲まれていました。「あなたがただけで」とイエス様は言われました。「寂しい所へ行って」 さて、どんな所が寂しい所なのでしょうか。イエス様は朝早く、また夜遅くたった一人で寂しい所に行かれました。イエス様は父なる神様の懐の中でえも言われぬ休らいを得られました。力を得られました。イエス様のよく行かれるその寂しい所に行ってしばらく休みなさい。イエス様だけと一緒だったかもしれません。弟子たちの魂はゆっくり・じっくり天の静けさ、天の満たしを得たことでしょう。

 今日の約束のことば
さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」新約聖書マルコの福音書6章31節のことばです。

 ではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.9.28放送でのお話しより )

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■思い違い

2005年09月27日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 新約聖書ガラテヤ人の手紙6章の4節のことばをお読みします。

おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

 1968年、あるアメリカの小学校で人種差別についてのこんな実験が行われたそうです。それは、クラスを青い目と茶色い目の子どもに分け、青い目の子どもはみんな良い子です。だから5分よけいに遊んでも宜しいと言うんですね。そして茶色い目の子は水飲み場を使わないこと、茶色い目の子は駄目な子です!というように青い目の人は優れ茶色い目の人は劣っていると決めて一日を過ごすというものでした。すると目の色で優劣をつけたあとたった15分で子どもの態度に変化が出てきたと言うんです。自分は優れていると言われた子どもたちは、相手が劣っていると決めつけられたことで王様のような気分になって相手を見下し始めたのです。そして今度は次の日に、茶色い目の人は優れ青い目の人は劣っているとして生活すると、今度は逆に前の日に見下された子どもたちが見下すようになったと言うんですねえ。

 この実験の結果、人は認められること、自身を持つ事で持っている能力を十分に、あるいはそれ以上に発揮することができるのだということが分かったという訳です。それと共に、人が肌の違いや国籍の違いで差別されるという事がいかに愚かで、それによって評価を下したりするということがどれほどいい加減であてにならないかということを教えてくれた訳です。聖書が私たちに言っていることは何でしょう。それは、立派でもない自分を何か立派でもあるかのように思うなら自分を欺いているぞと言うんです。それどころか聖書はこうも記しています。ピリピ人への手紙2章3節から。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

 何と「イエス・キリストのうちにも見られるものです」と書かれているんです。どういうことかと言えば、イエス・キリストは決して人を外見で判断したり差別して人を取り扱うことをなさいません。この方にはえこひいきはないんです。それどころかあなたを大切な存在として見ていてくださるんです。この方の眼差しはいつもあなたの最善を願う眼差しなんですねえ。私たちは自分勝手な高慢な思い違いの生き方ではなくイエス様の眼差しを受けながら人として謙遜に歩んでいくこと。大切なことですよね。
 
 ( PBA制作「世の光」2005.9.27放送でのお話しより )

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■暁を呼びさます

2005年09月26日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、聖書の中に有名なパウロという人が出てきますよね。で、シラスという人と一緒にイエス様のことを一生懸命伝えていたんですけれども、ある時に捕らえられて牢獄に放り込まれたんですねえ。で、その中で他の囚人もたくさんいたんですけれども、真夜中になって、その真っ暗な真夜中なのに讃美をし始めたんですねえ。囚人たちも聞き入っていたというふうに書いてあるんですが、その後いろんなことが起きたりしたんですけども、やがて看守たちがこのあの真夜中の暗い中で歌っている彼らのそうした所の生き方というものに感動したということもあったと思うんですが、「私もイエス様を信じたい」というふうになったというふうなことが書いてあってですね、そして夜が明けると彼らはそこから解放されていったというこのことが書いてある訳なんですねえ。

 で普通、讃美とかというのは、嬉しい時、心が踊るような時につい歌が出てくるというふうなそういうようなイメージがあると思うんですけれども必ずしもそうではなくてですね、こんな時に歌えるかなというふうなそういう暗いただ中でも讃美をする、その時にそこで不思議な事が起きていくというようなですね。

 詩篇の57篇という所にダビデという人が歌った歌なんですけれども、「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。」というふうに言っているんですねえ。で、ダビデの生涯の中でこの時が一番辛かった一番苦しい時だったに違いないというその時にこれは歌われた歌でしたね。で、彼は「私は暁を呼びさましたい」というふうにこう言っているんですけれども、暁のその直前というのが夜で一番暗い時なんだそうですね。その一番暗い中で、なお神様を讃美する、ほめ歌を歌うことによって夜明けを呼びさましたいというようなですね。

 そういう、讃美は私たちに希望を与える、私たちに生きる勇気を与える、いろんな周りが暗黒で私たちを苦しめていく様々な問題があったとしても、それに打ひしがれるのではなくって讃美することによって神様を近く感じ、神様に望みを置きながら讃美をしていく時に、そこに新しい世界が始まっていく、夜明けが必ずやってくる、希望がやってくる。讃美はそのような素晴らしい力を持つのだということをぜひあなたも知っていただきたいなと思うんです。

 ( PBA制作「世の光」2005.9.26放送でのお話しより )

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##神様のために

2005年09月25日 | Weblog

彼女は彼にくっついて離れることがないようにと告げられた
彼を「耐える」ようにと
彼の側に立ち 強くありなさいと

そして彼女は彼と共にいた
良い時も悪い時も
健やかなる時も病める時も
順風の時も逆風の時も

彼女は彼と共にいた
感情が千々に乱れる時も
彼がかんしゃくを起こす時も
彼が責任を取ろうとしない時も

彼女は彼の側にいてくっついていた
彼女は彼を「耐えた」
どんなことがあろうと強くあり続けた

彼女は神様を信頼した
彼女のしたことは神様のためということであった
そして子どもたちのためということであった
彼女はどこまでも彼と共にいた


彼女は本当に彼と共にいたのだろうか
彼女は彼の側にいたのだろうか
それとも彼女はベッドと銀行を彼と共用しただけだろうか

(良きクリスチャンである妻なら必須の事として)
彼女が「彼を耐えた」姿というのは
ねじ曲がった彼女なりの復讐ではなかったのか

彼女の「聖さ」は彼には耐え難く
そして彼の自信を一層奪ってしまい
そしてついには彼女が強くある傍らで
彼はただ弱いだけの自分の姿を見ていたのではないか
そして彼は彼女に更に更に腹を立て
しかし彼はその憤りで行動することもできなかったということ
なぜなら彼女はあまりに正しく見え
そしてあまりに自分の方が悪いように見えたから
そしてもちろん他の誰もが彼女を支持し
彼女のクリスチャンとしての人徳を賞賛していた という
そういうことではなかったのか

彼女としては神様を信じてという彼女の行動は恐らく
彼女のかんしゃくの燃え上がりであったのであろう
彼女自身の弱さを示したものであったろう
強くあることを拒んだものであったのだろう
彼女にとってはすべてが耐えられないという姿であったのであろう

彼は退行してゆき
ますます何もできなくなってしまった
その傍らで彼女はますます強くなっていった
そしてついには彼女は彼をもはや必要としなくなってしまった
そして彼女は豆を剥いたあとの皮のように彼を捨てることができたのだ

自分たちに起こっていた事柄を外面的に繕って生きていく確信は二人にはなかった
そして二人ともが自分の役を演じることをやめてしまった
その自分の役割は自分では本当には決して望んでいなかったものであった

 ウルリッヒ・シェーファー 『成長する愛』より

***

日曜日には、 ラジオ放送からではなく
こういうのを、英文から訳して掲載しています。
過去の分は カレンダーの日曜日をクリックしてみてください。
公開するのは原書の一部分となるよう過去ニケ月分程度といたします。
  

***

今週はちょっとショッキングというか、読後感が重いですねえ。いかがでしょうか。

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■永遠のいのちとは、・・・知ること

2005年09月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 徳島県にお住まいの、いば・のぶあきさんは新約聖書ヨハネの福音書17章3節のことばをお寄せくださいました。お読みしましょう。

 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 俺は小さい頃から変り者でみんなから変な奴と言われてきました。学校でもみんなが一生懸命勉強している時に俺は、この学校で教えていることは本当だろうか、はたして本物だろうかといつも思っていました。高校に入ってから、もうこの学校で学ぶべきものは何もないと感じて早々に高校を卒業しました。--世間一般で言うと高校中退ですね。-- でも勉強が嫌いという訳ではありませんでした。学ぶことは大好きです。そこで自分で本物を見つけてやろう、真理を知ってやろうと決めたのです。働きながら、いろいろ勉強しました。中国の古典、論語・老子・荘子・菜根譚(さいこんたん ※中国、明代の処世哲学書)など、そんな時に国際時事講演会を聞きに行き、講師が「西洋のことを本当に知りたいなら聖書を読みなさい。聖書はただの宗教の経典ではなく、西洋の思想・文化・習慣・芸術のすべての基礎です。だから世界情勢を知るにもまず聖書です。」と言われたことを知って、本屋に走っていって聖書を買い、読みはじめました。最初に読んだのはイザヤ書・エゼキエル書です。はっきり言ってさっぱり分りません。しかしどうしても聖書を手放すことができずに少しづつ読んでいきました。やがてこの中に本物があると感じるようになり、ある時、心の目が開けて、聖書こそ真理だと知り、確信したのです。本物に出会ったのです。俺には地位も金も学歴も何にも持っていません。しかし一つだけ素晴らしいものを持っています。活けるまことの神、イエス・キリストの救いです。

いば・のぶあきさんの心に残る聖書のことば。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネの福音書17章3節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2005.09.24放送でのお話しより )

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■秋分の日,天国を想う

2005年09月23日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 今日は9月23日、秋分の日です。昔はお彼岸のお中日と言いました。おはぎを食べてお墓参りに行く日でした。ま、今はあまりおはぎを食べなくなったんではないでしょうか。でもお墓参りに行く人は多いと思います。ま、今はお墓ブームなんても言われますねえ。
 
 私共、田舎にキリスト教式の新しいお墓を作りました。ま、田舎ですから随分安くて何か得したような気もしました。ま、お墓のことを考えることも大切ですけど、お墓、それは人生の終着駅とも言われます。でも、その後どうなっていくのかということを考えることもまた秋分の日の意味あることではないでしょうか。

 聖書には、死後の世界を「天国」とか「神の国」とか「永遠のいのち」と言っています。それは、死んだ後、永遠に神と共に住むということを意味しています。ま、ですから私の父と母のお墓にも、「我らの国籍は天にあり」と刻んであります。そして神の国とか天国というのは死んだ後、永遠に神と共に住むという意味であると共に、今生きている現在も神と共に生きることは実は天国なんだ、そんなふうに聖書は言っています。

 今から三千年も前に書かれた旧約聖書の詩篇の84篇という所には、こんなふうに書かれています。

万軍の主 --ま、神様のことですね-- 。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。・・・まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。」って言うんですね。

 この永遠の神を知り、また神と共に住む、それは死後の永遠だけではなく、今も現在もこの神様と共に生きる時に、それは本当に生き甲斐のある、また真理としてまた道としておいでくださったキリストを信じる心の中には平安がある、希望がある、幸いがあるっていうことなんですね。私たち、ですから未来だけではなく今も天国・神の国の幸いを味わうことができるというのです。そんな事を深く想う秋分の日であったら意味深いですね。

(PBA制作「世の光」2005.9.23放送でのお話しより )

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■エラーはつきもの

2005年09月22日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 野球などで一つのエラーがチームの負けにつながることってよくありますよねえ。サッカーではですね、オフタイム(※?)のエラーが取り返しがつかない負けになることがあります。相手チームにとってはこれほどラッキーなことはない訳です。ましてやですねえ、オウンゴール(※過って味方チームのゴールにポールを入れてしまう事。自殺点)などで試合が決まってしまったとしたら、まあ当人にとってもそうですがチームにとってはどんなにつらい事だろうかと思っています。

 中谷彰宏(あきひろ)さんという方が書かれました『なぜあの人は困った人とつきあえるのか』っていう著書に、こんなようなことが書かれているんですねえ。「エラーはつきものです。ここで勘違いをしてはなりません。エラーをしたから負けるのではありません。仲間がエラーして他の選手が、なあんだ、あんなところでエラーをしやがってとふてくされる事によって負けるのです。チームワークとは仲間のエラーにふてくされないことです。ふてくされた瞬間、敗者になるのです。」と指摘しているんですねえ。

 ふてくされた瞬間、もう負けになるんです。チームワークというのはそんな所にものすごい重大さというか重要さがあるんですよね。

 聖書の中にはこのことにぴったりのことばがあります。新約聖書ペテロ第一の手紙の4章8節です。
 「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

 「愛は多くの罪をおおうからです。」チームワークというのも愛がなかったら成り立たないと思うんですねえ。さばきあったり、欠点や失敗をつっつきあったりしていてはどうでしょうか、夫婦というチームも家族というチームも職場というチームも負け続きです。もし神様が私たちを御覧になって、神様が私たちのエラーを責めたりですね、失敗にお怒りになったり、犯した罪や不信仰を裁くばかりとしたら、まあ息が詰まりますよねえ。息が詰まるどころか生きてゆけません。しかし、聖書の中には「神様は愛です。」と書かれていますように、キリストによって私たちをすっぽり覆ってくださり、愛してくださっているんですねえ。私たちのエラーを赦してくださる。私たちの失敗を赦してくださる。いえ、私たちが犯した罪をもすべて赦してくださる。なぜならば私たちの罪を全部引き受けてキリストがあの十字架に身代わりにかかったほどに私たちの罪を覆ってくださると言うんですねえ。仲間がエラーをしても心の底からドンマイ(※「気にしないでいこう」の掛け声)ならいくつエラーしても決して負けではないんですね。

 さ、今日も神様のチームの一人として勝ちに行きたいと思いますよ。

(PBA制作「世の光」2005.9.22放送でのお話しより )

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■これこそ私たちの確信

2005年09月21日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。

 福島県福島市にお住まいの、たんじ・きくえさんから頂きました。

 病気のため車に乗せられなければ病院に行くことができません。教会の牧師先生が時々来てくださいます。みんなが私のために祈っていてくださいます。

 たんじ・きくえさん久しぶりにお手紙ありがとうございました。皆さんに祈られてお大事にお過ごしください。

 さ、今日の約束のことばです。聖書には、優しい大切な神様の私たちへの約束のことばが一杯です。今日は新約聖書ヨハネの手紙第一・5章14節のことばです。お読みしましょう。
 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 お母さんは何も言えない赤ちゃんのために何くれとなく準備し、必要に応えていてくださいます。ところが神様は母親以上に私たちの必要を知り、それを私たちの知らないうちに備えていてくださいます。しかし私たち大人には心に悩みがあり、心に大きな必要を持っています。その時、神様に祈り、お願いすることですね。神様は必ず聞いてくださる・答えてくださるというのは私たちの確信ですと聖書は言います。
 
 「私たち」とは誰でしょうか。使徒ヨハネとその仲間たちでしょうか。もちろんそうでしょう。しかしヨハネはもっと広く、もっと一般的に「私たち」と言っていると思います。ヨハネの確信は、神様が必ず私たちの祈りに答えてくださる(ということ)。しかし一つだけヨハネは条件を書いています。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら」(と)。神の御心を知るために私たちは神様を知らなければなりません。みことばを通し、祈りを通し、また聖霊の助けにより、神様と交わりをすることによって、だんだん神の御心が分かるようになります。そんな私たちになりたいですねえ。

 今日の約束のことば。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
ヨハネの手紙第一5章14節のことばです。

 それではまた聞いてください。

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