♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■聖書の最も大切な戒め / 岩井基雄

2021年09月30日 | Weblog

2021/4/15放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 木曜日と金曜日はマルコの福音書から学びましょう。今日は「聖書の最も大切な戒め」についてです。

 私たちの人生は決して長くはありません。できるだけ重要なことに心も時間も用いたいですし、優先順位を考えさせられますね。

 旧約聖書の中心にある律法には、全部で613の神の命令があると考えられており、律法の専門家たちはそのすべてを人々に守らせるべく教え、強いていたのです。

 ある時、その律法学者の一人がキリストのもとに来て、「神の律法の中で、どれが一番大切な戒めなのか」と聞きました。それはとても重要な質問でした。

 キリストはこう答えたのです。
 「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
       新約聖書 マルコの福音書12章29節~31節

 キリストは、神の律法で最も重要な命令は神を心から愛することであり、第二は隣人を自分自身のように愛することである、と語りました。すなわち神と人を心から愛することが、神の戒めのすべてを網羅するのだと教えたのです。

 多くの戒めを守ることに心を配っていた律法学者にとってキリストの答えは重要でした。彼はキリストを語ったことばの意味を受け止め、キリストも彼の賢さを評価します。

 しかし彼はさらに自分の姿を知る必要がありました。神と人を心から愛するためには、罪深い自分を認め、そして神の恵みの愛を受け取る必要があったからです。自分の心の汚れ、高慢さや偽善性を認め、罪人に注がれる神の愛を受け取るときにこそ神を心から愛し、自分が神に愛されているように他の人を心から愛する者へと変えられていくからです。
 あなたも神の前に自分の罪を認め、最も大切な神の愛と罪の赦しを受け取り、神と人を愛する者へと変えられ続けていきませんか? 神様はあなたのすべてをご存じで、あなたを愛し、あなたを内側から造り変えて下さるのです。

   (PBA制作「世の光」 2021.4.15放送でのお話より ) 


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■神の圧倒的勝利 / 岩井基雄

2021年09月29日 | Weblog

2021/4/14放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 きのうに引き続き、今日も旧約聖書のモーセの生涯から学んでみましょう。
 きのうは人生の行き詰まりを経験した神の民が、大きな海という問題のただ中に神によって開かれた道の中を進んでいったことから学びました。

 しかしもう一つの大きな問題が残っていました。それは彼らに迫るエジプトの軍隊でした。奴隷状態にしていた神の民を失ったことを後悔したエジプトの王は、軍隊によって彼らを追わせたからです。しかも、神の民のために、神によって海の中に開かれた道でしたが、エジプト軍もそこを通って彼らに追いついていくことが可能だったのです。

 しかし神の民が海の道を進みゆく中、神はエジプト軍に混乱を与え妨害しました。その間に200万人ともいわれる神の民は全員その海の道を渡り終えることができたのです。

 そして神はモーセに次のように命じました。

 「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」
  モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、【主】はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
    旧約聖書 出エジプト記14章26節、27節

 そのことばの通りエジプト軍の上に海は戻り、神ご自身が彼らを裁かれたのです。神の民のために開かれた海の道を用いて、神はエジプト軍に圧倒的な勝利をおさめたのです。そしてその勝利は私たちにも与えられます。それは、神の御子キリストが、私たちの抱える罪の問題に救いの道を開き、キリストの十字架と復活を通して、私たちに追い迫る罪と死の問題に圧倒的な勝利を用意されたからです。

 どのような問題が私たちを襲おうとも主権者なる神、そして私たちの罪と死に勝利を与える神様の御子イエス・キリストにあって、私たちは栄光に満ちた人生を歩み進むことができるのです。

 聖書のことば
 「・・・私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
・・・どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
   新約聖書 ローマ人の手紙8章37節、39節

   (PBA制作「世の光」 2021.4.14放送でのお話より ) 


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■海は分かれ、道は開かれた / 岩井基雄

2021年09月28日 | Weblog

2021/4/13放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 火曜日と水曜日は、旧約聖書のモーセの生涯から学びましょう。
 人生の旅の中で行き詰まり、立ち尽くしてしまうことも少なくありませんね。神の民イスラエルも、エジプトの奴隷状態から解放され神の約束の地に向かったのですが、その道は行き詰まりました。前には海が広がり、後にはエジプトの軍隊が彼らに迫ったからです。まさに絶体絶命でした。

 しかしリーダーであるモーセは、自分に怒りをあらわにする神の民に、「神ご自身が戦って下さるゆえに、恐れる必要はない。」と励まします。

 そして神はモーセたちに「前進するように」と命じました。「海に向かえ」というのです。聖書はこう語ります。

  【主】はモーセに言われた。「・・・イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」
      旧約聖書 出エジプト記14章15節、16節

 「海を分けなさい。」 ありえないような神の命令です。しかも、海の真ん中の乾いた地を進むことができるというのです。突拍子もない命令でした。

 しかしそのことばを裏付けるかのように神の臨在を象徴する雲の柱は神の民の前から後ろに移動し、エジプトの軍勢が神の民に近づけないようにしたのです。

 神を信頼したモーセの行動を聖書はこう語ります。

 「モーセが手を海に向けて伸ばすと、【主】は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。」
      出エジプト記14章21節

 驚くべきことに、神が語られた通り水が分かれたのです。絶体絶命の神の民のために、神はその問題のただ中に脱出の道を備え、200万人の民はそこを通りました。天地万物を創造された神様こそ、風も海もすべてのものを支配していらっしゃる主権者なのです。

 あなたが今、どのような問題を抱えていらしたとしても、聖書が語る創造主なる神様は、その問題のただ中に脱出の道、あなたが進んでいくことができる道を、開くことができるお方なのです。

 あなたもこの方と共に、あなたの問題のただ中を力強く歩み進んでいきませんか? 神様はあなたと共にいてくださるのです。


   (PBA制作「世の光」 2021.4.13放送でのお話より ) 


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■人生の悲しみの中で / 岩井基雄

2021年09月27日 | Weblog

2021/4/12放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日は詩篇119篇の三回目として、人生の悲しみの中でどう歩むかに心を留めてみましょう。

 人生にはさまざまな悲しみや悩みがあり、もう歩めない、という行き詰まりを経験しますね。この詩篇の作者もそのような中で聖書が語る神様に向かうのです。今日の詩篇をお読みします。

 「 私のたましいは 悲しみのために溶け去ります。
   みことばのとおりに私を強めてください。
   私から偽りの道を取り除いてください。
    みおしえをもって 私をあわれんでください。」
        旧約聖書 詩篇119篇28節、29節

 この作者は魂が溶け去っていくような深い悲しみを通り、自分の存在そのものが揺るがされているのです。しかしその中で彼は、聖書が語る神様に心を向け、自分の内にある偽りの道、罪を認め、それを取り除いて欲しいと願うのです。

 時に私たちは悲しみの中で、他の人を責め、神に怒りを向けます。しかし、神の主権を認めるこの作者は、悲しみの中で自分の罪を認め、神のみ教えによって強められることを願い、神の愛に拠り頼むのです。

 どんな中にあっても信頼できる存在を知っていることはなんと幸いでしょうか。目には見えなくとも確かに存在し、すべてを創造された主権者なる神様に信頼する人生は、いつも神様の教えや諭しに生かされ続けていくのです。

 この作者は続けてこう歌います。

 「私はあなたの仰せの道を走ります。
   あなたが私の心を広くしてくださるからです。 」 (32節)
 と。

 どんな中にあっても神の言葉に信頼し立ち上がる者は神の仰せの道を力強く走り抜くことができ、神はその人の心を広くして下さると、彼は確信しています。悲しみの中でこそ、神に信頼する人の心と歩みは強められ広げられていくのです。

 続く35節で彼はこう祈ります。
「私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。
 私はその道を喜んでいますから。」

 彼は、自分の思いがかなうことではなく、神の道、仰せの道を喜ぶのです。神の真理と愛を求め、それに導かれて歩む人生を神は豊かに祝福してくださいます。あなたも神のことばである聖書のことばを心に深く受け止め、神の愛と平安に生かされる人生を歩み続けていきませんか? 

   (PBA制作「世の光」 2021.4.12放送でのお話より ) 


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■永遠の命を得る / 板倉邦雄

2021年09月25日 | Weblog

2021/4/10放送送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は「永遠のいのちを得る」という題でお話ししましょう。

 まず初めにヨハネの福音書17章3節を朗読します。
 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

 永遠のいのちとか復活のいのちというものは、死後に与えられるものだけではなく、今も与えられているものなのです。このイエス様のことばから、永遠のいのちとは私たちが唯一の生けるまことの神を知ることと、この唯一の神がこの世に遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 イエス様が死んで埋葬されて三日目の朝、ガリラヤから、イエス様を尊敬し、信じ、従ってきた女性たちが墓に行きました。するとイエス様の身体が無くなっていたのです。女性たちは嘆き悲しみ、途方に暮れました。

 するとそこに二人の神の使いが現れ、「イエスは死人の中からよみがえられた。・・・あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできる」(マタイの福音書28章7節 口語訳聖書)と言われるのを聞き、女性たちは恐れながらも大喜びで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走りました。

 すると復活のイエス様が途中、女性たちに出会って、「平安があなたがたにあるように」(参照 口語訳聖書 マタイの福音書28章9節)と言われたのです。

 ここに復活のイエス様に出会って、復活のいのち、永遠のいのちを受けた女性たちが登場しましたねえ。女性たちは大きな喜びといういのちを与えられ、嘆き悲しむ中での復活のいのちが与えられたのではないでしょうか。女性たちの心の中に、復活されたイエス様が「平安があなたがたにあるように」といのちを与えてくださったのではないでしょうか。永遠のいのち、復活のいのちとは、いつまでも残るものだからです。

 聖書のことばです。
 「 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。」
       コリント人への第一の手紙13章13節 

 喜びと平安を加えますと、永遠のいのちは五つになるのですね。

  (PBA制作「世の光」2021.4.10放送でのお話より )


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■イエスの埋葬 - キリスト教の葬儀 / 板倉邦雄

2021年09月24日 | Weblog

2021/4/9放送送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は、イエスの埋葬の記事を聖書から学び、キリスト教の葬儀についてお話ししたいと思います。

 イエスの埋葬は丁寧に、しかも新しい墓に葬られたと新約聖書に書かれています。当時、十字架刑になった極悪人は、骨を折ってから穴の中に投げ入れられるか、あるいは砂漠へ捨てられて狼や禿鷹の餌食になるかのどちらかでした。しかしイエス様は処刑後、国会議員だったヨセフという敬虔な人によってヨセフの墓に葬られました。
 
 まずヨセフはローマ総督ピラトのところに願い出たのです。許可が下りるとヨセフはイエスの遺体を洗い、香料とオリーブ油を染み込ませた亜麻布で身体を包みました。そしてまだ誰も入っていない新しい岩を掘った横穴式の洞窟のような墓に埋葬したのです。

 聖書はいかに死んだ人の埋葬を大事に考え、しかも丁寧にしているかということが分かりますね。

 そこでキリスト教の葬儀ですが、私は三つのことを心がけて行ってきました。まずキリスト教の葬儀は神を礼拝する行為です。ですから棺は参列者と同じように縦に置き、棺のまわりに参列者が囲むようにしました。死んだ人も神を礼拝し、神をほめたたえるのです。
 ですから次に、死んだ人を崇拝したり礼拝するような行為は慎むようにしてきました。私は葬式のプログラムの中に弔辞を入れないようにしています。ともすると亡くなった故人を神のようにほめたたえることばになってしまうときがあるからです。

 そして第三に、何よりも亡くなった人のために悲しみ嘆くこの地上に残された遺族や親しい人々の慰めとなるように葬式と埋葬を心がけてまいりました。

 もう一度言います。聖書は埋葬を大事にしているのです。

 聖書のことばです。
「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。」
       伝道者の書 6章3節

  (PBA制作「世の光」2021.4.9放送でのお話より )


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■生きるにも、死ぬにも / 板倉邦雄

2021年09月23日 | Weblog

2021/4/8放送送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は、キリストの復活の希望に生きる人の証言、証(あかし)に耳を傾けたいのです。その人の名はパウロといいます。初めに、パウロの言葉を紹介しましょう。

 「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」
        ピリピ人への手紙 1章21節 (口語訳聖書)

 今、伝道者パウロはローマの獄中にいました。これからローマ皇帝の名のもとで裁判を受けることになります。無罪で釈放の身となるか、あるいは有罪となって死罪になるか、そのどちらかになるのです。そのどちらかになっても「私が生きるにも死ぬにも私の身によってキリストがほめたたえられることです。」と言いきっているのです。

 生か死かという板挟みの中で、伝道者パウロにとっては、生きることはキリストのためになり、ピリピ教会の人々のためになりました。しかし、もし死ぬことになったとしても私にとっては益であり、死を通してキリストがほめたたえられるからだ、という確信だったのです。

 「私はそのどちらを選んだら良いかわからない。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」
         ピリピ人への手紙 1章23節 (口語訳聖書参照)

 とパウロは告白しているのです。

 私はこのコロナ渦の中で、このパウロのことばに励ましと勇気を与えられて神様を礼拝しています。

 キリストの教会とは何か、なぜ神礼拝を献げるのか、そのようなことを考える中で、二つの確信が与えられました。

 一つは、キリストの教会とはキリストの名よって集まる所です。その中にキリストがいて下さるという約束です。

 もう一つは、この世では私たちのいのちよりも大事なものがあるということでした。それは主イエス・キリストを信じて従うことです。

 今年の一月から非常事態宣言の中、インターネット配信を見ながら信徒の方々には神礼拝を守っていただきました。また教会においては、長老、執事と四人と共に神礼拝を献げさせていただきました。キリストの復活の希望を持つ私たちのささやかな証しです。

 ラジオの前の皆様の上に神の守りと祝福がありますように。神が御顔の光を向けて、皆様を恵み、平安を与えてくださいますように。アーメン。

  (PBA制作「世の光」2021.4.8放送でのお話より )


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■わたしはよみがえりである / 板倉邦雄

2021年09月22日 | Weblog

2021/4/7放送送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は「わたしはよみか?えりである」という題でお話ししましょう。

 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
     (ヨハネの福音書11章25節、26節 口語訳聖書)

 このことばはイエス様がマルタという女性に言われたことばです。

 マルタにはラザロという兄弟がいました。しかしラザロは重い病気になってしまいました。マルタはイエス様に使いを送り、「主よ、・・・あなたの愛しておられる者が病気です。」(ヨハネの福音書11章3節 )と言わせました。しかしラザロは病気が急変し、死んでしまいました。

 二日後、イエス様は弟子たちに言われます。「わたしの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く。」(ヨハネ 11章11節参照)

 すると弟子たちは「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう。」(ヨハネ 11章11節 口語訳聖書)
 
 イエス様は、ラザロが死んだことを言われたのでした。そして、イエス様の一行がマルタの家に行くと、ラザロは死んで四日間、墓の中に置かれていました。

 マルタはイエス様に言いました。「主よ、もしあなたがここにいて下さったら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」(ヨハネ 11章21節 口語訳聖書)

 イエス様はマルタに言います。「あなたの兄弟はよみがえるであろう。」(ヨハネ 11章23節 口語訳聖書)そして、墓の前に立ったイエス様は、「墓石を取りのけるように」と言われました。それから、天の父なる神さまに祈った後、大声で「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ 11章43節 口語訳聖書)と叫ばれると、死人のラザロは手足を布でまかれ顔も顔覆いで包まれたまま出てきたのです。

 冒頭で紹介したイエス様のことばを思い出してください。マルタは信じました。あなたはどうでしょうか。

 死はキリストを信じる人にとっては眠りです。イエス・キリストの復活の出来事は私たちにとって生きた屍のような人生からの復活の希望です。やがて来る身体の死からの復活の希望でもあります。そして永遠の霊魂の苦悩・第二の死からの復活の希望です。

 イエス様のことばです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」
      ヨハネの福音書 5章25節

  (PBA制作「世の光」2021.4.7放送でのお話より )


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■人は三度死ぬ / 板倉邦雄

2021年09月21日 | Weblog

2021/4/6放送送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日も昨日に続き、聖書は死について何と語っているかをお話しします。

 人は三度死ぬ、と聖書は語っています。まず一度目の死は精神的な死というものです。聖書的には霊的な死とも言いますが、一般的に生きた屍と言われる状態です。生きているのは名ばかりで実は死んでるような生活や人生を送っている人です。ことばを換えますと、罪と悪の中で生活している人たちは罪と悪の中で死んでいる、と聖書は言います。
 「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者である」と、エペソ人への手紙の2章1節で言われています。
 身体はどんなに丈夫であっても神様の目から見たら、罪と悪の中で生きている人は既に死んでいる人なのです。

 次に、第二の死は身体的な死です。私たちの体の機能が低下し消滅していくことです。呼吸が停止し、運動が停止し、筋肉の硬化が始まっていくのです。そして肉体は腐敗して分解し自然の土のちりに帰っていくのです。

 聖書が語る三番目の死は第二の死といわれる死です。私たち人間は体と魂と霊の三階建てに作られていると聖書は語っています。ですから体は死んでも霊魂は生きています。「ちりはもとにあった地に帰り、霊魂はこれを下さった神に帰る。」と伝道者の書12章7節にあります。人は生きたように死に、死後、私たちの霊魂は神のもとに帰り、そこで神の審判を受けるのです。そして、死後も生き続ける私たちの霊魂は、第二の死を経験することになります。これを聖書では、地獄の苦しみ、第二の死とよんでいます。

 「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
      ヨハネの黙示録の21章8節 (新改訳聖書 第三版)

 死とは私たちにとって自然なものではなく、聖書によれば、死は罪の報酬として不自然なものとして描かれているのです。

  (PBA制作「世の光」2021.4.6放送でのお話より )


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■死は、休息と眠り / 板倉邦雄

2021年09月20日 | Weblog

2021/4/5放送送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。きのうは全世界のキリスト教会でイエス・キリストの復活祭・イースターをお祝いしました。そしてきのうから復活節に入りましたので、今週はキリストの復活の意味と希望をお話しいたしましょう。そこで一回目と二回目は、聖書が語っています「死」を取り上げたいのです。

 今、全世界がコロナ渦の中にありまして、死という現実がとても身近なものとなってきました。しかし死は今始まったばかりではありません。私たちが「おぎゃぁ」と生まれた時から死はそばいて付き合っていく相手ではないでしょうか。

 では聖書は恐怖の死を何と語っているのでしょうか。

 まず死は憩いと解放です。この世は苦の娑婆です。生老病死の四つの苦しみがあります。それだけではありません。愛する者との離別の苦しみ、嫌いな人と共に生活する苦しみ、求めても求めても得られない苦しみ、そして五体満足のゆえの苦しみがありますね。まさに人生は四苦八苦の連続です。

 しかし聖書は死をそのような人生の苦しみからの解放として語ります。

 旧約聖書のヨブ記の3章の17節から19節で、ヨブは死者の世界を休息と解放として次のように語りました。

 「悪者どもはいきりたつのをやめ、・・・力のなえた者はいこい、捕われ人も共に休み、追い使う者の声も聞かない。・・・下の者も上の者も同じで、奴隷も主人から解き放たれる。」(新改訳聖書第三版)

 もう一つ、死は休息の眠りである、とイエス様は語られました。マルコ福音書の5章で、イエス様のところに、12歳になった娘が死にかかっているので助けてほしい、という父親がやってきました。しかし父親の家に着く途中で娘は亡くなったのです。

 途方に暮れる父親に、「恐れることはない。ただ信じなさい。」(ルカの福音書8章50節  口語訳聖書)とイエス様はことばをかけました。そして嘆き悲しむ人々に、「子どもは死んだのではない。眠っているだけである。」(参照 8章52節)と言われました。そして娘の手をとって、「少女よ、さあ、起きなさい。」(参照 8章54節)と言われて、娘を起き上がらせたのです。

 イエス・キリストを信じる者にとって死は眠りですから、キリストの声を聞いて起きるのです。

  (PBA制作「世の光」2021.4.5放送でのお話より )


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