♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■イエスの励まし / 羽鳥頼和

2017年09月30日 | Weblog
2017/8/26放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。 
 今日も引き続き新約聖書のヨハネの福音書からお話しします。今日はヨハネの16章にある、イエスが弟子たちを励まされたことについてお話しします。

 イエスはご自分が十字架にかかって殺される時が近づいたことを知って弟子たちに話されました。イエスは弟子たちに言われました。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16節) イエスはご自分が十字架にかかって死ぬこと、そして三日目によみがえることが分かっていて、このように言われたのです。しかしその事を知らない弟子たちは動揺しました。更にイエスは言われました。「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。」(20節) 「世は喜ぶ」とはイエスを殺そうと企んでいる人々が自分たちの思惑通りにイエスを殺すことができて喜ぶということです。そしてイエスはますます動揺する弟子たちに続けて言われました。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(22節) 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(33節) イエスはご自分が十字架で死ぬが三日目によみがえり救いを成し遂げることを知っておられ、「わたしは・・・世に勝った」と言われたのです。イエスは弟子たちを励まされたのです。「あなたがたは悲しんでいるが喜びに満たされる。その喜びを奪う者はいない。あなたがたは世にあって艱難があります。しかし世に勝利したわたしがあなたがたを救います。勇敢でありなさい。」 イエスの励ましは確かです。喜びが与えられ、その喜びはなくなりません。ですから希望を持つことができ、期待することができます。ですから悲しんでも悲しみに沈むことはありません。期待しながら歩むことができるのです。困難にあっても倒れこんでしまうことはありません。立ち上がって歩むことができるのです。

 明日は日曜日です。イエスの励ましを受けるために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」 2017.8.26放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■主はここにおられる / 関根弘興

2017年09月29日 | Weblog
2017/8/25放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
  今月は旧約聖書 エレミヤ書29章11節のことばを一緒に味わっています。
 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。----主の御告げ。----それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
 
 このことばは自分の国からバビロニアに強制移住させられ将来も希望も見いだすことのできなくなったユダヤの人たちに預言者エレミヤが書き送った手紙の一文です。バビロニアに移された民はエルサレムから遠く離され、そしてエルサレムにあった神殿もその機能は殆ど失われた状態でした。神殿で奉仕する祭司の多くもバビロニアに移されてしまって、もはや彼らもその働きをすることができなくなってしまいました。彼らにとって自分たちの信仰生活に不可欠だと思われていたすべてのものが失われてしまったと考えていたのです。しかしそんな彼らにエレミヤは、いや実際は何も失っていない、と記していったんですねえ。このバビロンの地においてあなたが神様に呼び求めるなら、あなたのその祈りを神様はちゃんと聞いてくださるんですよ、と記していったんです。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」(エレミヤ書 29章13節、14節)
 このように記しました。あなたが心から神様を求めるなら神様が共にいてくださることをその場所で見いだすことができるんです、と記したんですねえ。

 旧約聖書の詩篇46篇1節には、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」(口語訳聖書)と書かれています。預言者エレミヤはまるで全てを失ってしまったかのように思える出来事に遭遇した時も、いやいやいや、決して失われることのないお方がいるんですよ、私を支えあなたを支え将来と希望を与えるいと高き神様がいてくださるんですよ、と確信していたんですね。

 ラジオを聴いているあなたにもこのことを伝えたいんですね。神様はあなたのいと近き助けとなってくださいます。もう一度エレミヤ書のことばをお読みします。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。----主の御告げ。----それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

 (PBA制作「世の光」2017.8.25放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし 25 / 大嶋重徳

2017年09月28日 | Weblog
2017/8/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒第三戒は「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節、申命記 5章11節)と命じていて、相応しい神様の名前の呼び方があるのだと教えています。キリスト教会の礼拝プログラムは相応しい神の名の呼び方を求めて作られたものです。是非今度、教会の礼拝に行かれた時に、そのプログラムの意味を思いながら礼拝に出ていただけたらと思います。

 礼拝では交読文というプログラムがあります。交読文とは司会者と聴衆が互いに声を合わせて聖書の言葉を読み上げます。司会者が最初の一節を読み、聴衆が次の一節を読むのです。ここにはキリスト者の生活がひとりぼっちではなく教会という交わりで過ごすことを知るのです。しかもこの教会の交わりの性質はただ単に仲が良いことなのではありません。神様の言葉を互いに分かち合う交わりなのです。

 ですから教会は交読文のように聖書の言葉を互いに分かち合う聖書の学びを大切にします。そこは一人ぼっちでやるのではなく一緒にみことばを分かち合うのです。そして聖書の前では誰もが罪人であることを示されます。そこで私たちの交わりは互いに立派な人のふりをするのではなく、聖書から教えられたことを正直に分かち合うことで、ああここでは本当の事を言っていいんだ、と言う神様の前に出る出方を知って行くのです。

 さらに礼拝では十戒の朗読をされる教会があります。十戒を告白するとき、キリスト者が集まる教会こそ倫理においても組織においても世の中の模範であるべきことを自覚させられます。本来キリスト者こそ誰よりも時間を守り、誰よりも約束を守り、家族を大切にし、よりきよさを保ち、より責任を果たす者として生きようと願うのです。

 続いて使徒信条があります。使徒信条とは教会が大切にしてきた信仰をギュッとまとめたものです。どうして十戒の後に使徒信条があるのでしょうか。それは十戒を守り行えない私たちに使徒信条を唱えるとき十字架の恵みとあわれみがあなたのためにはっきりと示されているのです。さらに善き生活は正しい信仰理解から始まります。歴史的な教会の正しい信仰告白を学び続けることこそ私たちの生活が誤った方向に向いて行かないように守られます。そして信仰の先輩たちが苦悩して勝ち取ってきた信仰告白の中に自らも立たされていることを知り、この信仰の告白を次世代にも伝えて行こうとするのです。

 十戒の学びが終わったら、いつか使徒信条の学びもやってみたいですね 。

  ( PBA制作「世の光」2017.8.24放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■神に会う備えをせよ / 福井 誠

2017年09月27日 | Weblog
2017/8/23放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠です。今日のバイブル・メッセージは「神に会う備えをせよ」です。アモス書の4章12節を読んでみましょう。
 「それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

 この預言書を書いたアモスはテコアと言う地域の出身です。それは死海の西でユダの荒野と呼ばれた荒涼とした荒野が広がる地域ですねえ。そこでアモスは羊を飼い、また、いちじく桑を栽培する農夫として暮らしていました。神はそんな彼を預言者として召されたのです。

 どうやらアモスは預言者を職業とする人々の集団には属しておらず、預言者としての専門の訓練も受けていなかったようですね。しかし神に直接召されて預言者として活動していました。神学校を卒業したとか、教会に承認されたとか、そんなお墨付きはありませんでした。しかも先に述べたように、彼はユダの田舎の出身でありながら北王国イスラエルの首都サマリアや都市のベテルで預言するように召されたのです。地方の地方と言うべき場所の出身者が大都会のしかもハイソなイメージの場所で宣教をする形です。しかもアモスは空気を読まない。実にストレートなものの言い方をしますねえ。例えば、サマリアの上流階級の婦人を雌牛と呼びました。ただ安楽で贅沢な生活に心を向け、分けあうことも考えずにのんきに暮らしている金持ちの女性たちを放牧された雌牛と同じだと言うのですね。当時の同業の預言者たちはアモスのものの言い方に凍りつく思いであったのではないでしょうか。

 ともあれアモスは周辺諸国のダマスコ・ペリシテ・ツロ・エドム・アモン・モアブに対して神の裁きを宣言し、そしてユダとイスラエルに神の審判を直球で人々のど真ん中にぶち込んでいます。それだけ時代が悪く誰も気にも留めない状況であったのでしょう。アモスは言います。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

 神の存在を否定しようがしまいがいずれ私たちは死を迎え、霊の世界へと出て行かざるを得ません。聖書は神がそこで私たちを待っておられ、行いに応じて裁かれることを語っています。たとえどんな終着点が待ち受けていようとも慌てることのない人生を歩みたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.8.23放送でのお話より )

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■故意か過失か / 板倉邦雄

2017年09月26日 | Weblog
2017/8/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「故意か過失か」という題でお話ししましょう。 故意とはわざとすること、過失は不注意によって起こってしまうことです。故意か過失かは大きな分かれ目になりますね。

 さて、逃れの町について故意か過失かによってその適用が違っていました。もし人が鉄の器で人を殴って死なせたら、それは故意の殺人になるので逃れの町へ逃げ込むことはできません。復讐する者の手にかかって仇討ちされても仕方がありませんでした。次に恨みが無いのに人を突き、相手が転倒して死んだとき、あるいは切っていた木が人に倒れて死なせた場合、これは故意ではなく不注意による過失になるのです。この場合は逃れの町へ逃げ込んで、復讐する人の手から救出しなくてはなりませんでした。ただし、過失の殺人者はその町の大祭司が死ぬまでその逃れの町から出てはならなかったのです。もし町を一歩でも出たら復讐する者の手によって殺害されても文句は言えませんでした。しかしその町の大祭司が死ぬと、過失殺人者は自分の故郷へ帰ることができたのです。

 以上が逃れの町に逃げ込むことのできる人の規定でした。今から3400年前のモーセの時代に定められていたということです。犯罪者はその動機と犯罪において正しく処罰されていくことが大事なことでした。それは社会の平和のためだったのです。聖書の神様は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。他方、不注意や過失によって結果的に犯罪行為になった場合には、救済の道が用意されていました。それが逃れの町だったのです。そこでとどまり、反省し、大祭司が死ぬと無罪放免になりました。なぜか。大祭司イエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって私たちの罪が赦されて無罪となり神の前に義と認められる約束と似ています。私たち罪人にとってイエス・キリストこそ逃れの町ではないでしょうか。

  (PBA制作「世の光」2017.8.22放送でのお話より )

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■嵐の中の平安 / 岩井基雄

2017年09月25日 | Weblog
2017/8/21放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。今日は「嵐の中の平安」と題して、真の平安について共に考えましょう。

 ガリラヤ湖のほとりで人々に神の国の真理をお話しになった後、キリストは弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう。」(マルコ 4章35節)と言われました。多くが漁師であった弟子たちは、慣れた手つきで魯(ろ)を漕いだたことでしょう。しかし次第に雲行きが怪しくなり、激しい突風が吹き始め、彼らの舟は木の葉のように揺り動かされたのです。すり鉢状になっていたガリラヤ湖では時に突風が起こりました。慣れていた気候の変化であっても、この時は違っていました。慣れていたはずの彼らが死を覚悟するほど突風は激しく、大きな波をかぶった舟は水で一杯になったのです。しかしその激しい嵐の中で、キリストはどうしていたでしょうか。聖書をお読みします。

 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。

         新約聖書 マルコの福音書4章37節38節

 キリストは激しい嵐の中、舟の後ろでぐっすりと眠っていらっしゃったのです。プロの漁師であった弟子たちが死を覚悟し慌てふためき、キリストに対して怒りをも表す中、神の御子キリストは全き平安の中にあったのです。まことの平安とは何も問題が無い中で持つものではありません。たとえ激しい問題、厳しい四面楚歌のような状態だったとしても、神に信頼する真の平安は揺るぎない豊かさ、どんな嵐の中でも豊かな恵みを私たちに与えることができるのです。その後キリストは起き上がって風を叱り付け、湖に「黙れ、静まれ。」(39節)と言われました。「すると風はやみ、大なぎになった。」(39節)と聖書は記しているのです。

 どんな問題や嵐に対しても主権を持っておられ、それを鎮めることのできるお方に信頼するとき、私たちもまた、どのような嵐の中にあってもまことの平安を持つことができるのです。あなたも本物の平安を受け取って力強く歩む者とされていきませんか? あなたが自信を持つ所であったとしても神様の豊かな平安の中で遜り、真の平安を得ることができるのです。

   PBA制作「世の光」2017.8.21放送でのお話しより)

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■弟子たちの足を洗われたイエス / 羽鳥頼和

2017年09月23日 | Weblog
2017/8/19放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。 
 今日も先週に引き続き新約聖書のヨハネの福音書からお話しします。今日はヨハネの13章から、イエスが弟子たちの足を洗われたことの意味についてお話しします。


イエスが弟子たちと夕食をしている時のことでした。聖書は、その時イエスはご自分が十字架につけられて死ななければならない時が来たことを知って弟子たちの足を洗われた、と語っています(1~4節)。十字架のことを全く知らない弟子たちは大変恐縮して、すぐに断ろうとしました。しかしイエスが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(8節)と言われると、弟子たちは恐縮しながらもイエスに足を洗ってもらったのでした。

 さて弟子たちの足を洗い終えると、イエスは弟子たちに、どうして弟子たちの足を洗ったのかを話し始められました。イエスは言われました。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。・・・このわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。・・・わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(12節、14節、15節)

 イエスは人に仕える模範を示されました。そしてイエスはご自分の素晴らしい謙遜と愛を表わされたのです。そしてこの後、イエスは最高の愛と謙遜を表わされます。それがイエス・キリストの十字架です。

 新約聖書ピリピ人への手紙2章の中でその事がこのように語られています。
 「キリストは神の御姿である方なのに、・・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。・・・(キリストは)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(6~8節) (新改訳聖書第二版)

 イエス・キリストは神です。神が人となってくださったのです。それは人を救うためでした。イエス・キリストは人を救うために全ての人の身代わりとなってくださったのです。初めに言ったように、イエスはご自分が十字架にかかる時が来たことを知って弟子たちの足を洗われました。イエス・キリストの弟子たちに対する愛は何と大きいことでしょう。同じキリストの愛があなたにも注がれています。

 明日は日曜日です。イエス・キリストを知るためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。
 
(PBA制作「世の光」 2017.8.19放送でのお話より )
 
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■その町の繁栄を祈れ / 関根弘興

2017年09月22日 | Weblog
2017/8/18放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
  今月は旧約聖書 エレミヤ書29章11節のことばをご一緒に味わっていきましょう。
 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。----主の御告げ。----それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
 
 このことばは自分の国からバビロニアに強制移住させられ将来も希望を見いだすこともできなくなったユダヤの人たちに預言者エレミヤが書き送った手紙の一文です。エレミヤは「あなたがたが将来と希望を味わい生きるために、まず今の現実を受け入れよ」と語ったんです。そして続けてエレミヤは、「その町の繁栄を祈れ。その繁栄はあなたがたの繁栄になるのだから。」(29章7節参照)と記しました。自分たちを攻撃し強制連行していった敵国の町の繁栄のために祈れと言うんですからこりゃあ難しいですよね。どうして受け入れることができるでしょう。「バビロンを憎め。バビロンを呪え。」と書いてあるなら喜んで「そうだ、そうだ」と人々はうなずくことができたでしょう。しかしエレミヤは「その町の繁栄を祈れ」と書き送ったんです。

 イエス・キリストは「悪をもって悪に報いるのではなく、かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」と勧めています。また「あなたがたの敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈れ」と言われました(参照マタイ 5章44節、ルカ 6章27節、28節、35節、ローマ 12章14節、ローマ12章21節、1テサロニケ 5章15節、1ペテロ 3章9節) ここで言われている敵とは自分と立場の違う人ということをも意味しています。そう考えるとたくさんいまよね。自分と意見の違う人、考えが違う人、性格の違う人、まあ周りを見れば敵ばかりと思えることがあるかもしれません。でもエレミヤは「その町の繁栄を祈れ」と記しましたね。その町のため、つまりあなたの隣り人のために祝福を祈るということは人生を大きく変え、平安を得るためのキーワードだということなんです。

 あなたの身近に、この人のためになど祝福を祈れない、そう思ってる人いますか? 勇気をもって祝福を祈る者とされていくとき、それはあなた自身の平安に繋がっていくことを知ってください。相手の祝福や赦しを祈ることは割りの合わない行為に思えます。でもあなたが祈る祝福の祈りはあなたの平安に繋がっていくのです。エレミヤは言いました。「その町の繁栄を祈れ。その繁栄はあなたがたの繁栄になるのだから。」と。

 (PBA制作「世の光」2017.8.18放送でのお話しより)

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■十戒 - 自由への励まし 24 / 大嶋重徳

2017年09月21日 | Weblog
2017/8/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒第三戒は「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節、申命記 5章11節)と命じてて、ふさわしい神様の名前の呼び方があるのだと教えています。キリスト教会の礼拝プログラムは、ふさわしい神の名の呼び方を求めて作られたものです。ぜひ今度、教会の礼拝に行かれた時に、そのプログラムの意味を思いながら礼拝に出ていただけたらと思います。

 さて礼拝は開会祈祷という礼拝の始まるお祈りによって礼拝は進められていきます。祈りから礼拝が始めることが相応しい神様の名前の呼び方だと知るとき、朝私たちが目覚めて最初になすべきことも神の呼びかけに応答する祈りで始めるべきです。更に勉強や仕事や家事もまた祈りによって始めることが大切です。この始まりの祈りは一日を終えるときにでも祈りで終えることを私の生活にもたらしてくれます。教会の集まりですぐに、祈りましょう、と祈り始めるのはこのような理由があるのです。まずは祈りから始めるのです。それは神様の名前を呼ぶのに相応しい呼び方だからです。

 続いて礼拝では賛美の歌を歌います。賛美の歌を歌うことは旧約聖書の歴史から続く神の民のふさわしい神の名の呼び方です。賛美は十戒を与えられた神様が人を罪の奴隷の中から連れ出してくださった感謝の応答の歌です。聖書の中にはどこを見ても賛美で満ち溢れています。詩篇は神への永遠の賛美ですし、聖書に出て来る幾つもの手紙も最初も最後も途中でも神様への讃美が出てきます。神に出会った者たちの唇には賛美の歌が生まれていくのです。また神を賛美するときに私たちは自分を誉めたたえる人生を捨てることを選び取っています。私たちは自分の名前が誉めたたえられること望み易いものです。しかし賛美の歌を歌うとき、神様こそ誉めたたられることを選んでいるのです。

 更に賛美の根本的な基盤は喜びです。もちろん歌えないような悲しみが私たちの人生には起こります。しかしその悲しみの向こうに主の慰めがあり、主の計画はあるのだと信じるとき、やはり私たちの唇には賛美の歌が生まれるのです。皆さんの好きな讃美歌はありますか? 今朝もその歌を口ずさんで一日を始めていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2017.8.17放送でのお話しより )

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■喜んでこれを愛する / 福井 誠

2017年09月20日 | Weblog
2017/8/16放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「喜んでこれを愛する」です。ホセア書14章4節を読んでみましょう。
 「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

 先週も申しましたが、ホセア書は1章から3章までが背信の妻ゴメルを受け入れるホセアの個人的な問題が語られていました。その象徴的な物語のメッセージを受けて4章からは具体的なイスラエルの罪の指摘、そして裁きの宣告がなされていましたね。そして神は罪を犯した者を甚だ遺憾であると見捨てるわけではなく、むしろ愛をもって回復と救いへと導こうとされるお方である、とお話しました。今日の箇所はまさにそうした神の愛を丁寧に語っている部分です。

 「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。・・・わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」(1節、4節) やはりこういう所に神のことばだなあと思うところがあります。というのも、人は自分を裏切るものに対して立ち帰るということも難しいし、まして喜んでこれを愛するとは言わないものですね。人間的に懐の深い人であっても、頭では分かっても実際には感情が邪魔してなかなか受け入れることはできないものでしょう。しかし神は実にさばさばしていますね。たとえ怒りをあらわにしてもカラッとしています。あれだけ神の心を傷つけてそして悲しませた背信のイスラエルに対して、「喜んでこれを愛する」と言うのですから。この神の愛があればこそ、やりなおせそうもないものもやり直していけるように思いますねえ。人は誰でも、そんなに自分は立派ではないとは思っていても、罪人だと言われる悪い人間ではないと考えるものです。けれども聖書は人間というのは神あって存在したのだ。この世界は偶然できた訳ではなく、神がこれをお造りになり神がこれを守り導いておられると語り、その神を認めて神の愛の中に生きることを勧めていますね。実はその事を認めないこと、神を知ろうとしないことが罪だと言っているのです。

 ホセアは言います。
 「知恵ある者はだれか。・・・悟りある者はだれか。」(ホセア書14章9節)
 神の呼びかけに応答し、神にまっすぐ心を向ける歩みをさせていただきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.8.16放送でのお話より )

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