♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■わたしは静まって / 福井 誠

2015年04月30日 | Weblog
2015/4/30放送

 世の光の時間です。お過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは、「わたしは静まって」です。イザヤ書18章4節から読んでみましょう。

  「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。

 18章はイスラエルの周辺の国エチオピアに対する神のことばです。この章を理解するには少し背景を理解しておく必要がありますね。

 18章でクシュと呼ばれている国はエチオピアのことです。この国は紀元前715年、エジプトを征服しました。そしてすぐに勢いに乗って世界の覇者になろうとし、当時の強国アッシリヤに対抗した同盟を作ろうと周辺諸国に呼びかけたのです。その使者はエルサレムにもやってきました。彼らの姿はまさに同盟国にふさわしいように思われるものでした。

 しかしイザヤは、そんなに見かけに惑わされてはいけない、人間の世にありうる一時的な動きに過ぎない、と警告を発します。アッシリヤをさばくのは神ご自身なのだからアッシリヤでの侵略を防ぐためにエチオピアと同盟を結ぶ必要はない、という訳ですねえ。人間的にどんなに得策に見えても神が意図されないことは決して起こらない、と預言するのです。果たしてその結果はどうなったのでしょうか。アッシリヤがエルサレムを攻撃してきた時に、彼らはエルサレムを飲み尽くす勢いでした。しかし聖書は、エチオピアの助けを得るまでもなく神の不思議な介入によってアッシリヤがっ退散させられたことを記録しています。

 実に、人は目先の現象を見て最も良いと思われる動きに心を動かされやすいものです。しかし世の中の流れはあるきっかけでいとも簡単に変わりうるものですね。どんなにこれが主流の動きであると思うされることがあっても、静かに見ていればその流れは突如に変わって行きます。どんなに情勢が動いて行っていくように見えても神がお許しにならないのであれば、そのように動くことはありません。たとえそのように見えていく思われていくことがあっても土壇場で覆されてしまいます。大切なのは物事の背後におられる神を知ることです。物事の動きのすべてを支配しておられる目に見えない神を恐れて歩んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.4.30放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■人と比べて生きる(第五の災害)/板倉邦雄

2015年04月29日 | Weblog
2015/4/29放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「人と比べて生きる」という題でお話ししましょう。 私たち人間は一国一城の主(あるじ)に登り詰めても満足することなく人と時間を比べて生きていくものなのです。出エジプト記の続きです。

 さて、主なる神様はモーセに言われました。「パロ王様の所へ行って彼にこう言いなさい。『ヘブル人の信じている神、主はこう仰せられる。わたしの国民を去らせてわたしに仕えさせなさい。あなたがもしヘブル人たちを去らせることを拒んでなおもヘブル人たちを奴隷としてとどめておくならば覚悟しなさい。神の手は最も激しい疫病、伝染病をもって野にいるあなたがたの家畜すなわちあなたの馬、ロバ、ラクダ、牛、羊の上に臨むであろう。家畜は全滅する。しかし、死ぬのはエジプト人の家畜だけだ。ヘブル人の牛や羊の群れは何一つ被害を受けない。』」

 翌日、実際その通りになりました。エジプト人の家畜はバタバタと倒れ始めたのです。しかし、何とヘブル人の家畜は病気にさえなりませんでした。王様は自分のことは棚に上げて悔しくてたまりません。自分とヘブル人とを比べて腹が立ってきました。そして自分を反省するどころか王様はますます心を強情にしてヘブル人を苦しめってやろうと堅く決意したのです。

 人と自分を比べてばかりの人生は、腹を立てるか劣等感に陥るか優越感に浸るか、いずれかの毎日でしょう。温度計のように上がったり下がったりする人生でしょうねえ。

 では、人と自分の比べないで生きる人生はあるのでしょうか? それは人も自分も見ない人生です。それは天の神様を仰ぎ見る人生ではないでしょうか。また、人となられ、人のしもべとなられ、十字架で死なれ、三日目によみがえり、天に上られたイエス・キリストを仰ぎ見る信仰の人生ではないでしょうか。天の神様という高き所から自分や他の人の人生を見る目、人となられ人の足を洗い、雑巾になられた謙遜なイエス・キリストが見られる自分と人を見る目を養うことによって人と自分を比べてばかりの人生から解放されていくのです。

 (PBA制作「世の光」2015.4.29放送でのお話より )

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■主の祈り 13 / 大嶋重徳

2015年04月28日 | Weblog
2015/4/28放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。

 主の祈りを祈り始めていただいてすぐに気がつくことは、この祈りの主語が「我ら」と複数形で祈っているということです。主の祈りが記されている聖書はもともとギリシャ語で記されています。そしてそのギリシャ語の主の祈りでは、まず「我らの父よ。」から始まります。ですので「主の祈り」とは呼ばずに「我らの祈り」というふうに言われることもあります。

 ここで主の祈りが教えてくれることは、キリスト教の祈りとは共に祈る祈りだということです。つまり主の祈りは私たちの祈りが個人一人ひとりのお祈りをすることに終始することなく、複数形で多くの人たちとの祈りの交わりの中へと私たちを連れて行こうとしているのです。もしかすると人前でお祈りするなんて苦手だし、嫌だなと思われる方もおられるかもしれません。しかし主の祈りが私たちに語りかけるのは、お祈りもまた一人っきりだけでするのではなく、誰かにお祈りしてもらって自分もまた誰かのためにお祈りするということが大切だということです。ですので、多くの教会は水曜日や木曜日あるいは毎日の早朝の祈祷会を開いて一緒にお祈りをすると言うことを大切にしてきました。主の祈りはこのように「我ら」を意識して祈る祈りです。あの天の父を父として祈る時に、私たちは自分の祈りの思いの中に自分の家族のことが思い浮かんできます。教会の中で悩みを抱えている人のことが思い浮かんできます。貧しくてご飯を食べられない人のことも考えますし、災害によって住む場所がない人たちのこともお祈りの中に入って来るのです。キリスト教の祈りというのは個人プレーではなく、チームプレーなのです。そして私たちは自分一人のためだけに祈ることをやめて、自分の小さなお祈りもまた祈れない誰かの役に立つのかもしれないと自分の祈りが誰かのための奉仕になっていくということを経験します。そしてこのことは自分もまた誰かに祈られてきたんだなということがよくよく分かって来るようになります。自分が祈れない時も、誰かがきっと自分のために祈って来てくださって今があるんだと知るのです。今日も私たちは主の祈りを祈りつつ、あなたの大切な誰かのためにお祈りをしていだきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.4.28放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■注がれるキリストのまなざし / 関根弘興

2015年04月27日 | Weblog
2015/4/27放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。新約聖書に登場するペテロ、彼はイエス・キリストの弟子の中でもリーダー的な存在でした。でも、彼にとって人生最大の失敗がありました。それはイエス様が捕えられた時、「イエスなど知らない!」と三度も否定してしまったのです。ペテロのこの大失敗、彼はそれまで持っていた自信も誇りも、その失敗によってすべて崩れ去ってしまいました。でも聖書は、ペテロの失敗を通して大切なことを教えようとしているんです。

 一番目は、失敗してもあなたの価値は変わらない、という話でしたね。

 二番目は、失敗や挫折はあなたの必要な栄養となる、というお話をしました。それは謙遜を学ぶ時でもあるということでしたね。

 そして第三は、失敗の時、キリストの眼差しがそこに注がれている、ということです。イエス様はどんな時にも一人ひとりの配慮を忘れることはありませんでした。新約聖書を読んでいくと、イエス様はご自分が殺されるかもしれない危険な状況の中でも、一人の目の不自由な人に目を留め癒されました(ヨハネ 8章59 節~ 9章7節)。エリコという町で大群衆に取り囲まれている時、木の上からイエス様を眺めていた町一番の嫌われ者の取税人ザアカイに目を留め、「ザアカイ。降りて来なさい。わたしは今日はあなたの家に泊まることにしているのだ。」と招かれました(ルカ 19章5節)。また、ご自分が捕えられ厳しい審問を受けている時にも、イエス様を否定したあのペテロを愛の眼差しをもって見つめられたのです(ルカ 22章61節)。

 イエス様は、今日、一人ひとりに目を注いでくださっています。私たちは失敗し挫折を味わう時があります。今その真っ只中にある人もいるかもしれませんね。また罪責感や恐れの中に置かれることもあります。しかしイエス様はそんなあなたに対して、「大丈夫。わたしがあなたの罪を十字架で背負い、わたしのいのちであなたを贖ったのだ。わたしと共に歩もう。」と、愛の眼差しを注いでくださっているのです。

 旧約聖書イザヤ書63章9節に、「 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」 このように書かれています。

 失敗があり挫折があるかもしれません。困難があるかもしれない。でも、共に痛み、苦しみ、過去においても現在においても未来においても、愛と憐れみによってあなたは贖い背負い、抱いてくださる、いだいてくださるお方がいてくださる。その事をぜひ覚えてください。

 (PBA制作「世の光」2015.4.27放送でのお話しより)

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■罪を赦す権威のあるお方 / 羽鳥頼和

2015年04月25日 | Weblog
2015/4/25放送
 

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。新約聖書ルカの福音書5章12節から26節に、二人の病人を治されたイエスのことが教えられています。 

 一人めは、全身ツァラアトという病気にかかった人でした。その人はイエスを見るとひれ伏してお願いしました。 「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 (12節)

 ツァラアトとという病気にかかった人は汚れたものとされ、人々から離れて町の外に住まなければなりませんでした。ですから、 病気が治ると共に祭司によって「きよい」と宣言されなければなりませんでした。そうしないと社会復帰できなかったのです。そこでこの人は「きよくしてください」と言ったのです。イエスは手を伸ばして彼に触り、言いました。「わたしの心だ。きよくなれ。」(13節) するとすぐにその病気は治りました。イエスは続けて彼に言いました。「祭司に自分を見せなさい。そして律法に定められている捧げものを神に捧げなさい。」 (14節参照) 

 二人めは足が麻痺して動けない人でした。彼は寝たきりでしたので自分ではイエスの所に来ることができません。彼の友人が彼を運んでイエスの所に連れてきたのです。イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦されました。」と言われました。

 周りにいた律法学者たちは眉を潜めて、「これは神への冒涜だ。神のほかに罪を赦すことができる者はない。」と心の中でつぶやきました。その事に気付いたイエスは彼らに言いました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」 (24節)そして病気の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」(25節)と言われました。するとその人たちはたちどころに立ち上がって神を賛美しながら帰って行ったのでした。

 この二つの癒しの奇跡は、イエスが病気を治すだけでなく、人をきよめ、社会復帰という人間関係の回復を与えることができ、また罪の赦しを与える権威をもっているお方であることを教えています。イエスこそ本当の救い主です。あなたを愛し、あなたをより良く知っておられ、あなたに本当に必要な大切な物を与えることのできるお方です。

 明日は日曜日です。救い主イエス・キリストに出会うために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.4.25放送でのお話より )
 
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■会津のキリシタン大名 蒲生氏郷 / 岩井基雄

2015年04月24日 | Weblog
2015/4/24放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。福島県会津におけるキリシタンの原点は伊達政宗に替わって会津の領主となった蒲生氏郷に始まります。氏郷は戦国時代末期の武将で近江の国の日野城主蒲生賢秀の長男(※嫡男)として生まれ、14才の時、織田信長の部下として父と共に初陣に立ち、大きな手柄を立てました。信長からも信頼された彼は、信長の娘冬姫を妻とし、信長の死後、豊臣秀吉に従い、名を氏郷と改めます。天正18年、1590年8月には豊臣秀吉や3000人の武将と共に会津若松に先頭を切って攻め入り、秀吉から会津42万石を渡されます。後に領地は92万石へと加増されます。

 キリシタン大名としても知られた氏郷は、高山右近や前田利家とも親しく、南蛮文化を取り入れていきました。彼は茶道では千利休七哲(※高弟七人)の一人に数えられ、利休の死後その子少庵を会津領内に保護し、後の茶道三千家への道筋を作ったのです。

 氏郷の洗礼名はレオンと言いました。巡察師のヴァリニャーノ が帰国する際には、デウスすなわち聖書が語る神こそ唯一の神であると言い、人々を驚かせました。城下にはキリストの教会が建てられ、イタリア人宣教師を家臣にし、ローマへの使節団を送ろうともしたそうです。氏郷の重臣たちにもキリシタンが多かったのは、氏郷の感化によるものだったでしょうね。また猪苗代にもセミナリオ・神学校を建てました。現在会津若松市内には、天子神社と名づけられた教会の後が3ヶ所あるそうです。また猪苗代でも教会が建てられ、天子のケヤキがあります。猪苗代では領民の約八割が、若松では三割がキリシタンの信者となったと言われています。

 氏郷はどのような夢を描いていたのでしょうか。福音の島とも呼ばれる福島に神様の愛が届けられていった歴史を天で喜んでいるでしょうか。

 聖書のことば
 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
       新約聖書 ヘブル人への手紙11章1節、2節

 あなたの人生にも夢があります。神様の愛はあなたの人生を豊かな祝福で包むからです。

(PBA制作「世の光」2015.4.24放送でのお話しより)

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■あなたの力の岩 / 福井 誠

2015年04月23日 | Weblog
2015/4/23放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは、「あなたの力の岩」です。イザヤ書17章10節から読んでみましょう。

 「あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。

 17章はイスラエルの周辺の国ダマスコに対する神のことばを伝えています。このことばが語られた時、ダマスコは北のイスラエル王国と同盟を結んでいました。それによって当時隣接していた強国アッシリアに対して防衛線を強化しようとしたからです。しかしイザヤは、その同盟関係はアッシリヤの脅威の前には全く無力でやがて北イスラエルにはわずかな生存者が残ってもダマスコは滅亡するだろう、と預言するのです。果たして、それはアッシリアの王ティグラテピレセルとシャルマル・エセルの時代に確かに実現することになりました。北のイスラエルとダマスコは互いに同盟を組むことで安全を確保できると考えていました。しかしことを決するのは神であることをここでも教えられます。つまり、私たちの人生において大切なのは救いの神・私たちの力の岩を覚えることですね。

 しかし多くの人は目に見えない神よりも目に見える具体的な助けに頼ろうとします。そして失敗すると、あんな人に頼らなければ良かった、今度はもっとしっかりした人に頼ろう、よく人見極めることが大切だ、と考えるものではないでしょうか。けれども人は完全ではありません。人を信頼する者はその期待を裏切られることが常です。むしろ大切なのは救いの神・私たちの力の岩を覚えることですねえ。私たちのあらゆる事柄を支え導かれる目に見えない神に信頼することです。アッシリアは多国籍の軍隊からなる巨大な軍事力でした。その帝国の脅威の前に多くの国々はざわめき、不安定な大水のように立ち騒ぎました。しかしたとえそのような脅威や圧力があっても神に信頼するに勝るものはない、と語られます。不可能性の中で神の可能性を信じるのが信仰です。人間の最善ではなく、神の存在に信頼していくのが信仰による解決です。信じる者に対する神の応答があることをあなたにも知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2015.4.23放送でのお話より )

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■懲りない王様 / 板倉邦雄

2015年04月22日 | Weblog
2015/4/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「懲りない王様」という題でお話ししましょう。

 エジプトの国中がアブの大群で被害を受けましたねえ。そこで王様はモーセとアロンを呼び出して言いました。「あなたがたはこの国の中であなたがたの神を礼拝してもよろしい。」 

 しかしモーセは主張しました。「それは無理です。私たちはエジプト人が忌み嫌っている羊を犠牲にして神様を礼拝するからです。そんなことをしたら、あなたの国民は私たちを石で打ち殺すでしょう。私たちは三日の道程ほど荒野に行って私たちの神主に礼拝を捧げたいのです。」

 するとパロ王様は答えました。「わかった、わかった。好きなようにしろ。但し、余り遠くへ行ってはならない。それよりも私のために神に祈願してくれ。」

 「分りました。あなたのために主なる神に祈願しましょう。明日アブの大群はあなたと家来・国民から離れるでしょう。ただ、あなたは再び欺いて私たちが神礼拝へ行くのを止めないようにしてください。」

 こうしてモーセはパロ王様のもとを出て、主なる神様に祈願したので、アブの大群はエジプト中から取り去られたので一匹も残りませんでした。

 しかし今度もまた王様は心を強情にしてイスラエルの人々を去らせて神様を礼拝することを許しませんでした。

 当時成人が60万いたと言われたイスラエル人はエジプトにとっての都合のいい労働力でした。目たらやったら解放することなどできません。ま、それにしてもエジプト王様と家来たち、その下にある国民はまことに懲りない面々ですねえ。今まで四つの災害を受けてきました。しかし災害が去ってしまうと強情な心になって、懲りない王様と家来たちでした。喉元過ぎれば熱さを忘れるのです。いかなるしうち・痛い目にあってもますます強情になっていったのです。

 聖書のことばです。
 「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 ・・・神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」  ヘブル人への手紙3章7節と8節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2015.4.22放送でのお話より )

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■主の祈り 12 / 大嶋重徳

2015年04月21日 | Weblog
2015/4/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。この主の祈りは、「天にまします我らの父よ。」と始まります。この祈りは「小さなキリスト教の学校」とも言われ、この祈りを学ぶときに、クリスチャンたちが何を信じているのか、とてもよく分るのです。

 主の祈りは「父よ」と祈ります。この祈りを祈っているうちに、私たちは父と呼ぶ神様の前で子どもとされたのだということを知っていきます。そしてこの「神の子となる」というのは私ひとりだけのことではありません。主の祈りは「我らの父よ」と祈ります。つまり、このお祈りは祈りながら、私たちは父なる神様の前に何人かの兄弟や姉妹と一緒に立ってお祈りをしていることを意味しているのです。自分にとっては他人に過ぎない人であったにもかかわらず、主の祈りを祈ると、あなたも私の家族なんですね、と呼ぶ新しい人間関係の中に生きていることが起こってきます。

 キリスト教会では教会にある人間関係を、○○兄弟、○○姉妹、と呼び合うことがあります。つまり「父よ」とお祈りする中で家族というコンセプトの中を生きていることを意味しているのです。そして、この主の祈りを祈っている人は自分の身近にいる人だけではありません。世界中の人が主の祈りを祈るのです。その時、自分には新しい家族が世界中にできるのです。そして日本だけではなく、あらゆる国境、言語、肌の色を超えて、貧しい人も富んでいる人も、病んでいる人も健康の人の区別なく一緒に神の家族になるのです。

 「父よ」と祈り、父なる神の子とされる、ということはこの新しい神の家族との新しい時間を過ごす事となります。家族は同じ時間を過ごし、同じ食事を一緒にします。キリスト教会で礼拝で過ごす時間が何よりも家族の時間です。父なる神様のことばである聖書のことばを聞き、聖餐というパンとぶどう酒を分け合うということをすることで、新しくできた家庭の食卓を共にするのです。同じものを食べて同じ会話をして、家族はそうやって少しずつ少しずつあの父なる神に似ていく神の家族となっていくのです。

 ぜひお近くの教会に行ってください。この神の家族に加わっていただけたらと願います。

  ( PBA制作「世の光」2015.4.21放送でのお話しより )

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■失敗は必要な栄養となる / 関根弘興

2015年04月20日 | Weblog
2015/4/20放送
 
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。新約聖書に登場するペテロはイエス・キリストの弟子の中でもリーダー的な存在でした。しかし彼にとって人生最大の失敗がありました。それはイエス様が捕えられた時、「イエスなど知らない!」と、三度も否定してしまったことです。しかし聖書は、ペテロのこの大失敗を通して大切なことを教えているんですね。

 前回は、失敗してもあなたの価値は変わらない、というお話をしました。今日はその続きをお話ししましょう。それは、失敗や挫折はあなたの必要な栄養となる、ということです。私たちは失敗や挫折を通して大切なことを学ぶことができるんです。それはいったい何でしょう。それは謙遜ということです。

 箴言の18章12節には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」と書かれています。考えてみてください。もしあなたが何をやってもすべてうまくいって失敗も挫折も全く経験しなかったら、その時自分の姿はどうなっているでしょうねえ。ちょっと怖いですよねえ。とても高慢な者になっているように思うんです。

 あなたはあなたです。あなた以上でもあなた以下でもありません。しかし高慢というものはあなたがあなた以上になってしまう状態なんですね。自分は何でもできると錯覚し、周りの者がすべて自分中心に回っているかのように勘違いしてしまうのです。高慢というのはちょうど高速で回転しているコマのようです。近づくものをみな、跳ね返してしまうのですね。でも失敗や挫折によってその高慢に近づくことができるんですよ。ですから失敗や挫折というものはあなたの栄養になるんです。

 ペテロはきっとこんな風に思っていたと思います。・・・私はずっとイエス様の身近にいて、いろんな奇跡を体験してきたから、他の人とはレベルが違う、・・・そんな思いあがった気持ちを持っていたかもしれません。でもペテロは言い訳ができないほど完全にイエス様を否定してしまいました。彼の自信は崩れ去ってしまいました。しかしこの大失敗からペテロは謙遜ということを学んでいったのです。

 謙遜とは何でしょう。それは自分を必要以上に低く見積もることではありません。自己卑下することでもありません。自分以上でも以下でもない。自分のありのままを認めることなんです。つまり謙遜とは、神様によって支えられ生かされ愛されていることを自覚して、神様の恵みなしは生きていけない、そういう存在なんだということを自覚しながら歩んで行く歩みなんですね。そしてそこからは感謝と賛美が必ず生まれて来るんです。

 (PBA制作「世の光」 2015.4.20放送でのお話より )
 
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