♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■汚れたものときよいもの  / 羽鳥頼和

2015年01月31日 | Weblog
2015/1/31放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。旧約聖書のレビ記11章に生きものについての教えが記されています。生きものには汚(けが)れたものと清いものがあって、それによって食べてよい生きものと食べてはならない生きものとが区別されるのです。神は生きものを汚れたものと清いものに区別されました。多分、汚れたものとは食用に適さないものであったのだろうと考えることができますが、しかしどうして適さないのか教えられてはいません。実際にどんな生き物が汚れているのか、少し上げてみると、動物ではラクダ、豚など、鳥ではカラス、ガチョウ、ペリカンなど、地を這うものでは鰐、とかげ、カメレオンなどが汚れているとされました。これらの生きものがなぜ汚れているのかは教えられていないのですが、神が教えようとされておられることははっきりとしています。汚れたものを食べた者はその人も汚れたものとなるということです。

 そして、このように神は勧めておられます。「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記 11章44節)  これらのことが大切な教えです。神は、人が聖なる者とならなければならない、と教えているのです。このことについてイエスも教えておられます。

 「人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
 人は自分自身を聖なる者とすることはできません。ですから、私たちは神によって聖なる者とされなければならないのです。使徒ペテロはレビ記のこの箇所を引用して、「あなたがたを救ってくださった聖なる神にならって、あなたがた自身もあらゆる行いにおいて聖なる者とされなさい。」と命じています。ペテロは聖なる者と「なりなさい」と言わないで、聖なる者と「されなさい」と命じています。神が私たちを聖なる者としてくださいます。私たちは神に信頼し、自分が聖なる者となれることを信じて期待しましょう。

 明日は日曜日です。あなたを聖なる者としてくださる神を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.1.31放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■高山右近が読んだ本  ~キリストに倣いて~  / 岩井基雄

2015年01月30日 | Weblog
2015/1/30放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。昨年1年間、軍師官兵衛に関連するキリシタンたちを少しずつ取り上げてきましたが、今年も第四週や第五週の金曜日は様々な信仰の先輩たちの歩みから学んでいきましょう。今日は戦国時代にキリシタン大名の一人であった高山右近も熱心に読んでいたという本から学んでみましょう。

 その本は15世紀の初頭に書かれた『キリストに倣いて』 という本です。この本は世界の各国のことばに訳され、聖書についで最も読まれた本とさえ言われています。著者のトマス・ア・ケンピスはドイツのケンペンで生まれ、彼の名前はラテン語で「ケンペン出身のトマス」を意味しているのだそうです。この『キリストに倣いて』という本は、神への信仰の成長を促す大切な本でした。そこには神の前の黙想と祈りを通して神に近づき、神に喜ばれる道を生きるあり方が書かれています。日本では1596年に『コンテムツス・ムンヂ』というタイトルで出版され、当時のキリシタン大名たちが好んで読んだそうです。この地上における主人や王や将軍に気に入られるための歩みではなく、すべてを創造された神様に喜ばれる歩みをして行くことこそが大切である、という教えは当時のキリシタンにとって大きな力となってきました。高山右近も始め多くのキリシタン大名たちがどんな時も信仰を貫いていったのは、この本の影響も大きかったのではないかと思います。自分の利益を求めず神と人との前に謙り、他の人を愛して心から仕え、捨てるべきものを喜んで捨てるという歩みは、何よりもキリストの姿に倣うということを求めた生き方だったのですね。真理を求め、愛を求め、喜んで自分を後にするキリストの歩みに、私たちも倣わせていただき、神に喜ばれ人生を歩んでいきましょう。

 聖書のことば
 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」 新約聖書  ピリピ人への手紙2章3節から5節

(PBA制作「世の光」2015.1.30放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■恐れてはなりません / 福井 誠

2015年01月29日 | Weblog
2015/1/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「恐れてはなりません」です。それではイザヤ書7章4節から読んでみましょう。
 「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

 イザヤの時代、イスラエルはイスラエル北王国とユダ南王国の二つの国に分かれていました。そしてこの二つの国の両側にはアッシリヤ帝国、エジプト王国、と超大国の控えていたのです。そこでイスラエルはユダに同盟を呼びかけ、防衛を強化しようとしていました。ところが南のユダはこれを拒んだのでイスラエルは攻撃をけしかけてきたのです。ユダの人々は超大国アッシリヤの脅威よりも今まさに隣接しているイスラエル北王国の攻撃に動揺し、うろたえました。

 そんなユダの人々に神は預言者イザヤを遣わされて語りかけます。
 「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・・心を弱らせてはなりません。」 

 しかしユダの王様アハズは北のイスラエル王国に対抗するため、その背後にある超大国アッシリヤに頼ろうとしていました。目に見えない神の助けを信じるよりは目に見える確かな助けの方に心が動く。それはよく理解できることです。私たちも目に見える慰め励まし助けをこそ願うものですねえ。寂しいときには目に見えない神様が一緒にいてくれるというよりは誰かそばに一緒にいてくれる人が欲しいものでしょう。まして窮地に立たされた時は、目に見えない神様の助けを信じるよりは、いろいろと物事を調整し動かしてくれる具体的な人を願うものでしょう。

 こうしてアハズはイザヤの勧めを拒み、神を信じることを拒否しました。結果、南ユダ王国はその後アッシリヤに従属する苦難の時代に陥っていくことになります。

 こうした歴史から私たちは学ぶ必要があります。イザヤのことばは今の私たちにも語りかけて来るものです。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・・心を弱らせてはなりません。」  神は私たちが直面する様々な脅威にあって目に見えないご自身を信頼するように語りかけています。神に頼る結果は人に頼る結果よりも良いものである。歴史の証言に耳を傾け、目に見えない神に依り頼む幸いを語る聖書に教えられていきたいものです

(PBA制作「世の光」2015.1.29放送でのお話より )

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■神の民を去らせよ / 板倉邦雄

2015年01月28日 | Weblog
2015/1/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神の民を去らせよ」という題でお話ししましょう。

 始めに讃美歌の一節を紹介しましょう。
 「エジプトに住めるわが神の苦しみ悩みを聞かざるか。行け、モーセ。パウロに告げよ。『わが神去らせよ』と。」 (聖歌533番、新聖歌440番)

 いよいよ出エジプト5章からモーセとエジプト王パロとの交渉となります。

 さてモーセとアロンはエジプト宮殿へ行ってパロ王様と会いました。王様の宮殿へ出入りできるのもかつてモーセはエジプト王女に育てられた息子だったからですね。40歳になるまでエジプト王子として王宮で育ちました。

 二人は王様にこう願いました。
 「イスラエルの神、主はこう言われました。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭り・礼拝をさせなさい。』 」 

 王様は答えました。
 「何だと! 主なる神とは一体何者だ。わしは主など知らんぞ。どうして私が主の声を聞いて従い、イスラエルを去らせなければならないのだ。絶対去らせたりはしないからな。」
 
 二人は言い返しました。
 「ヘブル人の神が私たちに現れたのです。どうか私たちを3日の道程ほど荒野に行かせてください。私たちの神、主に犠牲を捧げ、礼拝をさせてください。そうしないと主は悪性の流行病か戦いや争いをもって私たちを悩ませるからです。」

 エジプトの王様は二人に言いました。
 「モーセとアロンよ。あなたがたはなぜ民衆に働く事をやめさせようとするのか。お前らも自分の労役に就くが良い。神様を礼拝したいから休みたいなどと考えるな。力仕事はいくらでもあるのだ。」

 さて、昔も今もパワーハラスメントや過剰な労働が経営者や指導者によってなされていたということでしょうねえ。神である主は私たちが6日間働いて自分の仕事をするように、しかし7日目は安息する休日として仕事や日常の生活をやめて神様を礼拝するように定められたのです。それが私達の健全な体と精神を保つ上で大切な原則ではないでしょうか。上に立つ指導者・経営者は心得なくてはなりません。

 (PBA制作「世の光」2015.1.28放送でのお話より )

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■主の祈り 2  / 大嶋重徳

2015年01月27日 | Weblog
2015/1/27 放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 ルカの福音書10章には、弟子たちが「祈ることを教えてください」と願ってイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」という祈りが記されています。

 もしかすると、祈りを教わるということに違和感を覚える方もおられるかもしれません。決まったことばで祈らなければいけないんだとしたら自由に祈ることができないではないか、と思われるかもしれません。しかし、私たちは祈りを教わらないとそもそも私たちの祈っている祈りが聖書の記す神様に祈っているのか、その他の怪しげな存在に祈っているのか、分からないということもあるのではないかと思います。怖いことですが、そういうことはあるのだと思うのです。

 そもそも私たちが「父なる神様」と祈ること誰から教わったのかと言うと、誰かが「父なる神様」と祈っている祈りから教わったのだと思います。そして聖書を読んでみると、聖書にイエス様が「父なる神よ」と祈っておられることで、そう祈ることが正しいということを知ったのです。その意味で、祈る時に大切なことは聖書を自分のそばにおいておくことです。聖書の記す神に向かって祈る。時に私たちは聖書から離れて自分自身の思い描く神に祈って、幾ら神様に祈っても祈りが聞かれない、そうつぶやくことがあるかもしれません。しかし、聖書を注意深く読むときに、私たちの信じる神様がどのような祈りに答えてくださるのか、どのような祈りには答えてくださらないのか、あるいはどのような祈りには待つようにとおしゃっておられるのか、ということを聖書に出て来る人物から教わることができるのです。

 主の祈りはキリスト教の小さな学校と言われることがあります。神の子であるイエス様の教えてくださった主の祈りこそキリスト教信仰がどのようなものなのかを教えてくれるのです。祈りを主の祈りから教わることは、まさに祈りを知っていく王道なのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.1.27放送でのお話しより )

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■取税人マタイの場合 / 関根弘興

2015年01月26日 | Weblog
2015/1/26放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストに従った弟子の一人にマタイという人がいます。彼はガリラヤ湖に面するカペナウムという町の近くで取税費とつまり税金を取る仕事をしていました。当時このガリラヤ地方はローマ帝国の属州となっていました。そして各地域には取税人がいて、ローマ政府のために人々から税金を取り立てていました。町と町を結ぶ街道にはその道路を利用して運搬される商品に課税するための収税所がありました。多分マタイという取税人はそうした収税所に座っていたのでしょうね。

 当時のユダヤ社会では取税人は大変毛嫌いされていました。それはそうですよねえ、ローマ政府のために税金を取り立てる取税人、彼らはローマの手先、国を売った奴、裏切り者と呼ばれていました。更に当時、税の取り立ては請負制になっていて、有る一定の額をローマ政府に納めればいいことになってました。そこで取税人の中にはローマ政府に納める額よりもはるかに多額の税を取り立てて、まあ差額を着服する者もいたんですねえ。ですから取税人は多額の収入がありました。そして仕事柄、 ヘブル語にもアラム語にもギリシャ語にも通ずる教養を持っていたと言われます。お金はあるし、教養もある。しかし人々から嫌われ軽蔑されていたという訳です。

 そんなマタイの人生を一変させる出会いが訪れました。なんとイエス様が収税所に座っているマタイに目を留めて、「わたしについて来なさい。」(マタイ 9章9節)と言われたのです。するとマタイは何もかも捨てて立ち上がってイエス様に従っていきました。

 私たちが生きているこの時代は不確かな時代、不安定な時代だと思いますねえ。また自分自身についても、自分は揺れ動く葦のように何だか不安定だなあ、と思うこともあるでしょう。そんな私たちが本当に人生に確信をもって生きるためには、確信をもっている存在との人格的な関わりがどうしても必要なんです。マタイは自分の人生を考えながら、心のどこかで、ああこれでいいはずが無い、と思っていたでしょう。そんな彼にイエス様は、「わたしについて来なさい」と招かれたのです。それは、わたしと共に歩み、わたしの生き方そのものを見て学びなさい、ということです。これほど実際的な指導方法はありませんよね。

 するとマタイは立ち上がってイエス様に従っていきました。イエス様に懸けてみようと思った訳ですね。信仰に生きるとはほんの少しばかりの勇気と冒険心が必要ですね。そしてイエス・キリストの招きに答えることは私たちの人生を必ず豊かにしていくのです。

 (PBA制作「世の光」2015.1.26放送でのお話しより)

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■罪過のためのいけにえ / 羽鳥頼和

2015年01月24日 | Weblog
2015/1/24放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 旧約聖書のレビ記5章から7章に、罪過のためのいけにえについての教えが記されています。現代の私たちにとっていけにえは馴染みのないものです。昔の古くさい風習・因習くらいにしか思いません。実はこのいけにえの制度は、人の考えだした風習や因習ではないのです。このいけにえという制度は神が定めたものであり、それはイスラエルの律法つまり法律として定められたものなのです。

 この罪過のためのいけにえとは、隣人または神に対して何らかの損失を与えた場合の弁償の方法として定められています。罪過のためのいけにえのささげ方はこのようなものでした。まず定められた賠償額に見合う雄羊をいけにえとして用意します。この雄羊はみな傷のないものでなければなりません。次に、そのいけにえを殺してその血を祭壇の周りに注ぎます。それからいけにえの脂肪を祭壇で焼きます。いけにえの肉は祭司に与えられました。償いとして雄羊だけでなく損害を与えたものと同じものあるいは同等の価値のもの、更に与えた損害に対して5分の1をつけ足して償いをすることが定められています。罪過のためのいけにえは今で言う損害賠償の制度であると言えます。神はこのいけにえによって神との関係また人との関係の回復・和解の道をあらかじめ備えてくださったのです。また旧約聖書のイザヤ書53章によると、救い主は自分のいのちを罪過のためのいけにえとする、と預言されています。この予言はイエス・キリストの十字架のことを指しています。一方による罪過のためのいけにえは私たちのために捧げられることはありません。しかし十字架にかかって死なれたイエス・キリストは、私たちのための罪過のためのいけにえなんです。十字架は残酷なものです。しかしこれによってしか私たちの罪は赦されることはないのです。救いの道は開かれています。私たちがするべきことはキリストの十字架の贖いを信じることです。神は、信じた者の罪を赦し救う、と約束してくださっています。明日は日曜日です。救いを得るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.1.24放送でのお話より )
 
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■祈りとは? / 岩井基雄

2015年01月23日 | Weblog
2015/1/23放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日は「祈り」ということについてです。

 祈りは殆どの宗教で行われる行為ですし、何も信じていない無宗教の人の心にさえ祈り心はあり、どこかで自分の願いをかなえて欲しいとは願っていますよね。でも、自分の願いを叶えるための祈りと、聖書が語る祈りには違いがあるようです。聖書にはこう記されています。

 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」 
          新約聖書 マタイの福音書 6章10節

 これはイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」と呼ばれる祈りの一節です。それは自分の願いが天の神に届きますようにではなく、逆に神様の御心がこの地にそして私たちに行われますようにという祈りです。もちろん聖書は自分の思いや願いをそのまま神様に祈りなさいとも教えています。しかし何よりも神様の思いや心の方が私たちの思いや願いよりも豊かで私たちにふさわしいものだ、という神様の御心に対する信頼から委ねる祈りは生まれていくのですねえ。神様のご計画の方が自分たちの願いや考えよりも大きく深くまた豊かであると知る時、祈りの答えが自分の思い通りでなくても、道が閉ざされてしまうような時でさえも、私たちは神様に信頼し委ねて待つことができるのです。そして、たとえ自分の願いとは全く違う道が開かれたとしても、神様に信頼して喜んで進んで行くことさえできるのです。祈りが成長し変えられ、成熟していくとき、私たちの人生はより豊かになり、どんな状況の中でも喜び感謝することができるようになっていくのです。神様の御心を求める祈りはクリスチャンの平安の鍵であり、祝福の鍵です。どんな時にも喜び、待ち望み、委ね、感謝する人生をあなたも歩み始めて行きませんか?

 聖書のことば

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5章16節から18節

(PBA制作「世の光」2015.1.23放送でのお話しより)

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■あなたの不義は取り去られる / 福井 誠

2015年01月22日 | Weblog
2015/1/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは、「あなたの不義は取り去られる」です。それではイザヤ書6章7節から読んでみましょう。

 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。

 今日はイザヤ章6章ですが、これが書かれたのはウジヤ王が死んだ年、大体、紀元前740年前後のことですね。随分昔のお話です。けれども、今の私たちの時代にも通じるとても大切な事を語っています。ここでイザヤは、天高く上げられ王座に座しておられる主を見た、と言います。どうやら幻の中で神様と対面しているようですね。そこでイザヤが感じたのは、そこにおられた神様の聖さでした。イザヤは神様とお会いして、神様は聖い、と感じたのですね。そして人間がいかに神様に及ばない汚れたものであるかを痛感し、恐れをなして言いました。

 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ書 6章5節)

 神の聖さを目の当たりにし、自分も自分を取り巻く社会も恐ろしいほどに穢れている。もはや自分も含め、人間は神に滅ぼされるべき存在でしかない、と思わされた訳です。

 ところが神様はそんなイザヤに天使を遣わし、天にあった祭壇の燃えさかる炭をイザヤの唇に触れさせた、とあります。そして、見よ、主の燃え盛る炭が触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた、と言います。

 簡単に言えば、神様は自分の罪深さを認めるイザヤの罪を赦し、きよめてくださったということですね。しばしば私達は思い立って自分たちの心を入れ替えよと思う時があるものです。自分の愚かさを感じた時に、そのような決心をしやすいものですね。しかし本当に私たちの心を変えてくださるのは天におられる神様です。神様が私たちの心に奇跡を起こしてくださらない限り、私たちの心は変わりようがありません。あなたの心を変えてくださる神様がおられることをぜひ聖書を読んで知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2015.1.22放送でのお話より )

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■再会 / 板倉邦雄

2015年01月21日 | Weblog
2015/1/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「再会」という題でお話ししましょう。

 論語に、「友あり。遠方より来る。また楽しからずや。」とあります。学問が上達すると未知の友などが遠方から訪れてきて教えを請うことがある、それは楽しいことではないか、という意味です。ところで、40年も会えなかった兄弟が遠方から会うためにやってきたらどんなに楽しく嬉しく喜びでしょう。

 さて主なる神はアロンに言われました。「荒野へ出て行って弟モーセに会いなさい。兄アロンは旅支度をしてシナイ山へ向かいました。そして弟モーセに会い、二人は抱き合い再会を喜んだのです(出エジプト記 4章27節)。涙に暮れる二人を夕日が包み込んでいたことでしょう。人は会えなくなって初めて知るのでしょうか、相手がどんなに自分にとって必要な存在だったかを。

 さて、弟モーセは自分をエジプトへ遣わそうとする主なる神のすべてのことばとすべての不思議なしるしを兄に告げたのです(出エジプト記 4章28節)。「兄さん、この山で燃え続ける柴の中に主なる神の使いが現れて、自分をエジプトにいる神の民に遣わし、神の民を奴隷の苦役から解放し、約束の地に導き登るように言われたんです。エジプトへ行くことを固辞したら私の持ってる杖が蛇になったり、私の手が悪性の皮膚病になったりもしてびっくり。それでも自分の口は重くてことばの人ではないので、他の人を遣わして欲しいと言ったら、兄さんがやって来るので兄さんが語る人になるから大丈夫と言われたのです。」 

  そこでモーセとアロンの兄弟はエジプトへ下って行って、イスラエルの人々の長老たちをみな集めました。二人は長老たちの前で、ことばの人であるアロンは主なる神様が弟モーセに語られたことばとしるしをことごとく告げました。またモーセは人々の前で不思議なしるしを行なったので、人々はモーセを信じたのです。(出エジプト記 4章29~31節)

 人々は、主なる神様が自分たちを心に懸けてくださり自分たちの苦しみを見ておられお忘れになっていないことを聞いて喜び、心から主なる神に伏して礼拝しました。さて主なる神様を信じ合う兄弟の再会は神の民である家族との再会をもたらし、主なる神様への心からの礼拝となって行きました。人との繋がりは天の神様への繋がりとなるのです。

 (PBA制作「世の光」2015.1.21放送でのお話より )

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