♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■キリストを伝えた詩人  八木重吉 / 岩井基雄

2019年04月29日 | Weblog
2016/3/25放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日はキリストを伝えた詩人、八木重吉について学んでみましょう。

 重吉は明治31年、今の東京都町田市の農家に生まれました。神奈川県師範学校予科に入学。英語と共にインドの詩人タゴールにも感化を受け、文学にも関心を持ちます。その師範学校在学時に鎌倉メソジスト教会に出席するようになり、小石川福音教会の聖書クラスにも通いました。最初は英語の勉強のためだったようですが、次第に聖書のことばが重吉の心を捕えていきます。大正6年には東京高等師範学校に進学します。そして続けていた聖書の学びを通し罪を認め、キリストの愛を受け入れ、大正8年、21歳の時に、駒込キリスト教会で富永徳磨牧師から洗礼を受けたのです。その後は無教会主義の内村鑑三の影響を受け、教会には通わず、神様への信仰を育むようになります。大正10年、23歳の時、女子聖学院の受験生であった島田とみに勉強を教えた事がきっかけとなり、翌年には周囲の反対をよそに結婚します。既に働きが始まっていた兵庫県の御影師範学校で教鞭をとる中、神戸で信仰生活が始まったのです。

 この時期に、詩を作る働きが活発になり、誕生した桃子、陽二の二人の子どもの姿を通しても心の深みを詩に残しています。27歳となった重吉は千葉県で英語教員を勤めます。同年夏、最初の詩集となる『秋の瞳』が刊行されますが、重吉は体調を崩し肺結核を患い、療養生活の中、神様への祈りを深めるのです。第二の詩集となる『貧しき信徒』を準備している中でした。重吉は29歳で神様のもとへと帰ったのです。

 重吉の死後、その詩集は友人の手により刊行されますが、それは病や苦難を通る中で神様を仰ぐ重吉の心や信仰を綴るものでした。彼の最後の授業では「キリストの再来を信ず」ということを残したと言われています。彼の詩集が「神を呼ぼう」というテーマで編集されたのも重吉の信仰の姿が現れているのです。

 聖書のことば
  「苦難の日に わたしを呼び求めよ。 
   わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。

           旧約聖書 詩篇50篇15節
 
  (PBA制作「世の光」 2019.3.25放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神の命じられたとおりの製作 / 羽鳥頼和

2019年04月27日 | Weblog
2019/3/23放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 旧約聖書 出エジプト記34章6節、7節をお読みします。
 【主】は・・・、こう宣言された。
「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」


 今日は旧約聖書 出エジプト記38章からお話しします。まず出エジプト記38章と同じ出エジプト記の27章を見比べてみたいと思います。それぞれの1節、2節を読んでみましょう。まず27章の1節、2節をお読みします。

  「祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。

 次に38章をお読みします。
  「彼は、アカシヤ材で全焼のささげ物の祭壇を造った。 長さ五キュビト、 幅五キュビトの正方形で、 高さは三キュビトであった。その四隅の上に角を作った。その角は祭壇から出ているようになっていた。彼は祭壇に青銅をかぶせた。」(1節、2節)

 祭壇の材質、大きさ、そして四隅の角の飾りや青銅で覆うことまで、27章と38章は同じように語られています。27章で祭壇の製作について神がこのように作れと命じられたことが語られています。そして38章では、「彼は・・・造った」と人が神に命じられた通り祭壇を作ったことが語られているのです。神は人を信頼して祭壇の製作を命じました。人は神の信頼に応えて、忠実に祭壇を作りました。

 出エジプト記の全体を見ると、まず神がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことが語られています。そして救われた人々が神からみことばをいただき、神のみことばに従ったかどうか、が語られて行きます。彼らはみことばに逆らうことも多いのですが、出エジプト記の最後は、神のみことばの通りに神の祭壇や幕家が作られたことが語られています。そしてそこに神が来られて、神の栄光がそこに満ち溢れたことが語られています。

 「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト記40章34節)

 明日は日曜日です。キリスト教会では礼拝で神のみことばを聞きます。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.3.23放送でのお話より )
 
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■もう罪を犯してはなりません / 関根弘興

2019年04月26日 | Weblog
2019/3/22放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストがエルサレムの中にあるペテスダという池に行かれた時のことでした。そこには38年もの間、病いに苦しむ人がいました。イエス様はこの人の病いを癒されたんです。病いを癒されたこの人は、最初、自分を癒してくださった方が誰だか分りませんでした。しかし後に、神殿の中でイエス様と再会したんです。するとイエス様が彼にこう言われました。
 「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(ヨハネの福音書 5章14節 新改訳2017 ) こう言われたんですね。

 これを読むと、もし罪を犯すと病気が再発してもっと悪くなるぞ、とイエス様が何だか脅かしておられるかのように感じてしまう方もいるかもしれません。確かに、もし飲みすぎて肝臓を悪くしたらお医者さんは、これからは飲みすぎに注意してくださいね、そうでないと更に悪化しますよ、と言うでしょうねえ。それに当時は罪を犯したから病気になったのだと考えるのは普通のことでした。だから罪を犯すともっと悪い病気になるぞ、もっと大変な罰を受けることになるぞ、という意味に取ってしまうそういう人もいたかもしれません。

 しかし、注意していただきたいのはイエス様がこの人を癒された時に、病気の原因については一言も言及されませんでした。あなたが罪を犯したからこんなひどい状態になったのだ、などとは一言も言われませんでした。イエス様はこの人を無条件で癒されたんですねえ。この人は38年間、大変つらい生活を送っていたはずです。しかし今、病いが癒されて、これから全く新しい生活が始まろうとしているんです。そこでイエス様は、あなたは神様の憐れみによって癒された、でももしあなたが恵みと憐れみに満ちた神様に背を向けて生きて行こうとするなら、今までの38年間の不自由な生活以上にあなたの人生から平安や安息が失われてしまうだろう、体は良くなったとしてもそれ以上に不自由になってしまうからそうならないようにいつも神様を信頼して生きていきなさい、そう言われたんですねえ。

 神様の愛と恵みの中に憩いながら生きて行く、それが私たち一人ひとりにとってのあるべき人生の姿なんですよ、とイエス・キリストは教えられたんです。

     (PBA制作「世の光」2019.3.22放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし101 / 大嶋重徳

2019年04月25日 | Weblog
2019/3/21放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第八戒には、「盗んではならない。」(出エジプト記20章15節、申命記5章19節)とあります。では第八戒が語る「盗んではならない。」という戒めは、どのような自由への道しるべを指し示しているのでしょうか。

 第八戒「盗んではならない」の反対は、盗まないことではなく、聖書は骨を折って施しをし、正しい仕事を自分の手ですることだ、と語ります。ここで施すことも正しい仕事を自分の手でする事も「骨を折って」とその際の姿勢について語ります。

    ※ 「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
            (エペソ人への手紙4章28節) (新改訳聖書 第三版)

 ここで私たちがよく知っていることは、正しいことをすれば大勢から支持されるわけではない、という事実です。骨を折るとは、「無駄骨」ということばもあるように、全てよい結果を伴うわけではありません。幾ら正しいことをしたとしても、目の前の大きすぎる課題を見ると、自分の無力さに押しつぶされそうになることもあるのです。盗みに満ちた社会の抱える闇の深さに諦めそうになることもあります。あるいは盗みに目をつぶり加担している自分の弱さを見つめるとき、もうやっても無理なのかなあと投げ出したくなることがあります。しかし地上で折った骨の結果がどうであれ、諦めないことです。私たちは自分がすべての責任を負っているという強すぎる責任感を注意深く取り扱わなければなりません。

 目の前に広がる深刻な状況を誰よりも御存知な神こそ、この現状に意気消沈しておられることなく御自分の所有の世界に独り子なるキリストを遣わし、今日も高らかに世界は神のものであると宣言されているのです。そしてあなたが昨日なしていた小さな営みも、あるいは途中で投げ出してしまいそうになっていることも、永遠の終末に神様が完成へとつなげてくださるのです。神様がすべてを完成させてくださる。イエス様が再び来られる時に、偽りのものはやがて廃れるからです。私たちはこの世界の終末の希望を見失ってはいけません。

 この朝、ラジオを聴き、自分のできることをしようと神様に祈りを捧げ、助け合う社会、わかち合う社会、盗まない盗ませない社会を形成しようとしたことは、神様が一緒に取り組んでくださっていることとなるのです。私たちは祈りつつ主に感謝をしながら、その小さな営みを続けていくのです。私たちは、神様に祈ること、そこに骨を折ることを惜しんではなりません。

    ( PBA制作「世の光」2019.3.21放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■愛される立派な人 / 福井 誠

2019年04月24日 | Weblog
2019/3/20放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むごとに不思議にも自然と養われていくものがあるものです。では今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はサムエル記第二 1章23節から「愛される立派な人」と題してメッセージをお伝えいたします。

  「サウルもヨナタンも、愛される、立派な人だった。

 ダビデにサウル王の悲報が伝えられました。長くダビデに敵意を抱き、殺そうと追跡してきたサウル王が戦死したというのですから、ダビデにとってはホッと胸をなで降ろすような知らせであったことでしょう。このサムエル記を読み続けてきた皆さんもまさにその通りと思わされた所ではないでしょう。かしかし意外にも意外、ダビデの心、サウルに対する思いは違っていました。先週も読みましたように、ダビデにも自尊心はあって、ダビデは自分を軽んじる人に怒りと敵意を露わにする普通の人間でしたね。そしてサムエル記を読み続けてきた方々はお分りのように、ダビデも実は自分に敵意を向け追跡して来るサウル王に復讐心をにじませるいじましい姿すら見せているのです。しかしダビデは長い敵対関係の試練の中で、そのような思いを神にあってコントロールし、神にあって復讐しない、むしろ神に裁きを委ねるべきことを学び、そのような心をしっかりと持っていくようになるのです。

 サウルの死に際して捧げられた哀歌にはそのダビデの成熟した心が表されています。ダビデは言います。「サウルもヨナタンも勇士であり愛される立派な人だった。」 

 ダビデはサウルを汚さずその名誉ある部分を認めています。そして更に大切なのは、この哀歌がユダ族の次の世代を教えるために作られた点です。つまりこの詩は単なる哀歌の歌ではなく、伝えたいものを持っているのです。それは何か、人間が弱い者であることを自覚する時に見えて来る部分なんだと思いますが、ダビデは次の世代に伝えたかったのは、神のもとに人間、助け合い支え合いながら生きている現実のようですね。深い人生理解と愛に成熟した歩みこそ私たちが求めるべき信仰の道です。
 
 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.3.20放送でのお話より )

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■魔術師シモン / 板倉邦雄

2019年04月23日 | Weblog
2019/3/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「魔術師シモン」という題でお話ししましょう。
 
 子どもの頃、白い衣を着た人が家々を巡回していました。母親に尋ねる、「あの人はねえ、占いの人だよ」と答えてくれました。今日は、魔術師シモンのお話です。使徒の働き8章に入りました。

 さて、サマリヤの町には以前からシモンという人がいました。シモンは魔術を行なってサマリアの人たちを驚かし、自分をさも偉い者のように言いふらしていました。魔術には昔から三つの型があったようです。

 一つは黒魔術と呼ばれ、悪魔の力を借りて人々を惑わします。二つ目は白魔術と言い、神の力を借りて行うものだと主張しますが人々を惑わします。第三の型は自然の力を応用して行うのです。シモンはこういう三つの型を用いてサマリアの町で人気を得ていたのです。それで子どもや大人の人たちに至るまでシモンについて行き、この人こそメシヤ・救世主ではないか、と言われていたのです。ところがこのソマリアの町にピリポが神の国とイエス・キリストについて伝道をしてから大分様子が違ってきました。大勢のサマリアの人々が信仰を持って、次から次へとバプテスマ・洗礼を受けたのです。

 ピリポの宣べ伝えた教えは何か人を惑わしたり驚かしたりする宗教ではありませんでした。神の国の祝福と主イエス・キリストの十字架と復活という希望と赦しを話してくれたからです。

 それまで自分についてきた人々がピリポの教えるイエス・キリストについて行ってしまうので、シモンの魔術の仕事は上がったりになるし、人気もなくなってきました。そこでどう考えたのか、シモン自身も神の国とイエス・キリストを受け入れ、バプテスマ・洗礼を受けてしまったのです。神の国は魔術師シモンにとっても魅力のあるものでした。更にイエス・キリストの名前は今まで出会ったことのない人格的にも魅力に溢れたものだったのです。

 イエスのことばです。
 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
           マルコの福音書1章15節

  (PBA制作「世の光」2019.3.19放送でのお話より )

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■キリストの癒しのステップ / 岩井基雄

2019年04月22日 | Weblog
2016/3/18放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。今日取り上げる箇所には、神の御子キリストが目の不自由な人を段階的に癒された、ということが記されています。お読みします。
 
 人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
  新約聖書 マルコの福音書 8章22節から25節

 この目の不自由な人は、人々によってキリストのもとに連れて来られました。しかしキリストはその人を村の外に連れて行かれ、一対一での対応をなさったのです。人の痛みに寄り添い、決して見世物のようにはなさらなかったのですねえ。そしてご自身のつばきを彼の両目につけられ、その上に両手をあてられました。不自由さや寂しさを抱えてきたであろうこの人にとって、それは暖かなぬくもりと愛を感じ取った一時であったことでしょう。その時の癒しは完全ではなかったのです。なぜでしょうか。キリストは当然一度で癒すことのできる力を持っていらっしゃいました。しかしこの時、キリストは彼を段階的に癒され、彼が自ら目を開き、その目でじっと見るように見つめるように、と招かれたのです。そこには癒しの不思議なステップがあったとも言えるでしょうね。キリストがなさる愛のわざは、時に人状況に合わせ、その人の内側にあるものを引き出され、待ち望むことや信頼して自ら開き見つめることを促されるのです。

 私たちも時に、一足飛びの癒しや問題の解決を求めますねえ。しかし神様は敢えて私たちを待たせることがあり、段階的に私たちを取り扱われることがあるのです。神様への信頼を持って、神様の愛と恵みを待ち望み、自ら希望へと進み出ていく力を私たちはキリストにあって受け取ることができるです。私たちもまた、キリストに導かれて自ら開き、また見つめていく生涯、変えられていく生涯を歩んでいきましょう。

  (PBA制作「世の光」 2019.3.18放送でのお話より )
 
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■主の名(性質)と人の性質 / 羽鳥頼和

2019年04月20日 | Weblog
2019/3/16放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 旧約聖書 出エジプト記34章6節、7節をお読みします。
 【主】は・・・、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 今日はここで語られている神のご性質についてお話しします。神はご自分がどのようなお方であるか、五つのことを教えておられます。

 一つ目は、憐れみ深く、情け深い神です。神様はどんなに悪い人をも暖かく受けとめ、そして赦そうとするお方です。

 二つ目は、怒るのに遅い、です。神様は悪いことを絶対に赦しません。しかし怒ってすぐに罰することはしません。神様はどんなに悪い人も愛して、簡単に裁くようなことはないのです。

 三つ目は、恵みとまことに富んでおられる、です。「恵みとまこと」ということばは、契約をするときの神の態度を表すことば、と言われています。約束したことを必ず果たされる信頼できる誠実で愛のあるお方です。

 四つ目は、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す、です。神は愛をもって、約束したことを忘れることなく必ず果たしてくださいます。そして罪を赦して忘れてくださるお方です。

 五つ目は、罰すべき者を必ず罰して報いる、です。神は正しい正義なるお方です。悪を必ず化するお方です。神は人を何とか救おうとされるお方ですが、悪を見逃したり大目に見るようなことは絶対にありません。必ず正しく裁かれるお方です。

 ここで何回も繰り返されている「恵み」ということばは、もともとのことばは「愛」とも訳すことがあることばです。神は愛に満ちておられ、私たち人間を悪や罪から救ってくださるお方です。

 明日は日曜日です。神のことをもっと知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2019.3.16放送でのお話より )
 
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■一歩踏み出す勇気 / 関根弘興

2019年04月19日 | Weblog
2019/3/15放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストがエルサレムにあるベテスダという池に行かれた時のことでした。この池の回りにはたくさんの病人が集まっていました。そこに38年もの間、病気にかかっている人がいました。イエス様は、こう質問されたんですねえ。「良くなりたいか?」 しかしこの病人は、即座に「はい、良くなりたいです。」とは答えせんでした。彼は今まで何をやっても無駄だった、いつも期待しては裏切られた、というそんなことの連続だったのだと思います。でもイエス様はこの人に、「起きて床を取り上げて歩きなさい。」とお命じになったのです。ただ目の前にいるこのイエス様のことばに従って、彼は自らの足に力を入れて立ち上がっていきました。すると何と、この人の病は癒され、歩けるようになったんです。イエス様のことばをただ聞くだけで終わったら何も始まりません。そのことばに従って生きてみよう、そのことばの通りに一歩踏み出してみよう、という勇気が必要なんですね。

 旧約聖書に、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民のことが出ています。モーセに導かれて彼らはエジプトを脱出し、神様が約束してくださった土地を目指していきました。いよいよ約束の地に入ろうとする時、ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。しかし大きな問題がありました。この時期のヨルダン川は水が岸いっぱいに溢れて流れていたのです。その時神様はモーセの後継者となったヨシュアに、主の契約の箱を担ぐ祭司たちを先頭に渡らせなさい、と言われたんです。そして先頭の祭司たちが川を渡ろうと足を水に一歩浸した時、何と川の水が堰止められ、人々は全員無事に川を渡ることができたんですねえ。

 この奇跡的な出来事は旧約聖書のヨシュア記という所に書かれています。彼らはまず川が堰止められてから渡ったのではありません。周りの状況が変わってから従おうと考えた訳でもありませんでした。神様の命令に従って川に足を一歩踏み出した時に水が堰止められたんです。信仰に生きる醍醐味というのはここにあるんですねえ。目の前の状況は何も変わっていなくても、聖書の約束のことばを信頼して一歩踏み出していく。その時に神様のみわざを見ることができるんです。信仰に生きるとはほんの少しの勇気と冒険心が必要なんですね。

     (PBA制作「世の光」2019.3.15放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし100 / 大嶋重徳

2019年04月18日 | Weblog
2019/3/14放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第八戒には、「盗んではならない。」(出エジプト記20章15節、申命記5章19節)とあります。「盗んではならない。」という戒めは、どのような自由への道しるべを指し示しているでしょうか。

第八戒「盗んではならない。」の反対を「盗まないこと」ではなく、聖書は、「自分の手をもって正しい仕事を する」ことだと語ります(参照 エペソ人への手紙4章28節)。
 自分の手を持って正しい仕事に仕えることができたならば、この世界で盗まない社会・奪われない社会が形成されていきます。

 しかし、困っている人は受けるだけで良いのでしょうか。そんな事はありません。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒の働き20章35節)と聖書は語ります。もし今、困窮の中にあえいでいる人も、またそれでも自分の手にある何かを誰かのために使っていく必要があるのです。人は誰一人、受けるだけの存在になることはないのです。何かをしてもらって笑顔で「ありがとう」と感謝のほほ笑みを返すことも与えることになるのです。

 日本語の「お互いさま」ということばは良いことばだなあと思います。人は受けるだけになっていくとき、そこに卑屈な感情も生まれていきます。人間はお互いに愛し会う、与え合う、譲り合う、赦し合うことが大切なのです。今まで誰かのものを盗んでいた自分の手を使って、誰かに与えていく人生を歩いていくときに、何かを略奪することにも豊かに生きる人生が始まるのです。たとえ今日が寝たきりの一日であったとしても、誰かのお世話になっていたとしても、大胆に受け取り大胆にその感謝を相手に表し、そして誰かにしてもらったように愛を表していくのです。

 全員が自分の手をもってなすときに、そこには受ける人、与える人という構造が形を消していきます。自分の手によってという姿勢は、受けるだけの甘いの構造やいかに受けられるかだけに集中する思考停止状態を自覚させてもくれるのです。自分がすべてをやらなければ・・・、肩に力が入っている人もリラックスしましょう。私たちはすべてを背負うことなどできません。最終的には神様がすべてをなされるのです。神様は神様の所有された世界を維持しておられ支配しておられるのです。その神様のお働きにお委ねしながら「お互い様」と生きていきたいものです。

    ( PBA制作「世の光」2019.3.14放送でのお話しより )

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