♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■復活によってもたらされるもの /羽鳥頼和

2011年04月30日 | Weblog
2011/4/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。先週から二週に渡ってイースター・スペシャルをお送りしてきました。

 去年教会に来ていたおばちゃんが亡くなった時、病院に駆けつけた家族の中にひ孫の小さな男の子がいました。この子がおばあちゃんをじっと見ながら、「おばあちゃんはもう話できないの?」とお母さんに聞きました。お母さんは涙を浮かべながら黙っていました。私はその男の子に言いました。「おばあちゃんはイエス様を信じていたから天国でまたお話しできるよ。」 きっと多くの方もこのように言って励ますでしょう。

 でもなぜそう言い切ることができるんでしょうか。死んだ人が生き返って天国で生きることをどうして確かなこととして言うことができるのでしょうか。

 それはイエス・キリストが十字架で死なれた後、三日後に復活されたからです。そうです。イエス・キリストの復活が死んだ人がまた生き返って天国で生きることができることを約束してくれているのです。イエス・キリストの復活が私たちにとってどんな意味があるのか、もう少しお話したいと思います。

 イエス様の復活には神様の力が働いています。コリント人への手紙第一6章14節には、「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」とあります。イエス様の復活は私たちも神様によってよみがえることのできることの約束です。

 またペテロの手紙第一1章3節には「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」とあります。イエス様の復活は私たちが新しく生まれて新しい永遠のいのちを与えられて生きることができることを約束しています。神様は私たちを新しく生まれさせて生ける望みを与えてくださるのです。イエス様の復活はそのことの約束です。

 あなたもイエス様を信じて新しく生まれ生きる希望を持ってください。明日はキリスト教会で、よみがえられたイエス様を覚えて礼拝が行われます。あなたもお近くの教会にぜひいらっしゃってください。
 
  ( PBA制作「世の光」2011.4.30放送でのお話より )

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■主イエスの権威と約束 /岩井基雄

2011年04月29日 | Weblog
2011/4/29放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。先週から二週に渡ってイースター・スペシャルをお送りしています。

 私たちの罪のために十字架にかかり、すべての罪のさばきを代わりに受けてくださった後、イエス・キリストは死に打ち勝ってよみがえってくださいました。それはイエス・キリストがすべての権威すなわち罪を赦す権威も命を与える権威をも持っている証でもありました。私たちが恐れる死に対してもイエス・キリストは権威を持ってそれをうち破り、勝利してよみがえってくださったのです。そしてキリストは弟子たちにこう語られました。

 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
  新約聖書 マタイの福音書 28章18節、20節 

 主イエスはすべての権威を持っていらっしゃるゆえに弟子たちに使命を与えられました。それは彼らが神の愛に生かされ、その愛を伝えると言う使命でした。

 そして世の終わりまでいつも彼らとそして今を生きる私たちともどんな時にも一緒にいてくださることを約束しくださったのです。すべてのことに対して権威を持っていらっしゃる主イエス・キリストがいつも私たちと共にいてくださるという約束は何と力強くそして平安を与えるものでしょうか。

 この後主イエスは天に昇られましたが、いつでも私たちと共にいて、愛と恵みと平安を豊かに与えてくださいます。そしてもう一度来てくださると約束してくださっています。私たちはその約束を握りしめ、今私たちが置かれているところで、この主の力と平安をいただきながら歩ませていただくことができるのです。

 主イエス・キリストは今も生きておられます。そしてあなたを愛し、あなたを守り、あなたに限りない平安と希望を与えてくださいます。あなたはこのイエス・キリストにあって、どのような苦しみや痛みの中にあっても力強く歩むことができます。あなたの心の中にキリストは生きてくださることができるからです。

 あなたもこのキリストの愛と希望をご自分のものとなさいませんか。

   (PBA制作「世の光」2011.4.29放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しく
はPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。
日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。
予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。
問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■あれは主だ(ペテロの信仰回復) /福井 誠

2011年04月28日 | Weblog
2011/4/28放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あれは主だ」。 それではヨハネの福音書21章15節から読んでみましょう。

 「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。

 イエスは復活された後、多くの弟子たちに自分を現わされました。しかし私はイエスがペテロに現れてくださった物語が何よりもイエスの愛の性質をよく示していると思うところがあります。

 ペテロはイエスが裁判に連行された時に、イエスの仲間であることを疑われ、あまりの恐ろしさにイエスとの関係を呪いすら込めて否定し、逃げ出してしまった人です。実に情けない人ですねえ。ま、はっきり言ってしまえば、もう弟子とするような価値など全く無い人かもしれません。

 けれどもイエスはそんなペテロに現れて、もう一度ご自分の弟子となっていくチャンスを与えられます。「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 それはペテロの失敗を問い詰める質問ではなくて、わたしを愛する心があるんだったら失敗をしても何をしても、どこまでもついてきなさいと言う愛の招きのことばでした。

 しばしば人はいつまでも過去の失敗を忘れず、自分を許すことができずにいることがあります。そして教会からも神の働きからも自ら退いてしまうことがあります。

 しかし神はそんな失われた者を探し出してくださるのですねえ。また私たちの弱さを知りつつ、私たちをご自身の働きに召してくださるのですね。

 確かに聖書にはアブラハム、ノア、モーセ、ダビデ、エリヤと信仰の偉人の物語が多く綴られています。しかし、いずれの人もどこかで失敗しているものですね。しかも彼らの失敗の幾つかは悲劇的ですらありました。

 日本のように失敗の許されない風潮のある国では一度の失敗で何もかもが駄目になってしまうと思われることがあることでしょう。しかし神は、たとえ取り返しのつかない失敗をしたと自分を責めるようなことがあっても決して私たちを見捨てられることはありません。

 神様を信じましょう。神様に従うものには新しい人生を再び備えてくださることを信じてまいりましょう。

  ( PBA制作「世の光」2011.4.28放送でのお話より )

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■私は、決して信じない /板倉邦雄

2011年04月27日 | Weblog
 2011/4/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。 今日は「私は決して信じない」という題でお話ししましょう。

 埼玉県の80歳を過ぎた人が、孫娘が音楽の発表で失敗しがっかりしているのを心配し、励まそうとしました。「人間は失敗しても努力すれば必ず取り返しせるよ。おじいちゃんだってやればできるんだ。自転車で東京までいけるぞ。」「できないよ。できないよ、おじいちゃん。」 ところが孫のためにと祖父は2時間半かけて東京の日暮里駅まで自転車で到着したのです。その日から孫娘の祖父を見る目が変わったそうですね。

 私たちは自分の目で見たり手で触れてみないと決して信じないという心を持っています。実は聖書に、イエス様の復活の現場に居なかったトマスという弟子のことが書いてあります(参照 ヨハネによる福音書 20章 24-29節)。他の弟子たちがトマスに、「私たちは復活されたイエス様にお目にかかった。」と言い聞かせました。しかしトマスは「私はそのイエス様の手に釘跡を見、私の指をその釘跡に差し込んで触れてみなければ決して信じない。」 頑として受け入れませんでした。それから8日の後です。イエス様の弟子たちは家の戸を閉じて家の中にいました。弟子のトマスも今度は一緒です。復活されたイエス様が家の中に入ってこられたのです。

 そして「平安があるように。」と言われました。それからトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて私の手を見なさい。手を伸ばして私のわき腹に差し入れてみなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい。」 トマスはその場にひれ伏して申し上げました。 「わが主よ。わが神よ。」 イエス様はトマスに言われました。「あなたはわたしを見たので信じたのか? 見ないで信じる者は幸いである。」

 「私は決して信じない。」・・・私たちは何と疑り深いものでしょう。見たり触れたりしないとなかなか信じられないものです。しかし神様であり復活されたイエス様の方から弟子のトマスに現れてくださいました。神様の方で不信仰で疑り深い私たちを信じることができるように近づき導いてくださるのです。

 聖書のことばです。
 「すべて彼(イエス)を信じる者は、失望に終ることがない。
 「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 ローマ人への手紙 10章11節と17節(口語訳聖書)

  ( PBA制作「世の光」2011.4.27放送でのお話より )

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■エマオの途上 /山中直義

2011年04月26日 | Weblog
2011/4/26放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。

 先週から二週に渡ってイースター・スペシャルをお送りしています。火曜日の今日は「エマオの途上」と題してお話をさせていただきます。

 イエス・キリストの十字架から三日目。エルサレムから11キロ程離れたエマオをという村に向かう道に、二人の弟子の姿がありました。

 彼らはイエス・キリストの復活を信じることができず、諦めて逃げ出そうとしていたのです。彼らは「わたしは三日目によみがえる」と言われたイエス様のことばを聞いていました。また墓に行った女たちが空の墓しか見つけることができなかったこと、み使いがイエス様の復活を宣言したということも聞かされていました。しかしそれでも彼らはそれらのことばを信じることができなかったのです。

 そんな彼らにイエス様が近づいてこられ、共に道を歩かれたと聖書は言います。彼らの目は遮られていて、その人物がイエス様であることはわかりませんでした。ですがその人物が聖書から語り始めたとき、彼らは心が内に燃やされる体験をしたといいます。そして聖書のことばによって心が燃やされた彼らはその人物にもっと一緒にいてくれるように、もっと聖書から教えてくれるようにと熱心に願いました。そしてその人物とさらに深く向き合った時、彼らの目は開かれ、それが復活したイエス様だと分かったと言います。

 いろいろと考えて議論してみるものの、結局は信じることを諦めてイエス様から離れようとしてしまう。あの弟子たちに私たちの姿が重ねられているように思います。

 ですがイエス様はそんな私たちを見放さず、なおも愛と情熱を持って語りかけてくださいます。もしあなたが聖書のことばを聞くとき心が燃やされたと思うなら、あなたもあの弟子たちがそうしたように神様に願ってみてください。もっとイエス様と一緒にいられるように。もっと聖書から教えてくださるように。そんな願いを持ってあなたが聖書を開き、教会の扉を叩くなら、あなたにもイエス・キリストが分るはずです。

 聖書のことば
 「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
     旧約聖書 詩篇 119篇18節

     (PBA制作「世の光」2011.4.26放送でのお話しより )

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  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
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■空になった墓 /関根弘興

2011年04月25日 | Weblog
2011/4/25放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。今日もさわやかに過ごしていきたいですね。

 聖書がイエス・キリストに関して教えている事実は少なくとも三つあります。

 一つは、イエス・キリストは約2000年前にベツレヘムという場所に生まれ、33歳を少し過ぎた頃十字架につけられたということ。

 二番目は、イエス・キリストの遺体はアリマタヤのヨセフという人に引き取られ、彼の墓に埋葬されたということ。

 そして三番目に、三日の後にその墓は空っぽになっていたということです。

 私は何度かイスラエルへ行って、イエス・キリストが埋葬されていたであろう墓を見てきました。そのお墓にはもちろんイエス・キリストの遺体は安置されていません。その扉にはこうを英語で書かれていました。
 「ヒー イズ ノット ヒア 、フォー ヒー イズ リズン。」・・・「ここにはおりません、よみがえられましたから」と記されていたのです。

 2000年前に起きたこのイエス・キリストの復活は、その後の弟子たちの行動を変え、世界をも変える原動力となっていきました。一体復活の事実は私たちに何をもたらすのでしょう。
 イエス・キリストはこう語られたことがありました。ヨハネの福音書の中で「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(11章25節) 

 何と大胆なことばでしょう。もしイエス・キリストが十字架につけられ死んだままであったならイエス・キリストはただの大言壮語、大ぼら吹きと言われても仕方ありませんよね。しかイエス・キリストはご自分が語られた通り、十字架で死なれましたが、死を打ち破り、復活なさったのだ、と多くの目撃証言者たちによって証言されているんです。

 ということはイエス・キリストが復活されたということはイエス・キリストが語られたことばや約束のことば一つ一つが確かに真実であったのだということを保証する出来事となったんですねえ。

 イエス・キリストは「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と約束なさいました。イエス・キリストが死んだままならどうしてこのことばに真実があるでしょう。しかしあの空っぽの墓はイエス・キリストを信じる一人一人が死で終わることのない永遠の天国のいのちが与えられることを保証しているのです。

 またイエス・キリストは「わたしは決してあなたを捨てて一人ぼっちにはしない」(参照 ヨハネ 14章18節、ヘブル 13章5節)と約束なさいました。もしイエス・キリストが死んだままならどうしてその約束が果たされるでしょう。しかしあの空っぽの墓はイエス・キリストは今も生きていて信じる一人一人と共にいてくださることを保証するものになったのです。「ここにはおりません。よみがえられました。」(参照 マタイ 28章6節、ルカ 24章6節、マルコ 16章6節)という復活の出来事があったからこそイエス・キリストは救い主であり、命を与えそしてあなたに永遠のいのちを与えることができるのです。

 (PBA制作「世の光」2011.4.25放送でのお話しより)

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■イエスの十字架の意味 /羽鳥頼和

2011年04月23日 | Weblog
2011/4/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。
 今週から二週に渡ってイースター・スペシャルをお送りしています。

 今日は2000年前の十字架の出来事が私たちにとってどんな意味があるのか、お話をしたいと思います。

 聖書は十字架刑がどんなに苦しいものか詳しくは説明していません。むしろあっけない程簡潔に十字架のことを語っているのです。どうしてでしょう。

 それは「十字架」という一言で当時の人々はその恐ろしさを理解できたからでしょう。そしてまた、いたずらに人間の情に訴えることをしないというのが聖書の方針であったからでしょう。聖書は十字架の出来事をドラマチックに描くことをせずに、冷静に描くことによって、十字架の意味を私たちに語っているのです。

 聖書にはイエス様が十字架に架けられ昼の12時になった時、全地が暗くなって午後3時まで続いた、その時イエス様大声で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ 27章46節、マルコ 15章34節)と叫ばれたと記されています。不思議なことに昼の12時に全地が真っ暗になったのです。昼間のように本来明るいものが暗闇となってしまうような出来事は聖書では神様のさばきを意味しています。神様のさばきを表す暗闇の中でイエス様は大声で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。

 このことばは神様から見捨てられた者の神様への叫びです。神さまとの親密な交わりを持っていたイエス様が神様に見捨てられてしまったのです。この暗闇とイエス様の叫びはイエス様が私たち人間に代わって罪を負って神のさばきを受けられたことを教えています。

 コリント人への手紙第二 5章21節には「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と語ってイエス様の十字架によって人が罪を赦され、義しい者となることを教えています。そして聖書はそのイエス様は死んで三日後によみがえられたことを教えています。

 明日はそのことを記念したイースターです。教会では私たちを救うために十字架で死なれそしてよみがえられたイエス様を覚えて記念の礼拝を行います。ぜひお近くの教会にいらしてください。

  ( PBA制作「世の光」2011.4.23放送でのお話より )

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■キリストのまなざし /岩井基雄

2011年04月22日 | Weblog
2011/4/22放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。 今週から二週に渡って、イースター・スペシャルをお送りしています。

 イエス・キリストが十字架に架けられためにユダヤ人の祭司長・律法学者たちに捕らえられた時、その場にいたキリストの弟子たちは全員逃げました。キリストを見捨てたのは、あのイスカリオテのユダだけではなく、十二人のすべての弟子だったのです。

 捕らえられたキリストの裁判は不当なものでした。ユダヤ側の裁判3回と死刑を執行できる権威を持つローマ側の裁判3回の合計6回の裁判が一晩で行われたのです。それは結果が有罪となるように策略をめぐらした不当な裁判だったのです。しかし、主イエスはすべてをご存知で、その裁判を受けられました。

 裁判の間、戻ってきたペテロは焚き火にあたりながら待っていました。心配もあったのでしょう。しかし、焚き火の火明かりに照らされた時、彼の顔を知る人が「あなたもキリストと一緒にいたでしょう。」と尋ねます。彼はとっさにそれを否定します。その後もことばのなまりを指摘されたりして二度キリストとの関わりを問われますが、彼はキリストを完全に否定したのです。そして鶏が泣きました。その時です、ちょうど裁判から出てこられた主イエスの眼差しがペテロに注がれました。聖書はこう記しています。

 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。 
             新約聖書ルカの福音書 22章61節 

 主はすべてをご存知でした。そしてすでにその事をペテロに予告していたのです。

 すべてを知っておられた主イエスの眼差しはどのようなものだったでしょうか。きっと咎めるようなものではなく、ペテロを暖かく包むような眼差しだったのではないかと思います。主は私たちのすべての弱さや罪をご存知で、その私たちの罪のために十字架にかかってくださったからです。

 この主イエスの愛の眼差しはあなたにも注がれています。あなたにどのような過ちや罪があろうとも、主はすべてをご存知で、あなたのために十字架にかかり、そして愛を豊かに注がれます。あなたはこのキリストの愛にどのようにお答えになりますか?

   (PBA制作「世の光」2011.4.22放送でのお話しより)

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■ゲッセマネの祈り /福井 誠

2011年04月21日 | Weblog
2011/4/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「ゲッセマネの祈り」です。それではルカの福音書22章42節から読んでみましょう。

 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。

 今日は最後の晩餐の続きになります。最後の晩餐の後、イエスはオリーブ山へと向かいました。 イエスが祈り場としていたゲッセマネの園があったからです。現在そこにはイエスの苦難の祈りを記念するゲッセマネ教会が建っています。この教会のために16ケ国の国際的な協力があったために、俗に「一般国民の教会」とも言われており、イエスが祈られた場所とされる所も保存されています。ともあれイエスはそこに三人の弟子を連れて入ると、彼らから離れて一人で祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。

 杯は神の怒りを意味しています。イエスはこの時自分が神の怒りにさらされて死を味わう苦しみを予測し戦っておられたのです。使徒パウロは「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ人への手紙 3章13節)と語りましたが、まさに私たちに代わって神の呪いを受ける、怒りとさばきを受けるという苦しみに直面して戦っておられたのですねえ。

 しかしそれは私たちが神に赦され受け入れられるためにはどうしても必要なことでした 。イエスは祈られました。「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 

 非常にイエスの純粋な心を感じさせることばです。 人間は自己中心なものです。人のために自分のいのちを犠牲にする、人に代わって神の呪いを受けたり怒りを受けたりするなど、なかなかできないものです。

 しかしイエスは私たちの罪の赦しのために神の怒りの杯を飲み干す決意を祈りの中でなさっていくのです。それは単に人間として高貴な決断だというのではありません。まことに私たちを神の怒りと罪の滅びの中から救い出す力あるわざなのです。イエスの救いを信じていきましょう。

  ( PBA制作「世の光」2011.4.21放送でのお話より )

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■ぞうきんになる(最後の晩餐) /板倉邦雄

2011年04月20日 | Weblog
2011/4/20放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「ぞうきんになる」という題でお話ししましょう。

 汚いホコリまみれの弟子たちの足を洗ったイエス様のお話です。

 イエス様が雑巾のようになられたのです。まず雑巾になるということは捨てられることを意味していました。聖書の箇所にこう書いてあります。
 「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」(ヨハネの福音書13章1節 口語訳聖書) と。

 「この世を去る」とはイエス様にとっては人々によって雑巾のように捨てられることでした。十字架の苦難と死がイエス様を待っていたのです。雑巾のように使い捨てられることが天の父なる神様のイエス様に対する心でした。 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」と旧訳聖書のイザヤ書53章の3節にある通りです。

 次に雑巾なるということは、愛する人の汚れをきよめることでした。こうも書いてあります。 「イエスは、・・・、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。 」(ヨハネの福音書13章1節 口語訳聖書)
 残されてゆく弟子たちへの愛が弟子たちの足を洗うという行動となっていったのです。イエス様の語ったことばを信じている弟子たちは、既にきよくされていたのです。イエス様の愛の犠牲は私たちの心をきよめ、清々しくしてくださいます。天の愛は穢れた私たちを洗いきよめてくださるのです。

 さて最後に、雑巾になるということは私たちへの謙遜と奉仕の模範の姿ではないでしょうか。イエス様のことばです。
 「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネの福音書13章14節)

 「主であり」とは神の子であるという意味です。神様であられるお方が腰をかがめ、跪(ひざまず)き、罪人たちの穢れた足を洗ってくださいました。もったいない有難い事です。ですから今度は私たちがお互いの穢れた足を洗ってあげる番です。汚い奴と言わずに、黙って雑巾になりたいものですね。

 聖書のことばです。
 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」 ピリピ人への手紙2章3節

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