♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■許容する神 / 板倉邦雄

2017年05月30日 | Weblog
2017/4/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「許容する神」という題でお話ししましょう。

 少し難しいテーマをお話しすることになります。それは主なる神様の絶対主権と私たち人間の自由意志の問題と関係性です。

 さてモアブの国の王様バラクは占い師バラムにイスラエルの人々を呪い殺してくれと依頼の使者を送りましたが断られてしまいましたね。そこで王様は前の使者よりは身分の高い大臣を前より多く遣わしました。
 大臣たちは占い師バラムの家に行って言いました。「王様はこのように申しております。どのような妨害にもめげず、どうぞ私どもの所においてください。私はあなたを大いに優遇しましょう。あなたが私に要望されることは何でも叶えましょう。どうか私の国に来て、このイスラエルの民を呪ってください。」(民数記 22:15~17参照 )

 しかし占い師バラムは王様の大臣たちに答えました。
 「たとい王様が家に満ちるほどの金銀を私に与えようとも、事の大小を問わず、私の神主のことばを超えては何もすることはできません。それでどうぞあなたがたは今夜ここにとどまって主なる神様がこの上私に何と仰せられるかを確かめさせてください。」(民数記 22:18~19参照 )

 さて、夜が来ました。主なる神様は占い師バラムに臨んで言われました。
 「この人々はあなたを招きに来たのだから立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただし私が告げることだけを実行しなくてはなりません。」(民数記 22:20参照 )

 恐らく占い師バラムは二回目の使者たちによる王様の申し出に目がくらんだのではないでしょうか。1回目は動かなかった心が、二回目は動いたのです。

 行ってみたいなあ、という欲求。すなわちバラムの自由な意思を神様は許容したのです。神の絶対的な主権と支配、ご計画の中に於いてであります。神様は私たちの意思に自由を授けてくださいました。ですからそれが善でありあるいは悪でありましても、調整されたりすることは決してないのです。

 イエス様のことばです。
 「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。
  しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。

   マタイの福音書 10章29節 ( 口語訳)

  (PBA制作「世の光」2017.4.25放送でのお話より )

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が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■日本で最初に孤児院を創設した石井十次 / 岩井基雄

2017年05月29日 | Weblog
2017/4/24放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 月の最後の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯を取り上げたいと思いますが、今日は「児童福祉の父」とも言われている石井十次について学んでいましょう。

 高鍋藩、今の宮崎県の藩士の長男として生まれた石井十次は、小学校の教師や警察署の書記を経たあと、難病を患います。その時に彼を診察したキリスト者、荻原医師の勧めと援助で十次は岡山県医学校、今の岡山大学医学部に17才で入学し、19才の時に岡山キリスト教会牧師金森通倫から受洗し、信仰に生きる決心をするのです。22才の時、彼は岡山の診療所で四国巡礼途上のある母親から預かった一人の男の子をきっかけに孤児救済の事業を始めます。医学への思いを断ち切り、児童福祉と教育に専心する覚悟を決めた十次は神の教えに反するとの思いから賛助会員からの会費を断り全額寄付金による運営を始めていったのです。明治24年に名古屋地方を襲った濃尾地震でも多くの孤児を引き受け、明治25年、26年と続けて岡山市で起こった大洪水ではその孤児たちが活躍します。東北地方一帯の冷害による大凶作が起こった明治39年の時の人員数は1200人にも達したというです。十次は子どもたちに腹いっぱい食べさせましたが、そのための1ヶ月の経費は現在のお金で数千万円も必要だったそうです。これらや妻に先立たれるそのような経験の中でも彼の思いは断たれることはありませんでした。十次が組織した孤児たちによる音楽幻灯隊(※音楽会に続いて幻灯で十次が孤児院のスライドを見せながら孤児たちの生活を紹介)は国内はもとより、韓国、台湾、中国大陸でも講演をしました。またルソーのエミールに感化を受けた十次は故郷の宮崎県に農場を開き、茶臼原の分院に子どもたちを移住させ、自然の中で遊び学ばせる教育を実践していったのです。親の愛を知らない3000人を超える子どもたちは石井十次の背中にキリストの愛を見て育っていったのです。

 キリストはあなたにも語られます。
  「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。
  マタイの福音書18章10節
 PBA制作「世の光」2017.4.24放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■解決の糸口はここに~キリストの再臨 / 羽鳥頼和

2017年05月27日 | Weblog
2017/4/22放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
先週からイースター・スペシャルをお届けしてきました。今日がその最終日です。今日は「解決の糸口はここに~イエスの再臨」というタイトルでお話しします。

 キリストは十字架にかかり三日目によみがえられました。その後キリストは天に上られました。聖書は更に、これから起こることとして天に上られたキリストはもう一度この世に来られ、この世の全ての悪を裁かれると教えています。このことをキリストの再臨と言います。再臨の時、キリストの正しいさばきが行われ、完全な正義が実現します。様々な問題がすべて解決し、平和で幸せな世界が実現するのです。

 今からおよそ2500年以上前の新バビロニア帝国の時代に、このキリストの再臨のことが預言されました。それが旧約聖書のダニエル書7章です。その7章ではまず、新バビロニア帝国以降の世界帝国の攻防が預言されています。新バビロニア帝国の次のメディア、その後に勢力を拡大するペルシャ帝国、その次のアレキサンダー帝国、そしてローマ帝国。更にローマ帝国が東西に分裂し、ローマ帝国は形を変えて強大な国家権力として終末の時代つまり現代まで続くことが預言されています。

 その終末の時代に人の子が天の雲に乗ってこられる、と預言されているのです。この人の子とはイエス・キリストのことです。

 更にダニエル書は、キリストの最近の時、キリストに主権と光栄と国が与えられ、全ての国の者たちがキリストに仕えることになる、と預言されています。

 イエス・キリストもこのダニエル書を引用して、十字架で死なれる前にご自分が再臨されることを預言されました。キリストは十字架と復活そして再臨をすることを知っておられたのです。イエス・キリストは必ず再臨されます。その時イエス・キリストは全ての国をご自分のものとして永遠に支配され、本当の平和が実現するのです。

 明日は日曜日です。キリスト教会ではキリストの再臨を待ち望みながら神に礼拝をささげします。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2017.4.22放送でのお話より )
 
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■復活の意味/関根弘興

2017年05月26日 | Weblog
2017/4/21放送

 世の光の時間です。関根弘興です。今週はイースター・スペシャルをお届けいたします。

 聖書の中心は何か、と問われるならば、イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたこと、そして三日目に死から復活されたということ。つまりイエス・キリストの十字架と復活こそが聖書の中心なんです。

 前回は十字架こそ愛の極みであるというお話をいたしました。それではイエス様の復活にはどんな意味があるんでしょう。まずイエス様が語られたことばを紹介いたしましょう。
 ヨハネの福音書11章25節
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

 何と大胆なことばでしょう。イエス様は、死んでも生きるいのちがあるのだと語られたんです。つまり私たちのこの肉体のいのちを超えたいのちがあると教えられたんですねえ。そして、イエス様を信じる者にそのいのちが与えられるのだ、と約束なさったんです。
 人はことばだけなら何とでも言うことができます。もしイエス様が十字架につけられ墓に眠ったままなら、なあーんだ、イエスは生前大げさなことを言ってだけど大言壮語も甚だしい。それで終わってしまいますね。しかしイエス様は語られた通りに十字架につけられ、墓に葬られ、三日目に復活なさったのです。ですから復活の事実はイエス様の語られたことばや約束は本当に確かなものだということの保証となるんです。そして死を打ち破るいのちがあるということは、私たちに死を乗り越える希望が豊かに与えられているということを保証するんですね。

 先日、私はある方の臨終を看取りました。癌のために緩和病棟で入院生活をされていた方でした。昨年ご主人を先に亡くし悲しみを抱え、また病の痛みや辛さを抱えながらの入院生活でした。しかしこの方はイエス様を信じ、苦しみの中ではありましたが、決して失われることのない永遠のいのちに生き、天国の希望を見つめながら地上の生涯を閉じられたんです。私はこの方の傍らで、私たちを迎える神様の愛があることを語り、静かに讃美歌を歌いました。そしてこの方は静かに息を引き取られたのです。

 死は悲しみをもたらし、そしてこの肉体のいのちは失われます。でも終わりではありません。イエス様の復活の事実を受け入れることは、永遠を見つめ生きる者とされていくのです。

 (PBA制作「世の光」2017.4.21放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。復活の意味/関根弘興

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■唯一の道筋 -3 / 大嶋重徳

2017年05月25日 | Weblog
2017/4/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
今週の4月16日はイースターと呼ばれる大切な日でした。そこでキリスト教信仰の中心であるイエス・キリストの十字架と復活についてお話ししたいと思います。

 イエス様の十字架の死によって、かつて旧約聖書の時代に行なっていた祭司の捧げた罪のためのいけにえはもうしなくてもよくなった、と聖書は語ります。なぜならイエス様が大祭司として私たちのもとに来てくださり、ご自分を神の前で捧げるいけにえとして十字架の上で死んでくださったからです。この大祭司であるイエス様こそ唯一罪を犯すことのなかった、父なる神の前に出ることができる唯一の完全な大祭司です。私たちが神様の前に出ようとしても、誰かの罪を身代わりに背負うとしても、私たち人間には自分の罪があり、その罪の裁きを負わなければなりません。しかしイエス様だけは自分の罪が無いお方であるからこそ、他人の罪を背負うこともできる方でした。その方が大祭司として自分のいのちを捧げられた。それは私たちが神の前に出て、私たちが神様の元に戻って行くことができるためにです。イエス様は傷の無い子牛と同じように十字架で血を流されました。かつて祭司は子牛に手を置いて全体重をかけて自分の罪を子牛に載せたように、私たちの罪の全体重をイエス様は受け止めてくださって、イエス様は十字架で死んでくださったです。そして十字架の上で最後に「完了した。」(ヨハネ 19章30節)と言われました。「すべて完了したよ。あなたの罪を父なる神は赦されたよ。あなたの罪の赦しは完了した。」とおっしゃってくださったのです。

 十字架で死なれた時に、当時のエルサレム神殿の幕が真っ二つに上から下に裂けました。上から下に「真二つに裂けた」(ルカ福音書 23章45節)というのは、神がご自身で引き裂かれたことを意味しています。そして今や私たちはイエス様を通していつでもどこででも私たちは父なる神様のもとに近づくことができるようになったのです。日本であってもあなたのあの部屋であっても、気兼ねなく、思う存分、大胆にイエス様のそばに行くことができるようになりました。このイエス様によって神に近づいていくとき、神様は「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」(ヘブル 10章17節)と言われるのです。ここに私たちの救いがイエス様でなければならない理由があるのです。

  ( PBA制作「世の光」2017.4.20放送でのお話しより )

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■神の子たちを一つに集め / 福井 誠

2017年05月24日 | Weblog
2017/4/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・バイブル・メッセージは「神の子たちを一つに集め」です。 それではヨハネの福音書11章51節、52節をお読みします。

  「 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

 先週に続いて今日もイースターのメッセージです。先週はイエスの十字架の死の意味が、私たちの罪の身代わりのため、私たちに新しいいのちを得させるためであることをお話いたしました。

 今週は同じ宗教的指導者、大祭司カヤパのことばから、イエスの十字架の死のもう一つの意味について教えられたいと思います。というのはカヤパのことばを受けてこの箇所を書いたヨハネという著者は、イエスの死はただ人の罪の赦しのためだけではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためのものである、と解説していますねえ。実に大切な点です。イエスの十字架の意味は、一つは罪の赦し、そしてもう一つは神の子たちが集められるためである、という訳ですねえ。そういう意味で教会は神の家族という言い方をします。

 教会に行くと何故か皆他人どうしなのに、兄弟姉妹という呼び方をしますね。私も教会に行きかけの頃は違和感がありましたが、実際にはそうした血の繋がりを超えて、思いやり支え合い励まし合い助け合う温かいものを感じたことがあったものです。成人になって行動範囲も広くなり、アメリカ、アフリカ、中東、ヨーロッパ、アジアと様々な国へ出かけるようになりましたが、それらの地域にある教会を訪問すると、初めて出会った人であれ、イエスを信じているということで兄弟姉妹として受け入れられる素晴らしい神の家族の親しい時を経験させていただくようになりました。

 あなたにもイエスを信じ、イエスの復活の力によって神の家族に生まれる、そして集められる、人生の素晴らしさを知っていただきたいと思います。ぜひ、あなたを待っている教会を尋ねてみてくださいね。

(PBA制作「世の光」2017.4.19放送でのお話より )

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■命のパン / 板倉邦雄

2017年05月23日 | Weblog
2017/4/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「命のパン」という題でお話しいたしましょう。

 始めに聖書をお読みします。
 「信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。・・・わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。」(ヨハネの福音書 6:47節、48節、51節 口語訳)

 今日は永遠のいのちに生きるというテーマでお話ししましょう。
 まずイエス様は、わたしを信じる者には永遠のいのちがある、と約束してくださいました。永遠のいのちとはどのようないのちなのでしょうか。それはイエス様のことばを借りますと、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネの福音書11章25節、26節 口語訳)

 ですから、このイエス様を信じて与えられる永遠のいのちとは、たとえ死んでも生きるいのち、また生きているイエス様を信じる者はいつまでも死なないといういのちです。イエス様を信じた時から私たちはこの世で永遠のいのちを持つことができるということですねえ。

 なぜならイエス様は十字架の上で磔(はりつけ)になって死なれましたが、三日目に死人の中から復活されたからです。この復活されたイエス様を信じる者は誰でもこの永遠のいのちを持つのです。

 ですからこの世で永遠のいのちを持った私たちはいのちのパンであるイエス・キリストのことばを食べて永遠のいのちに生きていくのです。「わたしは命のパンである。」(ヨハネの福音書 6章48節 口語訳) 「わたしは天から下ってきた生きたパンである。」(ヨハネの福音書 6章51節 口語訳) 「このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」(ヨハネの福音書 6章58節 口語訳) とイエス様は約束してくださいました。

 パンを食べて生きる。この世で生きてゆく生活を通してこのことを少し理解できますね。ですから永遠のいのちに生きるためには、イエス・キリストの与えてくださる命のパンを食べて生きてゆくのです。

 イエス様の有名なことばです。
 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」(マタイの福音書 4章4節 口語訳)
 
 私は18歳でキリスト信者になりました。神のことば、イエス様のことばである聖書を通して生かされてきました。その時から、いつまでも残るもの、永遠に存続する命をいただいて参りました。それは信仰と希望と愛の三つの永遠のいのちです。これからもこの三つの永遠のいのちをもって残りの人生を歩み続けます。

  (PBA制作「世の光」2017.4.18放送でのお話より )

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■私たちが義と認められるために / 岩井基雄

2017年05月22日 | Weblog
2017/4/17放送

 世の光の時間です。イースターおめでとうございます。岩井基雄です。イースター・スペシャルの第二週を迎えていますが、十字架の上で死んだキリストのよみがえるりを信じることができない人も多いことでしょうねえ。ルー・ウォリスという人はまさにその一人で、キリスト教が大嫌いであった彼は、キリスト教の要である復活さえ否定できればキリスト教をなきものにできると考えたのです。彼は復活を否定する本を書くためにあらゆる文献を調べ、現地にもおもむいて研究をしたそうです。にもかかわらず彼が導かれた結論はキリストのよみがえりは歴史的な事実であるというものでした。そして彼はそれまで書いていたものを捨て、1冊の小説を書いたのです。それが映画化もされた『ベン・ハー』という小説です。キリストの十字架と復活によって、どん底の人生から救いだされていく人物をウォーリスは描いたのです。それは彼自身の証しでもあったことでしょう。

 キリストの復活の証拠は4つあると言われます。
 第一はキリストの遺体の紛失です。弟子たちが盗んだ、とも言われますが、もしそうならば彼らは全員自分たちが作り上げた嘘のために殉教したことになり、何とも不自然です。
 第二は復活したキリストの目撃者の存在です。500人以上の目撃者の多くは新約聖書が記され読まれている時代にまた多く生存していたのです。

 第三は弟子たちの変化です。臆病であった弟子たちが命がけでキリストの復活を宣べ伝える者へと激変していったのです。

 そして第四は礼拝日の変更です。安息日の土曜日からイエス・キリストの復活を記念する日曜日にクリスチャンたちは礼拝するように変わりましたが、ユダヤ人が礼拝する日を変えるということはよっぽどのことが歴史的な事実がなければ無理なのです。

 聖書はこう語ります。
 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」 新約聖書 ローマ人への手紙4章25節

 もしイエス・キリストのよみがえりがなかったなら、私たちの信仰はむなしいものです。しかしまことの神の御子であるキリストは、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。そして死に打ち勝ってよみがえってくださったのです。ここにあなたの永遠の希望、いのちがあります。あなたもこのイエス・キリストの復活の希望に生かされて永遠へと向かって歩んでいきませんか?

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■解決の糸口はここに ~十字架による罪の赦し / 羽鳥頼和

2017年05月20日 | Weblog
2017/4/15放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今週はイースター・スペシャルをお届けしています。今日は、「解決の糸口はここに ~十字架による罪の赦し」というタイトルでお話しします。

 誰にも解決を必要としていることがあると思います。聖書は全ての人が抱えている問題が罪であることを教えています。聖書は言います。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6章23節) 「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ 3章23節参照)

 この罪の問題を解決してくれるのがキリストの十字架です。しかしキリストが十字架で死なれたのは今から2000年以上前のことです。どうしてそんな大昔の出来事が人の罪を赦すことができるのでしょうか。新約聖書のマルコの福音書は十字架の時の二つの出来事を記すことによってキリストの十字架がすべての人の罪を赦すことを教えています。

 一つ目の出来事は、キリストが十字架で死なれた時に神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたということです。この幕とは神殿の一番奥の神がおられる至聖所という所と一般の聖所とを分ける幕のことです。この幕を通って入るのは神に選ばれ、身を清めた大祭司だけであり、それも年に一度神に定められた時でなければ入ることができませんでした。その幕がキリストが死んだときに裂けたということは、キリストの十字架の死によってすべての人が罪赦されて神と共にいることができるようになったことを教えています。

 もう一つは、キリストの死刑執行の現場の指揮官であったローマの百人隊長の言ったことばです。彼はキリストが十字架で死ぬのを見て、「この方はまことに神の子であった。」(マルコ 15章39節)と言ったのです。死刑を執行する立場の人がキリストは無罪であることを認めました。いや、犯罪人どころか精錬潔白な人物であり神の人であることを認めたのです。すべての人の身代わりとなるためには、普通の人では無理です。まったく罪のない、神であるキリストでなければ全ての人の罪を負って身代わりとなることはできなかったのです。こうしてキリストの十字架によって罪が赦され、死の問題が解決され、神との関係を回復する救いの道が用意されたのです。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2017.4.15放送でのお話より )
 
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■十字架の意味/関根弘興

2017年05月19日 | Weblog
2017/4/14放送

 世の光の時間です。関根弘興です。今週はイースター・スペシャルをお届けいたします。
 新約聖書第一コリント15章3節から5節のことばをまずお読みいたします。
 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
 パウロという人がこのように記したんです。聖書の中心は何か、と問われるなら、イエス・キリストは私たちの罪のために死られた事、そして三日目に復活されたということ、これが中心だと教えるんですねえ。

 イエス・キリストの十字架と復活が聖書の中心だということは、私たちにとってこの十字架と復活はどんな意味があるのでしょう。そこで今週は十字架の意味を考えていきましょう。十字架は当時の極悪人がつけられた処刑の道具です。ユダヤの社会では「木に架けられた者は呪われる」と言われるほど忌み嫌われていました。十字架につけられた者は、罪の罰を受け呪われ神様から見捨てられた者、というレッテルが貼られたのです。その十字架にイエス・キリストはつけられたんです。

 しかしどうでしょう。今、十字架はアクセサリーとして用いられたり、安全のマークになったり、病院の地図標識は十字架が入っていますよね。忌むべき場所であったはずの十字架が全く変わっていったのです。なぜでしょうか。それはイエス・キリストの十字架が 愛の極みとなる十字架であったからなんです。

 聖書は、罪のない人間など一人もいないし、罪のもたらす報酬は死である、と教えています。人は自分の罪を自分の善行や努力で消すことなどできません。結局、人は罪のゆえに死で表わされる滅びを受け取ることしかできないのだ、と教えるんです。だから私たちは救い主がどうしても必要なんですね。

 聖書は、私たち一人ひとりの罪をすべて肩代わりすることできる方は罪のないイエス・キリストだけだ、と教えるんです。キリストはあなたのためにご自分のいのちをお捨てくださいました。それによって私たちは極限の愛を知り、大きな愛で愛されていることを知ることができるんです。むごたらしい道具であった十字架がキリストのゆえに愛の極み、標しとなっていったんですね。

 (PBA制作「世の光」2017.4.14放送でのお話しより)

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