♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ただキリストを信じる信仰によって  ~ 宗教改革記念日 / 岩井基雄

2014年10月31日 | Weblog
2014/10/31放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日10月31日は宗教改革記念日です。1517年のこの日にマルチン・ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の提題・公開質問状を貼り出しました。これはルターが当時広く行わていた免罪符の購入によって罪が赦されるというカトリック教会の方針に疑問を呈する質問状であり、それによってルター自身の信仰を表明したものでした。免罪符の購入によって煉獄にいる先祖の魂を天国に送ることができるという教えは聖書にはありません。しかし信者に慰めを与え、教会はこれによって財を得ていました。しかしルターはただイエス・キリストの十字架の贖いを信じる信仰によってのみ救いと真の慰めがあるということを強調したのです。

 ルターの働きは以前から指摘されていた教皇位の世俗化や聖職者の堕落に対する信徒の不満と結びついて大きな反響を呼び、プロテスタント、---抗議するという意味ですが----、プロテスタントのローマカトリック教会からの分離へと発展して行きました。帝国議会で自説の撤回を求められたルターは撤回を決断と拒否し、最後に「我ここに立つ」と言ったと言われています。

 この宗教改革の中心は聖書に戻れということでした。この中で一番肝心なことは、このときにキリストの恵みのみを拠り所にして生きるという真実がもう一度語られるようになったということです。恵みを受け取るためには何か良いわざをするという必要はありません。ただ自らの罪を認め、イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じ、その愛に生かされるという歩みを続けて行くことが大切なのです。そして私たちもその信仰による救いという恵みにいつまでも立ち返り、いつでもその恵みに立つことができるのです。行いによる救いではなく、救われた後、私たちは良い行いを重ねていくことができるのです。

 聖書のことば
 「 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 」  (新約聖書 ガラテヤ人への手紙  2章16節 )

(PBA制作「世の光」2014.10.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神を賛美せよ / 福井 誠

2014年10月30日 | Weblog
2014/10/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。
 今日のバイブル・メッセージは「神を賛美せよ」です。それではヨハネの黙示録19章5節から読んでみましょう。

 「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。

 黙示録を理解する鍵は実は旧約聖書にあります。旧約聖書の知識があるとないとでは黙示録の読み方が違います。やはり黙示録は当時のユダヤ人がどう読んだかという視点が大切でしたねえ。そのように黙示録を読んでいくと、これまでもお話しましたが黙示録には様々な旧約聖書のイメージが散りばめられていて、終末における神の厳しい裁きを描きながらも、神を信じる正しい者・忠実な者に対して希望と励ましを与えるメッセージが込められていることが分ります。

 19章は大淫婦やバビロンに喩えられた世俗的な権力が裁かれた後のお話です。ローマ帝国の迫害やその豊かさの誘惑の中で信仰的に戦い、耐え抜いたクリスチャンが地上の紹介を終えて天に迎えられて御使いたちと共に勝利の完成をあげている情景が描かれています。登場する24人の長老。ここにも旧約聖書のイメージが重ねられていますねえ。つまり旧約聖書に出て来るイスラエルの12部族、そして新約聖書の教会を代表する12使徒とを合わせた数です。おそらく天の御国に集められるべきすべての民が集められたということです。細かいところを省いて大事なのは天上の大祝賀会のイメージに注目することです。あなたは天の御国にどのようなイメージを持ってきたでしょうか。

 私は小さな頃、それを蓮の池に囲まれたのどかな場所で人が寝転びながらくつろぐ世界、そんなイメージを持っていたことがあります。しかし聖書のイメージは違います。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」とあるように、そこでは天に集められた者が一つ心になって人生の戦いを戦い抜いた勝利の凱旋を祝っているのですねえ。人生の困難を感じる時には、それは戦い抜くべき試練なのだと心得たいものです。前途には人生を戦い抜いた者のみが味わえる祝福が待っているからです。

 (PBA制作「世の光」2014.10.30放送でのお話より )

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■逃亡先で / 板倉邦雄

2014年10月29日 | Weblog
2014/10/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「逃亡先で」という題でお話ししましょう。

 モーセはエジプト人殺害の罪でエジプトの王様に追われてアラビア半島の北西部ミデヤンの地まで逃亡したのです。

 さて、ミデヤンの地に逃亡したモーセは疲れて井戸の傍らに休んでいました。するとそこにミデヤンの祭司リウエルの娘7人が水を汲みにやってきました。父親の羊の群れに飲ませるためです。ところが後から来た羊飼いたちが娘たちを追い払いにかかるではありませんか。それを見たモーセは彼女たちに手を貸し、群に水を飲ませました。娘7人は父親レウエルのもとに帰りました。父は「今日はどうしてこんなに早く帰ってきたのかね」と言いました。「1人の親切なエジプト人が私たちをたちの悪い羊飼いたちの手から助けてくれたんです。その上、水をたくさん汲んで羊の群れに飲ませてくれたのです。」「その親切な方はどこにおられるのか。呼んで来て食事を差し上げなさい。」 こうしてモーセは逃亡先での親切がきっかけになってミデヤンの祭司の家に世話になることになります。そしてモーセは祭司リウエルの娘チッポラと結婚するのです。やがて長男が生まれました。名前はゲルショム。意味は「外国での寄留者」です。(出エジプト記2章参照)

 モーセは逃亡先で40年間羊飼いをしながらシナイ半島を巡ることになります。エジプトの王子としての40年、何を言っても、何をやっても許される40年でした。そのため、同胞を助けるという大儀名分と言いましてもエジプト人を殺害して逃亡しました。そして名も無き一人の羊飼いとしての40年を過ごします。神様への悔い改めと信仰と祈り、それはまさに罪の反省と償いの40年だったのではないでしょうか。そしてそれはイスラエル人の荒野の40年の準備だったのです。

 聖書のことばです。

  「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。
      ヘブル人の手紙11章24節から26節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2014.10.29放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■お便り紹介 / 大嶋重徳

2014年10月28日 | Weblog
2014/10/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。今日はお便りの紹介をさせていただきたいと思います。

 山形県の方からいただきました。

 「30年以上前、世の光を聞いて信仰を持った者です。尊いお働きの上に豊かな主の恵みがありますように。」と記されていました。世の光を聞いて信仰を持たれた方からのお葉書は本当に励まされます。先月も岐阜の教会でのご奉仕に出かけました時に、「ラジオを聞いてます」と声を懸けてくださった方がおられ、また高校生の娘さんも聞いてくださっていて、「同じ声の人ですね」と集会に来てくださいました。

 ローマ人への手紙10章17節ではこう記されています。
 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

 誰でも誰かを通して聖書のことばを聞くか、誰かから福音を伝えられなければ聖書の神と神の救いについて知ることはできません。罪ある私たち人間が聖書の神を思いついたり、神への知識をつくり出したりすることはできないからです。まことの神様とこの神様の救いについての知識は神ご自身の側から人間に示されるものであって、神の啓示の書である聖書から教えられる以外には私たちに知りようのないものです。ですから真理を知りたい、救いを見出したいと願う人は誰でもまず、聖書が何と言っているのか知らなければなりませんし、聖書の語るところを聞かなければなりません。まず聞いて、その後悟るようになること。これが正しい順序であると聖書は言っています。

 旧約の預言者たちも「イスラエルよ聞け」(参照 申命記 20:3、詩篇 81:8、イザヤ書 44:1、48:12、エレミヤ書 2:4、エゼキエル書 18:25、 ホセア書 4:1、アモス書 5:1 )と何度も語り、イエス様もよく、「聞く耳のある者は聞くが良い」(参照マルコ 4:9、4:23、ルカ 8:8)とおしゃいました。

 世の光のラジオ放送が山形におられるこの方の耳に届いて、キリストについてのみことばを聞かれたということは、どんなに素晴らしいことだったでしょうか。今週も毎日世の光を通して皆さんに神様のことばをお届けできると言うこと、さらに神様のことばを聞くことができるということを嬉しく思います。神のことばを聞くことから始まる一日を共に始められることを願ってます。ぜひ番組あてにお葉書をお送りください。ご紹介させていただき、スタッフ一同お祈りさせていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.10.28放送でのお話しより )

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■ゆとり・落ち着き / 関根弘興

2014年10月27日 | Weblog
2014/10/27放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日も世界中の多くの人に愛されている旧約聖書の詩篇23篇からお話をして行きます。この詩篇の冒頭のことばは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」ということばです。どうぞこのことばを繰り返し心に刻み込んでいただきたいと思うんですね。

 さて今日は5節のことばを紹介します。
 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

 ここでは敵に直面した時のことが書かれています。あなたにとって敵とは一体誰のことでしょう。敵とは、それは自分と立場の違いがある人々のことさしていると考えたらいいんですねえ。私たちは社会生活の中で立場の違う人にたくさん出会います。意見が違う、考え方が違う、そしてその違いによって争いにまで発展していく訳です。ですからここで言う敵とは戦いの時の敵と言うことだけではなく、普段の生活の中で様々な違いによってもたらされる人間関係の問題と考えても良いと思うんですね。

 私たちはそうした問題が襲うと落ち着いてなどいられなくなってしまいます。焦ったり動揺したりしてしまいますよね。心配や不安に襲われると食事が喉を通らないという事も起こりますよね。そんな時、主は食事を整えてくださる、つまり落ち着きとゆとりを与えてくださる、と約束しているんです。天地を創造された神様があなたの羊飼いになってくださるということは、人生の様々な困難に直面した時、私たちはあせり思い悩み不安に駆られてしまうわけですが、羊飼いなる主はそんな時に、あなたに落ち着きを与え勇気づけ元気付けてくださる方だと約束しているんです。

 そしてそればかりか、「頭に油を注いでくださる」と書かれています。「油を注いでくださる」とはどういう意味でしょうか。それは喜びを与えるということなんですね。また「私の杯は溢れています。」とあります。これは困難な時でも満ち足りる経験をしているということなんですね。

 実はこのことと似たようなことを新約聖書の後半の手紙の多くを記したパウロはこのように語っています。ピリピ人への手紙4章11節から。

 「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 (PBA制作「世の光」2014.10.27放送でのお話しより)

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■キリストはまことの大祭司 / 羽鳥頼和

2014年10月25日 | Weblog
2014/10/25放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は、イエス・キリストがまことの大祭司である、という事をお話しします。

 大祭司とは、神に選ばれて神と人との間に立って仲介者となり、執り成しをする人です。すべての人は罪を犯しているのでそのままでは神に近づくことができません。そこで神が大祭司を立ててくださいました。大祭司がいけにえを下げるなら、その人の罪を赦しその人は神に近づくことができる、としてくださったのです。大祭司は神の律法によって昔からレビ族のアロンの家系の者が立てられました。アロンの家系の大祭司はまず自分の罪のためにいけにえをささげなければなりませんでした。彼らも罪があったからです。その上、人々の犯す罪のために少なくとも毎日1回いけにえをささげ続けなければなりませんでした。大祭司は人を完全には救うことはできなかったのです。そこで神はまことの大祭司を立ててくださったのです。それがイエス・キリストです。

 キリストこそがアロンの家系の大祭司を越えたまことの完全な大祭司なのです。大祭司は何度も自分のため人のためにいけにえをささげ続けなければなりませんでした。しかしキリストはきよく、悪も汚れもないので自分のためにいけにえをささげる必要はありませんでした。そして人の罪のために毎日いけにえをささげる必要もありませんでした。キリストは自分自身をささげ、ただ一度で大祭司の務めを成し遂げたのです。それがキリストの十字架です。十字架でキリストはいけにえとしてご自身をささげられたのです。またこれまで大祭司は人間だったので必ず死んでしまいます。ですから何人もの人が大祭司にならなければなりませんでした。しかし神はキリストを永久(とこしえ)の祭司とされました。ですからキリストは人を完全に救うことができるのです。キリストは生きていて私たちのために今も執り成しをしておられます。どうでしょうか。神はあなたを救うためにキリストを大祭司として遣わしてくださいました。このことを信じませんか?。キリストを信じるなら、あなたは罪を赦され、神と和解し、罪から解放されるのです。

 明日は日曜日です。キリストが与えてくださった神を礼拝するためにお近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.10.25放送でのお話より )
 
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■いのちを天に任せて  ~ 右近訣別の書 / 岩井基雄

2014年10月24日 | Weblog
2014/10/24放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。先月は加賀藩、今の石川県で26年間を過ごした高山右近の祈りについて学びました。石川県七尾市の本行寺にある円山梅雪(まるやま・ばいせつ)の茶室・きく亭の床の間には高山右近が親友細川忠興(ただおき)に宛てた直筆の書状が掲げられているそうです。慶長18年の伴天連(ばてれん)大禁教令の翌年、海外追放令を受けてマニラへと旅立つ右近が長崎で親友忠興に宛てて書いた書状の草稿か写しでは無いかと考えられているそうです。その一部を現代訳にすると、

 近々出航いたすことになりました。
   帰らじと兼(かね)て思えば梓弓(あずさゆみ)
   なき数にいる名をぞ留(とどむる
 彼、楠木正行(まさつら)は戦場に向かい戦死して天下に名を上げました。これ、右近自身は今南海に赴き、命を天に任せて名を流すばかりです。

 この、「帰らじと兼ねて思えば梓弓(あずさゆみ)  なき数にいる名をぞとどむる」という句は楠木正成(まさしげ)の嫡男、楠木正行の辞世の句を引用したものでした。南北町の時代に名を残した楠木正行とは違って自分は南の海に向かうい、自分のいのちを天にすなわち神様に任せて名を流すばかりですと歌っているのです。この地上における名誉を捨てて南の海へと旅立つ右近の決意と共に、悲しみも伝わってきますね。しかしそこには天に身をゆだね、名を流すという思い以上に、名をぞ止むるという句に表されているように、名を天にとどめるという決意もあるのかもしれません。この「日本訣別の書」というその署名には「南坊」と記されています。この「南坊」とは右近の茶人としての名前で、南蛮の坊主を意味しているとも言われています。彼の心はまさに天に向かっていたのですね。

 私たちにとってこの地上の成功というものは大切なものかもしれませんが、永遠には続きません。しかし天で神のもとにある命の書に記された名は永遠に消えることが無いのです。私たちもまた、自分の名を天にとどめることができるのです。イエス・キリストは語られます。

 「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」 新約聖書 ルカの福音書 10章20節 

 あなたも永遠へと向かう人生を歩みませんか?

(PBA制作「世の光」2014.10.24放送でのお話しより)

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■離れなさい / 福井 誠

2014年10月23日 | Weblog
2014/10/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「離れなさい」です。それではヨハネの黙示録18章4節から読んでみましょう。

 「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」

 少し黙示録を復習してみましょう。1章から3章までは比較的理解しやすい箇所で、当時の七つの教会に書き送られた手紙となっている部分ですね。問題は4章以降、黙示文学という形式、つまり喩え話で書かれているので解釈が難しく感じられる所です。しかし細かい所にこだわらず大ざっぱに構造を理解しようとすると黙示録のメッセージが見えてきます。たとえば4章以降は天上と地上の二つの情景が交互に描かれながら進んでいきます、天上の素晴らしい礼拝に対照されて、地上では激しい神の裁きがあるのです。開かれた七つの封印、吹き鳴らされた七つのラッパ、ぶちまけられた七つの鉢、覚えておられるでしょうか。三つのイメージが繰り返され、戦争、殺戮、飢餓、疫病、自然災害といった恐ろしい災いがどんどん強くなり、終末に向かっている姿が描かれていました。大切なのはそこにに二種類の信仰者へのメッセージが織り成されていることです。

 一つは、迫害の試練に苦しめられながらも忠実に神に従う信仰者に対して。たとえば、13章では旧約聖書のダニエル書のイメージを用いて、苦難にあっておじけるなというメッセージがありました。また15章では旧約聖書の出エジプト記のイメージが用いられて、苦難はいつまでも続かない、新しい出発があるというメッセージがありました。17章、18章は、実はもう一種類のメッセージになっています。迫害には曝(さら)されないけれども、むしろ平穏無事の毎日、豊かさや富の中で霊的にまどろんでいた信仰者に対する警告です。世の富と享楽に心を奪われて命を失いつつあった信仰者に対してのものですねえ。富と享楽ばかりを求める人生の結末は破局であり、大淫婦に貢ぐ生活だ、離れなさい、と言うのです。私たちは世に流されやすいものです。本当に大事なものを見極める目を持ちたいものですねえ。そして本当に永遠に残るもののために人生を費やしていきたいものです。

 (PBA制作「世の光」2014.10.23放送でのお話より )

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■成人したモーセ / 板倉邦雄

2014年10月22日 | Weblog
2014/10/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「成人したモーセ」という題でお話ししましょう。

 「四十にして迷わず」ということばがありますが、エジプト王子として成人し、40歳になっていましたモーセは苦悩します。赤子の時、エジプトの王女に川で拾われて養子となり、王子となりましたねえ。エジプトでの最高の教育を受けたでしょう。天文学、建築学、哲学、経済学、そして政治学というすべての学問を受けたでしょう。また身体的にも鍛錬を受けたでしょう。そして将来のエジプトの栄誉と財宝は約束されていたのです。

 ところがある日、モーセは同胞のヘブル人を訪ねようと外出しました。いつ自分がヘブル人だとモーセは気付いたのでしょうか。聖書はそれを明らかにしていません。ところが、そこで目にしたのは余りにもひどいありさまでした。初めて同胞の苦しみを知ったモーセの血は騒ぎました。ちょうどその時、エジプト人がヘブル人を地べたに殴り倒している所へ出くわしたのです。自分と同じヘブル人がやられている! そう思うと見過ごそうことはできません。急いで辺りを見回し、誰も見ていないのを確かめると、そのエジプト人を殺し、死体を砂の中に隠しました。次の日もまたヘブル人を訪ねましたが、今度はヘブル人同士が喧嘩をしています。「同じヘブル人なのに仲間を殴るとは、一体どういうつもりだ。」 モーセは悪い方の男を責めました。男も負けてはいません。「ふん。要らぬおせっかいだ。大体そういうお前こそ何者だい。まるで王様か裁判官みたいな口をきくんじゃないか。昨日のエジプト人だけじゃ足りず、俺まで殺そうとするのかい?」 あんなに用心していたのに、ばれているのです。モーセは非常に不安になりました。そして心配した通り、エジプト人殺害の話は王様の耳に達したのです。王様は直ちにモーセを逮捕し、処刑せよと命じました。絶対絶命です。モーセはミデヤン、今のアラビア半島の北西部の地へ逃げることにしました。(旧約聖書 出エジプト記2章参照)

 ここには血気盛んなモーセの姿を見るでしょう。自分の力ではなく神様の聖なる力に立つまでミデヤンの地での40年の修練がモーセに必要だったことになります。

 (PBA制作「世の光」2014.10.22放送でのお話より )

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■神のわざが現れるため 8 / 大嶋重徳

2014年10月21日 | Weblog
2014/10/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ヨハネの福音書9章には生まれつき目の見えない青年がイエス様と出合い、イエス様が唾をつけた泥をこねて青年の目に塗った話ができます。そして青年がシロアムの池に行って目を洗うと彼の目が見えるようになったというのです。

 聖書の中に、イエス様が病の人や目の見えない人を癒した記事が幾つもでてきますが、それらのすべてにイエス様が唾を吐いて泥をこねて塗られたとは書いてありません。もしそうだとすると、イエスの唾付き泥は相当高くれたことでしょう。神様のなさることにはマニュアルがあるわけではありません。救いも神様の恵みも他の人に起こったことが自分にも同じように起こるわけではありません。私たちの願うように神様がいつも働いてくださるか、と言うとそんなことはないのです。むしろ神様を信じて生きるとき、私たちは多くの「なぜ?」を抱えたまま生きることとなります。

 誤解を恐れずにあえて言いますと、キリスト教信仰は信じやすい信仰ではありません。信じる内容はシンプルなものです。神様が私を創造され、独り子イエス・キリストを十字架にかけるほどに愛してくださり、イエス・キリストは私の罪を身代わりに十字架で負ってくださり、復活されて今わたしと共にてくださる、ということを信じる。しかしそれは信じやすいことか?、と言うとそうではないと思います。信じたらこういう分りやすい特典が付いてきますよ、すべてあなたの人生に幸福が舞い降りて来ますよ、と言うものでもありません。クリスチャンになっても、「なぜこんな事が起こるんだろうか」と言うことを抱えながら生きると言うことがキリスト教信仰には求められるのです。

 しかし信仰者は「なぜこんなことがあるのか!」というその叫びを神に問い掛けることができます。「なぜこんなことが」の向こう側におられる神のご計画を想いはかりながら生きることができるのです。「この深く痛みを伴う問題に神様の栄光が現れるとは一体どういうことなんでしょうか」と問いながら、私の人生を十字架の愛で愛してくださった神がなさることだと知って生きることができるのです。

 ここに信仰の豊かさがあります。この豊かさをぜひ受け取っていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.10.21放送でのお話しより )

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