♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■主の御顔をさけて / 山中直義

2012年07月31日 | Weblog
2012/7/31放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 山中直義です。旧約聖書にヨナ書という書物があります。そこに登場する預言者ョナは非常にユニークな人物した。彼は思い込みから大きな失敗をしてしまいます。ヨナ書1章1節から3節をお読み味します。

 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」 しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

 神様はヨナに対し「ニネベに行け」とはっきりと語られました。ところが意外なことにヨナはその正反対へ向かって、そしてそれも海の果てのタルシシュへ向かって神様の前から逃げ出してしまったと聖書は言います。

 ヨナが神様の前から逃げ出した理由はここではまだはっきりとは書かれていませんです。ですがヨナ書全体を通して教えられることは、それはヨナの間違った思い込みから来たものであったということが分ります。

 神様は「ニネベに行って叫べ」と言われましたが、語るべき内容についてはまだ教えておられませんでした。そしてその結果についてもまだ何も言われていませんでした。ところがヨナは、どうせこういうことを語らされるのだろう、そしてその結果こうなものだろう、そう思い込んで神様の前から逃げ出したと聖書は教えています。

 ところがこのヨナ書全体の物語は、神様はヨナの思いをはるかに超えたお方であった、ヨナの思い込みは間違いであったということを明らかにして行きます。

 私たちも同じような思い込みをしていないだろうかと思わされます。聖書はどうせこんなこと言ってるんだろう、神様に聞き従えばこんな窮屈な言い方になるんだろう、そんな間違った思い込みから神様の前から逃げてはいないでしょうか。

 神様は私たちの思いをはるかに超えたお方です。思い込みから神様の前を離れるのではなく神様の前にとどまってしっかりと神様のことば聖書のことばに耳を傾ける。それが大切なことであることを教えられます。

(PBA制作「世の光」2012.7.31放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■愛に生きる / 関根弘興

2012年07月30日 | Weblog
2012/7/30放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストは、私たちが人生を生きていくために大切な二つのことをお語りになりました。

 その第一は、心を尽くして神様を愛するという生き方です。神様を愛するというのはどういうことでしょう。それは神様を心から崇め礼拝していくということですねえ。今の時代はいろいろなものを崇めています。ある人はお金や物質を崇めていきます。またある特定の思想や人を崇めることもあるでしょう。何かを崇め礼拝を捧げるとは礼拝を捧げているそのものに喜んで支配されるということを意味するんです。

 たとえば特定の人をまるで神様のように崇めているならその人にすべてを支配されていくでしょう。お金はもちろん大切です。しかしもしお金が礼拝の対象となるならお金のためなら手段を選ばないという、ま、お金に支配される狭い視野に生きて行くことになるでしょう。ある人は、俺は何の礼拝の対象なんか持っていない、神なんていない、と言われる方がいますが、それはただ神などいないという考えに人生が支配されているだけなのです。

 ですから人は誰でも何かしらのものに支配されて生きているんですね。

 でも何によって支配されているかによっては生き方は全く変わってしまいます。聖書の神様は愛と真実な神様です。その神様を崇め礼拝していくという事はあなたの人生が神様の愛と真実に支配されていくということに繋がっていくんです。

 そして二番目は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22章39節)、と語られました。人間関係の基本は、自分を愛するように隣り人を愛しなさい、そこから出発するんですよと聖書は教えます。もちろん自分を愛するとは決して利己的な愛や自分さえよければいいという姿ではありません。自分を愛するとは神様があなたを見ているまなざしで自分自身を見つめるということなんですねえ。

 聖書には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43章4節)と神様があなたに注がれているまなざしが書かれています。その神様のまなざしを自分自身が十分に受け、またあなたの関わりのある一人ひとりに向けて生きていくということ、これが私たちの人生にとても大切なんです。神様を愛し人を愛する、これが人としての生き方の基本です。まあ人生のチャレンジですね。あなたのために大きな愛を注いでくださっている神様の愛に生かされていることを知り、愛に生きる人生こそお互いの人生でありたいと思います。

 PBA制作「世の光」2012.7.30放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神のみこころを行う / 羽鳥頼和

2012年07月28日 | Weblog
2012/7/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。イエス・キリストは人々に神の国の福音を語りながら病人を癒すなど様々な奇跡を行いました。こうしてイエス様は人々の注目の的となりました。多くの人々がイエス様の所に集まってきたのです。しかし、ユダヤ人の指導者たちはそんなイエスのことを疎ましく思い、何とイエスを殺す計画を立てるようになりました。そんな危険の中でイエス様は自分が神から遣わされた救い主であることをはっきりと語られました。そのことが新約聖書のヨハネの福音書7章に記されています。

 イエス様は、自分の所に集まっている人々が神を信じている人々であったので、あなたがたは神の御心を行おうと願っているはずだ、と言って、神様は神の御心を教えるためにモーセの律法をあなたがたに与えたではないか、と彼らに語りかけました。

 モーセの律法とは今の旧約聖書のことです。その旧約聖書は神様が救い主を遣わされるということを教えていたのです。

 そしてイエス様は、あなたがたが神の御心を行おうと願い聖書読むならば、私が神の使わした救い主キリストであることが分るはずだ、と語りました。聖書は大切な教えとして神様が救い主をこの世に遣わし人を救われることを語っています。

 そしてもう一つの聖書である新約聖書はその救い主がイエス・キリストであることを教えています。

 そして聖書全体がイエス・キリストを信じてどのように生きれば良いのかを教えています。私たちには神の教えとして旧約と新約を合わせた聖書が与えられているのです。いろいろな思想や価値感がある現代において神のことばである聖書こそが私たちに救いを与え幸せな人生を歩ませ、永遠の幸せに導いてくれるのです。

 あなたも聖書を読んでみてください。聖書をより良く学ぶためにぜひキリスト教会にいらしてください。聖書は私たちに救い主イエス様を教え、神様の救いと永遠の幸せをあなたに与えてくれます。

( PBA制作「世の光」2012.7.28放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
            
 

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■みにくいアヒルの子が・・・ / 岩井基雄

2012年07月27日 | Weblog
2012/7/27放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。デンマークの有名な童話作家で詩人でもあるハンス・クリスチャン・アンデルセンを御存知の方は多いでしょうねえ。「人形姫」や「「マッチ売りの少女」また「裸の王様」も彼の創作童話として有名ですが、多くの方が御存知なのは「醜いアヒルの子」と言う童話ではないでしょうか。

 アヒルの群れの中で生まれた雛鳥は他のアヒルの子に似ておらず醜いという理由でいじめられ群れを逃げ出しますが、どこへ行ってもやはりいじめられ続けて、とうとう一冬を過ごします。生きることに疲れきった雛鳥は死を望みながら白鳥の住む水辺へと行きます。しかし、いつの間にか大人になっていた雛鳥はそこで初めて自分がアヒルではなく美しい白鳥であったということに気づく、そんなお話しですね。

 これはアンデルセン自身の生涯を表わしているとも言われています。彼は靴屋の父と信仰篤いクリスチャンであるお母さんの間に生まれましたが、11歳で父を失い、14歳の時に俳優を目指し故郷オーデンセからコペンハーゲンへと向かいます。しかし舞台に立つという夢も叶わず、そのあと志した声楽家にもなれず、挫折の連続を経験します。そのうえ彼は容姿の醜さや人付き合いの下手さもあってか失恋続きの人生で、生涯独身であったようです。しかしクリスチャンのお母さんから教えられた神様の愛やキリストにある希望を心に抱いていた彼は貧しい人や悲しみの中にある人の心に届く優しく心温まる童話を書き続けました。

 聖書の中にこんなことばがあります。
 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 新約聖書 ローマ人への手紙 5章5節 

 神様の愛に基づいた希望は決して失望に終わることがありません。神の愛を受け取るとき私たちは変えられ、罪赦され、神に造られた神の子供としての本来の喜びを取り戻していくことができるのです。あなたも白鳥の子どころか神の子どもとして永遠に輝いて生きる事ができるのです。あなたも神の愛と希望に生かされ、本来の希望の姿、神の子としての人生に変えられていきませんか?

 (PBA制作「世の光」2012.7.27放送でのお話しより)

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■七度を七十倍するまで / 福井 誠

2012年07月26日 | Weblog
2012/7/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「七度を七十倍するまで」です。ではマタイの福音書18章21、22節から読んでみましょう。

  そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」



 皆さんは人を七度まで赦せるでしょうか。一度だったら赦せる、あるいは二度までだったら何とか赦せる。いやいや、一度だって赦せない・・・実は人さまざまでしょうが、そう簡単に何度も何度も赦せるというものではないですねえ。

 当時イエス様の時代の宗教家たちの間では三度までだったら赦せるというのが常識的な感覚であったようです。ですからここでペテロがイエスの身許に来て七度まで赦したらいいのでしょうかと言ったことばというのはペテロが自分の寛大さを誇示するような意味合いもあった訳です。世の中の相場は三度まで、しかし自分は七度までという度量の良さがあるという訳ですね。ところがイエスは七度を七十倍するまでと度肝を抜くようなことを言うわけです。実際七を七十倍するというのは何度までというよりも何度でもということですね。

 イエスの使徒パウロは「愛は人のした悪を覚えず」(1コリント13章5節参照)と言いましたが、もし人を愛するならば何度でも赦す、どんな悪を覚える事もなく、ということになるのではないでしょうか。

 つまり大事なことがあります。クリスチャンは甘い人間ではありません。愛するということと甘いということは違います。このペテロの質問は先週のお話、兄弟が罪を犯した時にどうするかという問題と繋がっているのです。人を育て人を生かすために赦すのです。甘い顔をするのではなくて人が罪から立ち直るために愛していく、何度でも赦していくということがここで言われていることです。

 人が育つことは時間のかかることですね。多くの失敗がありながらも見守る愛によって育てられていくものです。神の深い愛に私たち自身も成長させられていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2012.7.26放送でのお話より )

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■国々の民の母  / 板倉邦雄

2012年07月25日 | Weblog
2012/7/25放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「国々の民の母」という題でお話ししましょう。

 旧約聖書の中に世界の人々の母となる一人の女性が登場します。その女性の名前はサラです。

 ではまずサライの改名からです。神様は夫アブラハムに言われました。
あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。 わたしは彼女を祝福し、・・・彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。  創世記の17章の15節、16節

 サライという名前の意味はよく分かっていません。しかし改名のサラは「国々の民の母」あるいは「王女」という意味です。サラは90歳のときの改名でした。夫アブラハムは「多くの国民の父」と改名されたばかりでした。そして今度、妻サラが「国々の民の母」と改名されたのです。

 さて、名前は体を表すと言われます。いよいよ名実ともに二人は神様の前に整えられました。父なる神様は夫アブラハムに約束したことを実行に移します。アブラハムにこう言いました。「わたしは彼女(妻サラ)を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。」 夫アブラハムはひれ伏した祈りの姿勢のまま笑ってしまいました。そして心の中でつぶやいていたのです。「百歳になった私にどうして子供が生まれよう。妻サラは九十歳にもなってどうして子供を産むことができようか。」 (参照17節) 心の中まで知っておられる神様は言われました。「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサク(笑う)と名づけなさい。」 (19節)

 「人にはできないが神にできないことはない。」(参照 マルコ 10章 27節)とイエス様は言われたことがありました。私たちの信じる神様は全知です。すべてのことをご存知です。しかしまた全能です。神様は真実なお方です。ご自分の約束したことを実行してくださいます。しかも人にはまったく不可能、無理だ、と思える時にです。それは神様だけに委ねる明け渡しの信仰が私たちに整えられたときではないでしょうか。

 聖書のことばです。
 「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 」 ヘブル人への手紙 11章11節 

 ( PBA制作「世の光」2012.7.25放送でのお話より )

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■神の守り / 山中直義

2012年07月24日 | Weblog
2012/7/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 山中直義です。

 人生には心配事がつきものですよね。あのことはどうしよう、このことはどうしよう。気が付くと心が思い煩いで一杯になっている、そんなことはないでしょうか。

 イエス・キリストの弟子たちもあるとき心配事で心がいっぱいになっていました。これから一体どうなるんだろう・・・、ちゃんと食べていけるんだろうか・・・、ある程度の生活は守られるんだろうか・・・、彼らの心も思い煩いで一杯でした。

 そんな彼らにイエス様はこうおっしゃいました。

 新約聖書ルカの福音書12章31節のことば
 「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

 この「神の国」ということばは「神のご支配」「神の守り」とも訳されることばです。あなたがたはとにかく神様に守られて生きるということに集中していなさい。あなたがたを守り養ってくださる神様のことばに誠実に聞き従って生きていなさい。神の守りは神を信じ神のことばである聖書に聞き従う者に必ず与えられる、とイエス様は約束してくださったのでした。

 私が牧師になるために神学校で学んでいた時、蓄えていたものが全て底を尽き、もうこれ以上学びが続けられないというような状況になったことがありました。私の心は思い煩いで一杯になってしまいましたが、その時、先程のイエス様のことば「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。」ということばが不思議に心に迫ってきました。そして私はとにかく神様にすべてを委ねよう、神様が守ってくださることを信じ、今はできる限り学びに集中していよう、そう思うことができるようになりました。するとそれから幾日もたたないうちに本当に不思議な方法で問題が解決したのでした。神様が生きて働いておられること、そしてこんな小さな者も守ってくださるということがよくわかった本当にうれしく特別な体験となりました。

 何もかも自分で背負い込んでしまう人生ではなく、神に豊かに守られ神と共に生きる人生があなたにも差し出されています。どうぞあなたもその心を神様のことば・聖書のことばに向けてみてください。そして今度の日曜日どうぞお近くのキリスト教会へお越しください。あなたにも神の守りは差し出されています。

 (PBA制作「世の光」2012.7.24放送でのお話しより )

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■光よ。あれ / 関根弘興

2012年07月23日 | Weblog
2012/7/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 聖書の最初のページを開くと「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)という一行が登場します。これは新聞で言うならば大見出しのようなものですね。そして次の節以降には神様の創造のみわざが具体的に記されています。このように書かれています。
  地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」 すると光があった。 (創世記1章2節、3節)

 この世界ができたばかりの時は地は茫漠としてつまり形がなく何もなく闇の中にあったというんです。別の訳では「地は混沌としていた」と訳されています。しかし神の霊がその混沌や闇に覆われた水の上を動いていたとあるんですねえ。

 あの「ひょっこりひょうたん島」の元プロデューサーで今は牧師をしておらえる武井 博牧師が聖書物語を書きました。その中で「神の霊が水の上を動いている」という箇所を「神の愛が覆っている」というふうな表現をなさっていました。神様は愛なるお方です。その神様の愛が混沌・暗やみ・そうした状態の上を覆っていた、これが世界の最初の状態だったと聖書は教えているんです。この世界が創造された最初は闇であり混沌(※ものが無秩序にあるのではなく、あるべきものがまだない様子)でした。しかしその闇に覆われた地を神様が愛をもって覆ってくださり、「光があれ」と仰せられると光がもたらされたのです。この世界に光が投じられた時この世界に秩序が生まれていきました(※すべては初めから秩序の中に存在し始めた)。そして創造のみわざが進められて行ったんです。

 このことはお互いの人生にも言えることではないかと思うんですね。神様は私たちの人生の混沌や闇の中に光をもたらしてくださる方だからです。聖書には、闇を照らす光なる方が来てくださる、と約束されています。

 旧約聖書のイザヤはこう預言しました。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ書 9章2節)

 新約聖書のヨハネの福音書1章9節には、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」と書かれています。

 ご承知の通りイザヤが預言したそしてヨハネが記したこの光はイエス・キリストご自身を指しています。イエス様は私たちの闇を照らし混沌とした状態に秩序を与える方として来てくださったのです。この世界の創造のみわざが光が与えられることからスタートしたように、あなたの人生も光---イエス・キリスト---によって新しく造り変えられていくのです。あなたの心にもこの光が注がれますように。

(PBA制作「世の光」2012.7.23放送でのお話しより)

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■イエスが「救い主」であると証言するもの / 羽鳥頼和

2012年07月21日 | Weblog
2012/7/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 イエス・キリストの「キリスト」はイエスの名前であると思っている人は多いのではないでしょうか。実はそうではないのです。キリストとはヘブル語では「メシヤ」と言い、「油そそがれた者」という意味があります。その昔イスラエルでは預言者・祭司・王などの就任に際してその人の頭に油を塗るという習慣がありました。それは神様がその人を任命されたことを表す行為でした。キリストとはもともとは神によって預言者・祭司・王の職務に任命された人を表す称号だったのです。そして後にメシヤは「神が遣わされる救い主」を意味するようになりました。ですからイエス・キリストというのは、神から遣わされた救い主であるイエス、ということになります。

 ヨハネの福音書5章30節から47節には、イエスが神から遣わされた救い主であると証言するものについて教えています。今日は幾つかある中から二つの証言についてお話します。

 イエスが神から遣わされた救い主であると証言するものの第一はイエスが行なった奇跡です。ヨハネの福音書にはイエス・キリストが水をぶどう酒に変えた奇跡や五つのパンと二匹の魚で男性だけでもおよそ5000人いた人々すべてを満腹にしてなおパンが余ったという奇跡、そして病人を癒す奇跡などが記されています。そしてこれらのイエスの奇跡のことをヨハネの福音書はわざわざ「しるし」と言っています。しるしとは証拠・証言ということです。つまりイエスの奇跡は単なる奇跡ではなく、イエスが神から遣わされた救い主であることのしるし、イエスがキリストであるという証拠・証言であると教えているのです。

 もう一つイエスが神から遣わされた救い主であることを証言しているものがあります。ヨハネの福音書5章39節で、イエス自身が「その聖書が私について証言しているのです」と言っています。聖書全体が、イエスは神から遣わされた救い主キリストである、と証言しているのです。

 あなたもぜひイエス・キリストを知るために聖書を読んでみてください。1人で読むのは難しいでしょう。お近くのキリスト教会に行って見てください。教会で聖書を学ぶことができるはずです。

( PBA制作「世の光」2012.7.21放送でのお話より )

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■「きよめ」とは /  岩井基雄

2012年07月20日 | Weblog
2012/7/20放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 キリスト教会で使われている用語には分るようで分りにくいことばがありますよね。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語は学んでみましょう。今日は広島市のある方からリクエストがあった「きよめ」についてです。皆さんもぜひリクエストをお寄せください。キリスト教会で言う「きよめ」とは、罪が赦されきよくされることを意味します。聖書が語る罪は犯罪だけではなく心の中の思い、たとえば人への憎しみや妬みなども表します。私たちの心の隠れた思いも罪だとしたら、どうすれば私たちは罪が赦され義と認められることができ、また自分の心がきよくされることができるのでしょうか。

 新約聖書に次のようなことばがあります。
 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
 新約聖書 ガラテヤ人への手紙2章16節 

 確かに行いによって義と認めにれる人は一人もいません。しかし、私たちの罪のさばきを代わりに受けて十字架で死んでくださった神の子イエス・キリストを信じる者を神は義と認めてくださるという道を私たちに用意してくださいました。

 義という漢字は我という字の上に羊と書きますが、この我という字は罪人である私たちを表し、羊は神の小羊であるイエス・キリストのことを表すと言われています。すなわちキリストを受け入れるものは罪があるまま義と認められるのですね。イエス・キリストの十字架の犠牲のゆえに罪が赦され、義と認められていくのです。

 しかし義と認められることと心がきよくされることとは少し違います。義と認められた人が神の愛と恵みの中で生涯をかけて日々きよめられ続け、そして変えられていくことができる。この義と認めらえること、きよめられることの全体を「きよめ」というのですね。

 別の聖書の箇所にはこうあります。
 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
  新約聖書 ヨハネの手紙第一 1章8節と9節

 神様はイエス・キリストの十字架のゆえにあなたの罪を赦してくださいます。しかし私たちは日々犯してしまう罪や過ちがあります。それを告白し、悔い改め、変えられ続けていくのですね。

 (PBA制作「世の光」2012.7.20放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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