♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■日本で最初の女医 荻野吟子 / 岩井基雄

2017年07月31日 | Weblog
2017/6/26放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいます。

 今日は日本で最初の女医として愛を届けた荻野吟子について学んでみましょう。吟子は1851年、嘉永4年、今の埼玉県熊谷市で名主の五女として生まれました。16才の時、望まれて、稲村貫一郎と結婚しますが、夫からうつされた病気が基で離婚をします。上京し治療を受けますが、その時受けた屈辱から女医となり、同じ思いに苦しむ女性を救いたいと決意するのです。24才で今のお茶の水女子大学の1期生として入学。主席で卒業し、不思議な導きで私立医学校・好寿院に特別に入学。男子学生に混じり、いじめや苦労を通りつつも優秀な成績で終了、東京府に医術開業試験届を提出しますが、前例が無いと2年続けて却下されます。埼玉県でも同じ結果でした。しかし彼女は諦めません。33才でついに他の女性3人と共に前期試験を受け、吟子だけが合格。後期試験にも合格し、東京湯島に産婦人科・荻野医院を開業。34歳にして近代日本初の女医となったです。様々な学びの中で人生を深く考え、聖書にも触れていた吟子は35才の時、海老名弾正牧師からキリスト教の洗礼を受け、クリスチャンとなります。女性の立場を尊び愛を注いだイエス・キリストの姿が吟子の心を捕えて離さなかったのです。その後、吟子は婦人矯風会にも参加し、廃娼運動にも取り組みます。苦しみの中を通る女性たちの権利と心を守り、医療を通し神様の愛を届け続けたのです。39歳の時、新島襄から洗礼を受けた志方之善(しかたゆきよし)と再婚します。クリスチャンの理想郷をとの夫の夢から極寒の北海道に渡った二人は、多くの苦難を通りつつも神様の愛を伝え、また医療にも従事し、夫が天に帰った後も医療の現場に立ち続け、愛と癒しを多くの人に届けていったのです。

 聖書のことば
 「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
  新約聖書 ペテロ第二の手紙 1章5節から7節

  PBA制作「世の光」2017.6.26放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

この記事をはてなブックマークに追加

■悲しみを見つめて / 羽鳥頼和

2017年07月29日 | Weblog
2017/6/24放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書の哀歌という書物からお話ししようと思います。

 哀歌は悲哀の哀、哀れむ歌と書きます。この書物はエルサレムが破壊され滅ぼされたことを悲しんでる歌を記しています。その哀歌の1章を見てみましょう。

 1章では神の都エルサレムを女王に喩えています。
 「ああ、かつて人々で賑わっていたエルサレムは、ひとり寂しくすわっている。諸国の中でも大いなる者と言われていたのに、今や彼女は未亡人となってしまった。彼女は悲しみに暮れているが、誰も慰めてくれない。それどころか友達は彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。彼女の内に住んでいた者たちは悩みと苦しみの内に異国に捕らえ移されてしまった。神を礼拝する所であった彼女は、うっかりさびれて神を礼拝する者がなく、悲しみに沈んでいる。」(1~4節参照)

 このようにエルサレムに起こった悲劇を覚えながら、更にこのように語っています。
 「私たちが神に背いたので神は私たちを悩まされた。私たちは神に対して多くの罪を犯した。私たちが苦しみを受けるのは当然だ。」(14節、20節参照)

 エルサレムが滅ぼされたのは自分たちの罪のためであると認めています。哀歌は単なる嘆きの歌ではありません。哀歌は悲しみを見つめながら神に捧げられた祈りです。それは人々がこのような悲劇を引き起こしたのが自分の罪であることを認めて自分の罪を悔い改め神に立ち帰ることを求める祈りです。

 悲しみについて新約聖書 コリント人への手紙第二7章10節はこのように教えています。
 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
 自分の罪を悲しみ神に救いを求めることこそ神の御心に沿った悲しみです。世の悲しみは失望・絶望をもたらし死をもたらします。罪を悲しみ神に立ち帰ろうと決心をする人を神は救ってくださいます。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2017.6.24放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***



この記事をはてなブックマークに追加

■勇気を失いません / 関根弘興

2017年07月28日 | Weblog
2017/6/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 旧約聖書の詩篇42篇のことばを紹介しましょう。
 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。
    私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
    私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
   いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
     私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
    人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
(1~3節)

今日も聖書のことばを紹介いたしましょう。新約聖書 第二コリント4章16節
 「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 もう10年以上前ですけども、総務庁の事務次官をされていた方とお話をする時がありました。その時、この方がこんなことを言われたんですね。「これからの日本の課題は老い、ま年を取る、老いに対する回答を与えることです。」と言われたのです。「しかしそれを行政が力を尽くしてできることはありません。だから、これから日本においてはキリスト教の出番なんですよ。」とその方がおっしゃったんです。行政ではどうすることもできないけれどキリスト教、聖書の約束には解決がある、という風に言われたんですねえ。なぜなら聖書は永遠のいのちを約束しているのです。たとえ外なる人は衰えたとしても永遠に続く朽ちることのとない希望を持ちながら生きてことができると聖書は教えるわけですよね。

 冒頭に紹介したことばは、「私たちは勇気を失いません。」と、パウロがコリント教会に書き送った手紙の一文です。パウロという人の生涯は、迫害があり、理解されない苦労や様々な問題が矢のように襲う生涯でもありました。問題だけを見ていたら勇気が失せてしまいます、と書き送りたいほどだったでしょう。しかしパウロは様々なこんなにぶつかっても辛い状況があっても「私は勇気を失いません。」と記していったのです。
 なぜ「勇気を失いません」とパウロは言えたのでしょう。パウロが人よりも何十倍も健康だったからでしょうか? そもそもそんなひどい困難にも遭っていなかったのではないかとあなたは考えますか? でもパウロは健康的には慢性病を持っていましたし、命の危険に何度も立たされたことがありました。しかし彼は「勇気を失わない」と言ってるんですね。なぜなら、「わたしはあなたを離れず決してあなたを見捨てない」と約束されるイエス様の励ましと支えがあったからなんです。

 確かに外側の身体は年をとりますし弱ってきます。しかし内なる人は日々新たにされる、つまりイエス・キリストが共に歩む生涯は尽きることのない恵みと真実な愛をもって新しく造られていく生涯なんだ、と書いているんです。

 あなたもイエス様を信頼し、「私たちは勇気を失いません。」と語る者とされていきませんか?

 (PBA制作「世の光」2017.6.23放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

この記事をはてなブックマークに追加

■十戒 -自由への励まし- 16 / 大嶋重徳

2017年07月27日 | Weblog
2017/6/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第二戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記 20章4節)とあります。

第二戒には戦いがあることを学んできました。キリスト教会はこの地上において旅人であると言われます。つまりこの世にあってこの世の者ならずという性格があり、神様の眼差しで世界を観ています。そして地上において偶像化する何かしらの権力に属することもせずに、ひたすらやがて完成する神の国を待ち望むのです。

 時に教会と国家の関係を声高に語ることは日本の宣教の前進を阻むものだという指摘をされることがあります。信仰とは心の内側のものであって、心の外の政治のことを言うべきではないと言われるのです。しかし第二戒は信仰を内側のものだとは言いません。神を神とする戦いを戦うことなく信仰を内面化させていくことは十戒の指し示す私たちの自由なる生き方の向きとは大きく異ります。

 こういうことは信仰を持っている人だけのことなのでしょうか。そうではないと思います。この切迫した時代の中で、時代の流れに流されていく訳にはいきません。第二戒の戦いを戦うことなく捧げている礼拝が日本の教会にあるのなら、その礼拝は私たちの都合の良い偶像を刻んでしまっていることはないか、ということをよく問い直す必要があるでしょう。第二戒はキリスト教会の中で、自らの信じやすい神を刻み始めていないか、という自覚も喚起させます。

 さらにこの第二戒の戦いを戦う場所は、私たちの主の日の礼拝だということを忘れてはいけません。イエスこそ主であり王であると高らかに告白するのは礼拝だからです。もし週ごとの礼拝が崩れてしまい、政治的なデモに出かけてしまうようになるのであれば、教会はその中心が崩れていきます。礼拝こそ私たちが神を神とするということを告白し抜く場所なのです。キリスト者において第二戒の戦いは祈りの戦いであり、神のことばによる戦いです。ぜひ礼拝に行っていただきたいと思います。礼拝こそが自由なる生き方へと解き放ってくれる場所であることを第二戒は思い起こさせてくれるからです。

  ( PBA制作「世の光」2017.6.22放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



この記事をはてなブックマークに追加

■必ず生きる / 福井 誠

2017年07月26日 | Weblog
2017/6/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「必ず生きる」です。 それではエゼキエル書18章9節を読んでみましょう。
 「わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行なおう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。----神である主の御告げ。----

 これまでの流れで言えば、ここもエルサレムの滅亡、エルサレムに対する裁きを語っている所ですね。しかしこの箇所は、ユダヤの歴史をよく理解していないとその面白さが分りません。日本人には字面を読んで終わってしまいそうなところですね。

 18章の最初にはまず、父が酸いぶどうを食べたので子どもの歯が浮く、と当時ユダヤ人の間ではよく知られた格言が取り上げられています。面白いことわざですね。つまり父の行為は子どもに影響するという、いわゆる連帯責任を覚えさせることわざで、エルサレムが裁かれて罰せられているのも、それは今の自分たちではなく自分たちの先祖が神に背いた罪によるものなのだ、と考える人たちがいました。いわゆるバビロン帝国に攻められて悲惨な捕囚の不運に晒されているのは先祖たちの罪のためで、自分たちの問題ではない、というわけです。

 そこでエゼキエルはイスラエルの王国の歴史を取上げて三代にわたる王様の実例を示し、人が滅びるのはその人自身の罪のためだということを教えています。具体的にその王様はヨタム、アハズ、ヒゼキヤですが、ここにはその名前は出てきません。けれどもイスラエルの人々はこの18章を読みながら、神様に従順で祝福されたヨタム王、そしてその息子アハズ王は神様に不従順で呪われたこと、更に孫のヒゼキヤは神様に従順で宗教改革者ととなり祝福された王様であったことを思い出す訳です。つまり次の世代に父親の呪いが伝わることはない、神は人それぞれに行動の責任を問い報いを授けたことを思い出すわけですね。

 エゼキエルは生い立ちに縛られる者は誰一人おらず、それぞれ今自分がどう生きるか、その思いと行動に神の目は注がれている、と語っています。神のみ教えに心から忠実な人は正しい人で必ず生きる、必ず祝福を受ける、というのが聖書の約束です。人は先祖の罪から自由であるばかりか、自分の過去からも自由になれます。その約束に信頼して歩みたいものです。
 
 (PBA制作「世の光」2017.6.21放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

この記事をはてなブックマークに追加

■神のために熱心な人 / 板倉邦雄

2017年07月25日 | Weblog
2017/6/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神のために熱心な人」という題でお話ししましょう。

 神のために熱心な人は多くの人のために罪の贖いをするのです。罪の贖いとは、罪の償いをすることによって罪を赦す行為をすることなのです。

 さて、モーセとイスラエルの全会衆は、神様の天幕の入口で悲しみで泣いていました。多くの人々がモアブの娘たちとの淫らな行為に耽(ふけ)って感染症のために病み、苦しみながら死んでいったからです。そのような中、今度はジムリというシメオン族の長老が一人のミデヤンの娘を連れてきて、兄弟たちの間で淫らな行為に耽ったのでした。人々が神様の前で亡くなった人々のために嘆き悲しんでいると言うのに、不埒な悪行三昧をジムリと仲間たちはしていたのです。

 それを認知した祭司ピネハスは会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、ジムリ長老の後を追いかけました。そしてジムリとその女の腹を突き通したのです。こうして多くの人々を苦しめ悩まし傷つけた疫病は止んだのでした。(民数記25章7、8節参照)

 主なる神様はモーセに言われました。「祭司ピネハスは自分のことのようにわたしの憤りと激しい怒りをイスラエルの人々の内に表した。そしてわたしの怒りをイスラエルの内から取り去ったのだ。だからわたしはわたしの怒りと憤りによってイスラエルの人々を滅ぼすことはしなかった。それゆえあなたは宣言しなさい。主なる神は平和の契約を彼に授ける。平和の契約は彼と子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であってイスラエルの人々のために罪の贖いをしたからである。」(民数記25章10~13節参照)

 主なる神様のために熱心であった人、それは平和の君と呼ばれた大祭司イエス・キリストではなかったでしょうか。不信仰に汚れた私たちの身代わりとなって十字架の上で神の怒りと憤りを受けて死んでくださいました。私たちのために罪の贖いをして、私たちの罪を赦してくださったのです。

 イエス・キリストのことばです。
 「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」 マタイの福音書26章27節と28節(口語訳聖書)
  (PBA制作「世の光」2017.6.20放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

この記事をはてなブックマークに追加

■豊かに実を結ぶ人生 / 岩井基雄

2017年07月24日 | Weblog
2017/6/19放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 イエス・キリストが話されたものに種まきの譬(たと)えという話があります。四つの同じ種が、それぞれ異なる地に蒔かれるというのです。どんな意味があるのでしょうか。聖書をお読みします。
 「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです----みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです----みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。----みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。
」 
     新約聖書 マルコの福音書 4章14節から20節

 神のことばにはいのちと力があるのですが、それをどんな心で受け入れるかで大きな違いがあるのですねえ。
 道端のように固い心にはみことばが届くことはありません。岩地のように表面だけ柔らかい心は、最初は良いのですが、困難や戦いが起こると喜びを失い、つまずいてしまいます。少し耕されている柔らかな心でも、惑わしや欲望に振り回され、真理を見失ってしまう時、やはり実を結ぶことはできないのです。
 しかし、柔らかな謙った心、自分の欲望や罪にも正直に向き合い、悔い改め、赦しを受けた心で神のみことばを受け取るとき、そのいのちが心に深く根差します。そしてみことばの力によって豊かな実を結び、神様の祝福と恵みに満ちる人生へと変えられていくことができるのです。

 あなたはどのような心で神のことばを受け取っていらっしゃいますか? たとえ道端のように硬くても、そこから岩地のように、あるいは茨が除かれ、また更に砕かれた素直な心で神のことばを受け入れ、豊かに実を結ぶ者へと変えられ続けて行きませんか?

  PBA制作「世の光」2017.6.19放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

この記事をはてなブックマークに追加

■純粋な愛を教える聖書 / 羽鳥頼和

2017年07月22日 | Weblog
2017/6/17放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
旧約聖書の雅歌についてお話しします。

 雅歌(がか)は優雅の雅(が)に歌と書いて雅歌と言います。「歌の中の歌」とも言われています。雅歌は神の与えてくださった男女の愛と性を歌っています。ですから雅歌は愛と性の純粋なあるべき姿を描いていると言えます。

 今日は雅歌の2章からお話しようと思います。この時、主人公の二人は婚約していました。男性は上流階級の人のようです。彼は彼女をパーティーに誘い、参列者に彼女を婚約者として紹介しようとしたようです。

 彼女は彼に言います。
私は・・・谷の百合の花です。」(1節参照) 
 はでな美しさはないけれど、かれんな野の花に自分をたとえているのは彼女にある謙遜さからくるものですが、しかしそれよりも自分は参列するほかの女性たちよりも見劣りしている。この場に自分は似つかわしくない、と思っているようです。

 そんな彼女に婚約者が言います。
わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(2節)
彼女のことを「わが愛する者」と呼び、他の女たちの中でひときわ輝いている、と言っています。彼は真心から愛情表現によって彼女を励まします。

 彼女は答えて言います。
 「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。」(3節)
 彼女も彼のことを「私の愛する方」と言っています。そして彼が一緒にいてくれることを心から喜び、励まされています。

 彼女は更に言います。
 「私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(4節) 
 これは仰々しい表現のように聞こえるかもしれませんが、彼女が婚約者である彼を信頼し尊敬していることを表していると言えるでしょう。一生あなたと共に生きていきます、という決心の表れだと言えます。

 二人は互いに愛し合い、相手を信頼し、尊敬しています。

 聖書は2000年以上古い時代に書かれたものですが、このように現代の私たちにも大切なことを教えてくれています。

 明日は日曜日です。教会では礼拝を神に捧げます。礼拝では聖書のメッセージがあります。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2017.6.17放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***



この記事をはてなブックマークに追加

■傍らに恵みの歌が / 関根弘興

2017年07月21日 | Weblog
2017/6/16放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 旧約聖書の詩篇42篇のことばを紹介しましょう。
 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。
    私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
    私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
   いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
     私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
    人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
(1~3節)

この詩篇の作者は「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と記しているんですから、人生で最も辛い困難な状況に置かれていたのでしょう。

 でもこの詩篇の後半を読むと、こんなことばが出てきます。
 「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」(8節)
 
  このようにも記されているんです。

  でもまた次の節では、「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。」(9節)と、今度このように叫んでいるんですねえ。まるでジェットコースターみたいですね。

  しかし考えてみると、私たちも同じようなことがありませんか? この作者はほんとに素直です。決して自分を隠そうとしません。そのままを告白するんです。昼も夜も涙があるけれど、でもその傍らに恵みの歌もあるのだということを味わっていたようでした。
 いつもニコニコして生活できたらそれはいいですけど、人生には涙もあるんですね。でも知ってください。涙の横には恵みの歌も備えられているんです。

 恵みとは一体何でしょう。それは愛される価値のない者に対して注がれる一方的な神の愛のわざです。聖書の神様は恵み深い方です。とてつもなく真実な方です。

 第二テモテへの手紙には、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(13節)と書かれています。神様は常に真実です。この真実に支えられていることをほんとに感謝をもって受け取ることが「信仰」なんですね。私たちを支えてくださる方がおられます。だから私たちは涙の傍らにも恵みの歌を持つことができるんです。

 心の状態がジェットコースターみたいであっても良いじゃないですか。しかし忘れてならない事は、涙の中にあっても主の恵みが施され恵みの歌があなたの傍らにある、という事をぜひ心に留めておいてください。

 (PBA制作「世の光」2017.6.16放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

この記事をはてなブックマークに追加

■十戒 -自由への励まし- 15 / 大嶋重徳

2017年07月20日 | Weblog
2017/6/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第二戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記 20章4節)とあります。

 第二戒で教会と国家の関係について述べるのには理由があります。なぜならば、日本のキリスト教会は唯一の神を信じる信仰がありながら妥協して大きな敗北を喫した歴史を持っているからです。明治以降、国家は神道による宗教政策を取り、国家の安寧秩序を妨げない限り新教の自由を保証する立場を取って、神社非宗教論を主張展開して行きます。

 日本のキリスト教会はこの神社参拝は国民的儀礼であるという政府の判断に従っていくのです。そして教会の礼拝は皇居のある方向に向かって深々と礼拝する宮城遥拝をしました。教会では戦勝祈願の祈祷会を行い、更に皇紀2600年の祝賀会をキリスト教会が開き、戦闘機二機を献上します。ここには日本神話を元にした元号によって歴史を数えることを教会が行なったのです。また、日本基督教団統理の伊勢神社参拝もあり、大東亜共栄圏はアジアの植民地支配からの解放であってキリスト者における神の国の建設である、と教会が語り、アジア侵略を肯定し、この戦争の正当性と神社参拝強制に教会自らが加担したのです。更に敗戦の折には、多くの日本のキリスト教会は自覚的に戦中の教会の罪責を悔い改めるということよりも、自分たちは被害者だったという立場を取ってきます。

 ここに十戒第二戒に無自覚あるいは自覚的意欲的に偶像礼拝に加担した日本のキリスト教会の罪責があります。余り知られていない事実かもしれませんが、日本の教会はこうして歴史的背景をもっていることのゆえに、十戒第二戒に反することにより敏感になってきました。日本の教会はこの経験のゆえに、第二戒に敗北する時どのような事態に陥ってしまうのかを世界のキリスト教会に伝えていく責任があるのです。あの敗北の歴史は悔いめによって聖書の語る自由へと向かっていくのです。

  ( PBA制作「世の光」2017.6.15放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



この記事をはてなブックマークに追加