♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■ヨベルの年 / 羽鳥頼和

2015年02月28日 | Weblog
2015/2/28放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書のレビ記25章に記されている「ヨベルの年」についてお話しします。

 「ヨベルの年」とは神の定められた素晴らしい恵みの年です。ヨベルの年は50年ごとに行うように定められたものです。その年には三つのことを行います。

 第一に、すべての畑を休ませなければなりません。作物を育ててはいけないのです。収穫がなくなることは不安です。しかし神はその前の年に十分な収穫を与えると約束されました。

 ヨベルの年に行う第二は、売却されていた土地はこの年になったら所有者に自動的に無償で返さなければならないということです。土地は神が家族それぞれに与えられた相続地です。それを貧しくなって売却しても、50年毎のヨベルの年には必ず元の所有者に戻るのです。

 そして第三は、すべての人の解放です。貧しさのゆえに身売りして雇い人となっていたイスラエル人はこの年に必ず全員解放されたのです。

 このヨベルの年の規定は、土地も人も神の者であること、そして神がそれを与えてくださったことを確認させるための年でした。そしてもう一つ重要なことは、回復を与えるということでした。特に貧しい人・虐げられている人を救うということでした。ヨベルの年は「主の恵みの年」なのです(参照イザヤ書 61章2節) 。

 レビ記のこの規定はイスラエルの人々に対するものでした。しかし神は世界のすべての人にヨベルの年、主の恵みの年を与えるためにイエス・キリストを遣わされたのです。 新約聖書のルカの福音書4章18、19節でイエス・キリストはこのように言われました。
 「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、・・・わたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。

 イエス・キリストはあなたに救いを与えるために来られたのです。明日は日曜日です。救い主イエス・キリスト知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.2.28放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■千利休のお茶の極意  / 岩井基雄

2015年02月27日 | Weblog
2015/2/27放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。 今日は戦国時代にキリシタン大名たちに大きな影響を与え続けた千利休のことについて学んでみましょう。
 戦国時代から安土桃山時代にかけて商人また茶人として活躍した千利休はわび茶の完成者として知られ、茶聖とも呼ばれていますね。彼はキリシタンではなかったようですが、当時来日していた宣教師たちを通して直接キリスト教信仰に触れる機会を持ち、利休七鉄と呼ばれる弟子の内5人までもがキリシタン大名であることから彼自身もキリスト教の影響をかなり受けたと思われます。彼は特にキリシタン大名高山右近と特別親密だったようで、右近が明石城をを追放された後も利休は何度も彼のために茶をもてなし慰めていたようです。また利休の後妻「おりき」はキリシタンだったとも言われています。

 千利休が追い求めたわび茶の世界はキリスト教と深い繋がりがあると考えられています。利休が考案した茶室特有の出入口であるにじり口は身をかがめなければ入れないほどのせまさですが、それはまさに聖書が語る「狭き門より入れ」という教えを感じさせます。また「茶室の花は人工的なものではなく野にあるごとく」と語った利休の心からも、キリストの教えを思わされます。また宣教師たちが行っていたキリスト教の儀式からも利休は影響を受けたようです。一椀の茶を全員で順番にいただく「お濃(こい)茶」の作法はイエス・キリストの十字架の恵みを覚える聖餐式のあり方を彷彿とさせるのです。利休が確立した茶道のわびやさびの文化はイエス・キリストが人々に伝えた謙(へりくだ)りや謙遜の影響を豊かに受けていると言えるかもしれませんね。

 私たちもまた、人々とうまくやっていくための謙遜ではなく、真の主権者である神様の前に謙り、神様の前に心を低くしていのちへの道へと進んでいきませんか。

 聖書のことば
 「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」  新約聖書 ペテロ第一の手紙5章5節

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」 (マタイ 7章13節 )

(PBA制作「世の光」2015.2.27放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■狼は子羊とともに宿る / 福井 誠

2015年02月26日 | Weblog
2015/2/26放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「狼は子羊と共に宿る」です。それではイザヤ書11章6節から読んでみましょう。
  「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
 イザヤ書11章の預言は早くても紀元前717年頃、イスラエル王国を滅ぼしたアッシリヤの猛威が更にユダ王国へと押し寄せ、もはやユタ王国が風前の灯の状況であった時に語られたとされています。イザヤは、アッシリヤもそしてユダも滅ぼされる、とユダの絶望的な未来について語っているのですが、それは完全な終わりではなく、そのあとに新しい秩序が建て直されると預言しているのです。果たしてその預言はどうなったのか。

 先週10章で、「残りの者」についてお話ししたことを覚えておられるでしょうか。アッシリヤはその後、新しい国バビロンによって滅ぼされます。そしてバビロンがユダを滅ぼしてエルサレムを焼き払い、生き残った者まさに残りの者たちを捕囚の地に連れて行く出来事が起こりました。その後、バビロンに替わってペルシャ帝国が起こると、ペルシャの王クロスはユダヤ人を寛大に扱い、ユダヤ人がエルサレムに帰ってエルサレムの町を再建することを許すのです。まさにイザヤが語った通りのことが起こったのですね。

 ただ旧約聖書の預言書を読む時には、これが当時の人々に語られた預言であると同時に、更にはるか遠くのつまり私たちの時代にも通じて語られた預言であるという、二つの面があることに注意しなくてはなりません。イザヤはここで目の見えるところによって裁かず耳の聞くところによって判決をくださない、正義と公正を持って王権を奮う人物について語っています。しかもその人物の治める時代は、狼は小羊と共に宿る、と言われるほどに対立も恐れもない平和な時代です。明らかにイザヤは今の社会では起こりえない新しい時代の到来について語っていますね。それはまさに黙示録でヨハネが語った新しい天と新しい地の到来に通じます。やがて来(きた)る新しい御国の希望があるのです。ぜひその事を覚えて歩みたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.2.26放送でのお話より )

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■唇に割礼のない者 / 板倉邦雄

2015年02月25日 | Weblog
2015/2/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「唇に割礼のない者」という題でお話ししましょう。

 「唇に割礼のない者」とは不思議なことばです。ま、一言で言うならば、唇の汚(けが)れている者あるいは口べた、外国人である者、という意味でしょうかねえ。

 さて、主なる神様はモーセとアロン兄弟に向かって語りかけました。「エジプトの王パロの所に行ってイスラエルの人々をこの国から去らせてください」と話しなさい。

 モーセは主なる神様に向かって言い返しました。「イスラエルの人々でさえ私の言う事を聞かないのに、どうして唇に割礼のない私の言うことをパロ王様が聞き入れるでしょうか。無理です。」 

 しかし主なる神様はモーセとアロン兄弟に語り続けました。「イスラエルの人々に言って言いなさい。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの労役から導き出し、奴隷の苦役から救い、あなたがたを自由にする。わたしはあなたがたを取上げ、わたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」 ま、平たく言えば、神様が私たちの友となってくださると言っているのです。

 しかしモーセは固辞して主なる神様に向かって言いました。「わたしは唇に割礼のない者です。パロはどうして私の言うことを聞き入れましょうか。」 

 すると主なる神様はモーセにこう言って聞かせたのです。「わたしはあなたをパロ王に対して神のようにする。そしてあなたの兄アロンはあなたの預言者となるであろう。だから、あなたはわたしが命じたことをことごとく兄のアロンに告げなさい。するとあなたの兄弟アロンがパロ王様に告げてイスラエルの人々をこの国から去らせるようにさせるでしょう。」 

 モーセはリーダーシップはありました。しかし、口ベタだったようです。しかし兄アロンはことばの人となっててくれました。主なる神様はその人その人の賜物を用いて人々の益と救出のために用いてゆくのです。ですから神様は私たちに無理はさせないということでしょうか。

 聖書のことばです。

 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。」 コリント人への第一の手紙12章4節、5節 口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2015.2.25放送でのお話より )

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■主の祈り 6  / 大嶋重徳

2015年02月24日 | Weblog
2015/2/24 放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」という祈りが記されています。主の祈りの初めのことばは「天にまします」ということばです。そして私たちが祈りを捧げる神様は天に場所をもっておられる神様なのです。

 そしてその事は「天にまします」という祈りが、神様を地上の私たちの都合の良い思いの中に引きずり落としてはならないということも祈っているのです。天地と人を造られた神様は地上の私たちの願望や欲望の場所に引きずり落とされる神様ではありません。しかし私たちは自分の願いが聞かれないとすぐに「神様なんていない」とつぶやいてしまうでしょう。しかし私たちは130円を入れたら130円のジュースが必ず出て来る自動販売機のような神様にしてはならないのです。神様は自動販売機ではありません。こう祈ったんだからこう答えないといけない、と思うのであれば、その時点であなたの方が神になっているのです。現在は神を飼い慣らそうという時代であるとも言えるかもしれません。神ならば私の祈りを聞いてしかるべきだ。なぜ神はこの世界をこのままにしておかれるのか。しかし、「天にまします」と祈る時に、神様は人間の都合に合わせて居場所を変えられる方ではないということを私たちは告白しているのです。

 そして私たちは「天にまします」ということばで祈る時に、神様に自分の欲望を叶えるための祈りをしてはならない、ということを祈っていることを意味しているのです。私は天にいるよ、と言われる神様は、私たち人間が抱いているイメージの中に神様を申し込めてはならない、ということを教えてくださっています。

 その意味でも私たちの祈りはいつも聖書の指し示す神様に祈るというこの大原則に戻って来ないといけません。聖書を読み祈る、このリズムこそが私たちをふさわしい神様との出会いに祈りに導いて行ってくれるのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.2.24放送でのお話しより )

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■架け橋となられる方 / 関根弘興

2015年02月23日 | Weblog
2015/2/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日はまずイエス様の弟子の一人であるナタナエルという人に語られたイエス様のことばを紹介しましょう。ヨハネの福音書1章51節
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。

 このイエス様のことばはユダヤ人なら誰もが知っているある出来事を思い起こさせます。それは旧約聖書の創世記の28章という所に記されてるんですが、イスラエルの父祖アブラハムにはイサクという息子がいました。そのイサクにエサウとヤコブという双子の兄弟が生まれるんですね。でもこの二人は何かと軋轢(あつれき)が多かったんです。とうとうお兄さんのエサウが弟のヤコブを殺そうと考えようになってしまいました。そこで弟のヤコブは父の家から離れざるを得なくなり、お母さんの実家がある遠い場所に旅をして行くことになりました。

 旅の途中ヤコブはある所で野宿をして横になると夢を見るんです。それは一つの梯子が天と地の間に立られていて神の使いたちがその梯子を上り降りしているという夢でした。ヤコブはこの夢を通して神様が一緒にいてくださるということを確信し、再び旅を続けて行くんですねえ。

 このユダヤの人たちなら誰もが知っている有名な旧約聖書の話を元にイエス様は、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」と言われたのです。つまりイエス様はご自分が天と地をつなぐ梯子となってくださる方なんだとご自分で言われたんですねえ。

 私は高校生の頃、アメリカの「サイモンとガーファンクル」というグループの曲をよく聞きました。その中に『明日に架ける橋』という曲あります。とてもいい曲ですよね。和訳するとこんな詩です。

 君が疲れ果てて自分がちっぽけに感じる時、
 君が涙を浮かべてる時、
 僕がその涙をふいてあげよう。僕はいつも君の味方、君のそばにいる。
 辛い時、友達も見つからない時、
 激流の上にかかる橋のように 僕が身を横たえよう

 こういう詩です。君が困難な状況を乗り越えて向こう岸に渡っていけるように僕自身が橋になろう、という内容ですよね。でも私たちには本当にそんなことができるでしょうか。私が橋になってあげるよと言うことができても、すぐに激流に押し流されてしまうかもしれません。

 でも聖書は、何とイエス・キリストこそ天へと繋がる永遠のかけ橋となってくださる方だと教えているのです。

 聖書のことばを紹介しましょう。
 神は唯一です。また神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

 (PBA制作「世の光」2015.2.23放送でのお話しより)

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■清く正しく美しく / 羽鳥頼和

2015年02月21日 | Weblog
2015/2/21放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 「清く、正しく、美しく」ということばがあります。このことばは宝塚歌劇団のモットーであり、創業者小林一三(いちぞう)のことばだそうです。ある人は「清く、正しく、美しく」なんて理想で絵空事だと思っています。現実というのはとにかく汚(きたな)く汚(よご)れた醜いものでしかない、その中で人は強くたくましくそしてしたたかに生きていかなければならない、と言います。

 聖書はどのように語っているでしょう。旧約聖書のレビ記からこのことを考えてみたいと思います。レビ記は神の律法すなわち法律が記されている書物です。レビ記20章には死刑にあたる罪のことが教えられています。どんなことした人が死刑に当たるのか記されているのです。子どもをいけにえとして火あぶりにするとか霊媒・口寄せをするなど異教の習慣を行う者、自分の父あるいは母を呪う者、更に姦通する者、近親相姦、動物と寝る者など様々な不道徳を行う者。このようなことを行なった者は死刑となると定められているのです。これらの行為は実際に人々が行なっていたことです。ですから神は人の行うことはきたなくよごれた醜いものでしかないことをよく知っておられるのです。そしてそのようなことは良くない、してはならない、と教えています。

 しかしこの法律の本当の目的は実は人を聖なる者とすることなのです。神は、「わたしは聖であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」と言われるのです。

 ではどのようにして「清く、正しく、美しく」なれるのでしょう。神は人を「清く、正しく、美しく」する救いの道を与えてくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。神は私たちを愛しておられるので、私たちの罪をきよめ聖なる者として清い生活を送ることができるように御子イエス・キリストを遣わされたのです。キリストは罪をきよめるために十字架にかかってくださいました。私たちはキリストの十字架によって清く正しく美しくなれるのです。

 明日は日曜日です。あなたを清く、正しく、美しくしてくださる神を礼拝するためにお近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.2.21放送でのお話より )
 
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■三位一体なる神の愛 / 岩井基雄

2015年02月20日 | Weblog
2015/2/20放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日は「三位一体(さんみ・いったい)」についてです。 

 この三位一体ということば、聖書の語る神の本質を見事に表現しています。それは父なる神と子なる神イエス・キリストそして聖霊なる神が、それぞれ別々の人格すなわち独自性を持ち、しかも一つであるという意味です。神が一つであると同時に三つの別々の人格があるということは、一見矛盾するように思えるかもしれませんね。しかしそれは神様の内に三つの別々の存在があり、互いに交わり愛しあう一つのあり方があるということも示しています。

 そして聖書は、私たち人間もまたこの神様のかたちに造られたのだ、と語っています。聖書にはこう記さています。
 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。・・・」  神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」  旧約聖書 創世記 1章26節、27節

 神はご自分を「我々」と複数形で表現していますが、この「造る」という動詞には単数形の表現が使われ、その表現からも三位一体が表わされているのです。また「神のかたち」という表現に、男と女ということばと対になって表現されています。ですから私人間は、他の人と共に生きるように、愛し合うようにと造られ、しかも夫婦は一つの存在であると聖書は語っているのです。人の人格や個性や独自性を大切にしながら交わり愛し合うというこの私たちのあり方は三位一体なる神のかたちとして創造された私たち人間の素晴らしさをも表しているのですね。

 神様はあなたを愛しておられます。あなたもまたこの神様の愛を豊かに受け取ってその愛で互いに愛し者となるように神様は求ていらっしゃるのです。

 聖書のことば
 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」  ヨハネの手紙第一 4章7節、8節

(PBA制作「世の光」2015.2.20放送でのお話しより)

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■主に、まことをもって、たよる / 福井 誠

2015年02月19日 | Weblog
2015/2/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主に、まことをもって、たよる」です。

 それではイザヤ書10章20節から読んでみましょう。
 「イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。

 イザヤ書10章はイスラエルを攻め滅ぼしたアッシリヤに対するさばきを語っている所です。聖書の神様は、当時のイスラエルのみならず全世界の国々に向けて、ことに当時の世界の覇権を握っていたアッシリヤに対してもメッセージを送っていたんですね。その内容は、アッシリヤは自分の手の力で自分の知恵で賢さをもってイスラエルを攻め滅ぼしたたと考えているがそうではない。神様がそれを許されたから出来たことに気づかねばならない、というものです。そして身のほどをわきまえず、神の前に高ぶるならば最も頑丈な強者すらやつれ、燃えかすのように滅ぼされるだろう、と言います。

 神様は悪と不義に満ちたイスラエルを裁く道具として当時の超大国アッシリヤを用いられました。しかし、アッシリアがそれによって誇り高ぶることをお許しにはなりませんでした。この世界で起こる事柄はすべて神の手の中で起こっていることだからです。人が立つのは、すべては神の恵みと憐れみによるもの。逆に、倒れるのも神の計り知れないご計画の中で起こっています。人は、人の上に人はなく、ただ神がおられるのみであることを認めなくてはなりませんね。

 イザヤは言います。「残りの者たちは目覚めてイスラエルの聖なる方、主にたち帰るようになるだろう。」と。 「残りの者」という言い方は、当時はアッシリヤの虐殺から免れた家族の一部を指して言われました。後にこのことばは神の裁きに耐えて残って新しい神の民を形づくる核となる人々のことを指して言われるようになりました。つまりこの世界で起こる様々な盛衰の中で、もみくちゃにされながらも残される者がいる。それはこの世界をお造りになり、導いておられるまことの神を認め、神の戒めに従って生きていく人々です。

 皆さんにも社会の動きから聖書が語っている神の存在をぜひ感じていただきたいと思います。そして神様を信じていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2015.2.19放送でのお話より )

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■あとでわかる / 板倉邦雄

2015年02月18日 | Weblog
2015/2/18放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は「あとで分る」という題でお話ししましょう。

 イエス・キリストは、この世を去る前に弟子たちの足を洗いました。弟子のペテロは驚いて言いました。「先生、あなたが私の足をお洗いになるのですか。」 イエスは答えて言われました。「わたしのしていることは今あなたに分からないが、あとで分るようになる。」  (参照 ヨハネ13章6節、7節)

 さて、出エジプト記の6章のお話です。奴隷の仕事は前よりもきつくなってきました。事態はますます悪くなっていったのです。

 モーセは主なる神様に訴えました。「何のために私をエジプトに遣わされたのですか。王様に訴えたら、イスラエルの民をひどい目に遭わせるばかりです。あなたはあなたの民を救おうとはなさいません。」 (参照 出エジプト記 5章23節)

 その時、主なる神様はモーセに言われました。「わたしが王様パロに何をしようとしているかが今に分る。王様はわたしの強い手に強いられてわたしの民を去らせるだろう。むしろ『出て行ってくれ』と追い出すだろう。」 (参照 出エジプト記 6章1節)

 そして続けてこう付け加えたのです。「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れた。しかし今は『主』と言う名であなたに現れる。『わたしは主である』とイスラエルの人々に伝えなさい。あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出し、奴隷の労務から救い、伸ばした腕と審判とをもってあなたがたを取り戻す。わたしはあなたがたを取って、わたしの民とし、わたしはあなたがたの神とならん。」(参照 出エジプト記 6章2節~7節)

 「わたしは主である。」と言う時、主という名の神様は全能であり、全知であり、絶対主権者の神であるということです。ご自分を信頼するすべての人々を苦難から導き出し、危機から救出し、正しいさばきをしてくださって私たちをご自分に取り戻してくださるのです。そして私たちの友となってくださいます。今、私たちの状況はますます悪くなっているかもしれません。この暗いトンネルはいつまで続くのか、と失望しているかもしれません。しかし、今も主なる神様の腕の中にあります。今は主なる神様のなされることは分からないかもしれません。しかし、あとで分るようになるのです。神よ、私に忍耐を与えてください。

 (PBA制作「世の光」2015.2.18放送でのお話より )

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