♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■わたしはあなたの盾となる

2004年11月30日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(ひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 旧約聖書の中に登場する有名な人物の一人にアブラハムという人がいます。ある時、こんな大事件が起こりました。その地域の紛争が勃発したんですねえ。それぞれの王様が連合を組み、戦いが始まりました。そして何と、アブラハムの甥が住んでいる町も包囲され、その甥の家族もそして財産もごっそり奪われていってしまったんです。

 さあその知らせがアブラハムの所に届きました。アブラハムは悩みました。相手は大軍勢。それに引き換えアブラハムの手勢は知れたものです。なすすべがない状況でした。しかし何とアブラハムは自分のしもべたち318人を召集し、彼らを率いて大軍勢に奇襲攻撃をかけたんですねえ。そしてみごとに甥のロトの家族、そして奪われた財産、さらに捕らえられた人々を取りかえしたんです。命がけのすばらしい救出劇となりました。

 人間だれしもそうですが、まあすごい手柄を立てたあとは興奮して気分がいいものですね。でもそのあとアブラハムを襲ったものは一体何だったでしょうか。それは極度な恐れだったんです。彼は多分こう考えたでしょう。(あの大軍勢が再び襲ってきたらどうしよう。もしし今度自分たちにめがけて襲ってきたらひとたまりもない。いのちがない。) そんな事を考えると恐れが次から次へと襲ってきて疲れ果ててしまいました。しかしそんな時に聖書はこう記しているんですね。「アブラハムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。」

 天地を造られた神様は、あなたは今恐れているけれど、わたしはあなたの盾になってあなたを守ってあげるから心配するな、と語ってくださったって書いてあるんです。何ていう励ましでしょう。そして神様はアブラハムを外に連れ出して言われました。それは夜の事でした。
 
 「さあ、天を見上げなさい。」天を見上げると満天の星空です。無数の星が輝いています。まあ東京の空じゃあこうはいきませんよねえ。神様は、「アブラハムよ。あの天の星を数えることができるか? あなたの子孫はこの星の数のようになるんだよ。」とおっしゃるではありませんか。彼は本当に落ち込みのどん底、恐れのまっただ中にあった時に、神様信じます、とその時に告白したんです。

 ある人は、信仰は、立派でないと持てないと考えます。しかし、落ち込み、恐れの中から自分の弱さに打ちひしがれた時に、心から神様信じます、と告白することを神様は喜んでくださるんですねえ。信仰は強さから始まるのではなく、弱さのある所から始まるんですよ。

(PBA制作「世の光」11/30放送でのお話しより )

*****

今日のお話し、いかがでした?
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。また、近くの教会も紹介してくれますので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

この記事をはてなブックマークに追加

■嘘ついたら針千本飲~ます

2004年11月29日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。
 今でも子どもたち、そういうふうな事を言うのかどうか分りませんが、よく、「指きりげんまん嘘ついたら針千本飲ーます!」とかいうのありましたよね。つまり約束を破ったら針千本飲ましちゃうよというふうな事で、つまり約束ってのはそれくらい大事なものだという事だったと思うんですけれども、しかしどうなんでしょうねえ、約束ってのは時々忘れてしまう事もありますしねえ。そんな無責任な事じゃ困るんですけれども、それから約束破るつもりはなかったんだけど、結局状況が変わったり、結果的には破ったという事になってしまうというふうな事になったりですねえ。よくまあ選挙の時の公約ってな事を読みますけれども、ほとんど公約ってのは守られないもの、みたいなそういうふうに取られてしまう事もあったりですね、人間の約束ってのはなかなか難しいものがあるなあというふうに思うんですよね。
 で、聖書の中にですね、「神はダビデの子孫から約束に従ってイスラエルに救い主イエスをお送りになりました。」ということばがあるんですけれども、まあ来月は12月で、クリスマスのシーズンというふうになる訳ですけれども、聖書の中ではですね、神が人間に約束された事はもう終始一貫決して破られる事なく、ゆがめられる事なく、それが成就されている、成就されてきたという事、それのずうっと証明書みたいなものがあるんですね。で、聖書というのは、もう始めに書いた所から後ろの方までいったら、もう2000年も近いぐらい離れている、そういう内容な訳なんですけれども、それが何しろ千何百年か前に約束された事も、それから千何百年か経ってちゃんとその通りの事が実現しているというような事。
 人間の普通の世界で、何百年いや千何百年も前に言われた事が今になってそれが成就するって事は考えられない訳ですけれども、聖書の神ってのは約束した事は必ず果たすという。それは私たちがどのような間違いや、罪深い人間であっても、必ず救いそして私たちを幸せにするという神の約束は決して変わらない。私たちが信ずる神様は、私たちを幸いなものにすると約束しておってくださるその約束を違えない神様だという事を知っていただきたい。そう思うんです。

(PBA制作「世の光」11/29放送でのお話しより )

*****

今日のお話し、いかがでした?
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。また、近くの教会も紹介してくれますので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

この記事をはてなブックマークに追加

■明日のことは明日が心配します

2004年11月27日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。
 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書の言葉」の御紹介です。

 東京都にお住まいの友沢悦子さんは、新約聖書マタイの福音書6章34節のことばをお寄せくださいました。イエス・キリストのおことばです。
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 」

 これはもう50年も前のことなのですが、それでも今も心の底にはっきりと残っている当時の学校の寄宿舎生活の姿です。たまたま舎監の先生の言われたことばが聖書の中のこの一節のことばだったのですが、その頃の私は、このことばが聖書の中のことばだったのだという事は思いもかけませんでした。それから幾年月経って教会に通うようになって、このことばが聖書に載っていると知って驚きました。その当時日本ではキリスト教は大変な弾圧を受けて苦しい中にありました。それですから、先生がどんな気持ちでどんな覚悟でこのことばを私たちに教えてくださったかと思います。先生は少し疲れたという感じで深い秋の日の終礼の席に座っていた私の顔をじいっと見てこのことばを語ってくださいました。クリスチャンでもない私の心の奥底までこのことばが響き渡り、しばらく頭を上げることができませんでした。その頃は食べるものも着るものもない、戦争はいつ終わるかと分りませんでした。私は聖書のことばの中には力がある、いのちがあるということを思い出しました。また同じく聖書の中にあるもう一つのことばを思い出しました。「あなたがたの思い煩いを一切、神にゆだねなさい。神があなたがたの事を心配してくださるからです。」第一ペテロの5章の7節のことばです。

 友沢悦子さんの心に残る聖書のことば。
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 」マタイの福音書6章34節のことばです。
 それでは、また聞いてください。

( PBA制作「世の光」11/27放送でのお話しより )

*****

今日のお話し、いかがでした?
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。また、近くの教会も紹介してくれますので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

この記事をはてなブックマークに追加

■御霊の実「平安」

2004年11月26日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 今日は、平和、平安について考えてみたいと思います。平和と平安て似てますね。ま、同じような意味を言っていると言ってよいかもしれません。日本語では平和というと、国と国、民族と民俗の関係が良いこと、平安というのは個人的な心の状態というようなニュアンスの違いがあるのではないでしょうか。
 聖書では原語は同じです。旧約聖書のヘブル語ではシャローム、新約聖書のギリシャ語ではエイレーネ。ま、日本語に訳すと「平和」と訳されているものが100回ほどあります。「平安」と訳されているのが70回くらい出ています。そしてこの平和、平安は、三つの種類あるいは関係があると言っています。
 その第一は神との関係、神との平和です。新約聖書のローマ人への手紙の5章1節というところには、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と言っています。キリストによって私たちと神との良い関係、平和が与えられてるという訳です。ですから、神よ、父よ、天のお父様と呼ぶ、また祈れる、ま、親子のような関係だという訳です。
 第二番目に、自分の中にある平安です。これは大丈夫、安心、これを持っていれば、ここに入っていればというものが最近随分揺らいでしまいました。状況に支配されない、本当に安定した平安、そんなもの、心の土台、人生の支えとして必要ではないでしょうか。そんな意味でキリストは言いました。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与える平安は、この世が与えるのとは異なります。」
 最後に、人と人との平和です。心の中に神様からの平和、キリストの平安を感じている、味わっていると、人に対しても平和な関係を作っていけるという訳です。風船もいっぱい空気が入っていると、丸く表面はスムーズですねえ。人との関係も、また人の心も、自分の中に平安、平和があると、人との関係スムーズに平和になって行くんではないでしょうか。イエス・キリストは言いました。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」神を父と呼び祈っていく時に、平和をつくり出していく神の子と呼ばれるようになっていく。すばらしいですね。
( PBA制作「世の光」11/26放送でのお話しより )

*****

今日のお話し、いかがでしたか?
さて、番組を制作しているPBAの「世の光」の係りには分りやすい聖書通信講座が用意されていて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。また、近くの教会も紹介してくれますので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

この記事をはてなブックマークに追加

■ 国家エゴと個人エゴ

2004年11月25日 | Weblog
 お元気でいらっしゃいますか? 世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 司馬遼太郎さんの講演集の中に、国家のエゴが重大な課題になる、という項目でですね、このようなくだりがありました。

 「国家が国家間で発揮するエゴこそが21世紀の重大な課題になるでしょうし、この課題が人々のレベルで解決されない限り、我々の子孫は壊れてしまった地球しか相続しないでしょう。」

 まあ国の盛衰は国家がしっかり考えよっていうんじゃなくって、人々のレベルで解決されない限り、壊れてしまうっていうんですねえ。つまり一人一人のレベルで真剣に考えなきゃならない時に来ているんだ、まあそれは本当だと思いますね。

 なおこの事に関して司馬遼太郎さんは、こんな事を言っています。「国家エゴがあってもかまわないと思いますが、しかし、地球上の人々という国家が今まで思考した事がないレベルで考え、感じ、行動する国家に変えない限り、また国家が持つ利己的欲望の生理機構から毒性を少しでも抜かない限り、我々はこの怪物のような21世紀国家を子孫に受け渡すべきではないと思います。ニトログリセリン入りのビンを坂の下にいる子どもに向かって、これを受け取れ!、と言ってころがすようなものでしょう。」こんなふうに言っているんですねえ。

 一人が国家のことを考えたとしても、自分一人でどうなることでもないと思ってしまいますけど、私たちの住んでいる町についてはどうなんでしょうか。私たちの住んでいる隣近所はどうでしょうか。私たちの家族はどうでしょうか。やっぱり一人一人が考えなくちゃならないと思うんですね。

 司馬遼太郎さんは、国家が持つ利己的欲望の生理機構から毒性を少しでも抜かない限り、と言っていますが、国家が持つ利己的欲望はもちろんですけれども、私たち一人一人が持つ利己的欲望の生理機構から一人一人の毒性を少しでも抜かない限り、町が破壊され、家庭が崩壊されていくんじゃないだろうかと思うんです。

 キリストが言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい。また、自分を愛するように自分の隣人を愛しなさい。」このキリストの命令を、ある意味においては徹底的に追い求める必要があるんじゃないかなあって思うんです。

 すでに家庭が崩壊し、人の心が壊れていると言われている時です。それにもかかわらず、なお日本は経済的な豊かさや物質的な豊かさを追い求めているんじゃないでしょうか。そしてそれが心の豊かさの保証であるかのようにどっか錯覚しているような気がしてなりません。今や一人一人が心を貧しくして、まことの神を求めて、まことの神のもとで修復される必要があるんじゃないだろうか。そんなふうに感じるんです。

( PBA制作「世の光」11/25放送でのお話しより )

この記事をはてなブックマークに追加

■必要をみたすお方

2004年11月24日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さあ今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。
 愛知県豊橋市にお住まいの鈴木道子さんからいただきました。少々古いおハガキです。

 先生。九月一日からもう一度先生のお声が聞けるとは思っていなかったので、ラジオからの先生のお声に感動しました。「羽鳥先生はどうなったのですか?」 「いつからまたお声が聞けるのですか?」 リスナーの方や教会の方々から何度聞かれたでしょうか。その度に皆様に祈りのお願いをしてまいりましたが、主はみなさんの祈りにお応えくださったのですね。でもどうぞ決して無理をなさらないでくださいませ。

 鈴木さん、ありがとうございました。
 さあ、今日の約束のことばです。マルコの福音書6章42節のことばです。
 「人々はみな、食べて満腹した。」

 ある時、イエス・キリストを慕い、その話を聞きたい、お目にかかりたいと男女老人子どもたち何千人もの人がイエス様について森や野原の奥にまで来たのです。時が経って、みんながお腹がペコペコ。近くにはパンを買う店もありません。 「あなたがたで、この人たちを食べさせなさい。」とイエス様に言われた時に弟子たちは言いました。「近くに店もありませんし、もし買う所があっても、こんな大金は持ってません。」その時に一人の少年が自分の持っていた弁当を差し出しました。五つのパンと魚二切れでした。こんなものではとうてい足りませんが、しかしイエス様はその五つのパンと二匹の魚を取ると、天に捧げて祈りました。弟子たちはその 五つのパンと二匹の魚を五千人もの人に配って彼らがみんな満足し、残りのものを集めたら、十二のかご一杯になりました。
 私たちの救い主は、神様として愛のお方ですから、どんな事でもできるのです。しかも腹の減ったぐらいではありません。心の奥底に潜んでいるあらゆる悩み、魂の飢え渇きをも、イエス様はすべての必要を満たしてくださる方なのです。

 今日の約束のことば
「人々はみな、食べて満腹した。」マルコの福音書6章42節のことばです。
 それではまた聞いてください。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

■再出発

2004年11月23日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(ひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 あなたの尊敬する人はいったい誰でしょうか。例えばあなたが誰かを尊敬しているとしましょう。でもその尊敬している人が非難されたり、否定されたりすると、あなたはおもしろくなくなってきますよね。腹立たしくなると思いますし、また、不安にもなることでしょう。なぜかというと、尊敬する人によって自分の人生が支えられているとか、助けられているって感じているからなんです。ですからその尊敬している人が非難されたり否定されると、その支えが揺らいで自分が倒れてしまう意識を持ってしまうんですねえ。そこでこう不安になる訳です。

 またこんなこともあります。たとえばずっと尊敬してきた人がとんでもない態度や行動をとった時はどうでしょう。やはり今までの支えが揺らいでしまって裏切られた気持ちになったり、怒りと憎しみのエネルギーに変わってしまう、そんな事もあります。

 実は非常に密接な関係を保っていればいるほど、自分の意に反した事を見たり聞いたりすると、つまずいたり、失望の度合いが大きくなる訳です。まあでもこうしたことは、だれもが生活の中で味わったことがあるでしょう。

 聖書に登場する大変有名な人物に、アブラハムという人がいます。大変尊敬された人物の一人です。でもこの尊敬を裏切るような事がありました。彼がエジプトに行って、自分の奥さんを妹と偽り、自分の身の安全だけを考えて行動していったんです。ま、嘘の方便という事もできたかもしれません。しかし少なくても一緒に行動した甥のロトという人にとっては、今までの伯父さんへの尊敬を失わさせるのに十分だったかもしれません。しかしもちろんそのロトも、目先の事しか考えない行動をとる人物だったんですけどね。

 そんなアブラハムの再出発は容易ではなかったはずです。時間をかけて立ち直った自分を見せるしかありません。不信の根を持たれると、それはなかなか取り戻す事は容易ではありません。

 アブラハムはどうしたでしょう。聖書は、「アブラハムはヘブロンのマムレに住んだ。」と記しているんですねえ。実はこれはとても象徴的な意味があります。ヘブロンとは、「親密な交わり」という意味がある言葉。そしてマムレとは「強い」という意味があるんですね。神様との親しい交わりがある場所はマムレ、強いのだという訳です。

 アブラハムにとっての人生の再出発は、いろんな事がありました。しかし、神様を信頼し、心から崇め、祈り、委ねていく、このことにほんとの強さがあるという事を彼は人生の再出発で知っていくんですねえ。そしてこれは、あなたの人生にもあてはまることなんです。

   ( PBA制作 ラジオ「世の光」 2004.11.23の放送より )

この記事をはてなブックマークに追加

■近くにいて下さる神

2004年11月22日 | Weblog
世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。
 えー、私たちの生活の中で、神様というお方をどういうふうにまあ意識してどういうふうに理解しているかという事はとても大切な事だというふうに思うんですねえ。
 よく、あの人は私にとって神様みたいな遠い存在です、というふうな言い方をする事ってありますねえ。で、これは人の事を言っている訳ですけれども、つまり神様っていうのは遠い存在というふうにそういうふうに言われたり考えられたりする訳で、なかなか神様が自分にとって身近なお方というふうにですね理解する事が案外ないのではないかなあというふうに思ったりするんですねえ。
 けれども聖書の中で、詩篇46篇という所ではですね、「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。」というふうに書いてあるんですね。で、これは文語訳の聖書ですと、「神はわれらの避け所、また力なり。悩める時のいと近き助け。」 いと近き助けというふうに書かれているんですね。
 で、私たちが本当に悩む時、苦しむ時、(今こそああ神様がいてくださったらなあ)というふうなその時こそ、むしろそこにある助けなんだ、そこにある助けとなってくださる最も近い所にいて私たちを助けてくださる神なのだ、身近な神なのだという事をですね、聖書は私たちに告げているというふうに思うんですねえ。
 あのう、新婚の一人の奥さんがですねえ、結婚したばかりの家庭に大事なお客さんが来るというので、もうとても大変で、どういうふうなおもてなしをしたらいいか分らないというので、お母さんに電話で一生懸命、どうしたらいいのかなあって聞いてたんですね。で、こういうふうにしたらどう?、こういうお料理を作ったらどう?って、いろんな事を言ってくれて、分かったとかメモしたりしてたんですけれども、当日になってお客さんが見えて、その心配してた奥さんがニコニコしながらやってるんで、アレーッ?ずいぶんニコニコしながらやってるじゃない!って思ったら、ちゃんと後ろにお母さんがいてですね、みんなやってくれてて、指示を与えてくれてたんですねえ。(ああ何という、すぐそばにいてちゃんと助けてくださっている)っていうふうに見たんですけど、何か神様ってお方は私たちがここ一番必要な時にはちゃんとそばにいて最も必要なアドバイスをし、力を与えてくださるお方なんだ、そんなふうに理解したいですねえ。
 ( PBA制作「世の光」 2004.11.22放送より)

この記事をはてなブックマークに追加

■わたしはあなたとともにおる

2004年11月20日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。
 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書の言葉」の紹介です。
 神奈川県茅ヶ崎にお住まいの大橋さんは、旧約聖書イザヤ書43章1節、2節のことばをお寄せくださいました。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおる。
 1965年7月、天城山荘で行われた聖会の中の祈祷会で、今は亡き松田政一先生から教えていただいた忘れる事のできない聖書のことばです。最近私は、50年来の友、K姉を天に送りました。召される十日ほど前に私が病床を訪れました時、K姉妹をお見舞いしたのですが、その時一緒におられました牧師先生がはからずもこの同じ聖書のみことばをお読みくださいました。K姉は共に天城山荘でこのみことばを聞いた時のことを思い出しているという表情をされ、大きくうなずかれました。50年もの間、ひたすら主と教会に仕え、試練の時も共に祈り合い、励まし合ってきた二人でした。晩年になって苦しい病と闘って来られた姉妹、その頭の中、心の中は、みことばがぎっしり、またどっかりと住んでいたのでしょう。残された私も、聖書に生き、少しでも主の御栄光のために用いられるように、そういう生涯を送りたいと、今も思っております。
 大橋さんの心に残る聖書のことば、イザヤ書43章1節、2節、もう一回、ゆっくりとお読みいたしましょう。
恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおる。
 どんな苦しい時も悲しい時も、神様がご一緒だという事ですねえ。なんという、まことに美しい、力強い神様の約束のことばでしょうか。イザヤ書43章1節、2節をお読みしました。ではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2004.11.20放送でのお話しより)

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***

このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

この記事をはてなブックマークに追加

■御霊の実「喜び」

2004年11月19日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 今、静かなお笑いブームだそうです。若手の役者が活躍しています。ま、世相が暗い時には、世の中また人の心を明るくするのに、ま、必要な事ですよね。また心を明るくするのに、ま、「笑い」と似ていますけれども、少し違う、「喜び」があります。ま、喜びは笑いよりも長続きがし、またより深い心の潤いをもたらすのではないでしょうか。喜びは「心の薬」などとも言われます。

 ソロモン王は、旧約聖書 箴言の15章13節という所で、「心に喜びがあれば、顔色を良くする。」と言っています。何か達成した!という時、喜びを感じますね。また、願っていたものを手に入れた!とか、大好きな事をやっている!という時にも、心に喜びがあります。何よりも愛する者と共にいる! 心に静かな喜びがあるのではないでしょうか。

 まあこんな日常生活の中での喜びを実感するって大切な事ですねえ。まあ、心の健康、また、活力になっていく、というわけです。 でも、こういう喜びをもたらすもの、なかなか多くはない、また感じにくい、また長続きしない、っていう限界があるようです。

 聖書は、良い知らせ、福音の書、とも呼ばれますが、新約聖書だけでも「喜び」っていう名詞は170回近く出てきます。「喜ぶ」とか「喜ばす」という動詞も120回ほど出てきます。まあ何と合わせると新約聖書27巻の中に300回近くも「喜び」また「喜ぶ」って出てくるんです。まあ旧約聖書はその倍ぐらい出てきます。ですから聖書は、どこを読んでも「喜び」「喜ぶ」っていうことに出会う訳です。そしてその多くは、神様が下さるもの、イエス・キリストを信ずる心の中に、生まれるもの・在るもの、そういう喜びだと言っています。ですから、状況とか相手に左右されないものである、という訳です。

 キリストの弟子パウロは、迫害を受け投獄された時も、牢獄の中から書いた手紙に、「喜び、喜べ」「喜び、喜ぺ」と繰り返し書いています。神が共にいてくださる!と感じるところに変わらない喜びがある、という訳です。
 旧約聖書の詩篇の16篇の11節にも、神様に向かってこんなふうに歌っています。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 (PBA制作「世の光」2004.11.19放送でのお話しより)

この記事をはてなブックマークに追加