♪ラジオ放送・文字版「世の光」

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「世の光」を文字で 

■十戒 -自由への励まし 34 / 大嶋重徳

2017年11月30日 | Weblog
2017/10/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒の第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト記 20章8節)と語り、その根拠を旧約聖書の出エジプト記に、神様が休まれた神であった、その神に似せられた私たち人間も休みを取らなければいけない、と記されているからです。

 では神様は七日目をどのように休まれたのでしょうか。このことが、休みを取るのが下手な私たちの休み方の基礎となるはずです。

 十戒が記されている旧約聖書の出エジプト記には、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」(出エジプト記 20章8節、9節)

 ここで、安息日を迎える前になすべきことがある、と記されています。それは「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」とないと、第四戒は休むことを求めながら働くことも求めているのです。なぜなら神様は休まれる前に働かれる神でもあるからです。そして人間にも六日間働く事を命じておられます。

 ここから第四戒の持っている聖書的な労働観が生まれてきます。キリスト教信仰において働く事も信仰のことなのです。

 創世記1章には、神様が人間造られた時、その使命として「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記 1章28節)と、世界を治める使命を与えられました。また同じ創世記には、「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記 2章15節)とあるように、人間が罪を犯す前のエデンの園にも「耕す」という労働はあったのです。まさにエデンの園において労働・働く事は神様との交わりでした。神様のことを日々感じながら、神様、次にどこを耕しましょうか、と自分に託されたエデンの園を耕したんです。また最初の人アダムは動物たちに名前をつけました。世界を管理したんです。まさに働くことは神の御計画を思い巡らしながら神様との交わりの時であったのです。
 
 私たちも今日の一日を始めるとき、今日それぞれに託されている仕事があるのだと思います。病気で横になっておられる方も、自分の身体を管理する治療もまた神様に委ねられたお仕事です。安息日を迎えるためにその場その場で託されている仕事を精一杯頑張りたいと思います。そして今日の一日を終える時に神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ 25章21節、23節)と誉めてくださるのです。
 
  ( PBA制作「世の光」2017.10.26放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■信仰があったなら / 福井 誠

2017年11月29日 | Weblog
2017/10/25放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「信仰があったなら」です。マタイ福音書17章20節を読んでみましょう。

 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 旧約聖書の偉大な指導者と言えばモーセが挙げられます。モーセはエジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を解放しエジプトから脱出させた偉大なリーダーでした。マタイの福音書はどうもイエスをモーセのように描いていると思われるところがあります。今日の箇所もその例で、例えばモーセがシナイ山に上り神と共に良き時を過ごした後に山から降りてきた時に直面したことはイスラエルの背教の姿でした。それは出エジプト記の32章に詳しく描かれています。同じように(マタイ)17章ではイエスが高い山に登り、そこで神と良き時を過ごした後に山を下るとイエスは弟子たちの不信仰に直面しているのです。弟子たちは病で苦しんでいる人を直すことができず困り果てていました。イエスに信仰を学びながらそれを働かせることのできない弟子たちの姿がありました。

 確かにクリスチャンになるということは神の力に生きる人生です。信じる対象、信頼を置く方が天地万物の創造主であるならばそこにはあらゆる可能性があるはずだからです。しかし、いざ無理難題が起こると私たちは神様のことなど忘れて神様を見上げることをしません。「山を動かす」はことわざ的な表現で、不可能性を可能にすることを意味します。もちろん信仰を持てば何でもなるという訳ではないでしょう。大切なのは神様の御心です。神様が良しとすればあれがなりこれがなるということです。どんなに信仰を持っても神様がお許しにならなければ何事もならない。しかし神様がお許しになればいかなることも可能であるということです。神の主権を覚えつつ、信仰を持つならば無限の可能性があると考えたいものですね。信仰を持つことは生きて働かれる神を信頼することです。ぜひ神の御力を味わい知る人生を歩みたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.10.25放送でのお話より )

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■杯を取り / 板倉邦雄

2017年11月28日 | Weblog
2017/10/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「杯を取り」という題でお話ししましょう。
 
 千利休がキリスト教徒であったという説があります。千利休はお茶の作法をキリスト教の聖晩餐すなわち聖餐式から取り入れたとも言われています。

 さてルカの福音書22章からの続きです。イエス様は弟子たちとの過ぎ越しの食事の最中でしたが、おもむろに杯を取り、感謝の意祈りを捧げてからこう言われました。
 この杯を「取って、互に分けて飲め。 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない。」(17節、18節)

 神の国がこの世に実現するまではイエス様はぶどうの実で作った酒は一切飲まない、と言われたのです。逆にイエス様が再びこの世に来ますという希望のことばなのです。

 またイエス様は続けてパンを取り、感謝の祈りをしてからパンを裂き、弟子たちに与えてこう言われました。
 このパンは「あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」(19節)
 
 いよいよ聖晩餐の制定です。パンはイエス様の身体を表していました。パンを裂く行為は御自分の身体がこのパンのように十字架の上で切り裂かれることを予告していました。このイエス様のいのちのパンが割かれて信頼する人々に与えられるのです。

 さて、食事が終わろうとしていた時です。イエス様は再び大きな杯を取り上げました。そしてパンを配った時と同じようなことを言われたのです。
 「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」(20節) 
 神の子羊イエス・キリストが来られるまでは動物が私たちの罪の償いのために身代わりとなって罪の赦しが与えられていました。しかし、新しい契約は神の子羊イエス・キリストの十字架での血潮によって建てられた約束だったのです。

 「世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1章29節)と洗礼者ヨハネはイエス様を人々に紹介しました。私たちの身体を流れる血潮は私たちのいのちを支える液体です。酸素を運び栄養を運び、そして何よりも老廃物や毒素を排除する働きがありますねえ。イエス様の十字架の血潮は私たちのいのちなのです。

 聖書のことばです。
 「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
           ヘブル人への手紙 9章22節 (口語訳)

   (PBA制作「世の光」2017.10.24放送でのお話より )

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■愛の伝道者 賀川豊彦 (1) / 岩井基雄

2017年11月27日 | Weblog
2017/10/23放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日と来週は、神の愛を届け続けた賀川豊彦について学んでみましょう。

 賀川豊彦は兵庫県神戸市に回漕業者・賀川純一と、かめの子として生まれました。幼少期に相次いで父母と死別し、5才の時、姉と共に徳島の母親の実家に引き取られますが、兄の放蕩により15才の時に賀川家は破産してしまいます。豊彦は叔父の家に移りますが、旧制徳島中学校に通っていた時に日本キリスト教会徳島教会にてマヤス宣教師を通し自分の罪を示され、その罪のためにイエス・キリストが十字架にかかり圧倒的な愛を注いでくださったことを知り、キリスト教の洗礼を受けました。豊彦が15才の時でした。この時期に豊彦は多くの書物を通してキリスト教の愛に基づく社会的な活動に共感を覚えるようになります。特に戦争と平和を記したキリスト者作家トルストイに影響を受け、キリスト教の伝道者を志し、今の明治学院大学神学部に入学。卒業後、新設の神戸神学校でも学びを深めたのです。身体が弱かったという豊彦はひどい結核に苦しみ、また苦しむ中で信仰が揺るがされます。しかし、貧しさの中に来てくださったキリストの姿と愛を深く受けとめた豊彦は貧民問題の中にキリストの愛を届けたいと、明治42年に神戸市新川のスラム街に住み込み、路傍伝道を開始するのです。そして神戸神学校卒業後、「天国屋」を開業し、貧しい人たちにその日の食事を与えていくのです。女工のハルと貧民街で出会い、彼女もマヤス宣教師より洗礼を受け、大正2年に神戸の教会で結婚式をあげました。賀川は貧民街で貧しい人々を招いて披露宴を行い、二人はキリストの愛によって貧しさに苦しむ人々に仕え続けていったのです。

 聖書のことば
 「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。
                 旧約聖書イザヤ58章7節、8節

   PBA制作「世の光」2017.10.23放送でのお話しより)

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■神のさばき / 羽鳥頼和

2017年11月25日 | Weblog
2017/10/21放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書エゼキエル書30章から神の裁きについてお話しします。

 ここには神の裁きについて三つのことが語られています。
 第一は、神の裁きは人にとって大きな嘆き悲しみだということです。聖書は最初に、「泣きわめけ」(エゼキエル書 30章2節)と言っています。

 第二に、神の裁きはこの世の力よりもはるかに強いということです。聖書は、神の裁きが下ることをこのように教えています。「剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされる」(4節) 旧約聖書の時代、最強の国の一つがエジプトでした。そのエジプトも神の裁きによってことごとく滅ぼされてしまうのです。

 第三に、神の裁きは公正で正しいのです。神は悪に対して、それがどんなに強くても必ず裁かれます。聖書では、神が裁きを行われるとき人は神を知る(参照 8節、19節、25節、26節「彼らは、わたしが主であることを知ろう。」)と四度繰り返し語られています。神の裁きが行われると、神が正しい方であり、公正を行われる方であることが分るのです。

 このような神の裁きは私たちにとって無関係ではありません。新約聖書ヘブル人への手紙9章27節は神の裁きについてこう教えています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 私たちは神の裁きを免れることはできないのです。

 でも大丈夫です。聖書は神の裁きによる滅びを免れるためにどうしたらよいのか教えてくれています。新約聖書ヨハネの福音書3章18節がその事を教えています。「御子を信じる者はさばかれない。」 御子とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる者は裁かれないのです。ヨハネの福音書3章17節はこう言います。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 明日は日曜日です。イエス・キリストによる救いを受けるために、お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。
 
(PBA制作「世の光」 2017.10.21放送でのお話より )
 
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■主がわたしの手を / 関根弘興

2017年11月24日 | Weblog
2017/10/20放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
  
私の大好きな讃美歌の中に「主が私の手を取ってくださいます。どうして怖がったり逃げたりするでしょう。優しい主の手にすべてを任せて旅ができるとは何たる恵みでしょう。」(聖歌651番/新聖歌474番 『主がわたしの手を』)こういう歌詞のある讃美歌があります。これからの生涯、いつも神様が私の手をしっかりと握って導いてくださるという、とてもすてきな讃美歌です。

 この讃美歌の中にとても大切なことばがあります。それは「主が私の手を取ってくださいます。」という一文です。私たちは信仰ということを考えるとき、自分が一生懸命神様の手を握らなければならないと考えているそんな時があります。でも人生にはそういう様々な出来事の中で自分の手が離れそうになってしまうこと、こういうことが何度もありますよね。でも信仰のイメージをどうぞ変えてください。それは私の手が離れそうになっても、主の手は私の腕をしっかり握っていてくださっている。そういうことです。

 イエス様はこう約束されました。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル 13章5節) このように約束してくださいました。「決してあなたを離れず」と約束されているんですねえ。イエス様を信じ生きることは生涯切り離されることのない永遠の御腕があなたを支えているということでもあるんです。

 新約聖書のマルコの福音書の中にエリコの町外れにバルテマイという目の不自由な人が道に座っていたことが書かれています。彼はイエス様が来られた時、「イエスさま。私をあわれんでください。救ってください。」(ルカ 18章38節)と叫び続けました。バルテマイはイエ様の愛と力を信じ、叫び求めていきました。するとイエス様はこの人を見えるようにしてくださったんです。そして道に座っていたバルテマイでしたがイエス様の行かれるところについていった。つまりイエス様と行動を共にしていったっていうんですねえ。彼はイエス様の御そばに人生の居場所を見いだすことのできた一人となっていきました。

 このバルテマイのことは新約聖書のマルコの福音書やルカの福音書に記され、世界中の多くの人々がバルテマイの「イエスさま。私をあわれんでください。」という勇気ある信仰の叫びとそれがもたらす祝福を知ることになったんです。一人の人物のイエス様への心からの正直な叫びが多くの祝福の源ともなっていくんですね。

 (PBA制作「世の光」2017.10.20放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし 33 / 大嶋重徳

2017年11月23日 | Weblog
2017/10/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十回の第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト記 20章8節)と語り、その根拠を旧約聖書の出エジプト記では、神様が休まれた神であり、その神に似せられた私たち人間も休みを取らなければいけない、と記されているからです。

 私はオーストラリアという国で1年間勉強しに行ったことがあります。オーストラリアでは多くの人がきちんと休暇をとり、そして良く休むんですね。また土曜、日曜の昼間にはよく公共交通機関の電車が止まりました。駅の案内表示を見ると線路のメンテナンスのためだと書かれていました。日本だと線路工事などのメンテナンスは深夜に行い、昼間は電車を走らせ続けます。そうしないと利用する人たちからクレームが出るからですね。しかしオーストラリアの人はあんまり怒りませんでした。なんで怒こんないの?、と聞くと、線路の工事をする人も夜は寝ないとね、と言うんです。生活のクオリティーが保たれるよりも人がきちんと休むことが優先されているんだなあと思いました。

 またある時、その教会のある人が、こんな仕事の問題があって、と牧師に仕事の悩みを打ち明けている所に一緒にいました。するとそのオーストラリア人の牧師はその人の話をよく聞いた後、ユー ニード バケイション、休日をきちんと取りなさい、と言ったんですね。もう私はひっくり返りそうになりました。彼の相談した内容は休んだって問題は変わらないわけです。しかしよくよく考えさせられた事は、休んだ後に見えて来るものと休まないと見えて来ないものがあるんだなあということです。

 神様が休まれたように自分の肉体を休ませることは、信仰ゆえのキリスト者の決断です。きちんと休んだからこそ、家族を大切にし仕事もきちんと取り組むことができるのでしょう。十戒がこのあと禁じる姦淫の罪を犯さずに、盗む思いも、殺す思いも、欲しがる思いもまた抑制されるのではないかと思います。肉体を酷使して働き続けることは、精神を病み、心の中に疲れた荒んだ場所を作り、罪を犯しやすい温床を産み出していきます。それは神様が望んでおられる人間全体の労働の姿ではありません。永遠の安息を目指しながら、きちんと週ごとの休みを取ることが、神の前に生きる神の民の生き方なのです。

 安息日を守ること、それは非常に信仰的なことであり霊的なことなのです。皆さんの今週のお休みはきちんと取れているでしょうか。
 
  ( PBA制作「世の光」2017.10.19放送でのお話しより )

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■天の御国が近づいた / 福井 誠

2017年11月22日 | Weblog
2017/10/18放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「天の御国が近づいた」です。マタイの福音書10章7節を読んでみましょう。
行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。

 今日の箇所でイエスは12弟子を呼び寄せて、神のことばを伝える宣教の働きへと遣わしていますねえ。基本的に彼らの宣教は、同胞のユダヤ人に悔い改めをもたらすことを目的としていました。つまり、神を知りながら神と無関係に歩んでいる人々に、神を認めて神の御心に生きることを勧めていく働きに遣わされているのです。

 この宣教の働きには幾つかの特徴があります。まずそれは基本的にイエスの働きを継承し拡大するものでした。クリスチャンの宣教も同じです。宣教はイエスの働きの継承・拡大であり、人々に神の存在を認めさせて神の支配に立ち帰らせていくためのものです。神様の素晴らしさ、神様のいのち、神様の力を証しする働きですね。

 また、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ 10章8節)と言われるように、宣教は無償でなされるべき性質の働きです。使徒パウロも、「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ。」(1コリント 9章16節)と語りました。福音宣教の働きは何の見返りを期待することもなく、ただで与えていことを特徴とするものです。

 更に福音宣教の働きは、ただ働きではなく、主が備えてくださるものに信頼しながら進めていく働きです。「働く者が食べ物を与えられるのは当然だから」(マタイ 10章10節)とイエスは語ります。神の働きであるなら神が備えてくださらないはずが無いという訳です。

 そして最後に、宣教は父の働きの拡大ですから、主であるイエスが受けた同じ不評を受けることも覚悟しなければなりません。弟子と師の心は一体です。イエスの弟子になるというのなら、その旗印を明らかにすることもあるでしょう。神様はあなたにもこの福音宣教の働きを託されることがあります。その働きの機会が与えられたなら、そこには神様の祝福があるのですから、ぜひ喜んで受けて、その祝福を味わっていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.10.18放送でのお話より )

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■最後の晩餐 / 板倉邦雄

2017年11月21日 | Weblog
2017/10/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「最後の晩餐」という題でお話ししましょう。
 親しい人との別れの時、仲間と一緒に夕食などをしますね。イエス様もこの地上での最後の晩餐を弟子たちと共にすることを切に願ったのです。

 さてイエス様は食卓に着かれ、こう言われたのです。「わたしは苦しみを受ける前にあなたがたとこの過ぎ越しの食事をしようと切に望んでいました。あなたがたに言っておきますが、神の国で過ぎ越しが成就する時までは、わたしは二度とこの過ぎ越しの食事をすることはありません。」(参照 ルカの福音書22章15節、16節)

 「過ぎ越しの食事」とはイスラエルの民がエジプトでの奴隷から自由になった記念すべき祭の食事です。子羊が屠られてその血を玄関の鴨居に塗りました。主なる神様が血で塗られた家を過ぎ越されたからこの祭りが始まりました。

 「苦しみを受ける前に」とは、これからイエス様は苦難の十字架を背負うことになります。そして十字架の上で体は裂かれ、尊い血潮を流して死ぬことになります。「これからわたしが過ぎ越しの子羊となります。」と語っているのです。神の国に生まれ神の国に入るための条件は、神の子羊であるイエス様の血潮が必要なのです。このイエス様の十字架の血潮を信じ、イエス様の十字架の元に隠れる人・家族に神の怒りの審判は過ぎ越されるのです。血を流すことなしに罪の赦しはありません。主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。と使徒の働きの16章の31節にあります。神の国で過ぎ越しが常住する時まではわたしは二度とこの過ぎ越しの食事をすることはありません。イエス様を信じて従う人たちは神の国で、やがてイエス様と過ぎ越しの食事をする時が来るようです。

 それはいつの日、いつの時でしょうか。使徒パウロという伝道者はこのように語りました。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」 
               第一コリント人への手紙 11章26節 (口語訳)

 主イエス様がこの世にもう一度来られる時、私たちは神の国でイエス様と食卓につくのです。

   (PBA制作「世の光」2017.10.17放送でのお話より )

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■安心して帰りなさい / 岩井基雄

2017年11月20日 | Weblog

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。神の御子イエス・キリストは様々な人々の病を癒されました。神の御子にとってそれは訳もないことだったかもしれませんね。しかし私たちにとって病や死は人生の大きな問題です。

 今から二千年前のユダヤの社会では長血という病にかかった女性は社会や家族から切り離されて生活せざるを得ませんでした。その病に12年間苦しみられていた女性は、あらゆる治療を試みましたが癒されるどころか、騙され、財産の殆どを失ったのです。

 希望がすべてついえたかに思える中、彼女はキリストの噂を聞いたのです。多くの病を癒し悲しみを通る人々と共に歩むキリストの噂は彼女の心を捕えます。そしてキリストの衣にでも触ればきっと治るに違いないと彼女は考えたのです。そして人々がキリストに群がる中を彼女も近づいていきました。それは一つの賭けでした。もし途中で彼女の正体が分かれば、その衣に触れないどころか、追い出される危険性もあったでしょう。しかし彼女は成功します。そして長血の源が乾き癒されたのを感じたのです。12年間、彼女を苦しみ続けた病から解放された瞬間でした。

 しかしその時です。キリストが立ち止まり周りを見回して「だれがわたしにさわったのか。」(マルコの福音書5章31節)と問い始めたのです。彼女の心臓は激しく鼓動したことでしょう。しかし彼女は、自分であると申し出、真実を語ります。周りの人々の驚きをよそに、キリストは彼女に平安と回復を与えるべく、こう語られました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」 新約聖書 マルコの福音書5章34節

 それは彼女が社会や家族にも安心して戻れる宣言でもありました。キリストを信じる彼女の小さな信仰でありました。しかしキリストはそれを受け入れ、彼女の人生を根底から作り変えてくださったのです。

 あなたが今どのような苦難の中にいらっしゃったとしても、イエス・キリストはあなたにもまことの平安と解放、癒しと勝利を与えてくださいます。あなたもこのキリストの愛に信頼を置き、新しい人生を始めていきませんか? イエス・キリストはあなたの人生を豊かに包み、恵みへと変えてくださいます。

 

 


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