♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■人生の時(9) <しあわせを知っている人>

2008年05月31日 | Weblog

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 今日は始めに、旧約聖書伝道者の書8章12節をお読みしましょう。
 「罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。

 聖書が語っているのは、悪人が栄えているのを見て羨ましく思うな、そこに幸せはない。むしろ神を信頼している人こそが幸せなんだ、ということです。

 先日、71歳のお独り暮らしだった婦人のお葬式をしました。この方の人生は辛いものでした。名門のお寺に嫁ぎました。けれども立派な仏教徒であった舅(しゅうと)が亡くなってしばらくして夫が女性問題を起こし、そうしたストレスが重なって病気になると、離縁されてしまったんです。理不尽です。そうじゃないのに、と刃物で壁を刺し続ける日々。悔しい毎日だったそうです。そんな折、昔いとこがキリスト教会に行って洗礼を受けたことを思い出し、教会へ行きました。その時、牧師さんから聞いた「神は愛です。」(ヨハネの手紙第一 4章8、16節)ということばが心に突き刺さりました。と同時に、こんな辛い人生を与える神様が愛だなんて、到底信じられませんでした。けれども、やがて分かりました。みんなから見捨てられた私のために、しかも殺意さえ抱く罪深い私のために身代わりとなって十字架にかかり、死んでくださったイエス・キリスト様を通して、神は愛です、ということが身に滲みて分かりました。それでクリスチャンになりました。ここ数年間は、リュウマチ、その治療の副作用で痛み苦しみ、入退院を繰り返しました。ところが病室に見舞うと、聖書を読み、お祈りをし、讃美歌を歌います。するとそこはたちまち小さな花園になりました。

 この方の一生は、誰の目にも不幸せに映りました。しかしこの方は「聖書が言う幸せ」を知っている人でした。神を信頼する人を神は見捨てることはないからです。あなたも今日、この愛の神を信頼し、本当の幸せを知ってください。

 ( PBA制作「世の光」2008.5.31放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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(自由ケ丘キリスト教会内)

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■希望はここに・・・

2008年05月30日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 五月ももう終わろうとしています。この時期、多くの方が通ると言われる五月病というのがありますねえ。受験や就職活動を乗り越え一段落した若者が、目標を喪失し、また燃え尽きて起こる無気力感などの症状を指していました。しかし最近は中高年の方もこの五月病になり、様々な変化に対応できずに、抑鬱的で無気力な症状になことが多いのだそうです。

 目標や望みに向かって進んでいても、内側には他の人との比較からくる焦りや葛藤があったり、自分の思い通りに行かない現実や変化の中でどうすることもできずに立ちすくんでしまうことがあります。希望に向かっていたはずなのに深い失望や挫折に終わってしまうことだってあるのです。あなたはいかがですか?

 聖書は希望について、こう語っています。「この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ人への手紙5章5節)と。失望に終わらない希望、即ち、たとえ失望があったとしてもそれで終わることがない本当の希望・いのちある希望があるというのです。

 そして聖書は、こうも語っています。「あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(ペテロの手紙第一 1章21節)と。本当の希望は、私たちの能力や経験の豊かさ、周りの環境や状況の良さによるのではありません。真の望みは、聖書が語る天地を創造された神様にかかっているのです。

 だとしたらどうでしょう。あなたがどんな重い病の中にいたとしても、到底希望を見出せないような状況にいたとしても、あなたは本当の希望を抱くことができます。なぜなら、すべてを御存知ですべてを成し遂げることのできる全知全能の神様が、どんな時にもあなたと共にいてくださるからです。

 この神様に希望を置き、心から信頼し信じていくとき、あなたの歩みは決して失望で終わってしまうことはありません。あなたがどんな困難な状況に囲まれていても、あなたの上にはこの永遠の神様を求める祈りの窓、信仰の窓が開かれているのです。あなたも神様を信じ、希望を神様に置いてみませんか? あなたの真の望みは神様の内にあるのです。

 (PBA制作「世の光」2008.5.30放送でのお話しより)

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■尊敬される秘訣

2008年05月29日 | Weblog

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。

 今日は聖書の中のヨハネの福音書13章14節から読んでみましょう。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」ヨハネの福音書13章14節

 当時のイスラエルでは食事に呼ばれると、必ず水浴をして出かけるのが習慣でした。ただ当時の履物はサンダルのようなものでしたから、舗装されていないほこりっぽい道を歩いていくうちに足が汚れてしまいます。そこで各家には大きな水瓶が用意されていて、足洗い用の水が溜められていました。客人はそこで足を洗ってから家に入るのです。奴隷が水差しとタオルを持って控え、足を洗ってくれるのが普通でしたが、奴隷のいない場合には互いに足を洗いあう、そのような習慣がありました。

 ところがこの日、弟子たちは互いに足を洗わず、ずかずかと二階の座敷に上がりこみました。というのも、この家に来るまで弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いか、ということを熱く議論していましたから、誰かの足を洗ったら最後、洗った者は自分を卑しくしてしまう、と思ったのかもしれません。プライドが先に立って「私は洗いたくない。お前が洗ったらいい」と目くばせしているうちに結局誰も足を洗わずに二階の座敷にあがりこんでしまったのでしょう。

 そこにイエスが水差しと手拭いを持って現れ、弟子たち一人ひとりの足を洗い始められました。そして言われました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

 師つまり上に立つ人というのは指導する人、何かをさせている人、というイメージに私たちは慣れ親しんでいて、それが当たり前だと思っています。しかし聖書は、師というのは、人の状態に配慮し心遣いのできる人である、と教えます。心遣いがあるがゆえに人に慕われ、信頼され、また師として尊敬される、そんな歩みをさせていただきたいものです。

 (PBA制作「世の光」2008.5.29放送でのお話しより)

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■神の川は水で満ちています

2008年05月28日 | Weblog


世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 私の今日のバイブル・メッセージは「神の川は水で満ちています」という題で、聖書は旧約聖書 詩篇65篇の9節です。お読みします。

 「あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。

 何と麗しい、神の祝福の姿でしょう。水は神様からの贈り物です。水がなければ地球上のものは生きることが出来ません。人間はどんなに知識があっても独力で無から水を創り出すことは出来ません。神様が、水を下し地を潤して作物を成長させ、豊かな実りを与えてくださるのです。すべては神の恵み・祝福による訳です。精神的においても、殺伐とした人々の心に愛を与え、平和と喜びを満たすことのできるのは、神様だけです。人間は、戦争はもう嫌だ平和な社会をと、争いのない世界をと、誰もが求めていますのに、憎み合い、殺し合う悲しいニュースばかりです。

 「神の川は水で満ちています。」 水は低い所に流れてくだります。いのちの水、平和の水、愛の水が私たちの心に流れてこないのは、私たちの心が傲慢で高ぶっているためです。そこで神の川の水は流れないのです。水はいっぱいあるのに、私たちの罪が、高ぶりの罪が川を堰き止めて、心を砂漠にしているのです。

 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネの福音書7章37節)とイエス・キリストは招いておられます。神は祝福したいと願っておられます。心からへりくだり、悔い改めて砕けた心をもって神の前に出て信じるなら、神の川の水は音を立てて流れくだり、私たちの渇いた魂は、愛と喜びと平和に満たされるのです。

 聖書のことば

 「神の川は水で満ちています。
  旧約聖書 詩篇65篇9節のことばです。
 
 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2008.5.28放送でのお話しより)

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■荷を下ろして

2008年05月27日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興(せきね・ひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 私が高校生の時でしたが、同級生が突然、自殺してしまいました。私は大きなショックを受けました。そして、どうして?という疑問と、仲間の自殺を防げなかったという自分たちの無力さを知らされることになったんです。

 今、日本では一年に三万人以上の人たちが自殺をする現実があります。もちろんいろんな理由があります。経済的な理由、いじめということの理由、人間関係のトラブル、病気を苦にしてなど。ま、その背景はみな違います。

 自殺未遂経験者の多くの方を取材し本を書かれたあるフリーライターの方がこんなことを話されていました。「どこかで暖かい関わりが喪失している・失われている現実があるんですね。」と。いろんな現実の中で、死んだ方がましだとか、生きていてもしようがないとか、自分が死ねば解決する。誰も自分のことなんて分かってくれない。ま、段々だんだん信頼できる関わりや暖かい関わりが失われてしまったのかもしれませんねえ。どこかで人は、本当に自分の重荷を下ろせる場所、疲れを癒すことのできる関わりというものを求めているんです。

 今日、私は、こんな時代だからこそ、イエス・キリストが語られた三つの約束のことばを紹介したいんです。

 第一に、マタイの福音書11章28節。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 キリストのもとに重荷を下ろすことができる。イエス・キリストはあなたを休ませると約束しています。

 第二は、ヨハネの福音書4章14節。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 イエス・キリストは、あなたの心の奥底から、生きる喜びや生かされている喜びを、心の泉となって湧き上がらせてくださると約束しています。

 そして第三に、ヘブル人への手紙13章5節。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 

 イエス・キリストのもとに重荷を下ろし、イエス・キリストの与える泉を持ち、歩んでいける人生があるのだと聖書は約束しています。絶望や失望というものは人生に時々襲ってきます。でもこのイエス・キリストの約束のことばを信じ受け入れ歩んでいく人生、私はその人生はあなたにも選び取ってもらいたいと心から願っています。

 (PBA制作「世の光」2008.5.27放送でのお話しより)

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■最後の目標を決めてから

2008年05月26日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 えー、一人の老人がある青年に人生の目標を尋ねたという、ま、こんな小咄(こばなし)みたいなのがあるんですけれども。

 青年が、「僕は商業を勉強してビジネスで身を立てて一旗あげて、で、引退したら貯金で余生を送る。」(と。すると)「そう。余生を送ってからどうする?」「うーん、それからまあいずれは死ぬ日が来るでしょうけれども・・・」「ふーん、それからどうする?」「それからって・・・考えたことがない。分からない・・・。」って言ったそうですけれども、あなたならなんとお答えになるでしょうか。

 新しい年とか新しい年度には、それぞれ何らかの目標を立ててスタートしますよねえ。ゴールのないレースなんか考えられないように、一年を目標なしに歩むってことは考えられないことでしょう。ましてや人生というレースに目標がはっきりしないとしたらどうでしょうか。そして何を目標としてその目標をどのへんに置いているかっていうことは更に大事なことだと思うんですよねえ。

 こんな言い方がありますけれども、平社員になったら今日一日のことを考える。係長は来週のこと。課長は来月を。部長は来年のことを考える。けれども社長は少なくとも10年先を見ている、という話を聞くことがありますね。人生を会社に例えると私たちはどの辺に属しているんでしょうかねえ。

 パウロという人が、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ人への手紙 3章14節)という。その永遠的な神の栄冠というそれを目標・ゴールとして「目標を目ざして一心に走っている」(と)。

 ある野球の監督が、まず最後のゴールは何かということを決めてそれに向かってスタートしていく、これが大事なんだというふうに言われたということですけれども、そうかもしれないなと思うんですねえ。

 聖書の中に、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」ということばがコリント第二の手紙(4章18節)にあるんですけれどね。永遠に続く目に見えないものに目を注ぐのがパウロという人の生き方だったということが分かるんですけれども、私たちも空しい生き方でなくって、永遠の目標・ゴールを明確に持った人生を歩んでいく、これはとても大切なことだと思いますねえ。お聴きのあなたのゴールは何でしょうか。
 
 ( PBA制作「世の光」2008.5.26放送でのお話しより)

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■人生の時(8) <逆境の日には反省せよ>

2008年05月24日 | Weblog

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 この季節は、様々な出発や出会いがあるものです。人生には、うまくいっている日もあれば、悪い日もありますよねえ。

 ところで旧約聖書の伝道者の書7章14節にこんなことばがあります。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。

 以前、五千円札に使われた、クリスチャンでもあった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)という人は、『修養』という本の中で、順境と逆境、その逆境にある人の落ち込みやすい五つの危険について書いています。

 一つめは、やけになりやすい。逆境を切り抜けることを思わないで、かえってやけになり、堕落する人がたくさんいるというんです。二つめは、他人を妬みやすい。三つめは、他人を恨みやすい。四つめは、同情心をなくしやすい。自分の状況が哀れに思えて人の幸せを素直に喜べないと言うんです。五つめは、心に傷を受けやすい。自分だけがなぜこんな目に遭わなければならないのかと思う、というのです。一つ一つ本当にその通りだなあ、って思います。

 それだけに、伝道者が「逆境の日には反省せよ。」と語ったそのことばの重さを大事にしなければ、と思わされます。誰でも、逆境の日にはすっかり落ち込んで自分自身を見失いがちです。けれどもそんな日こそ一人静かにすべてを造られた神様の前に出てそして自分自身にしっかり向き合いなさい、そう伝道者は諭すのです。そこから見えてくる光があるからです。

 キリストの弟子パウロはこう言いました。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(コリント人への手紙第一 10章13節)
 
 今、もしもあなたが逆境の中にあったとしても、真実な神様は、あなたに脱出の道を必ず用意しておられます。どうぞ、この神を信頼し、試練を耐え抜いてください。

 ( PBA制作「世の光」2008.5.24放送でのお話しより )

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■ゴールデン・ルール

2008年05月23日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 他の人の目が気になります、そう悩まれる方が少なくありません。日本の文化は恥の文化とも評されます。恥をかかないように生きることが日本では少し過度に求められるのかもしれません。狭い国土にたくさんの人が住む日本では他の人に配慮して生きることは重要ですね。しかし、迷惑をかけないように、恥をかかないように生きるという失敗を恐れる生き方と、もう一つ、他の人のために出来ることを喜んで行うという積極的な生き方があります。

 聖書にはこうあります。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」(マタイの福音書7章12節) この聖書のことばをゴールデン・ルール(「黄金のルール」)と呼ぶ方がいらっしゃいます。自分がしてもらって嬉しかったこと、自分がして欲しいと思うことを喜んで進んで行いなさいというのです。どんな国でも、どんな社会でも、他の人の喜びを自分の喜びとし、それを行える人は他の人に愛を届けることができるのです。

 他の人にしてもらったことで、あなたが一番嬉しかったことはどんなことですか? その喜びを表現し、それを他の人にも行なう時、さらに喜びが、そして愛が広がっていくのではないでしょうか。私たちはある意味では、他の人に迷惑をかけなければ生きていけない存在なのです。あなたの歩みのために喜んでその迷惑を受け取り犠牲を払ってくださった方がいらっしゃるはずです。そのことに気がつき、今度はあなたが他の人のために迷惑をも引き受けていくことは愛のある歩みです。それは自分が恥をかかないようにする消極的な歩みから、他の人のために喜んで生きる積極的な歩みへの変化です。小さなことをも心から感謝し、その感謝を表し、こんどはあなたがその喜びと愛を届けるのです。

 今日一日の歩みでこの愛を届ける歩みをあなたも実践してみませんか? ほんの小さなことであっても、他の人の喜びになることを考え、それを行うとき、それは誰よりも神様が喜ばれる歩みなんです。

 また聴いてください。

 (PBA制作「世の光」2008.5.23放送でのお話しより)

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■死によって命が与えられる

2008年05月22日 | Weblog

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日は聖書の中のヨハネの福音書12章24節から読んでみましょう。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 イエスが十字架に架けられる一週間前のことです。イエスの人気は非常に高まり、たくさんの人々がイエスのもとに集まっていました。エルサレムの町に入ったイエスを人々は喝采して迎え、沸き立ちました。イエスに弟子入りしようと面会を求めてきたギリシャ人たちもいました。しかし、そんな人々にイエスは次のように語ったのです。

  「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。・・・わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(ヨハネの福音書12章24節、26節)と。

 イエスは、自分に弟子入りすることは決して人気を博することにはならない、と語られました。むしろ、イエスに従おうとするなら、イエスが歩まれた十字架の足跡に従うように、と勧められるのです。イエスの十字架は、自分を低くし、自分を失い、自分を与えるものでした。しかしそれはただ単に犠牲的に生きる人生ではありません。ただ自分を押し殺してぽろぽろになる人生でもありません。むしろ積極的に苦しみをくぐり抜けて自分も人も生かされていく人生です。

 実際、イエスが十字上で苦しみ抜かれたのは、すべての人を神の怒りと裁きから救い出すためでした。すべての人に罪の赦しと新しいいのちの祝福をもたらすためだったのです。

 しばしば、人生には苦しいことばかり続くと思われることがあるのではないでしょうか。しかし、イエスを信じ、イエスの弟子になる時に、苦しみの意味が変わってきます。イエスに従って苦しみ死ぬことは無駄死にではありません。私たちの思いを超えて豊かな実を結んでいく希望に満ちたものなのです。

 ( PBA制作「世の光」2008.5.22放送でのお話しより)

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■夕暮れには涙が宿っても朝明けには

2008年05月21日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 今日の私のバイブル・メッセージの題は「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」 このことばは旧約聖書の詩篇の一節です。

 詩篇30篇4節、5節をお読みしましょう。

 「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 人生には涙は誰にでもあり、神を信じるなら苦しみも悩みもまったくない生活が待っている訳でもありません。朝が来なければ良いのに、と眠れぬ夜を過ごした経験を持った人は多いのではないでしょうか。

 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」とは本当でしょうか。この詩篇は、「聖徒たちよ」と呼びかけてあります。神を信じる者たちには本当なのです。

 なぜ苦しみがあり涙があるのかと言うと、それは心に自己中心があり、罪があるからなのです。それを知らせてくださるために苦しみを与え、涙を与え、神の正しさの怒りに触れさせてくださるのです。

 そして反省をする時に、悔い改めの時として暗い静かな一人ぼっちの夜に神の恵みと愛と真実の数々を思い出させていただく時に、私を愛していてくださるということを、いのちのことばをもって語ってくださるのです。

 私は何度このようにして涙の夜を喜びの朝に変えていただいたことでしょう。この愛の神を知ることができた時、その喜びは何に代えることができましょうか。涙の夜があればこそ喜びの朝が明けるのです。最終的にはこの世の苦しみから解放されて御国に迎えられる永遠の喜びの朝を待っています。

 聖書のことば

 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

  旧約聖書 詩篇30篇5節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2008.5.21放送でのお話しより)



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