♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■テサロニケとベレヤで / 羽鳥頼和

2016年07月30日 | Weblog
2016/7/30放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日はパウロによるテサロニケとベレヤでの伝道についてお話しします。

 テサロニケはギリシャにある港町で、この頃にはアテネの次に栄えた都市となり、ローマ帝国の支配下で、マケドニア州の首都となっていました。パウロはテサロニケに行くと、まずユダヤ人の会堂に行きました。毎週土曜日の安息日にそこに集まっているユダヤ人たちと聖書について論じたのです。パウロは人を救うためにイエスは十字架で死んで三日目に復活しなければならなかったことを聖書から論じました。そして、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ救い主キリストなのです。」と語りました。こうしてサテロニケでユダヤ人の幾人かがイエスを信じました。そのほかにも神を信じるギリシャ人が大勢になり、その中には貴婦人たちもいました。こうしてテサロニケにキリストの教会ができたのです。しかし他のユダヤ人たちが妬みにかられ、町のならず者をそそのかして暴動を起こしたので、パウロは隣町に逃げなければなりませんでした。しかしパウロがこの地を去った後も、テサロニケの教会は続いていきました。

 テサロニケを逃れたパウロが次に行った町がベレヤという町でした。ここは古い町で、テサロニケのように栄えた町ではありませんでした。パウロはここでもユダヤ人の会堂に行き、テサロニケの時と同じように聖書から語りました。ベレヤのユダヤ人たちは熱心にパウロの説教を聴き、それが本当かどうか毎日聖書を調べました。そして彼らの内の多くの者が信仰に入りました。その中にはギリシャ人の貴婦人たちもいました。このようにて聖書からイエス・キリストのことが語られて、人々はイエスを信じていきました。今でもキリスト教会では同じように聖書からイエス・キリストのことが語られています。

 明日は日曜日です。キリスト教会では礼拝で聖書のお話をしています。聖書を通してイエス・キリストを知るためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.7.30放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■信仰の戦いを闘った 内村鑑三② / 岩井基雄

2016年07月29日 | Weblog
2016/7/29放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 今日も先週に引き続き内村鑑三について学んでみましょう。平和を求め、戦いを止めるという非戦論を説いた内村の声は戦争へと傾いていった日本の中で波紋を生み、ついには内村不敬事件という事件にまで発展します。それは内村鑑三が第一高等中学校の教員時代に教育勅語の発布の儀式で最敬礼を行わなかったということを不敬として責め立てられ、社会問題化した事件でした。しかし聖書は確かに天地万物を創造された神様以外のものを、礼拝することや神様として崇めることを禁じています。クリスチャンとしての内村鑑三の行動は正しい選択であり、当時の日本では理解されなくても、彼は誤解を恐れずに神様の前の正しさを求めていったんですね。

 内村鑑三は多くの書籍を残しましたが、その中で自分の生涯の中で三度の大きな変化があったということを語っています。彼はこう語ります。

 第一回は、独一無二の神様を認めたということ。第二回は、キリストの十字架における自分の罪の贖いを信じたこと。そして第三回が、私がキリストの再臨・再来を確信したこと。すなわちキリストにあって永遠の希望があるということを確認したということなのです。

 明治45年、1912年に、内村は娘ルツ子の病死を経験します。その葬儀の時、「これはルツ子の葬儀ではない。ルツ子は天に嫁入りしたのであり、今日はルツ子の結婚式である。」と述べたのです。彼は、死は終わりではない、死は永遠のお別れではないと知っていたのです。彼は聖書の真理に生かされていました。そして志賀直哉、有島武郎(たけお)、正宗白鳥たちも大きな影響を受けていったのです。それは神のことばのいのちと希望が人々の心を捕え続けていったからではないでしょうか。聖書はあなたの人生をも新しくいのち豊かなものにしてことができるのです。

 聖書のことば
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
       新約聖書 コリント第二の手紙5章17節

 あなたにも新しい希望といのちに生かされる人生が備えられているのです。

  (PBA制作「世の光」2016.7.29放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主が命じられたこと / 福井 誠

2016年07月28日 | Weblog
2016/7/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主が命じられたこと」です。それでは第一サムエル記13章14節から読んでみましょう。

 「今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。

 今日、私たちが聖書を読みながら、想起つまり想い起こさせられるエピソードは、ペリシテ人とイスラエルが戦争を始めた時にサウルがとった行動です。サウルは預言者サムエルと約束を交わしていたようで、戦争を始める前にサムエルの指示を待たなければならなかったようですねえ。しかし待てど待てどサムエルは現れない。戦争のために集まっていたイスラエルの人々はだんだん怖くなって戦列から離れていく者も現れて、軍隊はがたがたになりそうでした。何とか士気を高めていかなくてはならない所だったのですね。

 ま、そこでサウルは、サムエルの指示を待つこと7日目、もはや待ちきれず、意を決してこの戦争の勝利を主に願うために、サムエルが捧げるはずの全焼のいけにえを捧げてしまったのです。するとそこにひょっこりサムエルが現れました。サムエルはサウルが約束を守らず、サムエルを待てなかったことを責めていますね。そして「もはやあなたの王国は立たない。神は別の人物を王に定められる。」とかなり厳しい事を言っています。神に助けを祈る人は多いことでしょう。しかし神の助けは思うようには得られず、もはや神など当てになりそうもないと思われることが多いものです。そこでどうするか。このエピソードは最後の最後まで神様を待ち望むべきであることを読者に想起させるために書かれています。

 旧約聖書時代の戦争の特色は強い者の勝利ではなく弱い者の逆転勝利です。イスラエルの兵士は常に粗末な兵器を手にする少数劣勢の者でした。しかし神の助けと憐みによって勝利を積み重ねていく歴史を作り上げていきます。私たちが想い起こすべきことは、神を信じる信仰と神の実際の助けによって勝利できることがある、ということですね。サウルの失敗談は私たちに対する教訓です。どんな時も希望を投げ捨ててはいけない。神に最後まで信頼すべきことを教えているのです。

(PBA制作「世の光」2016.7.28放送でのお話より )

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■父祖の家に従って / 板倉邦雄

2016年07月27日 | Weblog
2016/7/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「父祖の家に従って」という題でお話ししましょう。

 私の実家には仏壇の中に過去帳と呼ばれるものがありました。そこには私の家の先祖の名前が書かれています。

 さてイスラエル民族が荒野の旅路を始める前に20歳以上の男子の数を登録することになりましたね。その時、登録は父祖の家に従ってなされたのです。イスラエル民族の父祖と言いますと、ヤコブから生まれた12人の息子たちです。名前をあげますと、長子のルベンから始まり、シメオン、レビ、ガド、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、アセル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの12人です。ところでこの中12名の父祖からイスラエルの12部族が生まれてきたのではありません。レビ部族は12部族からも除外され、戦闘員からも除外されます。そのかわりヨセフ部族がエフライムとマナセの2部族となりそれぞれ戦闘員に登録されることになりました。

 まず父祖ルベンの家によってすべて戦闘に出ることのできる二十歳以上の男子の数は4万6,500人、次のシメオン部族の内で数えられた者は59,300人。三番目ガド部族は4万5,650人。ユダ部族は7万4,600人。イッサカル部族は54,400人。ゼブルン部族は57,400人。ヨセフの子エフライムの部族が4万500人。ヨセフの子マナセの部族が3万2,200人。ベニヤミン部族は3万5,400人。ダン部族は6万2,700人。アセル部族は4万1,500人。そして12番目ナフタリ部族は53,400人。以上、父祖の家に従って数えられた者はイスラエルの内、先頭に出ることできる20歳以上の者でした。その戦闘員の総数は合わせて603,550人でした。(民数記1章20~46節参照)

ところで、すべての社会の営みは家から始まると言うことでしょうか。荒野の人生で戦い続ける20歳以上の人物を育てるのはそれぞれの家であると言うことです。そうでなければ一つの民族を守ること、また建て上げることはできません。神様は一つ一つの家を大事にしておられるということでしょう。

 聖書のことばです。
 「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。
      詩篇の127篇1節

  (PBA制作「世の光」2016.7.27放送でのお話より )

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■主の祈り 59 - ともに祈る / 大嶋重徳

2016年07月26日 | Weblog
2016/7/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。
 
 主の祈りは私一人でなすものではなく、「我ら」の祈りであって、誰かと一緒に祈る祈りですし、誰かのことを思い浮かべて祈りです。私たちは絶えず誰かに祈られなければなりませんし、「祈って欲しい」と言う必要があるでしょう。

 パウロという人は「祈ってください」と言える人でした。ピリピの教会に、エペソの教会に、こういう事が大変だ、祈ってください、と手紙を書いて祈ってもらったのです。そして同時にパウロという人は誰かのことを絶えず祈る人でもありました。「あなたがたのことを思うごとに感謝が湧き上がって来る」と手紙に書いたことがありました(参照ピリピ 1章3節)。パウロにとって祈りとはその人のことを想い巡らせる時間も含まれていました。誰かのことをじいっと考えている。するとその人への感謝な思いが湧いて来る。更に、その人のために何を祈るべきかを神様から教えられ、祈りが生まれて来る、と言うのです。

 私は誰かに会う前にその人のことを神様の前でじいっと考える時間を持つようにしています。一番初めに出会った時のことや、こんな話を前の時にしたなあとか、そういえばしばらく前にこんなこと言っちゃったなあ、今日それを最初に謝らないといけないな、と祈りの中で気づかされるということがあります。そしてその人と会うのが楽しみになって来るのです。

 ぜひ今、大切な誰かのことを思い浮かべて欲しいと思います。そして5分ほどその人のことをじっと考えて欲しいと思うのです。出会った時からのこと、その人が発したことばを思い出してみて欲しいのです。すると、その人の存在が私にとってどれほどの喜びなのか、その人がいてくれることが自分にとってどんなに良いことであったのか、その人との交わりによって神様のことがどのように分るようになったのか、そしてその人のために神様は今どのように祈るように導いておられるのか、ということが分かってようになります。5分は短いように思いながら結構なことを思い出すことができるでしょう。そして、その人と出会った時にその事を伝えて、共に祈ろうと祈りの時をもっていただきたいと思うのです。

 主の祈りの教える祈りの「我ら」を具体的に気付いていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.7.26放送でのお話しより )

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■むさぼりの心ではなく / 関根弘興

2016年07月25日 | Weblog
2016/7/25放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 聖書は私たちが虚しい心のままで生きることや、そして頑なな心を持ったままで歩むことを決して勧めていません。そして貪りの心を持って生きることも注意しているんですね。聖書が教える貪りとは一体何でしょう。それは自分自身の欲望のためには他人を犠牲にしても構わないとする態度、また自分が良ければそれで良い、他人がどうなろうが関係ないという態度です。そしてそれがエスカレートすると、自分が欲しているものを手に入れるためには誰を傷つけようが、どんな方法を用いようが意に介さないという抑制することもできない欲望を生み出していくんですね。

 新約聖書のエペソ人への手紙の中には、この貪りを口にするな、と書き送られています。当時のエペソの町は迷信で満ちていました。アルテミスという女神の神殿にはたくさんの神殿娼婦がいて性的にも大変混乱していたそうです。そして欲望が欲望を生み、エスカレートしていく姿がありました。しかしどうでしょうか。二千年経った今、私たちは同じような姿をあちこちで見ているように思います。ニュースを見れば、連日のように人間の貪りが大きな罪を引き起こしている、そうした現実を知るわけですよね。

 旧約聖書の詩篇の73篇の22節には、「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」と書かれています。人間の中には獣のような姿があるという訳ですねえ。いや、それは心外だ、私はそんなにひどくない、と思う方もいらっしゃるかもしれません。でもどうでしょうか、冷静に私たちは自分の内側を見つめると、多かれ少なかれ自分さえよければ良い、そのためなら神様や他の人を利用しても切り捨てたりしても構わない、そんな思いがあるように思うんです。誰にでも虚しい心や頑なな心や貪りの心が確かにあるんですね。

 だから聖書はこう教えるんです。真理はイエス・キリストにあるのだから、キリストに聞き、キリストに学ぶことによって新しい生き方をすることができる。こう約束してるんですね。どうでしょうか。イエス・キリストによって新しくされ、歩んで行きませんか?

  (PBA制作「世の光」2016.7.25放送でのお話しより)

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■エルサレム会議 / 羽鳥頼和

2016年07月23日 | Weblog
2016/7/23放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書 使徒の働き15章に記されているエルサレムの教会の会議でペテロが語った事をお話しします。このペテロの発言によって、どんな人でもイエス・キリスト信じることによって救われる、というキリスト教会の救いの教えが確認されたのです。

 事の発端は、エルサレムの教会のユダヤ人たちの救いについての強い意見でした。彼らは、異邦人もユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われない、と主張しました。割礼は律法で定められていた儀式でした。こうして割礼のことで教会に大きな対立が起こりました。救われるために割礼が必要なのかどうか、エルサレムに主要な人々が集まって話し合いが行われました。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がりました。そしてペテロは神に教えられたことを自分の二つの経験を通して語りました。

 その一つ目は、ローマ人の百人隊長コルネリオがイエスを信じて神の聖霊を受けたことでした。その時ペテロは彼に割礼をしませんでした。なぜなら神の聖霊が信じたコルネリオの心をきよめてくださったからです。割礼が人の心をきよくするのではないのです。

 もう一つのペテロの経験は、割礼を受けた自分たちが律法を守ることができていないという事実です。割礼を受けても人は救われないのです。

 この二つの経験からペテロは、誰でも主イエスを信じる者は、ただ主イエスの恵みによって救われるのだ、と確信をもって語ったのです。

 恵みとはただ一方的に与えられる素晴らしい者ですか。神は誰でもどんな人でもイエスを信じるなら素晴らしい救いを与えてくださるのです。この神の救いの原則は今も変わっていません。私たちもイエス・キリストを信じるなら、主イエスの恵みによって救われるのです。

 あなたもイエス・キリストを信じましょう。

 明日は日曜日です。イエス・キリストを知って信じるために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2016.7.23放送でのお話より )
 
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■2つのJを愛し、平和を求めた人  内村鑑三 ① / 岩井基雄

2016年07月22日 | Weblog
2016/7/22放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 月の最後の金曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日と来週は内村鑑三について学んでみましょう。

 内村鑑三は1861年文久元年に高崎藩、今の群馬県の武士の長男として生れます。札幌農学校の二期生として入学し、他の学生たちと共にキリスト教徒となり、宮部金吾らと共に1878年、ハリス宣教師より洗礼を受けます。さらに渡米して聖書や神学を学んだのです。彼は『余は如何にして基督信徒となりし乎(か)』という本の中で次のように語っています。
 「基督教が他の宗教に勝る理由は・・・生命にあります。基督教によって初めて律法の遵守が可能になるからです。すべての宗教の内で基督教だけが人の内面から働くのです。それは他の宗教が長く探し求めてきたものです。そしてそれは我々に善を示すにとどまらず、同時に我々を永遠の善なる神のもとに導いて我々自身を善に変えてくださるのです。このような働きをする宗教が他にあるでしょうか。」(※岩井牧師が言い換え)
 
 真剣に人生を考え、真理を求めた内村は、イエス・キリストに出会い、自分の内側からキリストの生命が働き、永遠の善である神のもとに導かれるのを感じます。そして自分の人生の指針は二つのJを愛することである、と語るのです。この二つのJとはジーザス Jesus「イエス」のJと、ジャパン Japan「日本」のJのことです。当時の日本は戦争へと傾いていました。内村はこの二つの愛するべき名のために強力な愛の使命感に駆られて、非戦、戦わないことをジャパン・日本に求めたのです。

 イエス・キリストは、平和をつくる者の幸いを語られました。聖書は平和についてこう語っています。
 「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
   新約聖書 コリント第二の手紙 13章 11節

 真理を求め、生命に生かされた内村鑑三は日本に真の平和をもたらそうとしたのです。神様はあなたをも平和を作り出す者として内側から変え続け、いのちと喜びと平安を豊かに与えてくださるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.7.22放送でのお話しより)

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■小麦のかり入れ時ではないか / 福井 誠

2016年07月21日 | Weblog
2016/7/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「小麦のかり入れ時ではないか」です。それでは第一サムエル記12章17節から読んでみましょう。

 「今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。

 聖書を読んでいると不思議に思うことが多々ありますね。こんな奇跡が本当に起こったのだろうか、と思うようなことが描かれています。金太郎や桃太郎のような創作物の昔話なんだろうか、と思うことがありますね。

 今日読んだ聖書箇所では「小麦の刈り入れ時」ということばが出てきます。それは現代の私たちの暦でいくと、大体5月か6月頃になります。イスラエルでは既に春の雨の季節は過ぎ去って、雨が全く降らない季節に入っていますねえ。そこでサムエルは、私が主に呼び求めるとたとえ雨が全く降らない季節であっても主は雷と雨をくだされる。主は呼べば応える生きておられるお方なのだ、と言うわけです。そしてその通りのことが起こったので、イスラエルの民は主とサムエルを非常に恐れたということになります。

 何かこういう物語をどう考えるべきか。けれども私は聖書を読みながら、聖書の機能というのは想起にあると思うところがあるのですねえ。想起、つまり想い起こさせるということですね。聖書に書かれたことは架空のお話、作り話ではなく、実際に起こったことであり、一人ひとりに神がイスラエルの過去においてどのように関わられたのかを示すことである。ま、それは想い起こさせるために聖書という形でこの物語が書き残されていると言うことです。大切なのは、主に呼び求めると主は答えてくださる、そういうお方だということを聖書が率直に伝えようとしていることです。

 私たちには目に見える助けばかりではない目に見えない助けもあります。王よりも王を立てくださる神様がいます。社会のあらゆる資源よりも、そのような資源を成り立たせ提供してくださる神様がいるのですね。なによりも目に見えない神の守りと助けを覚えることが人生の問題解決の第一歩であることを覚えたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.7.21放送でのお話より )

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■荒野にて / 板倉邦雄

2016年07月20日 | Weblog
2016/7/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日から旧約聖書の民数記に入ります。原題は「荒野にて」です。民数記という表題はヘブル語のギリシャ語訳聖書の表題です。内容から言いますと「荒野にて」がふさわしいでしょう。なぜなら民数記はシナイ山を出発したモーセと契約の民イスラエル国民の荒野の40年の歴史だからです。

 さてエジプトの国を出た次の年、2月1日、主なる神様はシナイの荒野においてモーセに言われました。「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。」 (民数記1章2節、3節 口語訳聖書)

 これから120万と言われるイスラエルの民衆は荒野の旅をしていかなければなりません山あり谷あり、日照の難があるでしょう。野獣の災害もあるでしょう。救助隊が必要です。特に他民族との衝突は避けられないでしょう。今までエジプトでこき使われ、奴隷根性だったイスラエルの成人男子たち、戦いの訓練をしていかなければなりませんでした。ですからシナイ山からの旅立ちの際、モーセが20歳以上の戦いに出ることのできる男子の数を数えたのはそのためだったのです。

 こうして12部族ごとの長が選出されてモーセとアロンに協力し、20歳以上の男子が一人ひとり登録されました。主なる神様が命じられたように、モーセはシナイの荒野で戦闘員を数えたのです。

 さてここから私たちは何を教えられるでしょうか。20歳で成人になると言うことは荒野の人生で様々な戦いが始まることを意味しているのではないでしょうか。荒野の人生には生きるための戦いが待っています。罪と罪の誘惑の戦いが待っています。人間関係の戦いもあるでしょう。そうして最後には、荒野の人生において死との戦いが待っているのです。私たちはこうした人生の戦いに備え、対抗し、戦い抜かなければなりません。

 イエス・キリストのことばです。
 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 ヨハネ福音書16章33節 (口語訳聖書)

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