♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■小さい者に過ぎないと思っていても / 福井 誠

2016年08月11日 | Weblog
2016/8/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「小さい者に過ぎないと思っていても」です。それでは第一サムエル記15章17節、18節から読んでみましょう。

  サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

 イスラエルがアマレク人を戦争した時のこと、神様は預言者サムエルを通してサウルを王に、すべてのものを聖絶する、つもり男も女も子どもも乳飲み子も、牛も羊もらくだもろばもすべて殺せ、と命じました。まあ今日の平和主義の感覚からすると理解しにくい命令ですが、実はこの命令、イスラエルが圧倒的に劣勢、アマレクに勝つ訳が無い状況で命じられたものですね。つまりもし聖絶がなされたならば、それはイスラエルの戦力によるのではなくて神の助けによる勝利ですから戦利品はすべて神のもの、自分のものにしてはならない、という意味もあった訳です。

 ところが、神の助けによっていざ勝ってみると、サウルは神様に栄誉を帰すこともなく命令に従わず、肥えた羊や牛、最も良いものを惜しんで、これを殺さず、値打ちのないものだけを殺したのでした。

 サウルのしたことは神様の怒りを買いました。そして(サムエルは)言うのです。「あなたは自分では小さい者に過ぎないと思ってはいても、イスラエルの王ではないか。」と。
 サウルは預言者のサムエルに見捨てられ、サムエルに代わる力ある人、知恵ある人を探し求めていました。自分の能力の限界を分かっていたのでしょうね。ところが、劣等感に浸った結果、彼がしたことは小さな自己認識に卑しいことでした。

 大切なのは自分をどのように見えるかですね。聖書は人間は神の宝として造られたと言います。神に愛される者として神の使命を果たすものとして生み出されたのです。卑下することも高ぶることもなく、自分の価値を適切に認めて前向きな人生を歩んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.8.11放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■み旗のもとに / 板倉邦雄

2016年08月10日 | Weblog
2016/8/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「み旗のもとに」という題でお話ししましょう。小学生の運動会の時、旗のもとに集まってから競技を始めたことがあります。旗はしばしば移動と集合の際の目印になりますね。

 さて主なる神様はモーセとアロンに言われました。「イスラエルの人々は各々その部族の旗のもとに、その父祖の家の旗印に従って宿営しなければならない。しかも神の幕屋の周りにそれに向かって宿営しなければならない。」(参照 民数記2章2節)

 「主はわが旗」(出エジプト17章15節)と聖書の中で言われています。私たちはすべて主なる神様のもとに集められ、主なる神様に向かって神の家族としてとどまりたいものですね。

 続けて主なる神様は言われました。「日の出る方、東に宿営する者はユダの宿営の旗につく者、イッサカルの部族、ゼブルンの部族そしてユダの部族である。部族の先頭に進むことになります。南の方ではルベンの宿営の旗のもとにつく者、シメオンの部族、ガドの部族、これらは二番目に進まなくてはならない。」(参照 民数記2章3節、9節、10節、16節)

 さて、神の幕屋はレビ部族の宿営と共に他の部族の宿営の中央になって進まなければなりませんでした。(参照 民数記2章17節)
 「西の方ではエフライムの宿営の旗につく者が宿営する。すなわちマナセの部族、ベニヤミンの部族である。これらは三番目に進まなくてはならない。そして北の方ではダンの宿営の旗につくものが宿営する。アシェル部族、ナフタリの部族である。これらの者はその旗に従って最後に進まなければならない。」(参照 民数記2章18節、24節、25節、31節)

 東西南北に御旗のもとに宿営しました。南側に宿営する人は常に熱風にさらされたことでしょう。北側の人々は寒風にさらされる環境でした。また先頭に進む人々と中間を進む人々、そしていつもしんがりを進む人々では良いことも悪いこともあったでしょうね。東西南北のどこに住むかということも、隣に誰が住むかと言うことも、何番目を進むかも主なる神様がお定めになったことは事実です。

 私たちの人生は私たちが選びとっているようですが、実は主なる神様によって選ばれた人生なのかもしれません。

 イエス様のことばです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
    ヨハネの福音書15章16節

  (PBA制作「世の光」2016.8.10放送でのお話より )

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■本当に必要なたった一つのもの -2 / 大嶋重徳

2016年08月09日 | Weblog
2016/8/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 新約聖書のルカの福音書にはイエス・キリストが旅の途中に必ず立ち寄られた家族が出てきます。ここにはマルタとマリヤという姉妹が住んでいました。マルタは大好きなイエス様が家に来てくださったことがうれしくて、この日一所懸命おもてなしをしていました。しかし妹のマリヤは平気な顔でじっとイエス様の足元に座っている。その妹を見たマルタは、いろいろのことに気が落ち着かず、という状態に陥ります。「気が落ち着かず」というのは、心が複数になる、心がバラバラになる、と言う意味があります。マルタはイエス様をもてなしたいと言う優しい一つの心で始まったにもかかわらず、妹マリヤに対する怒りの心が生まれ、一つの心が二つにてなってしまいました。更に、バラバラになった心の中にもう一つの心が生まれました。それは自分のこの気持ちを探してくれるはずのイエス様が何にも言わないことでした。(・・・・イエス様だって見えているでしょう、私がこんなに一人で働いているのを。「マリヤ。マルタが忙しそうだから少しは手伝ったら?」とイエス様も少しは空気を読んだらどうですか。・・・・) マルタの過ちは、イエス様を大喜びで迎えたにもかかわらず、最後はのんきに妹を足元に従えて話し続けているイエス様のやり方までもが腹が立ち、イエス様のやり方を非難し、指図すると言うような心の乱れ方になってしまったのです。

 私たちもまた日々、一所懸命働き、あるいは勉強しているわけです。会社のため、家族のため、夫のために尽くし、子どものために、とあれこれ頑張る。教会でも奉仕をしている。それ自身は何も悪いわけではありません。しかし問題は一所懸命になればなるほど、(・・・神様あなたは見えているんですか? 私はもっと報われてもいいんじゃないですか。こんなに頑張っている私のことをなんでもっと誉めてくれないんですか。・・・) 目に入って来る人と比べて自分は報われていないと思い込み、そして神様への非難する心が生まれて来るのです。

 しかし聖書をじぃっと読むと、私たちのバラバラな心を聖書のことばは一つにしていってくれます。私たちはこの朝も、聖書のことばをじぃっと聞いていきたいと思います。バラバラになってしまった心を聖書のことばこそ一つにしていってくださる。そこから私たちは一日を始めていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.8.9放送でのお話しより )

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■真実を語ろう / 関根弘興

2016年08月08日 | Weblog
2016/8/8放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今日も新約聖書のエペソ人への手紙4章25節のことばを紹介しましょう。
 「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。
 聖書は、偽りを捨て、真実を語れと教えています。前回は偽りを捨てるために決して偽ることのない愛なる神様を信頼し生きていくことが大切なんですよ、ということを語りました。そして真実を語るという事も大切なのですよ、と聖書は教えている訳ですねえ。

 しかし真実を語るとき、気をつけなければならないことがあります。それはいつ語るかということと、どのように語るのかという問題です。

 例えば、お医者さんやご家族が患者本人に病気の告知をする時のことを考えてみましょう。病状が重い場合にそれを正直に告げることを家族は迷うことがありますよね。いつ知らせるのかという時期の問題と、どのように話をするのかという伝え方の問題がそこにはあるんです。それは置かれている状況や患者さんの性質によっても違って来るでしょう。イエス様も、真実を伝える時期や伝え方について配慮なさいました。イエス様が公の生涯を始められたのは30歳になった時です(参照ルカ 3章23節)。「いやあイエス様ならもっと早い時期からでも良かったのではないか」と思うかもしれませんね。ところがイエス様は30歳までじっと待っておられました。そして30歳になってから、「時が満ちた」と宣言し、みことばを宣べ伝え始められたのです(参照マルコ 1章15節)。

 またイエス様は弟子たちにこう言われたことがあります。
 「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」(ヨハネ 16章12節)

 このようにお話しになったんです。つまりイエス様は弟子たちの置かれている状況に応じて伝える時期や方法を配慮しておられたんですね。ですから私たちも、真実を語らなければならないと言って時を選ばずどこであろうが誰であろうが何でもかんでもやみくもにストレートに語ればいいというものではないんです。ちょうど良い時期が来るまで忍耐し待つことも必要です。相手の状況を見極めて適切な伝え方を心に留めながら語ることが必要なんですね。ですから知恵と神様への祈りが必要なんです
 
  (PBA制作「世の光」2016.8.8放送でのお話しより)

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■神の慰め / 羽鳥頼和

2016年08月06日 | Weblog
2016/8/6放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書 使徒の働き20章から、キリスト教会で起こった出来事についてお話しします。

 パウロの伝道旅行には騒ぎがつきものでした。パウロの行く先々で、パウロと彼の語るキリストの福音に反感を持つ人々が騒ぎを起こしていたのです。そんな困難な旅の中でパウロはトロアスという町にやってきました。週の初めの日すなわち日曜日のことです。パウロたちは礼拝を行うために集まりました。パウロは聖書のお話をしました。聞いていた人々は熱心にその話を聞き、そして互いに語り合いました。あっという間に時間が過ぎ、夜中になってしまいました。皆が集まって礼拝をしていたのは屋上でした。そこに灯が灯されました。屋上にはたくさんの人がいて熱心に聖書な話を聞いています。そんな中の一人に、ユテコと言う青年がいました。彼は屋上の縁の所に腰かけていたのですが、ひどく眠気が射してきて、とうとう眠り込んでしまい、何とその屋上から落ちてしまったのです。人々がユテコを抱き起こしてみると彼はもう死んでいました。しかしパウロは慌てることなく、ユテコの上に身を屈め彼を抱きかかえると、「心配することはない。まだ命があります。」と言いました。すると何とユテコが生き返ったのです。人々はほっとしました。そしてパウロたちは再び屋上に上がっていき、明け方までまた話あったのでした。

 伝道には騒ぎがつきもので、突発的な事故も起こりました。そのような中でも教会は礼拝を行い熱心に聖書を学んだのです。聖書はこの出来事の最後にこう言っています。
 「人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」(使徒 20章12節)

 教会に人々を不安にしたり悲しませる出来事が起こりました。そのような教会に神は慰めを与えられたのです。今も神は私たちに慰めを与えてくださいます。

 明日は日曜日です。トロアスの教会と同じようにキリスト教会でも礼拝があり、聖書のお話があります。また、多くの教会ではキリストの十字架を覚える聖餐式を行います。お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.8.6放送でのお話より )
 
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■神の赦しの恵み / 岩井基雄

2016年08月05日 | Weblog
2016/8/5放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 今日は旧約聖書の詩篇99篇の後半から、神の赦しの恵みに生かされる人生の幸いについて一緒に考えてみましょう。

 私たちは家族や友達、職場やご近所の方々など、様々な人々に対して失敗を重ねることがありますね。多くの人にいろいろな過ちを赦していただきながら私たちは生かされているのです。神の民イスラエルもそうでした。しかし彼らの場合は神ご自身に対する問題であり罪でした。神様に愛された彼らは、その愛に応えて神様を愛し、従うべきだったにもかかわらず、その神様の愛を踏みにじり、数多くの偶像を自分たちで造ることによって神様を否定してしまったからです。しかし、そんな彼らに対して神様は恵み豊かなお方でした。

 詩篇99篇の後半8節、9節をお読みします。

 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。
 あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。
 しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。
 われらの神、主をあがめよ。
 その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。
 われらの神、主は聖である。

         旧約聖書 詩篇99篇8節、9節

 ここに登場する「彼ら」とはモーセやアロンなど神様の働きのために用いられた人々のことであり、また彼らに導かれて40年間荒野を旅したイスラエルの民のことです。モーセたち指導者は神様のことばに従いましたが、その民は不平不満に満ち、神様に従うことができず、神様の諭しや教えを守ることとはほど遠い歩みを繰り返してしまったのです。しかしここには、「あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。」と謳わています。神様は彼らを赦し、彼らの赦しの神となってくださったです。愛と恵みに満ちた神様は、罪深い私たちを慈しみ、恵みと憐みを豊かに注いでくださいます。だからこそ私たちはこの愛なる神様の前に跪き、神様を心から正しく恐れて歩むことができるのです。神様がきよい聖なる方であるからこそ、私たちはその神様のことばに耳を傾け、自らもきよさを目指して歩みを進めていきます。そして神様はその歩みを助け、なお導いてくださるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.8.5放送でのお話しより)

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こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
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■大人数であれ小人数であれ / 福井 誠

2016年08月04日 | Weblog
2016/8/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「大人数であれ小人数であれ」です。それでは第一サムエル記14章6節から読んでみましょう。

 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

 今日の箇所ではイスラエルとペリシテ人との戦いが記録されています。この時サウルはざくろの木の下にとどまっていたとあります。先に預言者サムエルの支持を失ったサウルは、強敵のペリシテ人にどうやって立ち向かうか考えあぐねていたようですねえ。

 ところが息子のヨナタンはそんな父とは対照的に、むしろさっさとペリシテ人の戦陣に乗り込んでこれを打ち破ります。ヨナタンは父サウルの優柔不断さにしびれを切らし、父には何も言わず、道具持ちの若者だけを連れて一人立ち向かっていくのです。その時にヨナタンが道具持ちの若者に語りかけたことばが、「主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」でした。

 父サウルとヨナタンの違いは、私たちの味方となって戦い勝利を与えてくださる神を認めるか否かにありました。サウルは預言者サムエルに頼りっきりでした。そしてサムエルに見捨てられると、今度は大祭司のアヒヤに相談をしています。いつも具体的な知恵ある人、力ある人にサウルの目は向いていました。

 しかしヨナタンは人ではない目に見えない力ある神にこそ目を向けていました。この神が味方ならば、大人数であれ、小人数であれ、戦力に違いはない。たとえ少人数であっても強敵ペリシテ人を打ち破る事ができるという確信をもって行動し、その結果を得ました。

 私たちには苦しくても嫌でも、どうしても避けられない現実と出会わねばならない時がありますね。そのような時には、サウルのようにざくろの木の下に座っていてはなりません。むしろ目に見えない神の助けを信じて、前進したいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.8.4放送でのお話より )

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■神の幕屋を管理する / 板倉邦雄

2016年08月03日 | Weblog
2016/8/3放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神の幕屋を管理する」という題でお話ししましょう。

 神の幕屋とは主なる神様が臨在する場所でした。人々は神の幕屋に向かって犠牲を捧げ、礼拝をしたのです。イスラエルの人々が荒野を移動する度に神の幕屋も移動しました。そこでこの神の幕屋を管理する人々が必要でした。そこで選ばれた立てられたのがレビ部族だったのです。

 さてレビ人はその父祖の部族に従って戦闘員の内に数えられませんでした。主なる神様はモーセに言われました。
 「あなたはレビの部族だけは数えてはならない。あなたはレビ人に神の幕屋と礼拝用の器具と幕屋に附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋とそのもろもろの器とを持ち運び、また神の幕屋で勤めをし、幕屋の周りに宿営しなければならない。」

 レビ部族で20歳以上の男性は戦闘員として数えられませんでしたが、神の幕屋という神を礼拝する場所を管理することになりました。荒野を移動する度に幕屋のテントをたたみ、テントを支える柱を運んだのです。宿営に着きますと幕屋を組み立てるのです。それに神の幕屋で使う器を大事に持ち運びました。滞在中はモーセや祭司アロンの手伝いや犠牲の動物の処理をしたことでしょう。更にレビ部族は神の幕屋の周りに宿営しなくてはなりませんでした。主なる神様の怒りがイスラエルの人々の上に臨まないためでもあったのです。主なる神様と人々との間に立つ仲介人の務めをもしました。

 さて、現代においてレビ人とはどのような人のことでしょうか。神の幕屋とは神の教会、キリストの教会と理解していいでしょう。ですから神の教会を管理する人たちを考えていいでしょうねえ。教会の牧師や伝道師、役員たち、長老や執事と呼ばれる人たちを指すでしょう。教会学校の先生やスタッフと呼ばれる人たちをも指しているのではないでしょうか。あるいはキリスト信徒と呼ばれるすべての人たちを指していると考えて良いでしょう。なぜなら、教会の指導者を含めすべての信徒たちによって神の教会は持ち運ばれ、荒野であるこの世を進んできたからです。そしてこれからも教会を運んでいくからです。

  (PBA制作「世の光」2016.8.3放送でのお話より )

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■本当に必要なたった一つのもの -1 / 大嶋重徳

2016年08月02日 | Weblog
2016/8/2放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 新約聖書の中にイエス・キリストが「本当に必要なものは一つだけ」って言われた聖書の箇所があります。ルカの福音書には、イエス・キリストが旅の途中に必ず立ち寄られた家族が出てきます。ここにはマルタとマリヤという姉妹が住んでいました。この日も、もてなし上手のマルタは朝から料理を作り、家の掃除をし、かいがいしくイエス様一行をお迎えしたのです。一方、マリヤはと言うと、イエス様が到着されたあとはイエス様の足元にペタンと座りこんでしまって、イエス様の話をじぃっと聴き始めたのです。もう彼女の目に映るのイエス様だけ。イエス様のことばを一言も漏らすまいと聞き入っていました。しかし一方でそれは姉マルタがかいがいしく働いている中、何も手伝わないでイエス様の足元でじぃっとしている姿でもあったのです。

 ここで明らかに流れ始めた緊張感。既にここにいた何人もの弟子たちは今からここで起こる事件を予想し始めたでしょう。聖書にはこう記されています。
 「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。」(ルカ 10章40節)
 姉のマルタは、じぃっと呑気にイエス様のことばを聞いて自分の手伝いをしないマリアを見て頭がかっかかっか来たんです。マリアに聞こえるように「ウー、ウン!」と咳払いを何度もしたり、マリヤが気付くように彼女の視野に入って口パクで( テ・ツ・ダ・イ・ナ・サ・イ )と、いろいろとしたと思うんです。しかし一方で妹マリヤは一向に気がつない。そして彼女は切れてしまう。

 こういうマルタの気持ちは良く分ります。私たちも誰かを喜ばせたい、と良い動機で始めたにもかかわらず、自分ばっかりそれをやっている。正しいと思って始めたことなのに、自分以外の人はそれをやろうともしない。すると、私ばかりにさせて何とも思わないのか、と腹が立ってくる。そして疲れて、疲れがたまり、自分の大切な人間関係さえ傷つけてしまうということが起こって来る訳です。イエス様がここで「本当に必要なことは一つだけ」とおっしゃるのです(ルカ 10章42節参照)。私たちは聖書を読んでイエス様のことばを聞くときに、優しく戒められるということを経験します。自分がこれを何のために始めたのかを忘れてしまっていることに気が付くのです。私たちはこの物語からしばらく、人生に必要なたった一つのものについて考えていることとしましょう。

  ( PBA制作「世の光」2016.8.2放送でのお話しより )

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■偽りを捨て / 関根弘興

2016年08月01日 | Weblog
2016/8/1放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

今日は新約聖書エペソ人への手紙4章25節のことばを紹介しましょう。
 「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。
 
 聖書は「偽りを捨て真実を語れ」と教えています。これはどの時代に生きるにしろ、とても大切なことですよね。キリスト教会がどのように誕生し進展して行ったかを記した新約聖書の中に、使徒の働き5章という所にはこんな出来事が書かれています。それは教会の中で起こった最初の問題だったんです。

 アナニヤとサッピラという夫婦が土地を売った代金を献金しようとしたのですが、その内容をごまかして偽りの報告をした、というんですねえ。するとアナニヤもサッピラも倒れて息が絶えた、と書かれているんです。キリスト教会の最初の初代教会で起こった最初の問題は、偽りを語るということだったんですね。そしてこの偽りが大きな深刻な問題を残してしまうということを聖書は示しているんです。

 「偽り」と訳されることばには「演技する」とか「仮面をかぶる」という意味があります。自分を自分以外であるかのように生きていくことは、これは疲れますよね。私たちがホッとできる時、それはどんな時でしょう。それはあなたがあなたのままでいられる時であり、受け入れられる時ですよね。

 新約聖書のローマ人への手紙12章の中には、「 愛には偽りがあってはなりません。」(9節)と書かれています。そして後半の第一ヨハネの手紙という所には、「神は愛である。」(4章8節参照)と書かれているんです。つまり神様は愛なる方だから何一つ偽りが無い、演技がなく真実な方だ、と教えているんです。

 そしてこの愛なる神様が私たちの救いのために2000年前に遣わされたイエス・キリストについても聖書はこう記しています。
 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(1ペテロ 2章22節) このように書かれているんですねえ。あなたは嘘・偽りばかり語る人を信頼し信用しようとしますか? 普通はしませんよね。でもその口に何一つ嘘・偽りのないお方、神の独り子なるイエス・キリストを信頼するということは、決して裏切られることがなく失望があっても失望に終わることがないという事に繋がっていくのです(参照 ローマ 5章5節、ローマ 9章33節、ローマ 10章11節、1ペテロ 2章6節)。

 だからこのイエス・キリストを信頼し生きていくとき、もはや私たちは互いに偽ったり恰好をつける必要もないんですね。愛されているあなたを生きていけばいいんです。

  (PBA制作「世の光」2016.8.1放送でのお話しより)

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