♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■奇跡中の奇跡

2005年07月30日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか? 榊原 寛(ひろし)です。

 今月は羽鳥 明牧師が少し健康が優れませんでしたので、この1ケ月代わりに聖書からお話しをさせていただきました。

 何回かに渡ってキリストの12人の弟子の一人・マタイについてお話しをさせていただきました。新約聖書のマタイの福音書はこのマタイが紀元60年代後半に書いたものだとされているんですね。マタイがキリストに出会い、キリストの招きのことばを聞き、そしてキリストに従って弟子となる様子をマタイの福音書からお話しした訳ですが、その内容が書かれている所はマタイによる福音書の9章という所なんです。実はマタイの福音書は28章あるんですけども、キリストが行われた20の奇跡がこの28章の間に書かれています。しかもそのキリストが行われた20の奇跡のうち半分の10の奇跡が、マタイがイエス様と出会ったという部分の8章、9章に集められているんですね。その事を少し考えてみました。

 マタイ本人の気持ちを察するならばですねえ、自分がキリストの招きに従い、弟子になったということこそ奇跡の中の奇跡じゃないだろうか。中風の男が癒された、知的障害を負った者が癒された、ガリラヤの湖の上を歩いた、それも素晴らしい奇跡だけれども、自分のような人間がイエス・キリストの招きを受けてキリストの弟子になった。永遠のいのちへ向かう価値のある人生を生きるようになった。奇跡の中の奇跡だと言いたかったのではないだろうかと思うんですねえ。

 こんなふうに話している私自身も、13歳から17歳の青春、ノイローゼで家に引きこもっていました。生きる目的を失い、死ぬことばかり考えていた私の家の隣にですね、教会が越してきたんです。牧師つきで教会がやってきました。マタイにイエス様がおいでくださったようにです。もう50年も前のことになります。キリストは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」このことばは今日聞いてくださっているあなたにも語りかけていることばではないでしょうか。

 ところでこのマタイの福音書には有名なことばが星のようにきらめいています。「人はパンだけで生きるのではない」「心の貧しい人は幸いだ」「右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい」あるいは「天にまします我らの父よ」と主の祈りが記されています。そして「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」などなどです。

 ぜひこのマタイの福音書、お読みいただきたいと、そういうふうに思います。


 ( PBA制作「世の光」2005.7.30放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。





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■また幸せになります

2005年07月29日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。
 
 今日は、悲しみと慰めについて考えてみたいと思います。

 今、日本は平和で、戦争やテロはありません。それでも毎日のように恐ろしい事件や事故が起こります。その犠牲となった方々の御遺族の悲しみがブラウン管を通して痛々しく伝えられます。一瞬にして電車事故で百七名もの方が亡くなり、その遺族の方々の悲しみも記憶にまだ新しい所です。夫や妻、親、子、親友という愛する人を失う悲しみは経験した者でなければ分らないと言われます。本当にそうだと思います。

 今話題の『ナルニヤ国物語』の著者C・S・ルイスは、人の苦しみや痛みについて真剣に取り組みました。そして『痛みの問題』という本を書いて多くの人に慰めとなりました。しかし自分の愛する妻が病床で衰弱し、亡くなっていくのを全部看取りました。その時C・S・ルイスはクリスチャンの作家ですから神の存在を疑うということはありませんでしたが、神様を身近に感ずることが難しいほど辛かったと言っています。まさに研究や人の教訓、慰めのことばでは通じないのが愛する者を失った心の悲しみ、痛みなのでしょう。

 それではそんな時何が慰め・力になるのでしょうか。アメリカ合衆国第16代大統領アブラハム・リンカーンは三人の愛する息子を、四歳、十一歳、十八歳で亡くしています。そんな悲しみの深い経験からこんなことを言っています。

 「私たちが住んでいるこの悲しみに満ちた世界にあっては悲しまない人など一人もいません。悲しい時には胸が張り裂けそうな苦しみを味わいます。その苦しみは時を待たねば完全に消え去りません。やがていつの日か、心の晴れる日が来ようとは今は夢にも思えないことでしょう。けれどもそれは思い違いというものです。 あなたはきっとまた幸せになれます。私は自分自身の経験から申しています。」

 聖書をこよなく愛したアブラハム・リンカーンは、時と神の慰めを得たということでしょうか。

(PBA制作「世の光」2005.7.29放送でのお話しより )

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■恐れ人生が喜寿を迎える

2005年07月28日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 今日は読売五行歌に投稿されていた五行歌、紹介しますね。埼玉県深谷市にお住まいの山崎たけおさんていう方の五行歌です。

 結核に恐れ 弾丸に恐れ 飢餓に恐れ ガンに恐れて 恐れ人生が喜寿を迎える

 この山崎さんは若い頃結核を患い、あるいは戦争を経験され、また貧しい飢えの中を通られ、そして今、喜寿を迎えてガンにみまわれている様子なんですね。でもこの山崎さんの歌には悲愴感や人生の恨みつらみなどあんまり感じられない所が救いだなあ、そんなふうに思いました。人生喜怒哀楽と言いますが、人生は恐れの中で生きることであるとも感じます。心配や思い煩いや迷い、また恐れ、そんなようなことのまあ何かどろどろしたということを感じさせられますが。

 ところで聖書に見る恐れには大きく三つあるかなって思うんですね。一つはきよい恐れと言いましょうか。絶対者なるお方、天地万物の造り主なる神への畏敬、おそれ畏(かしこ)むということでしょうか。人間がこの点において神への畏敬を失ったことによって多くの恐れに囲まれて生きる結果を招いているのではないか。こういうふうに聖書は指摘しているんですね。

 第二番目の恐れといいましょうか、それは罪を犯したことへの恐れです。刑法上での犯罪もそうですが、良心の呵責につながる言動や内面の思いなどからくる後悔や自責、またこのままでは神の前に立てないという恐れというふうに考えることができるでしょうか。

 第三に、人を恐れる恐れや物事や出来事への恐れです。人間関係の煩わしさ、思うように行かないこと、病気、経済的なこと、家族の問題等々、まあきりがないですよね。もしこういう恐れがまったく無い人生であるならばまあ極楽っていうふうに言えるんじゃあないでしょうか。だからこそ神は聖書を通して私たちに「恐れるな。わたしはあなたとと共にいる。」と繰り返し語り続けているんですね。主イエス・キリスト御自身も「恐れるな。ただ信じなさい。」と繰り返して言われています。

 恐れないというのは、この世に生きている限り無いかもしれません。しかし恐れを超えるというか、恐れが平安になるという日々が神に(よって)与えられているんだということを知っていただきたいと思うんです。この宇宙大の神に守られ、愛されているんだ! 文字通り聖書にある通り「愛には恐れがありません。まったき愛は恐れを締め出し」て行くのです。(恐れを)締め出していく、そんな生き方、ご一緒しましょう。

(PBA制作「世の光」2005.7.28放送でのお話しより )

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■信じる幸い

2005年07月27日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 えー、ある小学校2年生で脳腫瘍で亡くなったお嬢さんの御両親から聞いたお話しなんですけれども、このお子さんは教会学校に通っていてイエス様を信じていたんですねえ。で、自分も大変な病気でそう長くは生きられないということが分かってきた時に、「お父さん、お母さん、心配しないでね。私はイエス様の所へ行けるのよ。お父さんもお母さんもイエス様を信じてくれたらまた一緒に会えるんだから。」と言ってですね、そして最後に「イエス様を信じてね。お父さんも、お母さんも、イエス様を必ず信じてね。」って何度も繰り返して亡くなっていったということなんですねえ。

 そのこばが御両親の心を捉えたんですねえ。(死を前にして恐いはずなのに、ニコニコしながら「私は大丈夫よ。」って小学校2年生の子があんなふうに死んでいける。あの子が信じていたイエス様ってどんな人だろう)ということで、お二人は教会に行き、聖書を読むようになったそうなんです。そして今では「娘が命をかけて残してくれた信仰、信じることができるお方を持つことができて本当に素晴らしい。」っておっしゃっておられるんですねえ。
 
 イエス様がよみがえられて、なかなか信じられないでいた弟子のトマスという人に、「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」と声をかけられたイエス様は、また、「ただ信じなさい。」というふうにも言われたんですね。誰にでも、信じることによってチャンスがあるっていうことは素晴らしいことですねえ。ぜひあなたも信じる者の幸いを経験していただきたいなあというふうに思うんですねえ。

 で、まさにイエス・キリストってお方は私たちのためにすべてのことを成し終えてくださった、あの十字架の上で死んでくださったということは私たちの罪をあそこで完全に赦してくださるためにその結末をつけてくださったということですし、そして死からよみがえってくださったことによって、私たちにも新しく生きる命を与えてくださって、それだけではなくって永遠のいのちを与えてくださるというね、神様の側で一切のことを用意してくださって、私たちは「ありがとうございます。」とそれを受け入れさえするならばそこに神様の素晴らしい御業はなされていくのだということですねえ。ぜひあなたもこの信じることによっていただける幸いを得て欲しい、そぅ思います。

 (PBA制作「世の光」2005.7.27放送での村上宣道(のぶみち)ラジオ牧師のお話しより )

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■失望に終らない?

2005年07月26日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 先日、「将来に対してあなたは希望を持つことができますか?」という調査報告がテレビで流されていました。何と先進国と呼ばれる国の中では日本は最下位でした。

 暗いニュースが続き、考えられないような事件が多発し、将来に対する不安を持っているんでしょう。物質の豊かさは目を見張るものがありますが、その背後に希望を持てない病んでいる現実というものが横たわっているように思います。本来ならこんなに便利な時代になり、情報は瞬時にして手に入り、自由にどんなこともすることができる、基本的な人権が保証されている訳ですから、もっともっと人々の心に希望というものが溢れていてよいはずです。しかし現実はそうではないようですね。

 ある幼稚園の先生としばらくお話しする機会がありました。先生はこう言われました。「今はお母さんもお父さんも、とにかく不安を抱えているんですよ。」どう子どもを育てていったらよいか分らないという訳です。何をするにも自信をなくし、希望が持てない不安の時代なのかもしれませんね。そしていろいろなことに失望させられているというようなことがあると思います。聖書のことばに、ぜひ耳を傾けていただきたいんです。

 ローマ人への手紙10章11節。「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」 「彼に信頼する者は、失望させられることがない」というのは何と大胆なことばでしょう。今まであなたはあまりにも多く失望させられてきたと感じているかもしれません。時には先生に、また友だちに、学校に、いやあなた自身にも失望させられたということがあるでしょう。聖書は、イエス・キリストに信頼する者は失望させられることがないと断言しているんです。また、別の翻訳では、「彼--イエス・キリスト--に信頼する者は失望に終わることがない」とも訳されているんですねえ。まあ人生にはたくさんの失望と思える出来事が起こります。それはクリスチャンでもクリスチャンでなくても変りません。しかしイエス・キリストに信頼する者は決して失望に終わらない。決してイエス・キリストはあなたを失望のまま放っておかれはしないと約束しているんですねえ。

 パウロという人もこう記しています。ロ-マ人への手紙5章5節。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 どうぞ聖書の約束のことばを心に留め、あなたの一日を今日も始めていきませんか?

 ( PBA制作「世の光」2005.7.26放送でのお話しより )

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■だから祭りをしよう

2005年07月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、夏はよくお祭りがあちらこちらであるシーズンですよねえ。で、お祭りというと、まああのー偶像と言いましょうか、そういうものとの関連のが多いんですけれども、実は聖書を見ますと旧約聖書の中にもお祭りのことはたくさん出てくるんですねえ。過ぎ越しの祭りとか仮庵の祭りとかですねえ。で、新約聖書の中にも祭りということばが出てきますけれども、ま、今で言いますと例えばクリスマスとかですね、イースターとか、これもお祭りだとは思いますね、降誕祭とか復活祭とかというふうな言い方をする訳ですけれども。

 聖書の中にこういうことばがありましてですね、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」っていうことばがあるんですね。「純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」って、これは教会の中での礼拝を意味しているというふうにも言うことができるんですね。

 で、クリスマスとかイースターとかそういう時だけじゃなくって、教会は毎週日曜日に礼拝をする訳ですけれども、その礼拝って言うと何かこう堅苦しいような印象があるかも分りませんけれども、その礼拝っていう中には「祭りをする」って意味が本来あるんですね。で、祭りっていうのはその喜び楽しむ、神様が私たちにこんなすばらしいことをしてくださった、神様が私たちを愛しておってくださるそのことを覚えながら神を誉めたたえる。喜び楽しむ。そして仲間と一緒にですね、あなたも私も同じキリストによって神の子どもとされて良かったですねって言いながら互いに喜び楽しむ、お祭りをする、それが一つの礼拝ってことの意味でもありますね。そしてその礼拝の中で大切なことは、「小羊キリストがすでにほふられたからです」とありますように、私たちの罪のためにキリストが十字架においてすべての罪やけがれを解決してくださったというその前提があるから、さあともに祭りをしようではないかという訳ですね。イエス・キリストを信じるということは私たちがこのすばらしい祭りの中に加わることだというふうに覚えくださったらいいなと思うんです。
 
 ( PBA制作「世の光」2005.7.25放送でのお話しより )

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■あわれみに満ちた愛

2005年07月23日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか? 榊原 寛(ひろし)です。

 何回かに渡って新約聖書マタイの福音書の著者でありますマタイが、かつて取税人・税金取りであったのにキリストの弟子となったことをお話ししました。そのことによって人生が変わったばかりか、不正のために使っていたペンとインクでマタイの福音書を書いた、そんなこともお話ししました。また、キリストがマタイが開いた宴会に招かれた時、取税人や罪人と食事を共にしたことを批判した宗教指導者たちへ「わたしは罪人を招くために来たのだ」と言われたキリストの優しい愛の心をお話ししました。その時キリストの言われたことばがありました。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」これが実はマタイの福音書を見ると二重括弧になっています。というのは、キリストは旧約聖書を引用されたんだなってことが分かってきます。

 このことばは旧約聖書ホセア書6章6節からです。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」とあるんですね。神様の喜びはいけにえや犠牲じゃないぞ。また功徳を積んだり修行をして自分の正しさを貫こうとする人間側の努力でもないぞ。ましてや形式的で見せ掛けを意識した信仰心でもないぞ。キリストはこのことばを通して当時の宗教家たちに形骸化していく信仰をお責めになると共に、神のお心を教えられたんですねえ。 むしろ私たちが謙虚になり真実な思いで神を求め、神を知ろうとする求道心を神はとても喜ばれるんだとキリストは言われたんです。

 マタイはキリストに従うことによってキリストがいかにあわれみ深いお方であるかを経験したんです。自分のような罪人、自己中心的な生き方をしている者こそ神に捨てられ神の怒りとさばきを受ける罪人であるはずなのに、自分のような者を受け入れ、自分と共に食事をし、自分と共に生きてくださるキリストを体験したんですねえ。キリストに豊かなあわれみを発見したんです。

 ところで、ここに使われている「あわれみ」ということばなんですが、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではへセドと言いまして、「いつくしみ」とか「愛」を意味することばなんですね。神に愛されている、神のいつくしみをいただいているという経験はその人を生き生きと生かしていきます。いかがでしょうか、私たちもこのヘセドの神の愛を受けとめたいのです。そこに神に誠実であると共に、人に対しても真実な生き方が始まってまいります。

 ( PBA制作「世の光」2005.7.23放送でのお話しより )

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■いやされて生きる

2005年07月22日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。
 
 今日は、自然の治癒力、癒す力についてお話しをします。

 今、健康保険の行き詰まりや薬害についていろいろ指摘されています。ま、同時に人間の持つ自然の癒す力・治癒力の見直しも指摘されています。あまりにもお医者さんや薬に頼りすぎているのではないかということですねえ。

 これは何も日本だけではないようです。アメリカのアリゾナ大学医学部教授、アンドリュー・ワイルという人は、『人はなぜ治るのか』とか『治す力』というような本を書いています。そこでこの人間の持つ治癒力を見直す必要を強調しているんです。つまり医学とテクノロジーの発達による現代医療の偉大な貢献、それを認めつつも、あまりにも高価になりすぎた医療費の問題、人間の本来持っている治癒力の見直しの必要を指摘している訳です。今、自然の治癒力を尊重せよ、また人の体内にある癒す力にもっと自信を持てと言っている訳です。

 実は私たちも小さな経験なんですが、以前10年間ほどボルネオ島、今のカリマンタンですが、その奥地に(キリスト教宣教師として)住んでいたことがあるんです。その時、子ども三人まだ小さく、よく病気にかかりました。私たち夫婦もよく熱帯特有の病気になりました。でも頼れる病院、医師が近くにありませんでした。マラリアなどにかかっても二度、三度めからは自分で薬を飲んで休養して終わり、なんていうふうでした。まあそんな経験を思い出してみますと、確かに自然の治癒力、体内にある癒す力、その大切さというものをほんとにこう思い返します。

 でもこのボルネオ時代のことを振り返ってみますと、なぜ未開の奥地で医者もなく薬も不十分な中で耐えられたのかなあ、やってこれたのかなあって思いますと、それはいつも神様にお祈りしました。不思議と心に平安が持て、また治っていきました。体内の治癒力に自信を持てと医学の専門家は言いますが、創造主なる神、偉大な医者・キリストに祈る時、心に平安を持つ。ま、自然と治癒力も増すということではないかなと思うのですが、あなたはいかがでしょうか。

(PBA制作「世の光」2005.7.22放送でのお話しより )

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■しるしを見たい

2005年07月21日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 ある時、キリストのもとに宗教指導者や律法学者たちがやってきた事があるんです。そしてキリストに言いました。「先生。私たちはあなたからしるしを見せていただきたいのです。」つまり、奇跡を見たいんです、そう言うんですね。その時キリストは、「悪い姦淫の時代はしるしるしを求めます。」とはっきり言われまして、奇跡を行うことをきっぱりと断ったんですねえ。

 さて、悪い姦淫の時代とはですね、そのまま今日にあてはまることだと思いますが、聖書では真実な愛である神のもとから離れ、不信仰で好き勝手なことをしている罪深い人間は、神に対して実は姦淫をしていると言うんですね。従って信仰は形式的になり、また極端な厳正主義にもなり、結果、しるしを求めるの奇跡を見たいのという超常現象を求めるだけになってしまっているんですよね。

 ところでこの超常現象の心理学の著者は認知心理学専攻の信州大の菊池 聡(さとし)先生はですね、超能力や予言といった超常現象がなぜ今も信じられているかってことについて、こんなふうに言ってるんですね。「占いを信じる人が当った事実だけを記憶してしまうように、人間には自らの信念を補強する情報は認めるが反する証拠は受け入れないという確証バイアス(偏見)がある。」ま、片寄って受け入れてしまうっていうんでしょうかね。「偽の奇跡を本物と見誤ってしまう心理的メカニズムがある。」というようなことも言っています。

 キリストが復活し、弟子たちに現れた時、あいにく弟子のトマスは不在でした。帰ってみると仲間たち(は)、まあ、「先生に会った」と言って大喜びでした。しかし彼は仲間たちにこう言いました。「確認したか? 指を突っ込んでみたか? 手を差し入れてみたか?」 その時キリストがトマスに現われたんですねえ。そして言いました。「あなたは見て信じたけれど、見ないで信じる人は幸いです。」

 私たちは見ることによってそれが確かであることを確認します。しかしそれは見える世界のことだけです。見えない世界がどんなに重要であり、だから信じることによって成り立つ世界によって人間存在や相互の存在が成り立っているんだ、そういうふうに言っても過言じゃありませんよね。しかし残念ながら、悪い姦淫の時代なんです。万物の造り主であるまことの神に背を向け、人間が神のようになってしまっている時代なんです。ですから一時も早くこの神様のもとに、霊なる神様のもとに帰るべき時ではないかと思うんですがいかがでしょうか。

(PBA制作「世の光」2005.7.21放送でのお話しより )

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■事実を事実として

2005年07月20日 | Weblog


 おはようございます。世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 えー、よくただ信じればいいんですよっていうふうなことをまあ教会で言われたりですねえ聖書はそう言っているというふうなことなんですけれども、ただ信じればと言ってもですね訳も分らないのに、つまり「鰯(イワシ)の頭も信心から」とかですねえ、キツネの尻尾も何とかだとかですねえ、そういうような曖昧なものではなくってむしろ事実を事実として認めるっていうとことから信仰は始まるんですねえ。で、その事実を事実として認めるっていうことは二つの事実を認めるっていうことがその中に含むんです。

 その一つは、私たちはみんな間違いを犯している罪人だっていうこと、そしてその結果私たちはやがて死を迎えるというその死という事実ですね。この罪という事と死というのは誰にとっても間違いのない事実ですねえ。それをみんなそうだよっていうことではなくって、私にもどうしようもない間違いがあるなあ失敗があるなあ、これじゃいけないと思いながらどうしようもならないものがあるなあというような、それは私にとって事実だ。そしてやがて死を迎えるということ。これは事実だという(こと)。もしも全然私は失敗などしたことがない、私には罪なんて一切ない、私は死なないよ、というお方がおられたらその方はイエス・キリストを信じるなんて言う必要はないんですね。まずこの事実が自分にとってどうなのかっていうことを認めること。

 第二番目のことは、どうしようもない私たちの 罪と死という問題に対してイエス・キリストは確かに十字架の上で罪の決着をつけてくださった、死からよみがえってくださったというこのことは事実なんだという、事実として認めるってことなんですね。イエス・キリストの歴史的な存在を否定できる歴史家はおりませんね。キリストの十字架は、これはまぎれもない事実、よみがえってくださったことも事実なんです。それは私たちの罪を解決し、そして私たちをその罪から救って永遠に生きることができる保証となってくださったという、これは歴史的な事実に基づいていることなんですね。

  自分がだめだっていうことが事実であるならば、神が私のためにすべてのことをなし終えてくださったということも事実。この事実をそのまま認める時に、私たちはただ信じるという他にないといいましょうか、ごめんなさいと言うことと、そしてありがとうございますと言うこの二つの方法をもって受け入れる、これが信じるってことなんですねえ。

 (PBA制作「世の光」2005.7.20放送での村上宣道(のぶみち)ラジオ牧師のお話しより )

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