♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ペテロの語った神の救い/羽鳥頼和

2016年04月30日 | Weblog
2016/4/30放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書の使徒の働き3章にあるペテロのメッセージの内容についてお話しします。

 ペテロは神の救いについての福音を語る前、足の不自由な人を癒す奇跡を行いました。ペテロは「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒 3章6節)と言うと、彼はたちまち歩き出して神を賛美したのです。この出来事を見た人々は驚き、皆ペテロの所にやってきました。ペテロはこの集まってきた人々にキリストの福音を語ったのです。

 足の不自由な人が癒されたことについて、こう教えました。
 この癒しの奇蹟は私の力とか私の信仰深さによるのではない、とはっきりと言い(使徒 3章12節参照)、「イエスによって与えられる信仰が、この人を・・・完全なからだにしたのです。」(使徒 3章16節)、と教えました。

 そしてそのイエスについて人々に教えました。
 「神は、・・・イエスに栄光をお与えになりました。それなのにあなたがたはそのイエスを十字架につけて殺してしまいました。・・・神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒 3章13~16節参照)

 そしてペテロはイエスのよみがえりの証人としてこのイエスこそ救い主キリストであることを証ししました。神は預言者たちの口を通してキリストの十字架の救いについてあらかじめ語っておられたことをこのように神は実現されました。つまり神はイエス・キリストの十字架によって人々を救うことを計画し、その通りに救いを実現されたのです。

 そして人々にペテロは言いました。
 「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒 3章19節)

 この福音は現代の私たちにも語りかけているものです。神は人を救うためにイエス・キリストを遣わされました。神は、キリストが人のすべての罪を負って十字架で死ぬことによって人を救う、という救いの道を用意されました。そして死んだキリストをよみがえらせることによってこの十字架による救いが確かであることを示されたのです。キリストを信じ、自分に罪があることを認め、悔い改めて神に立ち帰ろうとする者を神は必ず救われるのです。

 明日は日曜日です。神の救いを得るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.4.30放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■人を育てた人 - 井深梶之助 / 岩井基雄

2016年04月29日 | Weblog
2016/4/29放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日は、人を育てた人・井深梶之助について学んでみましょう。

 梶之助は会津藩士・井深宅右衛門の長男として生まれました。歴史の中で様々な辛酸を舐めてきた会津藩の中でも梶之助の父・井深宅右衛門は藩校である日新館の館長として教育に従事し、多くの武士たちの心を育てた人でした。梶之助は戊申戦争で敗北を喫する中、自分の生き様について多くを考えたようです。戦いに敗れた後、会津藩の命を受けて梶之助は上京し、19歳の時にS・R・ブラウン宣教師を通してイエス・キリストと出会い、救い主イエス・キリストを信じ、ブラウン宣教師から洗礼を受けます。彼は更にブラウン塾・今の明治学院大学にて聖書の学びを深め、1879年に植村正久たちと共に日本基督一致教会の牧師となりました。日本基督教会の指導者としても活躍の場を広げ、母校の明治学院大学の2代目総理として重責を担い、次世代の若者を聖書を中心としたキリスト教教育で育み、日本キリスト教青年会同盟委員長をも務めたのです。26歳の時に元幕臣の娘・水上勢喜子と結婚をし、当時の山県有朋内閣の宗教教育の規範に反対して信教の自由を主張し近代日本の礎をも築いていくのです。キリスト教教育同盟会・今のキリスト教学校教育同盟の第二代理事長を務めた後は、全国共同伝道の総委員長に選ばれ、植村正久たちと共に大規模なキリスト教の伝道活動を行い、大正期のキリスト教会の飛躍に大きく貢献していきました。彼の弟の彦三郎は衆議院議員をも務め、その娘の八重はクリスチャン看護師としてハンセン病患者たちに仕えていきました。この一族の中にはあのソニーの創業者の一人、井深 大(まさる)がいます。近代日本を築きあげることに参与していった井深梶之助は揺れ動く時代の中にあって変わることのない聖書の真理を心に留め、地の塩、世の光として歩みつつ、教育者として多くの業績を残していったのです。

 聖書のことば
 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。

    (新約聖書 ペテロの手紙第一 1章25節、参照イザヤ書40章6-8節 )

(PBA制作「世の光」2016.4.29放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■新しい天と新しい地が/福井 誠

2016年04月28日 | Weblog
2016/4/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「新しい天と新しい地が」です。それではイザヤ書66章22節から読んでみましょう。
 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、
 今日はイザヤ書最後の章を見ていきます。イザヤ書は実は新約聖書の黙示録のメッセージと重なる興味深い書ですね。聖書には実は繰り返し語られる重要なテーマがあり、それらの中には神の契約、それから出エジプトつまり奴隷状態からの解放、そして終末つまり神の裁きと大いなる恵みの日の到来といった重要なテーマがあります。このイザヤ書の締めくくりにも「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように」と語られており、ここには明らかに、天地創造の神が新しい天と地を用意される、という重要な終末の思想が示されていますねえ。

 最初に神が天と地を創造された時、それは最初の人アダムの堕落によって失われ、その後の人類の歴史はまさに最初の人アダムの堕落の人生の足跡を辿るものとなってしまいました。人類の歴史は進化発展の歴史と言いますが、その一方で堕落と混乱を深めていることも確かです。人間は科学を発展させ快適な生活を手に入りました。実際にはそれは自己中心な資源を浪費し枯渇させ環境を破壊していくだけの生活に過ぎないものであったりします。人間の行く末は右肩上がりの良いことづくめではないのです。そして聖書の人類の歴史については余り楽観的なことは言っていません。

 けれども悲観主義にも落ち入っていませんね。その終末に、神は新しい天と地を創造される、と語っています。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように」と、いつまでも続く第二の新しい創造があることを語っています。

 神は人類に今の世界以上に素晴らしい新しい天と地を用意されているのです。そのように私たちの思いを超えた終末的なビジョンを語りかける聖書のことばに心を留めたいものですね。ぜひ聖書を続けて読み、教会へ行き、この神様が与えようとされている素晴らしい恵みについて知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.4.28放送でのお話より )

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■十の言葉(第十戒) / 板倉邦雄

2016年04月27日 | Weblog
2016/4/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、十のことば、その第十戒をお話ししましょう。
 「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。(出エジプト記 20章17節 、参照 申命記5章21節 口語訳聖書)
 
 さてこの10番目のことばは、私たちのむさぼリすなわち貪欲と強欲を戒めています。殺人や盗みそして偽証はどこの国でも罪として認めていますが、貪欲は罪として認めてはいません。しかしこの私たちの貪欲と強欲こそがすべての犯罪の根底に横たわっているのではないでしょうか。私たちは自分の状態や持っているものに満足できないからです。小さな子どもでも自分の持っているおもちゃに満足しないで他の人の持っている物を欲しがって泣きわめいていますね。

 ですから聖書は次のように勧めます。
 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。
  主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。

 (ヘブル人への手紙13章5節 口語訳聖書)

 しかし私たちは金銭に執着し自分の生活状態と持ち物に満足することができません。ですからこの世では貪欲や強欲がもてはやされます。経済至上主義、利益至上経済社会においては、貪欲や強欲は美化され承認されているのではないでしょうか。

 しかしながら、貪欲は私たちに満足を与えないでしょう。
 「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。
 (伝道者の書5章10節 口語訳聖書)と聖書は言っています。

 また聖書は次のように、貪欲は平和を奪うと言っているのです。 
 「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
  熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。

 (ヤコブの手紙4章2節 口語訳聖書)

 ですから、この世界を造られ私たちを造られた創造の神様への信仰だけが私たちに満足と平和をお与えになるのです。

 聖書のことばです。
 「しかし、(神への)信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。
   第一テモテの手紙 6章の6節から8節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2016.4.27放送でのお話より )

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■岩と呼ばれた男、ペテロ 2 / 原田憲夫

2016年04月26日 | Weblog
2016/4/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 今日は先週に引き続きキリストの弟子ペテロを紹介します。
イエス・キリストが当時の指導者たちの陰謀によって捕えられた時、ペテロは心配で見え隠れしながら後からついていきます。人々は官邸の中で暖をとり、裁判の結果を待っている場面でした。ペテロもそしらぬ顔をしてみんなの仲間のようにして火にあたっていた時です。そこへ一人の女の人が来て、「この人もイエスと一緒にいました。」というのです。ペテロは慌てて打消します。「いいえ、私はあの人を知りません。」「あなたも彼らの仲間だ。」「いや違う。」「確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だから。」 隠したってだめだ、と言うわけです。遂にペテロは、「そんな人は知らない!」と口汚くキリストを否定するのです。ところがぺテロがまだ言い終えないうちに時を告げる鶏が泣きました。この瞬間、ペテロは我に帰りました。

 実はペテロは最後の晩餐の時に、啖呵を切りました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまづきません。主よご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟はできております。」 そのペテロに対しキリストはこう言いました。「ペテロ。あなたに言いますが、今日鶏が鳴くまでにあなたは三度わたしを知らないと言います。」 キリストはペテロのつまづきを見通しておられたのです。

 今、鶏が泣いた瞬間、ペテロはキリストのことばを思い出し、そのまなざしに触れ、我に帰ったのでした。彼は外に出て行って激しく泣きました。大の男が泣きました。激しく泣いたのです。ペテロは開き直りませんでした。自分の過ち、自分の取り返しようのない失敗に激しく泣いたのです。

 このペテロの涙の中に、キリストのきよい暖かい愛の心がそのまま映っています。失敗をしない人は居ないでしょう。しかしその失敗によって人生を失う人も決して少なくありません。自分の世界に閉じこもったり、自分の手で人生を終わらせてしまう人もあります。けれどもキリストは愛の心ですべてを覆ってくださるお方です。今日キリストはあなたをその愛の眼差しの中へ招いておられます。このキリストに人生を託しませんか? さあ、新しい人生へと一歩踏み出してください。

  ( PBA制作「世の光」2016.4.26放送でのお話しより )

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■忍耐/関根弘興

2016年04月25日 | Weblog
2016/4/25放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
 今日も新約聖書の中のパウロが記したエペソ人への手紙のことばを紹介しましょう。エペソ4章2節(、3節)。
 「 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

パウロは「謙遜、柔和、寛容を示して生きていきなさい」と勧めています。そして更に、「愛をもって互いに忍び合いなさい、つまり愛をもって忍耐しなさい。」とも勧めているんですねえ。

 この手紙が書かれたエペソ教会の中には、お互いに忍耐し我慢しなくてはならないようなことがあったようですね。時にはとても失礼なことや無礼なこと、気の利かないこともあったのかもしれません。しかしそれはいつの時代でもどこにでもあるようなことだと思うんですねえ。

 あなたは教会ということに対してどんな印象をお持ちですか? 教会は自分の好みや同じ背景の人たちだけが集まって来る訳ではありませんね。皆違う場所ですから、違う背景、年齢も性別も性格も違うわけです。ですから時には教会の中で人間関係の軋轢でつまずいたり、ということが起こることもあります。それは昔もあったことでした。ですからパウロはこの手紙の中で、「愛をもって互いに忍び合いなさい。」と記していくんですね。
 しかしそうは書かれていても、愛をもって忍耐することなど、そんなあ、できませんと考える人もいるかもしれませんねえ。ですからパウロはこの手紙の前半部分で、「あなたがたが人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ 3章19節 参照)と祈っているんです。つまり私たちはこのイエス・キリストの比べることのできないほどの大きな愛を知ることがなければ、互いに愛し忍耐し合うことなんてなかなかできない、ということなんですね。

 でも人知をはるかに超えたキリストの愛を知るときに、愛されているからこそ愛に生きというそんな行動原則が生まれて来るんです。

 聖書には「神は愛です」(1ヨハネ 4章16節)と書かれています。それはつまり、神様ほど忍耐深い方は居ないという意味でもあるんです。私たちに対する神様の忍耐をあなたは考えたことがありますか? 神様は忍耐深く私たちを支え導き成長を期待しいつも愛をもって接してくださっているんです。その神様の愛を受け取ってくときに、私たちも愛をもって互いに忍び合うことのできる者へと少しずつ変えられていくのです。

  (PBA制作「世の光」2016.4.25送でのお話しより)

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■キリストの昇天から再臨まで/羽鳥頼和

2016年04月23日 | Weblog
2016/4/23放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書の使徒の働き1章からお話ししようと思います。

 ここにはイエス・キリストの復活後の出来事が記されています。復活されたイエスは40日の間、弟子たちに現われて神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示されました(使徒1章3節参照)。そして弟子たちに、これから起こることを教えられたのです。

 「エルサレムを離れないで、そこで待っていなさい。もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1章4節、5節参照) 
 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1章8節)

 このことはそれから10日ほどして実現します。弟子たちに聖霊が降り、彼らはさまざまな外国語で人々にキリストの福音を語ったのです(使徒 2章4節参照)。

 さて、イエスがこのように聖霊が来られることを語られると、弟子たちが見ている前でイエスは天に向かって上げられたのです(使徒1章9節参照)。

 十字架で死んだイエスは三日目に復活し、そのことを弟子たちに示されました。そしてご自分の代わりに聖霊が遣わされることを教えてから天に帰られたのです。イエスが天に帰られた時、御使いが弟子たちに現われて言いました。
 「天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1章11節)

 御使いはキリストの再臨のことを弟子たちに教えたのです。聖霊が遣わされることは実現しましたが、このキリストの再臨はまだ実現していません。

 私たちは聖霊が遣わされてからキリストの再臨までの時代に生きているのです。聖霊が遣わされてから福音が世界中に広まりました。今も聖霊は人々を救いへと導くために働いておられます。しかし終りの時が来ます。それがキリストの再臨です。救い主としてこの世に来られたキリストは再臨の時、裁き主として世界を裁くために来られます。キリストの再臨の時は最後の審判の時なのです。

 しかしこのキリストを救い主として信じた者にとって再臨の時は救いの完成の時となります。さばきに会うことがなく、キリストに似た者とされて神の国に住むことができるのです。

 明日は日曜日です。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.4.23放送でのお話より )
 
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■人間をとる漁師に - マルコ⑦ / 岩井基雄

2016年04月22日 | Weblog
2016/4/22放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 今日はマルコの福音書から、イエスがガリラヤ湖の漁師シモンとその兄弟アンデレを招かれた箇所について学んでみましょう。聖書をお読みします。

 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
 イエスは彼らに言われた。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

       新約聖書マルコの福音書1章16節から18節

 アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でした。ヨハネがイエス・キリストを救い主・メシヤとして指し示したので彼はキリストのもとに行き、自分の兄ペテロもイエスの元に連れて行ったのです。イエス・キリストが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と彼らを招かれた時、彼らはすぐに仕事道具の網を捨てて従いました。人生の大きな決断を彼らは即座にしたのですね。

 イエスはなぜ彼らを弟子として招かれたのでしょうか。もっと有能で裕福で地位の高い人は周りに多くいたでしょう。またなぜ12人だったのでしょうか。もっと少ない方が未熟な彼らを徹底して訓練することもできたでしょうに。旧約聖書には神の民イスラエルと12部族のことが繰り返し語られます。旧約の12部族が様々な問題や弱さを抱えていたように、主は選ばれた12人も無学で不十分な人たちだったのです。

 聖書にはこの神様の不思議な選びについてこう書かれています。
 「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
           新約聖書コリント第一の手紙1章28節、29節

 神様は敢えて弱く未熟でとるに足りない者を選ばれます。それは誰も自分を誇ることなく神様の愛の中に遜って人をとる漁師となるためでした。だからこそペテロとアンデレは安心し、また大きな決断を持ってイエス・キリストに従ったのではないでしょうか。

 私たちも神様の愛を受けて心から真理に従い、愛を届ける者とされたいですね。神様はあなたを用いてくださるのです。

(PBA制作「世の光」2016.4.22放送でのお話しより)

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■まことの神によって祝福される/福井 誠

2016年04月21日 | Weblog
2016/4/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「まことの神によって祝福される」です。それではイザヤ書65章16節から読んでみましょう。
 「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。
 
 解剖学者の養老孟司さんは、人間は記憶の中に生きている、と言いました。実に私たちは過去の記憶の中に生きているものですねえ。過去の記憶は良くも悪くもあります。しかし多くの人は苦しい過去、嫌な過去の記憶に引きずられています。殊に、物事がうまくいかないと、これはかつてのあの罪この罪のせい、あるいは自分が積み重ねてきた耐え難いこの弱さのため、と落胆し、後ろ向きで非生産的な人生の吹きだまりに閉じ込められてしまうことがあるものですねえ。曲がった者はまっすぐにできない、と聖書にはありますが、まさに曲がりきって撚れてしまった人生に希望を抱けないことがあるものです。しかし聖書が語りかける神は創造の神ですねえ。この天地万物を造り、人間に良いものを拒まれない神の存在です。こんな人生に何を期待できようか、と思うところに光を与え希望を与えてくださるお方です。

 確かにイザヤも言うではありませんか。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福される」 私たちは何の良きものも期待し得ない自分の人生にまことの神が祝福を与えてくださると語りかけて来る聖書のことばに心を留めなくてはなりません。いや心を留め熟慮し、そのことばを反芻し、祝福を受けるに価しない存在にあえて祝福を授られる神を認め、受け入れていることが信仰を持つことですねえ。

 そういう意味で信仰を持つというのは勇気を要することです。けれども自分にはどんな可能性も尽きているのだと言う人にとっては朗報です。あらゆる手だてが尽きたとしてもまだ生き延びるあるいは新しい人生を作り出す可能性があると言うわけですから、ぜひ聖書を読み続け、聖書の語りかけに心を留めてチャレンジのある人生を歩みたいのですね。
(PBA制作「世の光」2016.4.21放送でのお話より )

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■十の言葉(第九戒) / 板倉邦雄

2016年04月20日 | Weblog
2016/4/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 板倉邦雄です。
 今日は、十のことばの第九戒になります。第九戒は、
 「あなたは隣人について、偽証してはならない。」(出エジプト記 20章16節 、申命記5章20節 口語訳聖書)
 
 さて英語では嘘にはブラックライとホワイトライ、つまり黒い嘘と白い嘘と言う区別があるそうですね。黒い嘘は悪性ですが、白い嘘は罪が無いと考えているのでしょうか。私たちの国でも「嘘も方便」と言って嘘は罪とは考えられていません。また、お世辞や居留守のような社交場の嘘もありますねえ。しかしそのような嘘の生活態度が人と人との間を自分と人との間を損なうものであるその事に気づかなくてはならないのです。

 聖書はこう言っています。
 「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣り人に対して真実を語りなさい。私たちは体の一部分として互いにそれぞれの者だからです。」 (参照) エペソ人への手紙4章25節

 私たち人間は一つの大きな身体のようなものです。ある人は手、ある人は足、ある人は目のようにそれぞれ大事な役目を持って繋がっているのではないでしょうか。ですから私たちが不真実で嘘をつくなら、私たちは内側からお互いの関係を壊していくことになります。嘘だけではなく中傷や悪口がどんなに人々の間を壊していくことでしょう。

 ですから聖書は次のように警告しているのです。
 「民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。」レビ記の19章16節 (口語訳聖書)

 私たちは法廷での偽証罪が重い刑罰になることを知っています。主なる神様の前では嘘も重い罪であることを認識したいのです。そして私たちは互いに真実を語り合うことを心がけて参りましょう。それは私たちがお互いの名様を守ることになります。私たちの神は真実な神ですから、私たちの真実をこよなく喜んでくださるのです。

 聖書のことばです。
 「「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、」 第一ペテロの手紙3章10節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2016.4.20放送でのお話より )

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