♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■神が私たちにされること / 板倉邦雄

2014年04月30日 | Weblog
2014/4/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神が私たちにされること」という題でお話ししましょう。

 神様の思いと人の思いとは異なる、という聖書のことばがあります。この人生に起ることのすべてを私たちは理解することはできませんね。

 さて、ヨセフの兄たちは一同ろばに穀物を背負わせ、帰途につきました。その夜、一人がろばに餌をやろうと穀物のう袋を開けてびっくり。口の所に払ったはずの代金があるではありませんか。「一体どうなっているんだ?」 一同は震え上がりました。「きっと神様がこうなさったのだ。だがどういう意味だろう?」 そして兄たちは故郷の父ヤコブのもとに帰り、一部始終を報告しました。

 「総理大臣というのはとても恐ろしい人でねえ、我々をスパイだと言って聞かないんです。スパイじゃない。全部で12人の兄弟で、一人は死に、末の弟は父と一緒にいます、と本当のことを言っても、その人は言うんです。『では一人だけここに残れ。あとは穀物を持って家へ帰れ。ただし末の弟を連れてこなければならんぞ。そうすればお前たちがスパイか正直者かが分かる。お前たちの言った通りなら人質を返してやるし、何度でも穀物を買いに来てもよろしい。』と言うんですよ。兄たちが袋の中身を開けてみるとみんなの袋の口に代金がそっくりそのまま入っています。誰もかれも背筋がぞっとしました。きつねに包まれたようで訳が分からなかったのです。」

 しばらくして父ヤコブが叫びました。「お前たちのおかげでわしは子どもをなくしてしまった。ヨセフは出かけたまま戻らないし、次男シメオンは人質につかまってしまった。今度はベニヤミンを連れて行きたいだと?! わしをどれだけ苦しめれば気が済むのだ。」 

 エジプトの総理大臣の思いと立てている計画を私たち読者は知っています。しかし兄たちと父ヤコブはまったく知りませんし、分かりません。どうしてこんな目に遭うのか意味も不明でした。しかし神が私たちにされていることで、そこには必ず目的と意味があるのではないか、とヨセフの兄たちは現実の中に働かれる神様の手を見ていたことになりますねえ。私たちも様々な現実の中で心の目を地上から天へと仰がせていただきたいものです。

(PBA制作「世の光」2014.4.30放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■エマオの途上で 4 / 大嶋重徳

2014年04月29日 | Weblog
2014/4/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 ルカ福音書24章にはエマオという村に行く道中で復活されたイエス・キリストが二人の弟子に現われた記事が記されています。16節には「二人の目はさえぎられていてイエスだと分からなかった」とあります。この「さえぎられる」ということばはクラテオーというギリシャ語で「しっかりとつかむ」「しっかりととらえる」という意味を持ったことばです。そこにあるのに見えないというのは、何かに心が集中して何かにすっかりとらえられている状況です。心を奪っている出来事が目の前にあるものを見る目を遮っているのです。この時、二人の弟子たちの心はイエス様以外の何かに強くとらえられていたのです。

 時々、教会の礼拝に出ていても心が他のことでとらえられてしまうということがあります。教会に来る前にした夫婦喧嘩のことが思い出され、あるいは、「うちの子はいつもふらふらして心配」・・・気がつくと、今日の礼拝のメッセージは何だったっけ?と聞いていながら聴いていない、ということがあります。あるいはイエス様以外のことに夢中になっている。それは例えば恋愛であったり、仕事、自分のやりたいことを握りしめている。ですからイエス様はすぐそこに立っておられても分からないのです。

 今日みなさんは何を握りしめておられるでしょうか。イエス様が見えなくなるようなものを握り締めてはおられませんか? 自分の心を占めていて、それで心が一杯になっていて、実はイエス様は私たちのすぐそばにいてくださるのに、私たちのほうが目を閉ざしている。そして「神様なんていない」と言ってしまっていることはないでしょうか。
 
 今私たちが握り締めているものから、そっと手を離し、私たちのすぐそばにおられるイエス様に目を向けたいと思います。そしてイエス様にその問題を差し出して、「どうしたらいいんでしょうか」とお祈りしていただきたいと思うのです。その時、見えていなかったイエス様がはっきりと見えて、私たちに聖書からお答えくださると思います。

 ( PBA制作「世の光」2014.4.29放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■霊的な生き方とは / 関根弘興

2014年04月28日 | Weblog
2014/4/28放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 先日、番組にこんな質問が寄せられました。
 「キリスト教のお話しを聞いていると『霊的』とか『霊性』ということばが出て来るんですが、これはどういう意味でしょうか。」
 こんな質問でした。

 何か「霊的」ということばを聞くと神秘的な意味があるのかと勘違いすることがあるかもしませんね。

 イエス・キリストはヨハネの福音書4章24節で、
 「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
 と言われました。つまり、神様は霊なる方ですから、見たり手で触ったりすることはできないわけですねえ。ですから真心こめて礼拝することが大切だと言われているわけです。

 「霊的」ということは自分と神様との関わりの中で私たちが心を込めて神様を礼拝するという生き方、そうした人生のスタイルが霊的な生き方なんだというんですね。

 そしてパウロという人が書いたローマ人への手紙12章1節には
 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 このように記されているんですね。

 神様に人生を委ね神様を礼拝することは霊的なことなんだ、そしてここで「霊的」と訳されことばはギリシャ語ではロギコスということばなんですね。これは「論理的な」とか、「理にかなった」という意味です。つまり霊的ということは特別な神秘的なことではなく人間にとってとても理にかなったこと。神様を礼拝することは人間とって最も理にかなった行為なんですよ。そしてそれが霊的な生き方なんですよ、と教えているんです。

 そして別の箇所にはこのようにも書かれています。ローマ人への手紙14章19節
 「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
 このように書かれているんです。

 ここでは、お互いの霊的成長に役立つことを求めていきましょう、とありますよねえ。これはそうですねえ、互いの徳を高めながら互いを大切にしながら生きていきましょう、ということでもあるんです。夫婦であれば神様を見上げながら互いに愛しあっている姿の中に霊的な姿があるわけです。社会人であるならば神様に与えられた能力を誠実に社会に生かしていくことも霊的な姿がそこにあるわけですねえ。子育て真っ最中のお母さんなら神様に与えられた子どもを大切に育んでいく事のなかに霊的な姿があるんです。

 私たちはいろんな失敗や挫折もあります。でも神様を礼拝し、祈り、聖書からの慰めを受けながら歩んで行く、これが一番理にかなった、つまり霊的な人生の生き方なんですね。これを聖書は勧めているんです。

 (PBA制作「世の光」2014.4.28放送でのお話しより)

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■倍返し / 羽鳥頼和

2014年04月26日 | Weblog
2014/4/26放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日までイースター・スペシャルをお送りしています。

 テレビドラマの『半沢直樹』をご覧になった方は多いのではないでしょうか。「倍返しだ!」という決めぜりふが流行語大賞を取りました。繰り返し「倍返しだ!」と言われると、あのドラマは復讐劇のように思ってしまいますが、私はそうではないと思います。実際にこの原作では「倍返しだ!」というせりふはそれほど多く使われていません。主人公にとって復讐が本当の目的なのではない、と私は思います。彼は悪いことを正そうと一所懸命だったのだと思うのです。

 旧約聖書の詩篇58篇には同じように、悪者が正されることを望んでいる人のことばが記されています。そこでは、悪者は蛇(4節)と若いライオン(6節)に喩えられています。悪者は蛇使いの言う事を聞かないコブラのようだというのです。また若いライオンのように強い力で見境なく人を傷付けるのです。

 そんな悪者を自分の手には負えないからでしょうか、彼は神様に願って言うのです。
 「神様、彼らの歯を折ってください。
  神様、彼の牙を打ち砕いてください。」
 と神様が悪者をやっつけてくれるようにと願うのです。

 彼は神様が公正なお方であると信じています。ですから必ず正しい人に報いを与え悪を裁かれると信じているのです。彼は自分で復讐するのではなく、自分は良いことをする努力をしながら神様が働かれるのを待つのです。

 人は自分に対して悪いことをされると復讐しようとします。倍返しをしてやる!、と思います。しかし神様はそんな人に言われています。
 「復讐してはならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

 現代は憎しみの連鎖が立ち切られずに、あちこちで争いが続いています。そんな今の世に神様は解決の手段として愛を教えてくださっています。神様がこの世の悪をさばいてくださいます。神様を信じる者は神様におまかせするのです。神様は私たちの憎しみの心を愛の心に変えてくださるお方です。明日は日曜日です。復活された主を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」2014.4.26放送でのお話より )
 
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■よみがえりの事実に生かされて / 岩井基雄

2014年04月25日 | Weblog
2014/4/25放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 新約聖書の中で最も古い文章として残っているのは、初代教会の讃美歌としても用いられ、また信仰告白でもあったと言われる次のことばだそうです。

 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」 新約聖書コリント第一の手紙15章3節から5節

 初代のクリスチャンたちが信じていたもの、それはイエス・キリストの十字架と三日目のよみがえり、そして人々に現れてくださったという証でした。このコリント第一の手紙は紀元55年から57年の間に記されたことが分かっています。またキリストの死から20年以内には既に文章となって用いられていたという説もあります。ある学者によると紀元32年から38年の間、つまりキリストの十字架刑から2年から8年以内にはこの文章は作成され信徒の信仰を支えていたと考えられているのです。彼らは死をも覚悟してイエス・キリストの十字架上の死とよみがえりの事実を証ししていったのです。キリストのよみがえりは徐々に作られていった伝説ではありません。多くの人々が、よみがえったイエス・キリストとの出会いを命がけで証ししているのです。先程の文章はこう続いています。

 「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
    新約聖書 コリント第一の手紙15章6節 

 生存する大勢の目撃者の力強い証言に支えられて、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は真の希望として伝えられていきました。彼らは十字架と復活を歴史的な事実として宣べ伝えていったのです。そして聖書は私たちにまたあなたに、死に対する勝利の道と永遠のいのちの道がイエス・キリストにあって開かれたことを語っているのです。

 イエス・キリストのことば
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」    ヨハネによる福音書 11章25節

  (PBA制作「世の光」2014.4.25放送でのお話しより)

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■プチ勝利 / 福井 誠

2014年04月24日 | Weblog
2014/4/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「プチ勝利」です。それでは詩篇22篇24節から読んでみましょう。
 「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

 キリストの復活は勝利である、とはよく聞くことですねえ。十字架で処刑されたイエス・キリストが神の力によって三日目に死人の中からよみがえった。実に驚くべき奇跡が起こったのだ。これは完全なキリストの勝利である、と言う訳です。

 しかし勝利に注目するなら、私はキリストの十字架上のプチ勝利にも注目すべきだと思います。どういうことでしょうか。詩篇22篇にはイエスの十字架の苦難を預言したメシヤ預言と言われるものがあります。そこにはまずイエスの十字架上の苦しみが語られています。
 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ 27章46節、マルコ 15章34節 、参照詩篇22篇1節)と。

 十字架は全人類の罪の身代わりとなる犠牲なのですから神に見捨てられる痛みを味わうのは当然のことですねえ。しかし、たとえそうではあっても、神に見捨てられる苦難は実際には耐え難いものでした。神に見捨てられた事の苦しみが告白されています。

 ところがイエスは最後に、「父よ。わが魂をゆだねます。」(参照ルカ 23章46節)と告白し、息を引き取るました。実にここにイエスが勝利している姿があるのです。イエスは沈黙される神に信頼し自分を委ねていますね。苦難の中にあって神の最善に自分を委ねられるというのはとてもすごい事です。心の勝利と言うべきものですねえ。

 もちろん三日後に死人の中からよみがえる大勝利に比べたら小さなプチ勝利と言うべきものですが、苦難の中にあっても神にすべてを委ね、平安を得ている。これは神を信じる者が持つ大変な勝利であり祝福です。これがあればこそ復活に象徴される大どんでん返しの祝福も信じることができるのです。復活のような大きな奇跡は私たちの人生にそんなにざらにあるわけではありません。しかし苦難にありながら神にすべてを委ね、平安を保ち続けることのできる勝利は誰もが持ち得る神の祝福です。この小さなプチ勝利を味わうことができれば大きな復活の勝利も期待し信じることができるのです。

(PBA制作「世の光」2014.4.24放送でのお話より )

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■あの福音、この福音 / 板倉邦雄

2014年04月23日 | Weblog
2014/4/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「あの福音、この福音」という題でお話ししましょう。

 福音とは私たちを救うものです。新薬の発展は私たちにとって福音と呼ばれますね。私たちを不治の病いから救うからです。では聖書で 言う福音とはどういう意味でしょうか。私たちを何から救う福音なのでしょうか。

 ではまず聖書の第一コリント人への手紙15章の2節から4節のことばをお読みします。

 「・・・この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、・・・」(口語訳聖書)

 この二つのことが私たちを救う福音です。

 では何から私たちを救うのでしょうか。病苦から救うのではありません。借金苦から救うのでもありません。キリストの福音は罪と永遠の死からの救いなのです。キリストは私たちの罪のために死られ、私たちが永遠のいのちを得るためによみがえられたからです。

 聖書はこう言っています。
 「(キリスト)は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」 ローマ人への手紙の4章の25節(口語訳聖書)

 この二つの出来事、すなわちキリストが私たちの罪のために死んだこと、そして二つ目、私たちが神の前に義となって私たちもよみがえって永遠のいのちを得るためにキリストが死からよみがえったこと、この二つの出来事が私たちにとって救いの福音です。

 「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ 6章23節 口語訳聖書)と聖書は言っています。

 私たちは罪を犯し良心の呵責に苦しんで生きています。死とはその罪の報酬・罰でありますので、私たちは死の恐怖におののいているのではないでしょうか。しかし、天の神様は私たちのために罪のない主イエス・キリストを十字架にかけて私たちの罪の償いとして身代わりとしました。そして三日目に死人の内より主イエス・キリストをよみがえらせなさったのです。

 私たちはこの二つの福音をただ信じ受け入れるだけなのです。

(PBA制作「世の光」2014.4.23放送でのお話より )

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■エマオの途上で 2 / 大嶋重徳

2014年04月22日 | Weblog
2014/4/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
 今週はイースター・スペシャルです。イースターとはキリスト教会ではイエス様の復活をお祝いする大切な時期です。ルカ福音書24章にはエマオと言う村に行く道中でイエス・キリストの復活を信じられずに実家に戻ろうとした二人の弟子について記されています。この二人は道中、話をしながらイエス様のことを「ナザレ人イエス」と呼び、「行ないにもことばにも力のある預言者でした」と言いました(19節)。彼らは神の子イエスとは言わなくなっていたのです。また21節には「私たちは・・・望みをかけていました」とイエス様について過去形になっています。クリスチャンをやめようとしている彼らの様子が伝わってきます。更に23節、「御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。」  この二人の弟子にとって、復活は伝え聞いた話、誰かが何々と言うのです、という他人事(ひとごと)の話になっていました。

 彼らはエマオへの道程でいろんな事を話しあったり論じあったりしていながらも、復活があったエルサレムから、イエス様のおられる場所から、一歩距離を置いた所へと向かって行ったのです。エルサレムからエマオまでは11km ほどであったようです。11km とは面白い距離だと思うのです。他の弟子の仲間から呼ばれたら行かないわけではないけど、それほど熱心にもならないほどの距離と言えるかもしれません。信仰について論じ合うことがあっても基本的には教会から一歩距離を置いておく。ほどほどの所で教会やキリスト教信仰を見ているような距離をもっておく、ということは結構私たちにもあることではないかと思います。

 しかしイエス様は、私たちが第三者の立場に居続けることを許されません。この後、この二人にイエス様が近づき、話しかけられ、食事をし、泊まるために家に入られます。そこ(に至る道すがら)でイエス様は、「あなた(がた)が話していることは何ですか?」と、「あなた(がた)」、と二人称の距離で私たちに話しかけられるのです(※17節参照 「話し」という動詞が二人称複数形)。私たちがたとえ離れて行こうとしても近づいてくださるイエス様の声に、離れて行く足を留めて、イエス様と向き合う時を持っていただきたいと思います。

 ( PBA制作「世の光」2014.4.22放送でのお話しより )

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■復活 / 関根弘興

2014年04月21日 | Weblog
2014/4/21放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 聖書がイエス・キリストに関して教えている事実は少なくても次の三つです。

 一番目。イエス・キリストは約二千年前にベツレヘムという場所に生まれ、33歳を少し過ぎた頃に十字架につけられたこと。

 二番目。イエス・キリストの遺体はアリマタヤのヨセフという人に引き取られ、彼の墓に埋葬されたこと。

 そして三番目。その三日後に、その墓は空っぽになっていたということ。

 二千年前に起きたこのイエス・キリストの復活は、その後の弟子たちの行動を変え、世界をも変える原動力となってきました。一体、復活の事実は私たちたちに何をもたらすのでしょう。

 第一に、イエス様の復活によって、死を打ち破るいのちがある、という希望を与えることになりました。私たちのいのちは誕生があり、人生の終焉をいつか誰もが迎える訳ですね。しかし、もし死がすべてのものの終わりだと思っていたのに、その死を打ち破る、乗り越えるいのちがあるとしたら、そこには豊かな希望が溢れてきます。ですから復活の事実は希望を伝えるメッセージがそこにあるんです。

 二番目は、復活の事実によって、イエス・キリストのすべての約束に太鼓判が押されることになった、ということです。イエス・キリストはヨハネの福音書11章25節で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われました。もしイエス・キリストが死んだままならどうしてこのことばに真実があるでしょう。復活が無いならイエス様が語られたことばや約束はただの空しいことばになってしまいますね。あのう、ゼロ(0)がですねえ、ゼロゼロゼロゼロ・・・幾らゼロが続いても有効数字ではありません。でもそのゼロ(0)の前に1がついたら莫大な数字になりますね。イエス様の復活はちょうどゼロ(0)の前に有効数字がつくような出来事になったのです。そしてイエス様は、決してあなたを捨ててひとりぼっちにはしない、と約束しています。もしイエス様が死んだままなら、どうしてその約束が果たされるでしょう。

 そして三番目、復活のいのちは信じる一人ひとりに与えられる、ということです。イエス・キリストはこのように約束しています。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ 6章47節) このように言われました。イエス・キリストが死から復活された出来事は、私たちに希望を与え、イエス様の約束が確かなものであることを証明しているんです。そして信じる一人ひとりにこのいのちが与えられると約束されているんですね。

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■キリストの復活の意味 / 羽鳥頼和

2014年04月19日 | Weblog
2014/4/19放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今週はイースター・スペシャルお届けしています。キリスト教会では今週を受難週といってイエス・キリストの受難と十字架を覚えます。特に昨日の金曜日は十字架のことを覚える日で受難日と言います。それは今からおよそ二千年前の金曜日にキリストが十字架にかかったからです。この十字架は単なる歴史的事実ではなく、今の私たちの救いにとって重要な出来事でした。キリストはすべての人のすべての罪を負って身代わりとなって死んでくださったのです。この十字架のゆえに私たちの罪は赦されるのです。

 聖書は、キリストが十字架にかかって死んで葬られたことを、はっきりと言っています。そして同じように、死なれたキリストが三日後の日曜日の朝によみがえられたことも、十字架の出来事と同じように、はっきりと言っています。キリストのよみがえりも単なる歴史的事実ではなく、今の私たちの救いにとって重要な出来事でした。新約聖書のコリント人への手紙第一15章17節18節でこう言われています。

 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

 キリストのよみがえりは、キリストの十字架によって罪赦された人が真(まこと)のいのちを与えられて生きることができる証拠なのです。私たちはイエス・キリストを信じるなら罪を赦されて新しいいのちをいただいて生きることができるのです。

 キリストは言われました。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

 キリストによる救いは、死んでも生きることができるのです。キリストのよみがえりはその事を保証しているのです。キリストのよみがえりはただ息を吹きかえしたのではありませんでした。よみがえったキリストは新しく栄光の姿を与えられました。キリストを信じる者もキリストのように栄光の姿をいただくことができるのです。キリストのよみがえりは、キリストを信じる者が死んでも生きることができ、必ず素晴らしい栄光を与えられることを約束しています。

 明日はすべてのキリスト教会でキリストのよみがえりを覚える礼拝を捧げます。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

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