♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■あなたの身代わりとなって / 大嶋重徳

2015年03月31日 | Weblog
2015/3/31放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。今週はキリスト教会で受難週と呼ばれる週を過ごしています。この一週間はイエス・キリスの十字架を思い起こし、十字架が自分のための十字架であったことを深く受けとめる時を過ごすのです。

 マタイの福音書では十字架につけられたあとのイエス様のことが描かれています。12時から3時まで続いた三時間の闇と共に、イエス様は沈黙を続けられていました。しかし突如、イエス様の大声が十字架の上から響き渡ります。「 エリ、エリ、レマ、サバクタニ。 」 (「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 」) (マタイ 27章46 節、マルコ15章34節)

 なぜイエス様はこのようなことばを十字架から語られたのでしょうか。このことばをじっと見ていると一つのことに気が付きます。それは主の祈りでもイエス様はずっと神様のことを「わが父」と呼びかけて来られたのに、ここでは「わが神」と言われているということです。ここにこの十字架のことばを理解する鍵があります。それは、「わが父」と呼ぶことのできるイエス様が神の子の立場を捨て、「父よ」と呼ぶことのできない私たちの罪人の場所に立ってこのことばを叫んでおられる、ということです。

 神様は現在もこの世界に満ちている悪と人間の罪を黙って見過ごしておられる訳ではありません。私たちの罪は神の前で裁かれる時が必ずあるのです。その終わりの日、世界と私たちは自分の犯してきた罪の裁きを受けるのです。その時、本当ならば自分の犯してきた余りにも深い罪のゆえに、また神様のきよい本質からするならば決して神に受け入れられることができない罪のために、私たちは神に見捨てられてしまうということを避けることはできません。その時こそ私たちは、「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 」と叫ばずにはおれなくなるのです。彼に受け入れられる唯一の神の子であるイエス様が十字架の上で、「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 」と叫ばれたということは、罪の裁きを受けるはずだった私の身代わりに罪の裁きを受け、この叫びを既にイエス様が身代わりに叫んでくださったのです。まさに十字架は私の罪のための十字架なのであって、あなたのための十字架なのです。このキリストの十字架を覚えて、この一週間を過ごしたいと思います。


  ( PBA制作「世の光」2015.3.31放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■十字架はあなたのため / 関根弘興

2015年03月30日 | Weblog
2015/3/30放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今週はイースター・スペシャルとしてイエス・キリストの十字架と復活についてのお話をお届けいたします。

 イエス・キリストが十字架につけられたことは聖書に記されていることです。しかしそれはとても理不尽なものでした。当時のユダヤ当局者たちはイエス様を捕え、いい加減な審問を行い、ついにはローマから送られた総督ピラトのもとに、イエス様を訴え処刑してもらうために連れ出しました。

 しかし総督ピラトは彼らがイエスへの妬みによってこのようなことをしたということを見抜いていました。ピラトはイエス様を調べるんですけど、当時のローマ法に照らし合わせても死刑に価する罪を見いだすことができませんでした。そこで彼はユダヤ最大の祭りである過ぎ越しの祭りの時に囚人の一人に恩赦を与え釈放する習慣があったのでイエスをその恩赦の対象にすればいいのではないかと考えたのです。しかしピラトの提案に対してユダヤ当局者たちは、イエスではなく強盗であり人殺しであった何と極悪人のバラバを釈放しろと要求してきたんですねえ。そしてピラトは自分の計画通りにいかないこうした現実を見て、いとも簡単にイエス様を十字架につけることを許可してしまいました。

 十字架刑は両手両足に釘を打ち付けられ、そして激痛と飢えと渇きの中で死ぬまで放置されるとても残酷な処刑方法です。

 しかし何も悪いことした訳ではなく罪を何一つ見いだすことのできなかったイエス様はどうして十字架につけられたのでしょう。悪いことをしていないのに十字架につけられることほど理不尽なことはありませんよね。しかしここにこそ十字架の深い意味があるのです。

 聖書は、罪のない人間など一人もいない、と記します。そして、罪から来る報酬は死だ、と教えるんです。つまり人は自分の罪によって正しい神様の御前に申し開きできるものは誰一人いない、その罪のゆえに神の御前ではみな有罪となるべき存在だ、と教えているんです。

 でもイエス様が全く罪が無いのに十字架についてくださったということは、一人ひとりの罪を肩代わりするために身代わりとなって十字架についてくださったということを教えているんですね。聖書はこう教えています。第二コリント5章21節
 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
 こう書かれています。

 十字架についてくださったイエス様がいてくださるからこそ、あなたの罪が赦されるその道が開かれていったんですね。

 (PBA制作「世の光」2015.3.30放送でのお話しより)

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■神の教えは生きるうえで欠かせない恵み / 羽鳥頼和

2015年03月28日 | Weblog
2015/3/28放送
 
 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは、「教育は人生の恵みの一つであり、生きる上で欠かせないものです。」と言いました。私は聖書も同じようなこと言っていると思うのです。聖書における教育とは神の教えを伝えることです。ですから聖書は、神の教えは人生の恵みであり生きる上で欠かせないものである、と教えていると思うのです。旧約聖書 詩篇78篇はこう言っています。
 「主はヤコブのうちにさとしを置き、みおしえをイスラエルのうちに定め、私たちの先祖たちに命じて、これをその子らに教えるようにされた。」 

 ここでの「さとし」「みおしえ」とは神の教えのことです。神がイスラエルの人に神の教えを与えて神の教えを彼らの子どもに教えるように命じられたのです。この教育は神が与えてくださったという意味で人生の恵みなのです。神は神の教えを自分の次の世代の子へ、そしてまたその次の世代の子へ、と教え続けていくように勧めています。

 詩篇78篇は続けてこう言っています。
 (それは)「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。

 また、詩篇19篇は言います。
 神の教えは「完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(7節)

 神の教えは、「正しくて、人の心を喜ばせ・・・る。」 (8節) 
 神の教えは、「きよくて、人の目を明るくする。」(8節)
 神の教えは、「まことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、・・・甘い。」(9-10節)

 このように、神の教えは人の人生をより良い、素晴らしいものとする、という意味でも人生の恵みであり、人が生きる上で欠かせないものなのです。

 イエス・キリストは、この神の教えで大切なのは、「あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22章37節)と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22章39節)という二つの教えであり、この二つの教えを土台としてすべての神の教えがある、と言われました。(マタイ22章40節参照) 神の教えは愛の教えなのです。キリスト教会における教育は神の教えである聖書に基づいて行われます。

 明日は日曜日です。聖書の神の教えを聞くために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.3.28放送でのお話より )
 
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■ジュリアおたあ / 岩井基雄

2015年03月27日 | Weblog
2015/3/27放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の最後の金曜日は歴史上のクリスチャンやキリシタンの生涯から学んでいますが、今日はジュリアおたあについて考えてみましょう。

 戦国時代、文禄の役の時に朝鮮半島から連行されてきた人達の中の女性の一人が「ジュリアおたあ」と呼ばれることになる女性です。彼女は日本に連れて来られてからキリスト大名小西行長に保護され、彼のもとで育てられます。彼女は行長の妻の教育のもと、小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識を学び、行長夫妻のキリシタンとしての生き方から大きな影響を受け、キリストへの信仰を持つようになりました。ジュリアとは彼女の洗礼名です。そして自ら聖書を学び、自分の持ち物を貧しい人々に分け与えるなどの愛の働きを続けて行きました。行長が関ケ原の戦いに敗れ斬首された後、おたあはその美しさと知性を見初められ、徳川家康の侍女として仕えることになりました。彼女は懸命に働き、夜には祈りを捧げ、聖書を学び、他の侍女や家臣たちをキリストへの信仰へと導いてきました。彼女にはそのことばだけではなく生き方そのものに力があったのですね。しかし、おたあは信仰を捨てる要求を拒否し、家康の側室への抜擢をも断ったため、1612年に江戸城より追放され、三度にわたる島流しの刑を受けます。しかし彼女はどの島においても熱心にキリストへの信仰を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や流刑人や罪人への愛の奉仕などを通して献身的に人々に尽くしました。幾度も恩赦として島から出る機会が与えられながらも、彼女は40年間一度も島を出ることがなく愛を表し続けたのです。ジュリアおたあは、どんな苦難の中にあっても神の愛に生き、弱く小さく貧しい人々にイエス・キリストに表すような豊かな愛を注いでいったのです。

 あなたも神の愛に生かされ、愛を届ける人へと変えられて行きませんか? 聖書のことば

 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」 新約聖書 マタイの福音書25章40節

(PBA制作「世の光」2015.3.27放送でのお話しより)

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■私の心は叫ぶ / 福井 誠

2015年03月26日 | Weblog
2015/3/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「私の心は叫ぶ」です。それではイザヤ書15章5節から読んでみましょう。
 「わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。

 モアブはイスラエルの東側、大雑把に言えば現在のヨルダンの南側に位置する国でした。このモアブはイスラエルとは遠い血の繋がりのある民族でしたが、歴史的にあまり仲が良いとは言えない民族でした。

 例えばイスラエルがエジプトを脱出し、約束のカナンの地へと戻ってきた時に、モアブ人はイスラエルが自分たちの土地を通ることを許さなかったのです。またモアブの王バラクはパレスチナに定着したイスラエル人を呪わせるためにバビロニアの占い師バラムを招いたり、モアブ人の娘達を使って異教の宗教儀式に誘惑して堕落させようとしたりしました。そして紀元前10世紀頃にはモアブがイスラエルを支配し、次の時代には逆にモアブがイスラエルの属国となったりして、モアブは衰退して行き、やがてアッシリヤ帝国の支配に服していくようになります。

 ともあれモアブはイスラエルと深い関係にあった国です。イザヤはそのようなモアブに警告を発していますね。敵と言うよりは運命共同体のような感覚で、その民が神に裁かれることへの悲しみを語るのです。

 注意すべきは、簡単に「神の裁き」とは語りますが、一つの国が他の国の侵略を受けて滅ぼされていくことは凄まじい歴史です。家を焼き払われ家族が殺され血の海をさ迷う姿を「神の裁き」と呼ぶには余りにも悲しい出来事ですね。それは心が悲しみで叫ぶ経験です。ですから、イザヤはそのようなことが決して起こらないように、と神の前に悔い改めように、と勧めるのです。しかも大切なのはイザヤは身内のような気持ちでモアブに心から叫ぶ思いで悔い改めを勧めている点です。敵としてではなくて身内として人の将来の祝福のために神を認めた歩みをするように呼びかけているイザヤの心を覚えたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.3.26放送でのお話より )

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■神の指 (災害その三) / 板倉邦雄

2015年03月25日 | Weblog
2015/3/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神の指 --災害その三」をお話ししましょう。

 さて、エジプトの国を襲った第三の災害に移ります。旧約聖書出エジプト記8章です。

 第三の最大は地のちりがブヨになって人と家畜にまとまわりつくという災害でした。牛や豚を飼っていた私の田舎ではブヨには悩まされませんでしたが、ハエには悩まされました。ハエは家畜にもたかりますが人や食べ物にもたかってきますね。

 主なる神はモーセに言われました。「あなたはアロンに言いなさい。あなたの杖を指し述べて地のちりを打ち、舞い上がったちりをエジプトの全国に渡ってブヨとならせなさい。」 

 二人は出て行って命令されたように行いました。地のちりはブヨになって人と家畜に張り付いたのです。エジプトの王様お抱えの魔術師たちも秘術をもって同じように地のちりからブヨを出そうとしましたが、彼らにはできませんでした。昔も今も人間には地のちりから命を作り出すことはできません。一匹のブヨさえも生み出すことはできないのです。しかし神の指だけが地のちりからも命を作り出すことができるのです。

 聖書の創世記の2章7節にこう書いてあります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(口語訳聖書)

 主なる神は無から有を呼び出す事がおできになるのです。エジプト全国で風に舞い上がった地のちりはブヨとなって人と家畜に貼り付きました。話している私も想像すると痛痒くなって来るようです。頭や顔そして手足にも張り付いてはブーンと耳の周りで飛び回っているのです。

 ほとほと困りはてた国民と魔術師たちは王様に進言しました。「王様。この災害は神の指です。」

 しかし主なる神様が言われたようにパロ王様の心は頑なになって、魔術師たちの進言を聞こうともしませんでした。もう一度繰り返します。上に立つ指導者が側近や部下そして国民の声に耳を貸さないで心を頑なになる時、一番の被害者は家畜や国民であると言うことです。

 (PBA制作「世の光」2015.3.25放送でのお話より )

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■主の祈り 10 / 大嶋重徳

2015年03月24日 | Weblog
2015/3/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」という祈りが記されています。主の祈りは「天にまします」と祈った後に、「父よ。」と祈ります。父と呼ばれる神様はもちろん全知全能の神様ですから、私たちが祈る前から私たちの祈りを知っておられます。しかし父と呼ばれる神様は、私たちを「我が子よ」と呼んでくださって、私たちのいろいろな思いをお父さんに話すように話し掛けることを心から喜んでくださる神様なのです。

 新約聖書ローマ人への手紙8章15節から16節には、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。
 「アバ」とは「お父ちゃん、パパ」という意味です。ここで神様は父と呼ばれる神様であると言うことを私たちに知らせてくださっているのです。つまり、神様は、私たちがするお祈りの中で、私たちのことばで聞きたいと願っておられるだけではなく、神様ご自身のことを祈りの中で知って欲しいとも願っておられるのです。

 祈りというのは聖書を読むことと同じく神様を知ることができる場所です。祈りの中で、祈りを聞いてくださる神様の温かさを知ります。神様に語りかけ祈る時に、人格的な神様ご自身を私たちは知っていくのです。祈りにおいて私たちは「アバ、父」と神ご自身を親しく深く知ることとなっていくのです。

 キリスト教信仰において、祈らずに神は分からないと言って良いでしょう。時に、まだ信仰を持っておられない方に、「私は神様を信じていないのですが、祈っても良いですか?」と聞かれることがあります。「もちろんです。」とお答えします。なぜなら祈らずして神様は分かりません。「最初に祈る祈りが『神様はいるのですか?』でもいいのだと思いますよ。」とお話しします。クリスチャンではない方の祈りだから神様は耳にふさがれているのか拒まれるようなお方か、というとそのような神様ではないのです。ぜひラジオをお聴きのあなたも、「父なる神様」と神様にお祈りをしていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.3.24放送でのお話しより )

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■大丈夫 / 関根弘興

2015年03月23日 | Weblog
2015/3/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様は12人の弟子を選ばれ、彼らを身近に置き、福音を宣べさせていきました。福音とは一体なんでしょう。それは良き知らせですね。

 イエス様はある時、嵐の中で恐れ戸惑う弟子たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ 14章27節)と語られました。

 病の中に、そして混乱の中にある人たちに「安心しなさい。」(参照マルコ 5:34、 ルカ 7:50、ルカ 8:48)と言われ、「あなたの罪は赦された。」(マタイ 9章2節)と宣言なさいました。

 当時の社会で罪人呼ばわりされ蔑(さげす)まれていた人たちと共に食事をされ、「医者を必要とするのは・・・病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ 5章31、32節)と言われました。

 またイエス様は、罪を何一つ犯しませんでしたが、犯罪人と共に十字架につけられました。しかしご自分を釘付けした人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか・・・わからないのです。」(ルカ 5章34節)と祈られたのです。

 また、イエス様と共に十字架につけられた犯罪人の一人が、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ 23章42節)と言った時、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ 23章43節)と、天の約束をお与えになったんです。

 それから三日目に復活されたイエス様は、恐れ戸惑う弟子たちの前に現れ、「平安が・・・あるように。」(ヨハネ 20章19 、21 、26節 )と言われ、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ 28章20節)と約束なさいました。
 これら一つ一つのことばが実は福音そのもの、良き知らせなんですね。そしてこれらのイエス様の約束はあなたにも語られているのです。

 イエス様があの十字架につけられたのは一人ひとりの罪をすべて背負って身代わりに罪の罰を受けてくださるためでした。私たちが神様からの罪の罰を受けるのではなく、イエス様がご自分のいのちに代えて私たちの罪を背負い、赦しの道を開いてくださったのです。まさに私たちがどんな過去を背負っていても、このイエス様にあって大丈夫ということなんですね。イエス様は私たち一人ひとりに「大丈夫」と言ってくださるのです。

 そして復活されたイエス様は「わたしはあなたと共にいる。だから大丈夫だ。」とあなたに声をかけてくださっているんです。それこそが福音なんです。

 そして福音に生きるとは、このイエス様の「大丈夫」という声を聞いて生きることなんです。

 そして福音を分かち合い伝えるということは、イエス様が「大丈夫」と言ってくださることを互いに分かち合っていくということなんですね。

 それがイエス様にあって生きる一人ひとりに与えられている大切な大切な生き方であり目的でもあるんです。

 (PBA制作「世の光」2015.3.23放送でのお話しより)

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■どのように、愛されたのですか / 羽鳥頼和

2015年03月21日 | Weblog
2015/3/21放送
 
世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。キリスト教では、神は愛です、と言います。では神はどのように人を愛されたのでしょうか。

 旧約聖書のマラキ書1章には、神がイスラエルに、「わたしはあなたがたを愛している」と言うと、イスラエルの人々は「どのようにあなたがわたしたちを愛されたのですか」と言った、とあります。

 その頃のイスラエルはバビロニヤによって破壊されたエルサレムの神殿をやっと再建して間もない頃でした。神殿を再建することができ、人々は喜びましたが、作物の不作続きのため生活は苦しくなっていました。やっと神殿を再建し国が復興すると期待していたのに、期待は裏切られ、失望した人々は神に不信の思いを持ってしまったのです。不信の思いを持って「どのように愛されたのですか」と言ったのです。

 神は言われました。「わたしはあなたの兄エサウではなく、弟であるあなたを愛した。そしてエサウの子孫エドム人が『私たちは神に打たれた。だが自分たちで廃墟をを建て直そう』と言うが、わたしはそれを打ち壊す。」(マラキ書 1章2、4節 参照)

 イスラエルもエドム人と同じように神に背くことの多い者たちでした。しかし神はそんなイスラエルを選び、エルサレムの神殿を再建してくださったのです。ここに神の愛があったのです。

 バビロニアによって滅ぼされたイスラエルは再び国を復興する機会を神によって与えられたのです。神は回復を与え、やり直す機会を与えてくださるのです。

 それでは神は私たちをどのように愛されたのでしょうか。聖書は、すべての人は罪人であると教え、人は自分の罪の中に既に霊的には死んだ者であるとも教えています。人はすべて罪人で滅びるしかないのです。そんな人間を神は愛されています。

 どのように愛されたのでしょう。その答えが新約聖書ヨハネの福音書3章16節にあります。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神は私たちにもイスラエルと同じように回復を与えてくださるのです。新しい命を与え、その新しい命に生きる者としてくださるのです。

 明日は日曜日です。神の救いによって新しい命を得るために、あなたも近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.3.21放送でのお話より )
 
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■ちょっと分かりにくい用語(40)  ~贖い~  / 岩井基雄

2015年03月20日 | Weblog
2015/3/20放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。 今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日は「贖い」についてです。

 この贖いということばは聖書の中によく出てきます。「贖う」という動詞は「奴隷を代価を払って買い取る、解放する、本来のあり方へと戻す」という意味をもっています。

 聖書の中に次のようなことばがあります。
 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 新約聖書マルコの福音書10章45節 

 この「人の子」とは救い主イエス・キリストのことです。キリストがこの地上に来られたのは私たち人間に仕えてくださり、私たちを奴隷のような状態から贖い出し、買い戻して、本来のいのちを与えるためでした。

 では私たちは何の奴隷なのでしょうか。何に支配されているのでしょうか。聖書は私たち人間のすべてが罪に支配された罪の奴隷であると語っています。聖書が語る罪とは、内面的な罪、妬みや憎しみ、自己中心的な考えなどの内面的なことを言っています。確かに私たちは誰にも教えられないのに嘘をつき人を憎み、自己中心的なわがままさを露呈してしまいますね。コップの底に溜まっている泥が掻き混ぜられることによって浮き上がっていくように、平穏な時には鳴りを潜めている心の醜さも外からの小さな刺激によってさえ簡単に表面に出てきてしまいますね。私たちは自分の力ではこの罪や自己中心的なあり方から自由になることはできません。

 それゆえに、罪深い私たちが受けるべき罪のさばきをイエス・キリストが私たちに代わって受け、代価を払い、罪から解放して自由にしてくださるのです。それが贖いです。そしてその代価はキリストのいのちでした。イエス・キリストが十字架にかかって命を投げ出してくださったから、キリストを信じる者は本当の自由と永遠のいのちを受け取ることができるのです。

 この贖いはあなたのためにも用意されています。あなたもイエス・キリストの命がけの愛を受け取って、本当の自由、本来のあなたのあり方を回復していきませんか? イエス・キリストはあなたを限りない愛で愛してくださっているのです。

(PBA制作「世の光」2015.3.20放送でのお話しより)

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