♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■信仰の戦い~黒田官兵衛~ / 岩井基雄

2014年01月31日 | Weblog
2014/1/31放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。この1月からの NHK 大河ドラマの主役は織田・豊臣・徳川に重用された黒田 官兵衛(かんべえ)・孝高(よしたか)ですねえ。彼は敬虔なキリシタン大名でもありました。彼は天正12年、1584年に高山右近とそのお父さんたちを通して大阪でキリスト教に入信し、小寺シメオン・官兵衛(かんべい) ---あるいは「かんべょうえ」--- と称したようです。福岡県朝倉市の円清寺(えんせいじ)に、この黒田官兵衛の黒田如水(じょすい)像があり、そこには削られてはいたとしても彼が洗礼を受けたという証が記されています。彼の洗礼名「シメオン・如水」のこの「如水」は旧約聖書のヨシュアから ---英語名ではジョシュア--- の名前から取られたと考えられています。宣教師であり歴史家でもあったルイス・フロイスの日本史には、この官兵衛がキリスト教徒として布教活動の主導や支援をしたことが記録されています。官兵衛は戦いに明け暮れる生活の傍ら、自分の陣営内の武将たちに書状を送り、自分の所に神のことばを聞きに来るように勧め、説教を聞いた者についてはその回数、理解の程度、受洗を決意した日にちなどを把握していたという記録が残っているようです。キリシタンへの迫害が強まると官兵衛は信仰を捨てたようにも見えましたが、その後も浅野長政の領国内でキリスト教の司祭たちの庇護を取り計らうなど、キリスト教を保護し続けました。慶長9年、1604年に京都の伏見で亡くなった時、博多の教会で彼の葬儀が行わたと言われており、彼が心の中では最後までキリシタンを貫いたことが考えられます。

 彼の洗礼名の由来ともなったヨシュアは聖書の中でこのように神様から語られています。
  「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」  旧約聖書ヨシュア記1章5節 

 様々な苦難や信仰の戦いの中にあったとしても、神様は私たちを決して見放すことをしません。そしてあなたにも「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と語られているのです。苦難の中にあっても愛と真実を現し続けてくださる神様に信頼して応答していく人生を私たちも歩ませていただきましょう。

  (PBA制作「世の光」2014.1.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■非常に激しく泣いた / 福井 誠

2014年01月30日 | Weblog

2014/1/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「非常に激しく泣いた」です。それでは第二サムエル記の13章36節から読んでみましょう。

 「彼が語り終えたとき、そこに王子たちが来て、声をあげて泣いた。王もその家来たちもみな、非常に激しく泣いた。

 ダビデにはたくさんの息子がいました。13章にはその息子たちに起こった悲劇が描かれています。長男のアムノンが妹タマルに恋をし、強引に自分のものにしようとし、妹タマルを傷付けるのです。タマルと母を同じくする三男のアブシャロムが長男のアムノンに復讐を企て、とうとう殺してしまうという事件が起こりました。何とも痛ましい事件でした。その悲報を他の兄弟たちもそして王もその家来も聞いて、「みな、非常に激しく泣いた。」とあります。アムノンが死んだというだけの涙ではなかったのでしょう。なぜこんなことになったのか、なぜ真の神を信じているはずの家族にこんな悲劇が起こったのか。・・・あらゆる思いの込められた深い深い悲しみであったと言えます。

 新約聖書に登場する使徒パウロは、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ 6章7節)と語っています。

 先に罪を悔い改めたダビデでしたが、その罪の結果は後々に深い罪の傷跡を残したかのようです。ダビデの過ちがなかったなら子どもたちの間に互いを殺し合うような出来事はなかったかもしれません。新しく生きようとするダビデの心をくじくような出来事ではなかったでしょうか。非常に激しく泣きながら、やはり人間一度過ちを犯したらだめなんだ、だめなものはだめで、やり直しどころかどんどん物事がずれて行く、転落していく、神も罪を赦されるとは言うがやっぱりきっちりと落とし前をつけさせるお方なのだ、と神の厳しさを思ったかもしれませんね。

 しかし、悲しんでいても悔やんでいても自分を責めていても何も生まれません。一度新しく生きようとしたらその決意を守り続けることです。

 パウロは続けてこう言っています。
 「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ 6章9節)

 悲しみを乗り越えて、失望せずに神の祝福を受けていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2014.1.30放送でのお話より )

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■神が共におられる / 板倉邦雄

2014年01月29日 | Weblog
 2014/1/29放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。 今日は、「神が共におられる」という題でお話ししましょう。神様が共にいてくださることが私達にとってどんなに幸いであるかを見ることにしましょう。

 さて、兄弟たちに銀貨20枚で売り飛ばされたヨセフはエジプトにやってきました。奴隷市場に立った17歳の青年ヨセフはエジプトの王様パロに仕える役人で侍衛長ポテパルの目に留まります。ポテパルはヨセフを買い取りました。聖書の創世記の記者は、青年ヨセフがポテパルに買い取られたことは幸運だった、と記しています。それは主なる神がヨセフと共におられたからだ、と解説しているのです。奴隷として買い取られた現実が幸運だったとは一体誰が思うでしょう。本人はもちろんですが周りの人々の誰もが「ふーん」と思うでしょうねえ。しかしながら青年ヨセフを奴隷として買い取った主人ポテパルは違った見方をしていたようです。主人ポテパルの目には主という名の神が青年ヨセフと共におられることと主という名の神様が青年ヨセフの手のすることをすべて栄えさせるのを見たのです。主人に対してヨセフは忠実にお仕えしたのでしょうね。そこで青年ヨセフは主人ポテパルの前で恵みを得、おそば近くに仕えることを許されました。主人は家の全管理と全財産をヨセフに委ねたのです。いかにヨセフが信頼されていたかが分りますねえ。

 神がヨセフと共におられるということはヨセフのゆえにヨセフの主人の家にも神が共にいてくださることを意味していました。主、神の恵みは主人の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ、と記されています。主なる神様が私たちと共にてくださるとは何と幸いなことでしょう。若きヨセフは異国での奴隷という身分でしたが、そのような困難の中で全知全能の摂理の神、チャンスを与えてくださる神を信じて、黙々と働いたのです。すると神様の恵みと祝福はヨセフはもちろんですがヨセフを通して異教のご主人の家、田畑、持ち物に及んで行きました。

 私たちも主なる神様を仰ぎ信じることによって神が共にてくださいますように。そして私たちを通して周りの人々も祝福されていきますように。

(PBA制作「世の光」2014.1.29放送でのお話より )

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■どうかもう一年待ってください - 4 / 大嶋重徳

2014年01月28日 | Weblog
2014/1/28放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。ルカによる福音書13章にぶどう園と無花果(いちじく)の木の喩えがあります。ぶどう園の片隅に植えられた無花果の木が一向に実を実らせる気配がないのを怒った主人が、もうこの木を切り倒してしまいなさい、とぶどう園の番人に言います。

 この「切り倒される」日とは終わりの日のことです。聖書はやがて世界には終わりの日が来るのだと語ります。この喩え話を聞くときに、私たちはこの世界の終わりのことを意識せざるを得ません。その終わりの日が来る時、神様の目から見て土地をふさいでいる誤った者は切り倒されるのだ、とあるのです。

 しかしここでぶどう園の番人が出てきます。このぶどう園の番人は主人に「もう1年待ってください。木の周りを掘ってみますから。肥やしをやってみますから。」 ・・・一生懸命無花果の周りを手入れするのです。この番人はイエス様です。

 私たちはこのイエス様の思いと一つなって、この世界を手入れしていく必要があります。何が神様の喜ばれる実を結ぶことなのかを考える必要があるでしょう。この世界に正しい実が実るように、もし誤った政治が行われているのならばそれを飛ばさなければなりません。環境破壊が行われているならば、堕落した社会があるならば、それも正さなければなりません。そしてそれがたとえ小さな歩みであったとしても、たとえ失敗したとしても、思うような実が実らなかったとしても、イエス様は何度でも何度でも私たちに手を入れてくださりやり直してくださるのです。

 私たちはこのイエス様のやり直してくださる手入れと共に、この時代と社会を諦めず、終わりの日が来る前にイエス様が耕そうとされている畑を私たちもこのイエス様と共に耕していきたいと思うのです。キリスト教会はこの社会と世界のために祈り続け、この世界を手入れをしていく。ぜひあなたも私たちと共に、この世界を変えていくイエス様のことばに耳を傾けていただきたいと思います。

 ( PBA制作「世の光」2014.1.28放送でのお話しより )

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■ホサナ!  / 関根弘興

2014年01月27日 | Weblog
2014/1/27放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストの生涯の最後の一週間は、イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入られた、その時から始まるんですねえ。この時、大勢の人が過ぎ越しの祭というユダヤの最大の祭りのためにエルサレムに集まってきていました。そんな祭りの時にイエス様がエルサレムに来られた訳です。イエス様がエルサレムに近づき都に入ろうとすると、大勢の群衆が棕櫚(しゅろ)の木の枝を取ってイエス様を出迎え、叫び始めました。「ホザナ! 祝福あれ、主の名によって来られる方に! イスラエルの王に!」 このように叫んでイエス様を迎えたんです。(マタイ21章1-9節、マルコ11章1-10節、ルカ19章29-38節参照)

 ユダヤの人たちは、イエス・キリストこそ自分たちをローマの圧制から救い出してくれる新しい王になってくれるかもしれない、そういうふうに思ったんですね。彼らはもともと、私たちを救ってくださいという意味の「ホザナ!」ということばを叫び始めました。しかしイエス様は人々の期待とは別の思いを持っておられたんです。なんとイエス様はエルサレムにロバの子に乗って入って行かれました。ロバに乗るというのは平和を示すしるしでした。それはイエス様が来られたのは群衆が考えているような戦いによってユダヤに政治的勝利をもたらすためではないのだということを示すためでした。そしてまたロバの子に乗るというのは旧約聖書の預言に記されていることもあったんです。もしイエス様が軍事的な勝利者としてエルサレムに入るなら、馬にまたがって颯爽(さっそう)と入って来られたでしょう。しかしイエス様はロバの子に乗って、戦いではなくて平和をもたらす王として来られたことを示されたんです。

 それではイエス様の平和はどのようにもたらされていったのでしょう。それはイエス様が十字架につけられ三日目に復活されることによってでした。なぜなら、イエス様が十字架につけられたのはですね、自分の罪のためにではなく私たち一人ひとりの罪を背負い、身代わりに罰を受けてくださった、と聖書は教えているんですね(1ペテロ 2章24節、2コリント 5章21節参照)。そしてイエス・キリストは十字架で死なれ、三日目に死を打ち破り復活なさいました(ヨハネ 2章22節、1コリント 15章4節、 1ペテロ 1章3節 参照 )。

 平和の王として来てくださったお方。それは私たちにとって、平和・平安というのは罪の赦しと死で終わることのないいのちを与えることできるイエス様によってもたらされるものなのだと聖書は教えます(ヨハネ 14章27節、ヨハネ 16章33節参照)。私たちは一人ひとりの人生に平和と平和をもたらすイエス様に「ホザナ!」と声を上げ、お互いの人生にイエス様を心から歓迎しながら歩んでいきましょう。

 (PBA制作「世の光」2014.1.27放送でのお話しより)

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■重荷をになう者 / 羽鳥頼和

2014年01月25日 | Weblog
2014/1/25放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとございます。羽鳥頼和です。今月、毎週土曜日、出エジプト記からお話してきました。今日はイスラエルがエジプトを脱出して数ヶ月後、シナイ山のふもとにとどまっていた時のことを話しします。

 イスラエルの指導者のモーセは、人々の中にあるいろいろな問題をすべて一人で取り扱っていました。一日中、朝から晩まで人々が相談事をもってモーセの所にやってきていました。モーセの舅(しゅうと)であるイテロはその様子を見てこう言ってアドバイスしました。「すべての事件をあなた一人で扱うことはあなたには重すぎる。だから民の中から神様を畏れ敬い、能力があり、不正なことを嫌う誠実な人を選びなさい。そして大きな事件をあなたが扱うこととして小さな事件はその人達に任せてあなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたの重荷を担うのです。」(出エジプト記18章13~23節参照)

 モーセはこのアドバイスを受け入れてその通りに行いました。こうしてモーセは自分の働きを成し遂げることができ、イスラエルの様々な問題が正しく取り扱われるようになったのです。私たちにも様々な重荷があるのではないでしょうか。忙しいだけでなく心の不安や将来についての心配など心の重荷があります。ですからモーセのように私たちも重荷を担ってくれる人を必要としています。そんな私たちに語られるイエス様のことばに耳を傾けましょう。イエス様は言われています。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書 11章28節)

 イエス様を信頼し寄り頼むなら、しっかりと休むことができるのです。イエス様は疲れた人、重荷を負っている人に、続けて言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイの福音書 11章29節)

 イエス様は、一緒に重荷を負って歩もう、と言われるのです。くびきというのは締め付けられ不自由な感じがしますが、イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い・・・」(マタイの福音書 11章30節)と言われました。イエス様と共に歩むとき、私たちの心は安らぐのです。あなたも自分のすべての重荷をイエス様の元に持って行き、イエス様を信じてイエス様と一緒に重荷を担って行きませんか? そうすれば本当の安らぎを持つことができるのです。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」2014.1.25放送でのお話より )
 
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■神にとって不可能なことは / 岩井基雄

2014年01月24日 | Weblog
2014/1/24放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。 神様に信頼を置く者は試練をも喜ぶことができるっていう事を最終学びましたが、実際に闘いの最中にある時、本当にその試練を受けとめ、神様への信頼や信仰を明らかにすることは決して容易なことではありませんね。神の人アブラハムにとっても同じでした。彼は正しく神を畏れ、信仰の父とも呼ばれる人でしたが、最初からそうだった訳ではなく、まさに試練の中で神様への信頼を学び続けていった人なのです。

 アブラハムの最初の試練は、子どもが与えられないということでした。当時のイスラエルでは不妊すなわち子どもが与えられないということは神様からの祝福の欠如を意味するとさえ考えられていました。しかし聖書の中にはこの不妊に悩む夫婦が多く存在し、彼らは皆その試練を通して神様への信頼が試されていったのです。アブラハムと妻のサラは神様の約束を信頼して待つことができず、当時周りの国々で行われていた女性のしもべによって子どもを得るという方法を実行してしまいました。アブラハムほどの信仰を持つ人でも忍耐をもって神の約束を待つということができないことがあるのですね。その後月日は流れ、アブラハムもサラももう子どもを得ることは不可能な年齢になりました。ところが、憐れみ豊かな神様は歳を重ねて老いたアブラハムと妻サラに子どもを与えるという約束を再びくださったのです。それは彼らには到底信じられない約束だったので、彼らは思わず笑ってしまいます。しかし神の使いは彼らにこう言いました。
 「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 旧約聖書創世記18章14節 

 神様は、約束を信じられずに笑ってしまった二人を取り扱われ、困難や苦難の只中で全能の主を見上げ、信じるようにと招いたのです。困難な状況にのみ目を留めやすい私たちです。しかし神様はそんな私たちにも神の約束をもってチャレンジし、「主に不可能なことがあろうか。」という神のことばに信頼する者へと私たちをも変えてくださるのです。どんな中にあってもその約束に信頼することができるお方、その方こそ聖書が語る全能の神なのです。

  (PBA制作「世の光」2014.1.24放送でのお話しより)

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■私は主に対して罪を犯した / 福井 誠

2014年01月23日 | Weblog
2014/1/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「私は主に対して罪を犯した」です。それでは第二サムエル記の12章13節から読んでみましょう。
 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」
 ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。


 完璧な人は居ません。人は誰でも失敗もすれば罪も犯します。問題は何か誤ってしまった時にその後でどう後始末をつけるかです。以前お話ししたサウル王は預言者サムエルに罪を責められた時に民のせいにして攻撃の矛先をかわしました。サウルは悪い王だ、ではないですね。人間にはそんな弱さがあるものです。

 しかし弱さに流されないで生きる生き方もあります。先週お話ししたことですが、ダビデは姦淫と殺人というとんでもない罪を犯し、その事を預言者ナタンに責められた時に素直にこれを認めて悔い改めたのです。潔いですね。しかし、本当の所ダビデは罪を覆い隠そうとしていましたし、罪を犯した後に一年間その事を悪いとすら思わないでいました。預言者ナタンにはっきりと罪の現実を指摘され、気づかされて初めて罪を認めて悔い改めたのです。

 悔い改めは仕切り直しです。自分のやったことが人間として全く正しくないと認め、自分の行為にけじめをつけて切り捨てていくことです。それができないと、いつまでも罪の泥沼の中に生きることになります。人生をごまかし続け、偽り続けるのです。私は罪を犯しました、と率直に自分のやったことを認める。そして新しい人生を生きていくことが大切ですねえ。罪を犯した、もう自分はだめだ、と破れかぶれになるのではありません。神様だって人に失敗のレッテルを貼っていつまでも社会からのけものにするようなお方ではありません。

 この時ダビデは詩篇51篇を作ったと言われます。
 「私の罪から私をきよめてください。」 悔い改めたダビデは、荒れすさみ傷んだ心を新しくしてください、と祈って前向きですね。自分はもうだめだなんて思わず、ぜひ教会を訪ね、古い自分に決別し、牧師と共に神の助けを祈り、新しい人生を歩んでいただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2014.1.23放送でのお話より )

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■キリストの先祖に / 板倉邦雄

2014年01月22日 | Weblog
 2014/1/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「キリストの先祖に」という題でお話ししましょう。

 ユダ家の嫁になったタマルのお話の三回目です。破廉恥なユダと義父を誘って子どもまで産もうとしたタマルからなぜ救い主イエス・キリストが誕生してきたのでしょうか、創世記38章の続きです。

 さて数ヶ月経ったある日、嫁のタマルに子どもができたという報告が届きました。未亡人の身でいながらふしだらなことをしたに違いない、というのです。義父のユダはかんかんになって叫びました。「けしからん。ここへ連れてきて焼き殺してしまえ。」 それはお前だよ。その罪の直接原因は義父のユダでしたねえ。人々はタマルの家に押しかけ外へ引きずり出そうとしました。このままでは殺されます。タマルは急いで義父に言付けを頼みました。「この印章と杖の持ち主が生まれて来る子どもの父親です。誰の物かお分りですねえ。」 義父のユダは一目見て驚きました。何と自分がやった品物でした。 「私が悪かった。タマルを責める訳にはいかない。彼女は私よりも正しい。こうなったのも私が息子シラと結婚させると約束しながらそれを守らなかったからだ。」 

 それにしても聖潔ということは大事なことです。心の清いものは身も清くするでしょう。若者も年配者も身持ちを正しくして生きたいものですね。
 「不品行を避けなさい。・・・あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である。」(コリント人への第一の手紙6章 18節、19節)と聖書の中にあります。 

 さて、月が満ちてタマルは双子の男の子を産みました。産まれるとき、助産婦は最初に手を出した子の腕に赤い糸を結びましたが、その子は手を引っこめてしまい、もう一人の方が先に飛び出してきました。名前はペレツ---飛び出し君---であります。このペレツがユダの後継ぎとなり救い主キリストの先祖となってゆくのです。

 さて翻って、私たちはある意味でユダでありタマルのような罪深い者ではないでしょうか。そのような堕落した者たちがキリストの系図に織り込まれたという事実こそ私たち罪人が善行ではなく、ただ恵みによりキリストへの信仰によって救われる証拠ではないでしょうか? 

(PBA制作「世の光」2014.1.22放送でのお話より )

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■どうかもう一年待ってください - 3 / 大嶋重徳

2014年01月21日 | Weblog
2014/1/21放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 もう既に1月の中端が過ぎました。新しい年が始まりますと昨年1年間のニュースの映像がテレビで流れます。そしてコメンテーターたちが訳け知り顔で、この問題はこうこうこうですよね、そのように時代を分析します。しかし、あれやこれやと言いますけれども、言いっ放しで何も社会が変わっていないということがあります。

 ルカの福音書13章でも「このような事件が起こったのは、あの人が罪を犯したからですよね。」 そのような分かったような顔をして、あれやこれやと言った人たちが聖書の中で出てきます。その人たちにイエス様はこうおっしゃるのです。「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカの福音書13章3節、5節参照)

 ここで「悔い改め」ということばが出てきます。悔い改めとは後悔することではありません。神様が私を変えようとしてくださっていて、そのことを信じて新しく一歩踏み出すことを悔い改めと言うのです。神様は私たちが変わって行く事をずっと待っておられます。しかし私たちはこの神様が私たちを変えようとしてくださるということを信じることができずに、所詮自分は変わることはできないのだ、そう開き直って、悪い意味での悟りの境地を開いてしまうことがあります。この姿こそが神様にとって最も歯がゆい、最も悲しい、最も深い人間の罪の姿です。

 父なる神様は、私たちが悔い改め、変わることができるようにと、イエス様を私たちのそばに送ってくださいました。父なる神様は期待して私たちの一年を見つめていてくださっているのです。私たちは昨年1年間の向いていた向きを変えて、新しくイエス様と共に歩んでいきたいと思います。私たちは新しく変わっていくことができるのですから。ぜひ、今までの向きを変えて教会へ新しく行ってみてはいかがでしょうか。

 ( PBA制作「世の光」2014.1.21放送でのお話しより )

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