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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■後の後悔、先に立たず / 板倉邦雄

2016年11月30日 | Weblog
2016/11/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「後の後悔先に立たず」という題でお話ししましょう。民数記の14章の続きです。

さて、神の人モーセは民族の運命をイスラエルのすべての人々に告げました。人々は神のことばを聞かされた時、非常に悲しみ後悔したのです。人々は朝早く起きると、山の頂に登って行きました。そして互いに語りあったのです。「私たちはここにいる。さあ主なる神様が約束してくださった所へ上っていこうではないか。私たちは不信の罪を犯してしまったのだから。」 すると神の人モーセは答えました。「あなたがたは約束の地に上ってその地を勝ち取ることはできない。それを成し遂げることはできないのに、主なる神様の命令に背くのですか? 主なる神様の命令は、向きを変えて荒野へ進むことです。だからあなたがたは上っていってはならない。主なる神様はあなたがたと一緒には行かないからだ。もし行っても敵の前に打ち破られるであろう。そこにはあなたがたの恐れる巨人と強力な先住民があなたがたの前に立ち塞がるから、あなたがたは剣で倒れるであろう。あなたがたは主なる神に背いて信仰を持って従おうとしなかったじゃないか。後から後悔しても主なる神はあなたがたと共におられないからである。」

 しかし彼らはモーセの言う事を聞こうとはしないで、自分たちの欲するままに山頂に上っていったのです。すると、その山に住んでいる巨人と先住民カナン人とが下ってきて、彼らを打ち破りました。イスラエルの人々は破れて逃げるだけだったのです。

 さて、後悔とは後出しジャンケンのようなものですから無効です。主なる神様は私たちに後悔ではなく悔い改めを求めておられるのではないでしょうか。悔い改めとは、まさに向きを変えて前進することだったのです。すなわち、荒野の40年の生活に踏み出すことこそ神様が共におられる道でした。不信の罪の償いの道だったのです。40年の荒野の生涯において、奴隷根性の心が鍛えられ、訓練され、40年後の約束の地に入るためだったのです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.30放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■起きて、床を取り上げて歩け -9 / 大嶋重徳

2016年11月29日 | Weblog
2016/11/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

聖書には38年間ベテスダの池で寝たきりの人が癒された出来事が記されています。イエス・キリストは彼に38年間寝たきりであった彼の布団を畳むように語られ、「もう罪を犯してはならない」(ヨハネ 5章14節参照)と言われました。イエス様は病気が彼の問題ではなく罪が問題であったことを見抜いておられたんのです。

 今朝、この38年もの間寝たきりの彼に近づかれたようにイエス様はこのラジオをお聴きのあなたの傍らにじっと立ち、あなたの布団のそばまで来てくださるのです。そして語りかけられます。「よくなりたいか?」(ヨハネ 5章6節)

あなたがあなたの人生を苦しみ、長い間やめることのできない罪の生活をもっていたとしても、イエス様はあなたに「よくなりたいか?」と問いかけられます。イエス様はあなたがなぜその罪の中に生きることになったのかも知っておられます。孤独だった。絶望していた。最初は本当にちょっとした気まぐれから始めたことだった。一緒にしないと友達になってもらえないから。・・・しかしそれがいつの間にか、いつの間にか、罪悪感も少しずつなくなり、むしろ快感になり、隠れてその罪犯すことが止められなくなり、誰も見ていないだろうと思っているあの罪この罪。罪赦されて新しく生きて行くことを諦めてしまっているあなた自身に、「起きなさい。あなたの罪は私はすべて十字架にかかって身代わりに背負ったよ。あなたかは罪赦されて新しくなった。あなたは起きることができる。私の復活のいのちに生きて行きなさい。」

 今日あなたのその布団を畳みませんか? そしてイエス・キリストと共に歩いていきませんか?

 クリスチャンとは決して立派な人間になることでありません。イエス・キリストに出会い、「よくなりたいか?」と問われ、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ 5章8節)と言ってくださるイエス様のことばに応答をする人のことです。そして起き上がり、イエス・キリストと共に歩き始めた人のことを言うのです。イエス様と歩きながら、何度も何度もまた罪の中に潜りそうになるかもしれません。でも今度は、イエス様が私たちの手をしっかりと握ってくださっている。その手が再び私たちを起き上がらせてくださるのです。そのイエス様の手に引かれながら、私たちは今朝も、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と招いておられるイエス様と一緒に歩いていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.11.29放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■感謝しよう / 関根弘興

2016年11月28日 | Weblog
2016/11/28放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを紹介いたしましょう。
 新約聖書 エペソ人への手紙5章20節
 「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

 キリスト教会の特徴の一つは、たくさんの賛美を捧げるということです。そしてもう一つは、「感謝」ということばをよく用いることだと思うんですねえ。

 パウロは「すべてのことについて・・・感謝しなさい。」と記しています。でもこれはなかなか実行することが難しいですよねえ。良いことを感謝することはできますが、そうでないことはなかなか感謝などできません。でもパウロはそれでもなお敢えて、「すべてのことについて・・・感謝しなさい。」というのです。実はここに人生の大切な生きていくための秘訣があるように思うんですねえ。

 ローマ人への手紙8章28節には、
 「神を愛する人々、・・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる
 と約束されています。困難や失敗や悲しみがあっても、神様はそのことすらも益としてくださると約束しているんです。もちろん、その事が分からなくて辛い状態や悩みを抱えている状態の中にあるときがありますよ。でも、もし神様がすべてのことを働かせて益としてくださると約束してくださっているなら、その約束のゆえに勇気をもって神様に感謝のことばを出すことができるのではないでしょうか。

 でもこれは生活の中で実際に行なってみないと分りませんよね。「感謝します」と言うことが難しい中で思いっきり、「神様。感謝します。」と告白してみてください。もちろん私たちは神様の前に正直に自分の心を注ぎだし、時には涙を流して「神様、どうしてですか?」と疑問をぶつけることもあります。深い悲しみの中で、初めから感謝などできないかもしれません。だから自由に神様の前に自分の心を注ぎ出してください。それをしないでただ口先だけで感謝してればいいのだということでありません。まずありのままの自分の姿を神様に出しながら、そして聖書が語る約束、神を愛する人々のために神はすべてのことを益としてくださるという、そのことばを信頼し、一歩踏み出すのです。すべて主の御手にあること信じ、敢えて感謝を捧げていくのです。さあ、賛美と感謝の唇を携えてこの一日も歩んで行きましょう。

(PBA制作「世の光」2016.11.28放送でのお話しより)

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■忍耐と励ましと希望の神 / 羽鳥頼和

2016年11月26日 | Weblog
2016/11/26放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 「絆」(きずな)ということばをよく聞きます。今、人と人がしっかりと繋がり、助け合い、愛しあって共に生きることが求られています。今日は聖書が教えている「共に生きること」についてお話ししたいと思います。

 新約聖書ローマ人への手紙15章には、キリスト教会の人々に、どうしたら共に生きていくことができるかが教えられています。そこには共に生きるための神への二つの願いが記されています。

 一つ目はこんな願いです。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」(5節)
 
 そして二つ目はこんな願いです。「どうか、希望の神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、希望にあふれさせてくださいますように。」(13節参照)
 これらの願いは、人が共に生きて行くときに、同じ思いを持つことができるように、そしてみんなが希望をもって共に生きていることができるように、という願いです。そしてこの願いでは、願いを聞いてくださる神のことを、「忍耐と励ましの神」「希望の神」と呼んでいます。これは共に生きるために必要な忍耐と励まし、そして希望は、神からしか与えられないものなので、神のことをこのように呼んでいるのです。共に生きるには忍耐と励まし、そして希望が必要です。

 聖書は言います。「力のある人が力のない人たちの弱さを担うために、そして隣人を喜ばせるために、神からの忍耐と励ましが必要です。さらに、共に生きるためには、皆が神からの希望に満たされることが必要です。」と聖書は言うのです。

 共に生きるのに必要な忍耐と励ましと希望を神は与えてくださいます。日本語の「絆」ということばには、「手枷足枷などで縛り付ける」というような意味合いもあるそうです。人と人とのしがらみです。しかしそのような状態になっても良い人間関係を築くことができるように、神は忍耐と励まし、そして希望を与えてくださるのです。

 明日は日曜日です。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

  (PBA制作「世の光」 2016.11.26放送でのお話より )
 
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■住職の子どもからキリストの大使へ 柏木義円 / 岩井基雄

2016年11月25日 | Weblog
2016/11/25放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の最後の金曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は柏木義円について学んでみましょう。
 越後の国与板藩、今の新潟県長岡市の浄土宗西光寺の住職の家に生まれた柏木義円は、明治11年に東京師範学校を卒業し、群馬県の小学校教員を経て、安中市の小学校校長として働いていた時に安中教会に導かれます。

 住職の息子の彼のキリスト教への入信はかなりの葛藤を伴いましたが、それ以上に柏木義円は自分の罪に悩んでいたのです。自分の罪を認め、イエス・キリストを信じ、海老名弾正牧師より洗礼を受けた彼は、罪赦された喜びから、もっと聖書を学びたいという思いを持ち、同志社大学へと進学します。そこで新島 襄から神の愛とイエス・キリストにあるいのちの恵みを深く学んだ後、卒業後は同志社予備校をはじめ熊本英語学校など、教職を勤めます。そして、同志社文学の本の編集を通して自分が悩みの中でキリストにあるいのちを見出した喜びを文章を通して伝えることに情熱を注いだのです。明治24年、彼は安中教会の牧師になります。翌年、上毛教会月報を創刊し、キリストの愛といのちを人々の生活の中に実現することを使命とします。そして自ら足尾鉱毒事件、廃娼運動、未解放問題などを取り扱い、神の愛に生かされキリストのいのちに生きる重要性を示し、キリストの平和の使者として豊かに用いられていきました。

 イエス・キリストはあなたにも語られています。

 「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、・・・、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
    新約聖書コリント第二の手紙 5章19節から21節

 イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかり、罪のさばきを身代わりに受けられました。罪の赦しはあなたにも備えられています。あなたも神と和解し、平和を造る者として用いられていきませんか? 神はあなたを愛していらっしゃるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.25放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主によって奮い立った / 福井 誠

2016年11月24日 | Weblog
2016/11/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主によって奮い立った」です。それでは第一サムエル記30章6節から読んでみましょう。
  ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

 今日のエピソードはダビデにとっては最悪の事態を語るものです。先週お話しましたが、ダビデの軍隊はペリシテの戦争に巻き込まれずに済んで、自分の町に戻ることが許されました。ところがヤレヤレ、無事に町にたどりつくと、何と彼の町は何者かに焼き討ちにされており、暖かく出迎えてくれるはずの家族はみな捕虜となり連れ去られていたのです。悲しみ苦しんだダビデの部下たちは、そのやるせない怒りをダビデに向けて行きます。実にダビデはまたしても危機に陥り、しかも今度は外からではない内からの危機、孤立無援、もはやこれまで、という所に立たされていくのです。最後の砦、自分を守る部下たちにまで手の平を返されるような、絶体絶命の窮地に立たされたダビデは非常に悩んだと言います。

 しかしどうでしょう。信仰の勇士ダビデはその苦悩の中にあって、「彼の神、主によって奮い立った。」とあります。教えられる所ですねえ。実に神が私たちを見捨てられることがないのであれば、どのような苦境においても希望はあるものです。苦しい時の神頼みでも良いではありませんか。なす術尽きた時には、神の御名を呼び、主によって奮い立つ所に立たなくてはなりません。ダビデはその窮地にあって、神を怨んだりせず、絶望して自分を殺めるのでもなく、ただ神に期待を置いて自ら奮い立ったのですね。

 ピンチはチャンスと言われますが、それはまさに神の真実を味わう機会、神のみわざを仰ぐ機会です。ダビデはすぐさま全兵士を引き連れて追跡を開始しました。そしてこの危機も乗り越えていくのです。

 ラジオを聞いている皆さんの中に、四面楚歌、もはや自分には何の助けもない、と孤立無援の窮地にあると思う方はいませんか? ダビデのように主にあって奮い立ちたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.11.24放送でのお話より )

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■不信の罪を負って / 板倉邦雄

2016年11月23日 | Weblog
2016/11/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「不信の罪を負って」という題でお話ししましょう。

 聖書で「罪」というとき、法律を犯す罪、倫理道徳の罪だけではなく、主なる神様に対する不信仰の罪、すなわち宗教的な罪があると言うことです。そして私たち信仰者は不信仰の罪を背負って生きなければならないということです。

 さて主なる神様はモーセとアロンに言われました。
「わたしに向かってつぶやき、不信の罪を犯したこの悪い会衆をいつまで忍耐することができようか。わたしはイスラエルの人々がわたしに向かってつぶやくのを聞いた。あなたは人々に言いなさい。『主なる神様はこう言われる。わたしは生きている。あなたがたがわたしの耳に語り、つぶやいたようにわたしはあなたがたにするであろう。あなたがたはこうつぶやいた。ああ私たちはエジプトの国で死んでいれば良かった。この荒野で死んでいたら良かった。神よ、なぜ私たちを連れ出して剣で倒れさせ、私たちの妻子を餌食にされるのか。エジプトへ帰った方がいいのに。このつぶやきの通り、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れてゆくであろう。あなたがたの内、私に向かってつぶやいた者は、すなわち二十歳以上の者は、みな倒れるであろう。カレブとヨシュアだけは別である。しかしあなたがは餌食になるだろうと言ったあなたがの子どもは私が導いて約束の地に入るであろう。子どもたちはあなたがたが卑しめた地を知るようになるのだ。しかしあなたがたは死体となってこの荒野に倒れるであろう。あなたがたの子どもたちは、あなたがたの死体が荒野で朽ち果てるまで四十年の間荒野で羊飼いとなり、あなたがたの不信の罪を負うことになるだろう。あなた方は約束の地を探った四十日の日数に従って、その一日を一年として、四十年の間自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう。』」

 さて、つぶやきというものは主なる神様への不満と疑いの現れなのです。不信の罪を私たち信仰者は、この荒野の人生において償っていくことになるのでしょうね。「すべて信仰によらないことは、罪である。」(ローマ人への手紙14章23節 口語訳聖書)、という聖書のことばが響いて来るようです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.23放送でのお話より )

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■起きて、床を取り上げて歩け -8 / 大嶋重徳

2016年11月22日 | Weblog
2016/11/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
 聖書には38年間ベテスダの池で寝たきりの人が癒された出来事が記されています。イエス様はこの寝たきりの彼のことばをそのまま受け入れ、それと同時に彼の抱える罪の問題を明らかにされました。

 本屋さんに行くと、「ありのままのあなたは素晴らしい」と言う本が並んでいたりしますが、私はこれが苦手です、と言うか嫌いなんです。なぜならば自分をどう良く見ようとしてもありのままの私は否定することのできない罪人だからです。その罪に目をつぶって「あなたは素晴らしい」と言われたとしても、私たちの内にある罪を何一つ解決することのない神であるならば、そんな神様は私には必要ありません。しかしイエス様は罪から抜け出ることのできない私のこの罪を解決してくださったのです。38年間寝たきりであった彼が寝ていたこの当時の布団は薄くてボロボロの布でした。イエス様は、「あなたのその汚れた布のような布団をたたみなさい。そしてそれを私に渡しなさい。」 イエス様は十字架にかかられる前、すべての服を剥ぎ取られ、そして紫の布を着せられました。まさにそれは自分中心に生きている人間の罪の布でした。その紫の布はすぐに唾を懸けられ、泥まみれになり、血で汚れていきました。きたない臭いを放ち、汚れた布を身にまとい、十字架につけられたです。その時、私たちのあの罪の布団をイエス様に渡し、イエス様はその布団を見にまとわれたのです。そして人間の罪を身にまとわれ死んで行かれました。その時、私たちの罪もまたイエス・キリストと共に死んだのです。

 新約聖書 ガラテヤ書2章20節という所にはこうあります。
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 
 あの罪の布団を身にまとっていた私もまた十字架で死んだのです。そして今、キリストのよみがえりと共に、新しいイエス・キリストの真っ白な衣を、イエス様のくださる新しい服を戴いて着ているのです。今日も罪の中にいるありのままのあなたは素晴らしく「ない」かもしれません。しかし、ありのままの罪人のあなたを愛し、救ってくださったイエス様の愛は素晴らしいのです。このイエス様のくださる新しい生き方を受け取って歩んでいこうではありませんか。

  ( PBA制作「世の光」2016.11.22放送でのお話しより )

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■賛美しよう / 関根弘興

2016年11月21日 | Weblog
2016/11/21放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを最初に紹介しましょう。
新約聖書 エペソ人への手紙5章19節
  「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。

 「詩と賛美と霊の歌」とは一体どのようなものなんでしょうか。

 「詩」とは旧約聖書の詩篇を指す場合もあります。そしてこのことばは原文では「弦楽器を弾く」という意味から出てきたことばだと言われます。また「賛美」とはギリシャ語ではヒュムノスということばで、英語ではヒム hymnと言いますよね。これは「神様を賛美する」という語源から出てきたことばです。そして「霊の歌」とあります。この「歌」と訳されることばは一般に広く歌われる歌という意味で特別な宗教的な意味はありません。しかし「霊の」という形容詞がついていますよね。ですから霊の歌とは「内側から出て来る心を込めた歌」と言うような意味なのでしょう。

 キリスト教会の特徴の一つは、礼拝の中でたくさん賛美を歌うことだと思います。楽器を使って賛美をしますし、神様を心から称えて賛美をするんです。また自分の心からの信仰の告白を歌にして歌うこともあります。つまり「詩と賛美と霊の歌」とをもって礼拝を捧げる訳ですね。

 そしてパウロは、そうした賛美は自分自身にも他の人にも語りかけられる大きなメッセージになるのだと教えているんです。私たちは賛美を通して感動を覚えたり、神様の励ましや慰めを得ることがしばしばあります。多くの人が賛美の中に励ましと慰めを得ているんです。

 詩篇の22篇の3節という所には、神様は私たちの賛美を住まいとしておられる、と記されています。私たちは神様を目で見ることはできません。しかし私たちが心から賛美を捧げて行くとき、神様がその真ん中にてくださるのだということを味わうことができるというのですね。

 新約聖書ヘブル人への手紙13章15節
 「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

 どんな状況にあっても神様に捧げる賛美(は)、大きな力になるんですね

(PBA制作「世の光」2016.11.21放送でのお話しより)

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■神のいつくしみときびしさ / 羽鳥頼和

2016年11月19日 | Weblog
2016/11/19放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は神の慈しみと厳しさについて新約聖書ローマ人への手紙11章からお話しします。
 11章はイスラエルと異邦人に対する神の救いの計画を教えています。その中に神の民であるイスラエルをオリーブの木に喩えた話があります。こんな話です。

 初めイスラエルは良い木として根を張り、枝を張りました。しかし彼らは神に対して不信仰となり、その枝が切り落とされてしまいました。そして別の野生の木の枝である異邦人がそのオリーブの木に接木されたのです。

 このオリーブの木の喩え話は、神の救いがまずイスラエルに与えられ、イスラエルが不信仰になったために神の救いが異邦人にも与えられるようになったことを教えています。イスラエルの救いがなくなった訳ではありません。イスラエルも再び神を信じるなら救いを受けることができるということもこの喩え話は教えています。イスラエルが不信仰のために神によって切り落とされたことは、神の厳しさが表わされた時でした。そして異邦人が救われる所に神の慈しみが表わされたのです。

 こうして聖書が語ります。
 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
    新約聖書 ローマ人への手紙11章22節

 聖書は異邦人にも注意しています。「高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(ローマ 11章20節) もし不信仰になってしまうなら、異邦人も神の厳しさの中に置かれるのです。今もすべての人の上に神の慈しみと厳しさがあります。神はすべての人がその慈しみの中にとどまることを願っておられます。神の慈しみの中にとどまるとは、神が人を救い主イエス・キリストによって救われたことを信じ続けるということです。神の慈しみの中にとどまりましょう。

 明日は日曜日です。慈しみ深い神を知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.11.19放送でのお話より )
 
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