♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■信じます

2005年04月30日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく、「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 徳島県脇町にお住まいの、なるみやすたかさんは、新約聖書マルコの福音書9章23節24節のことばをお寄せくださいました。
  するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 今から八年程前のことです。知り合いの人に誘われて教会に通い出して八ケ月ほど経った時の事でした。私はある事で親と喧嘩をして家出をし、一時期教会で泊めていただいておりました。教会の牧師である岩井先生から、「なるみさん、洗礼を受けませんか」と勧められました。私は言いました。「私が親と喧嘩になった訳は、私が教会に行くようになったという事がその原因なのです。今は一人、山の中かどこか静かな所で考えてみたいのです。せっかくですが、今洗礼を受けることはできません。」岩井先生は、「洗礼を受ければあなたは必ず救われます。」としきりに勧めます。私は思わず、「私もできるなら救われたいです。」と申し上げました。すると岩井先生は聖書のこの所を開いて、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とお話くださいました。実はこのイエス様のおことばのすぐ後に、「信じます。不信仰な私をお助けください。」との父親のことばがあったのです。私は信仰を告白して洗礼を受けました。その後、周りの環境も、事情も、少しも変わりません。私は苦しくなりました。でもある時から急に楽になり、すべてが楽しくなったのです。それ以来教会は本当に心の安らぐ楽しい所になりました。この素晴らしい神様に寄り頼みつつ歩むことができますことを心から、感謝しています。

 なるみやすたかさんの心に残る聖書のことば。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」 マルコの福音書9章24節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2005.4.30放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。









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■生きる頼りどころ

2005年04月29日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 多様化した価値観というようなことが言われます。ま、何に価値を置くか、何を自分にとって大切なものとして生きるか、という事、また、何を拠り所として生きるかと言ってもよいと思います。ま、それが多様になった。自由になったという事ですね。これは大切な自由の賜物。基本的な人権と言ってもいいのではないでしょうか。戦争中は、お国のためになんて、みんな押し付けられた時代もありました。

 ただこの自由であるという事はいい事ですが、気をつけないと、自分の価値観、人生観が持てないという悩みの中に、人や流行に振り回されたり、怪し気な宗教にはまったりする危険があります。また、これこそ最も大切と思って努力してきたものが、ま、それほどのものでなかったり、あるいはそれが変わってしまったり、なんていうことも起こります。

 聖書には、人生の土台、あるいは価値というものは変わってしまうものではなくて、変わらないもの、それは、神からの恵み、そこに土台を置いて生きることだって言っています。

 恵みってことばの意味は、賜物とか、神様から与えられるものという意味です。聖書には、何とこの恵みということば、280回も使われているんです。そしてこんな意味で使われています。それは、太陽も月も素晴らしい大自然も、そしてその中に生きる私たちのいのちも人生も、実は神から与えられている神の賜物、恵みなんだって言っているんですねえ。ですから私たち、今生きていることは、単なる偶然、何となく生きているんではない、豊かな人生を神から用意されている、それを歩んでいけるんだって言うんです。

 また、この自然もいのちも人生も、守り与えてくださっているその神様を知れば知るほど、自分は自分の生きる意味、使命、あるいは価値観がはっきりするって言うんです。それこそ変わらない自分らしさを持てるという訳です。

 そしてもう一つ、イエス・キリストによって与えられる神の恵み、それは過去の失敗とか、傷とか、しがらみから自由になって、神に造られた輝いた人間の本来あるべき姿の生き方ができるって言うんですね。

 キリストの弟子パウロはそんな事を経験した最後にこんなふうに言っているんです。「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する神の恵みは、むだにはならないで、他の誰よりも多く働きました。」って言うこんな生き方していけたらいいですね。


( PBA制作「世の光」2005/4.29放送でのお話しより )

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■笑顔は誰がやってもいい

2005年04月28日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 ある日の新聞の子どもの歌のコーナーに、「笑顔」と題して横浜の港南台第二小学校5年生石田まりやさんの詩が掲載されていました。紹介してみましょう。

     「笑顔」
 
  笑顔は誰がやっても相手は心が嬉しくなる顔
  いつも暗い顔をしていたり
  いつも悲しい顔をしていたら
  みんなの心は嬉しくならない
 
  笑顔ってとても大切な顔なんだ

 この詩を解説してしばらく前にお亡くなりになった川崎ひろしさん、こんなふうにおっしゃっていました。「そうなのだとつぶやきました。」 本当にそうなのですよね。それぞれにそれぞれの顔の形があるのは言うまでもありません。しかし、どの顔にも共通して言えることは、いい顔というのは笑顔だという事ですよね。

 まあ中には、笑ったことは一度もありません、そんなふうにしていつでもむっとしている人がいます。あるいは世界の不幸を自分一人が背負っているような暗い顔の方もいます。また、何がおもしろくないのか、何がつまらないのかという顔もあります。不機嫌な顔は周囲に実に不快感を撒き散らしているよぅな気がいたします。

 さて、いつも笑顔でいるためにはどうしたらいいでしょうか。笑えるような楽しいことや嬉しいことが毎日ざらにあるものじゃありませんよねえ。まあむしろ、ことごとに苦虫を噛み締めたいようなそんなことが多くて、そんな顔になってしまいますよね。しかし私たちの心の中に、もし感謝がいつもあったとしたらどうでしょうか。その感謝は必ずあなたの顔を安らかにし、微笑ませ、いい笑顔を作らせるに違いないと思います。パワーですよね。

 旧約聖書のネヘミヤ記という8章10節という所には、「神を喜ぶことは、あなたがたの力です。」ということばがあります。私たちにとって、神を喜ぶなどという事はあるんでしょうか。どういうことが神を喜ぶという事なんでしょうか。それは神に感謝する事です。あらゆる事を感謝することです。神にお任せし、神に信頼することです。神に任せて安心することです。この時、聖書にあるように、「 神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。」旧約聖書のヨブ記の8章21節です。
 
 この、まりやさんがですねえ、歌ってるっていうか、詩を書いていますように、笑顔は誰がやっても相手は心が嬉しくなる顔。そうなんですよね。それはあなたにとって大切な大切な顔ですし、あなたの御家族、あなたの周りの人々にとっても実に大切な顔になるに違いありません。

(PBA制作「世の光」2005.4.28放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせて日曜日の朝、教会に行ってみましょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■誰でも何でも

2005年04月27日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からのお便り紹介です。千葉県市川市にお住まいの倉持やすみさんからいただきました。

 今日は土曜日、私が一番早く目が覚めました。早くテレフォンを取り、世の光を聞きました。羽鳥先生の穏やかでお元気なお声、祈らずにはおられませんでした。いつまでも先生、お元気で。私事ですが、きのう私に仕事が決まり、来月から仕事に出かけます。ありがたいことです。みなさまお元気でお励みください。

 倉持さんの御夫妻にはこの間、市川の町でお会いしました。私たちは同じ市川市の市民なんですねえ。倉持さん、お便りありがとうございました。

 さて、今日の約束のことばです。今朝のお話しに題をつければ、「誰でも何でも」という事でしょう。神様のお約束は誰でも何でも公平で力強いお約束です。

 第一に、「誰でも」のお約束。「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書3章16節のことばですが、信じる者は誰でも一人のこらずとのお約束ですね。何という深い、大きい、神様の御愛でしょう。

 第二は、「何でも」の約束のことばです。同じヨハネの福音書の15章7節。「 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」何でもの約束ですねえ。誰でも信じるだけで何でもイエス様にあってそのお約束のことばをしっかり信じるだけで誰でも何でもの約束です。

 イエス・キリストはどうしてそんな約束ができるのでしょうか。イエス様が何でもできる神様だからです。愛のお方、知恵あるお方だからです。

 今日の約束のことば。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの福音書3章16節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.4.20放送でのお話しより )

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■名前を呼ばれる

2005年04月26日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 先日、街を歩いていますと後ろから、「関根さーん!」と声をかけてくださった方がいました。名前を呼ばれるっていいもんですよね。えーっとそこのほら、隣の・・・、そうそうそう、そこのあなた、なんて呼ばれるより、名前を呼ばれると何となく嬉しいものです。

 イエス・キリストがエリコという町に入られた時のことでした。イエス・キリストのもとに大勢の人たちが集まってきました。その中に、町の嫌われ者、取税人の頭であったザアカイという人がいました。彼もイエス様を見たかったんでしょうねえ。外に出ていきました。ま、彼の名前、ザアカイという人の名前は、「清い」という意味が込められた名前なんですね。でも実際は、名前は「清い」という意味でも、彼のやっている事は汚いことばかりでした。不正を働いていた訳です。まあみんながザアカイの名を呼ぶ時は、皮肉を込めてザアカイの名を呼んだことでしょう。そんなザアカイも、イエス様を一目見ようと出ていきましたが、すでに人垣が出来ていてちっとも見えないんです。すると彼はすぐ近くの木の上に登り、イエス様を高見の見物とやらで見ていたんです。するとどうでしょう。イエス様はその木の下に立ち止まり、突然、「ザアカイ。降りて来なさい。」と言われるんです。(一体どうして自分の名前を知っているんだろう。) 不思議だったに違いありません。そしてそのイエス様が呼ばれたザアカイという響きは決して皮肉混じりな軽蔑を込めた言い方ではありませんでした。イエス様は続けて、「今日わたしはあなたの家に泊まることにしている。」と言われたんです。ザアカイは決して長い説教を聞いた訳ではありません。ザアカイにとって親しく名を呼ばれたその事だけで、彼の心は溶かされていきました。それからザアカイの人生は変わりました。不正の人生ではなく、名前の通りの人生へと変えられていったんですねえ。

 聖書のことばの中にこんなことばがあります。「恐れるな。わたしがあなたを贖(あがな)ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。」そしてまた別の所には、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」イザヤ書49章です。あなたの名前を親しく呼んでくださる神様がいてくださると聖書は言います。決してあなたを忘れることのない方がいてくださいます。ザアカイは親しく自分の名を呼び、家に来てくださったイエス様に接し、人生が変わりました。今日も同じです。あなたの名を呼び続けるキリストの声は、今日も響いているんですよ。


 ( PBA制作「世の光」2005.4.26放送でのお話しより )

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■なぜか疲れない

2005年04月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、私たちは同じ事をするのでも、そこに意味があって、またはこれは誰かのために役に立つと分かっていてやるのと、そうでない場合とでは違ってくるなと、疲れ方が違うんじゃないかなあというふうに思ったりしますですね。で、前に聞いた話しですけど、ま、似たような話しはありますが、一人の被疑者に自白させるための一つの心理作戦として、ある所にレンガをたくさん山になっているのをこちらの方に運んで積み上げなさいって言って、で、言われて積み上げ終わると、それを崩してさっきの所へ持って帰ってそこへ積み上げなさい。で、積み上げ終わると、また崩してさっき運んだ所に持っていってそこに積み上げなさいというふうなことを、同じことを繰り返し繰り返し一日させて、それを三日間続けているうちにその人は正しく考える能力を失ってしまってですね、で、あなたはこれをやったなと言われたら、ハイやりましたというふうにも自白してしまうというような、まああのそういうような人間の心理を利用したことのようなんですね。で、同じことをやるのでも、ともかく何のことをやっているのだろうこれは、という人生であってもですねえ、毎日同じことの繰り返しだなあ、これに何の意味があるんだろう、何の価値があるんだろう、どういう生産的な意味を持ってんだろう、それが分らずにやっていると、もう疲れて疲れてしょうがないというふうなことがあるんだろうなあというふうに思いますよね。それが、はっきり目的があって、その意味があって、ということですと、同じことでも違ってくるというふうに思いますよねえ。

 聖書の中の創世記の29章という所に書いてあるんですけれども、ヤコブという人がラケルという一人の女性を愛して、で、その人をどうしてもお嫁さんに欲しいというその時に、じゃあこの人のために七年間家(うち)で働きなさいと言われて、わかりましたと言って働いた。そこにこう書いてあるんですね。「ヤコブは彼女を愛していたので、 (その七年間が) ほんの数日のように思われた。」って書いてあるんですね。七年間が、愛する者のためだったらまるで一週間くらいしか感じなかったって、これ、逆だったら大変ですよね。いやな人のためだったら、その一週間がまことに七年のように感ずるに違いないんですね。パウロという人は、「私を愛して私のためにいのちを捨ててくださったこの方を信じて生きるんだ」と言っているんですね。私を本当に愛しておってくださる方がいる。私の生きる生き方は、この方のために生きるんだという目的があればいろんな苦しいことがあってもやっていける、そういう人生すばらしいですよねえ。

 ( PBA制作「世の光」2005.4.25放送でのお話しより )

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■すべてが新しく

2005年04月23日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、皆様からお寄せいただく、「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 東京都にお住まいの原藤幸子さんは新約聖書コリント人への手紙第二5章17節をお寄せくださいました。

 「 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 私と教会との出会いは、新しく出来た教会でクリスマスコンサートが行われた時でした。今から20年近く前の事ですが、私の両親が亡くなりました。その死を通して、この世の人も草も虫もみな何か大きな力によって生かされているのだと感じるようになりました。これから私はどのように生きるのかについて模索し始めるようになりました。また、この時代はいろいろな事柄が激しく変化し、価値観も崩れ、常識では考えられないような状態がいつ起こってくるか、不安を持つようになりました。そしてこんな揺れ動く時代にあっても常に決して変わらない確かなものを心に持ち続けていきたいと願い続けていました。そのような折での教会との出会いは強力でした。神様は思いがけない強い力で私を神様と結び付ける備えをしてくださり、ことにこのコリント人への手紙のことばに出会ったのです。この私は主イエス・キリスト様の御腕の中に飛び込まない限り、私と神様はいつまでも平行線だと分り、すべてを神様にお委ねして、そして決心をしました。 そして受洗をしましたが、その時からすべてが解放されて心に平安を得たのです。神様が私の思いをはるかに超えて教会へ導き、教会の礼拝に導き、受洗へと導き、すべてを備えていてくださった事に、改めて神の愛と恵みの深さを覚えて感謝いたします。

 原藤幸子さんの心に残る聖書のことば。
 「 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 コリント人への手紙第二5章17節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2005.4.23放送でのお話しより )

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■疲れた心のカルテ

2005年04月22日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 今日は、心の疲れを癒すことについてお話しします。

 まあ今は、子どもも大人も、総ストレス時代なんて言われます。 ま、疲れる要素っていっぱいありますよねえ。何しろ生活自体が速いテンポです。そしてスケジュールに追われる。しかもノルマがある。そしてまた重苦しい人間関係もある。そして時々繰り返し思い出される失敗とか過去の嫌なこと。ま、そんなことで心が疲れてしまいます。もうだめだって感じてしまうこと、ありますよねえ。

 ま、多少の疲れとか、嫌気がさすなんてのは、悪くないし、むしろ自然だと思います。問題は、もうだめだ、降参って言って捨て鉢になったり、もうこれまでと諦めてしまうことです。ま、今多発している青年たちの集団自殺とか、一年に3万人以上もの人が疲れ切って不幸な最後を遂げてしまう、そんな現実もあります。

 さあ、このさまざまな疲れ、また嫌気、それを解消するのにはどうしたらいいでしょうか。 いろんな簡単な方法もありますよね。音楽を聞くとか、散歩や旅行をするとか、ゆっくり休む。ま、こういうのも必要ですし、これで癒される、ま、それはいいと思います。でも、問題は、こういうのが溜まってしまって、その疲れが取れない、行き詰まってしまうってことです。

 聖書では、深ーい心の疲れ、やる気を失った時にこそ実は、疲れを癒すことのできる頼りになる神様を知る機会だと言っています。

 旧約聖書のイザヤ書40章28節、29節という所に、こんなふうに言われています。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。・・・疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」って言っているんですねえ。私たち誰も、元気な時、調子がいい時って、神様のことをあまり考えません。でも、弱さを感じたり、限界を感ずる時、疲れや嫌気が心を覆う時こそ、癒してくださる本当に頼りにすることのできる神様を知る機会だって言うんです。

 ちなみにイエス・キリストは言いました。「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」こう言われたキリストは今日も私に、あなたに、語りかけ、また、招いておられるのです。

( PBA制作「世の光」2005/4.22放送でのお話しより )

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■問われる家族

2005年04月21日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
 
 ここ数年、夫婦の離婚とか、それに伴った子どもたちの将来の問題、家庭内暴力、夫婦間の暴力、つまりドメスティックバイオレンスの問題、児童虐待や引きこもりなど、家庭についての多くの課題と取り組んできたような気がします。

 ある日の新聞には、問われる家族と題しまして精神科医の斉藤さとるさんと清心女子大学教授のいわかみまみさんの話しが掲載されていました。お二人が共通して語られていた内容は、戦後に一般化した男女分業型の核家族という家族のイメージは、産業構造や男女の生き方の変化で多様なあり方へと脱皮が求められている、こんなことでした。そして家族の機能は低下していると指摘していました。つまり、家族が欠けている問題は家族どうしで解決していったが、 今は、家族は無条件で安全な砦ではなくなっているって言うんですね。

 斉藤さんは、まず近所と仲良くなる。自分の家族の問題をさらけだすような関係を作ることだ。 不登校や離婚など、同じ悩みを持つ人が集まる自助グループを複数持つといい。こんなふうに言っています。また、いわかみさんは、 昔は家族が地域にしっかり組み込まれていた点が今と違う。監視の目が多い、うっとおしさがあった反面、助けが得られた。だが今は、地域との繋がりがなく、孤立化している家族が少なくない。社会全体でケアが必要だ。こんなふうに指摘していらっしゃいました。

 まあ児童虐待などを考えましても、実の父親や実の母親から子どもたちは虐待を受けているんですねえ。実はその若い父親や母親が子どもであった頃、どうだったんでしょうか。愛された経験が乏しかったのではないだろうかと思わされます。 お前なんか生まなきゃ良かったなどと、じゃまもの扱いされた事が多かったんじゃないかなあって思うんです。離婚も家庭内暴力も煎じ詰めていくと愛の欠乏に辿りつくような気がします。

 聖書は、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」こんなふうに言っています。何かができるかという事が問題じゃなくて、神秘的な不思議ができても愛がなかったらやかましいって、こう言うんですね。 価値がないって言うんですねえ。愛というのは、自分の都合や好き嫌いを越えて相手を大切にする思いだと思います。これは神がキリストのいのちを犠牲にしてあなたを愛している、つまりアガペーの愛なんです。すべての人間関係の祝福。ここが原点だと思いますね。聖書を通してぜひ追い求めていただきたいと、そんなふうに思っています。

(PBA制作「世の光」2005.4.21放送でのお話しより )

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■呼ばないうちにわたしは答える

2005年04月20日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さ、今日の世の光は、まず皆様からのお便りの紹介です。東京都三鷹市にお住まいの川上まさ子さんからいただきました。

 いつも素晴らしいイエス様のお話し、ありがとうこざいます。羽鳥先生がお元気になって本当に良かったです。先生たちの温もりのある優しいお声が多くの悩める人々の心に届きますように。いやされますように。先生どうぞお体をお大切にしていつまでもお元気で神様からのメッセージをお届けください。

 川上さん、嬉しいお便りありがとうございました。

 さ、今日の約束のことばです。旧約、新約の約は約束の約なんですねえ。今日の約束のことばは、 旧約聖書イザヤ書65章24節です。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

 私たち、放送のために大きなお金が必要だった時にみんなで一生懸命祈りました。そこにアメリカの友人からの4万ドルという大金の献金が届きました。私たちはみな飛び上がって喜びました。しかし、後で考えてみて分かった事ですが、私がアメリカに行っていた時、私が泊まっているホテルに夜、その所に来てくださって、4万ドルを持ってきてくださった。しかし私が留守だったので、そのまま帰って、そして日本の私にメールでそのお金を送ってくださったのです。つまり神様は、私たちが祈らない先にお答えをしてくださったのです。こんな話しを聞きました。もう一家も財布に一枚もなくなり、食べ物もなくなった母と息子が一生懸命祈りました。翌朝手紙が来て、その中にきっちりと一週間分に必要なだけのお金が入っていました。祈りが聞かれたと喜んだのですが、その手紙の主は、ニュージーランドという遠い所で彼らの夫、お父さんが死んだことを知ってそのお金をすでに送っていたのです。彼らが祈るずっと前にそのお金は海を越えて運ばれていたのです。

 今日の約束のことば。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」イザヤ書65章24節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2005.4.20放送でのお話しより )

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