♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■主が弔ってくださる / 福井 誠

2013年10月31日 | Weblog
2013/10/31放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主が弔ってくださる」です。それでは第一サムエル記31章12節から読んでみましょう。

 「勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。

 イスラエルに攻撃を仕掛けたペリシテ人はいよいよイスラエルの王と息子たちを追い詰めました。第一サムエル記最後の章にはサウル王の死が記録されています。聖書は言います。サウルの息子たちが殺され攻撃はサウルに集中し射手たちが狙い撃ちにしたのでサウルは傷を負ったと。そしてサウルは自ら剣で自害しました。

 何とも悲しい結末ですね。ダビデを追い詰めようとしていたサウルは逆に追い詰められて自ら滅びていきました。ペリシテ人たちはサウルの首をはね、遺体をベテ・シャンの城壁に吊るし、さらしものとしました。武具はアシュタロテの神殿に戦勝記念として奉納されました。

 普通の物語であればこれで終わったことでしょう。しかし聖書はヤベシュ・ギルアデの住民が命の危険を冒し、サウルと彼の息子たちの釘づけにされた遺体を取り外し、火葬したことを書き加えています。ヤベシュ・ギルアデの人々はかつてアモン人ナハシュに虐待された時にサウルに助けてもらっていました。彼らはその恩義を忘れておらず、勇気をもってペリシテ人の地へと踏み込んだのです。彼らはサウルの遺体を取り戻し、その骨をヤベシュにある柳の木の下に葬った、とあります。

 これはイスラエルの習慣であって、神聖な場所に丁重に葬られたことを意味しています。つまり聖書はサウルの物語をさんざんな悲劇で閉じようとはしなかったのです。サウルのように不機嫌に満ち、憎悪と嫉妬と暴力とを露にし、神に反逆する王であれ、神はその死を粗末にはされなかったことを伝えています。神はサウルに恩義を感じた者たちを用いてサウルが丁重に弔われるようにしてくれました。また宿敵であったダビデをも動かしてサウルが一族の墓に戻るようにしてくださいました。神は真実なお方です。罪人に対する神の深い愛を覚えたいものですね。

(PBA制作「世の光」2013.10.31放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■私の苦しみの子 / 板倉邦雄

2013年10月30日 | Weblog
2013/10/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「私の苦しみの子」という題でお話ししましょう。

 ヤコブが愛した妻ラケルが息を引き取る床で最後にあげた声は「ベノニ」---私の苦しみの子---でした。父ヤコブはこの子どもをベニヤミン・「右手の子」と名付けます。創世記35章の続きです。

 さてヤコブ一族はベテルからベツレヘムへ向かう旅の途中になりました。妻ラケルは突然陣痛に掴まえれてしまいました。激しい苦痛がラケルを襲いました。その出産は「重かった」(16節)とあります。死の陣痛がラケルを襲った時、産婆は息が絶えようとするラケルに向かって「心配しなくても良いですよ。お子さんは無事に産まれましたよ。今度も男の子です。」と叫びました。瀕死の母ラケルにとってそれは歓喜に至る音楽ではなかったでしょうか。そしてラケルはかすかな声でつぶやくのです。「ベノニ---私の苦しみの子、私の嘆きの子ども---」と。

 聖書の創世記はこのように書き残します。

 「彼女(ラケル)は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。」(18節) (口語訳聖書)

 ラケルという女性の生涯は、母となるという思いに集中していたのではないかと思えてなりません。人は生きたように死んでゆく、とよく言われるからです。ラケルはその容姿のゆえに夫ヤコブから愛されました。何とヤコブはラケルと結婚するために14年もおじラバンの家で労働しました。ラケルは静かな忍耐強い愛情を受けたのです。しかしラケルは夫の愛に満足することはありませんでした。ラケルの全人格は母となることに集中していたのです。姉のレアが夫ヤコブに子どもを産むたびに激しい嫉妬に身も心も焼き尽くし、初めてヨセフを出産し母親となった時、有頂天になり誇りたかぶりました。そして母となることにおいて死を迎えたのです。

 ベノニ・「私の苦しみの子」というラケルのことばは、やがて民族を襲う苦難と悲劇の歴史を彩る預言となるのです。

 聖書のことばです。

 「主は言われる。ラマで一つの声が聞こえる。悲しみの、そして痛ましい嘆きの声である。ラケルがその子らのために嘆いているのである。」エレミヤ書31章15節 (私訳?)

(PBA制作「世の光」2013.10.30放送でのお話より )
 
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■あなたを探す神 5 / 大嶋重徳

2013年10月29日 | Weblog
2013/10/29放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 ルカの福音書15章には、いなくなった一匹の羊を捜すために九十九匹を野原に残して探しに行く羊飼いの話が出てきます。そしてその羊が見つかった時にこの羊飼いは、羊を見つけたら大(おお)喜びでその羊を肩に(ですの実情方に)担いで帰って来る、と聖書は記しています。

 「ああ、ここにいたのか、もう離さないぞ。」迷い疲れた羊を自分の肩に乗せて喜んでくれるこの羊飼いはイエス・キリストのことを表しています。また迷っている羊は私たち人間を表しています。イエス様は迷っている私たちが「助けて!」と言う前から探し始め、そしてその名を呼び続け、「メーッ」という声を聞いて見つけたことを心から喜ぶ方なのです。

 私の母親は私が夕方遅くまで遊んでいて帰って来ると、「あんた、どこに行ってたんや。ほんまにもう、しゃあないなあ。」とよく怒りました。ああぁー、今日も怒られるなあ、そういうふうにわかっているので怖くて家に帰るのが気が重くなっていました。

 しかしここでイエス様は、もうこんなに神様から離れていたら随分神様も怒っているだろうな、もう神様のもとに帰れるような自分じゃないな、そう幾ら私たちが思っていたとしても、イエス様は「ああ、ほんとに良かった。ここにいたのか!」、そう抱きしめてくれるのです。この羊は自分勝手に粋がって迷い出ました。人生を分かったような顔で出て行ったのです。自分で草は探せる。羊飼いに用はない。しかしそんな羊を見つけた時も羊飼いは喜ぶのです。それはあなたという存在が神様にとって他の何をもってしても埋めることができない大切な大切な存在だからです。そしてイエス様は見つけた時、大喜びで肩に抱きかかえてくださると聖書は記します。肩に担がれるというのはイエス様の耳元に私たちの口があるということです。その耳元で今日も私たちは言っていいのです。
 「イエス様。今日あんな辛いことがあったんです。こんな嬉しいことがあったんです。」 それが祈りです。このイエス様の肩の上があなたの帰って来れる居場所となるのです。さあ、このイエス様の肩に担がれて安心してお祈りすることを始めてみませんか。

 ( PBA制作「世の光」2013.10.29放送でのお話しより )

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■良き羊飼い 3 / 関根弘興

2013年10月28日 | Weblog
2013/10/28放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストはヨハネの福音書の中で「わたしは良い牧者です。」(ヨハネ 10章11節、14節)と言われました。そして「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ 10章14節)とも言われたのです。

 ま、聖書は私たち一人ひとりは弱い羊であり、だからどうしても羊飼いが必要なんだと教えます。そしてその羊飼いこそイエス・キリストであると教えているんですね。そして感謝のことにこの羊飼いは羊のことを、あなたのことをいつも心に懸けておられるのです。いつも心に懸けられているってことは嬉しいことですね。

 私は先日久しぶりにある方にお会いしました。でもなかなか名前が出て来ないんですよ。するとその方が「先生。私のこと、もう忘れちゃったんでしょう!」まあそう言われたんですねえ。ちょっと心が痛みますねえ。顔はよく分るんですが思い出せないんですよねえ。

 でもイエス様というお方は何と素晴らしいお方でしょう。私たち一人ひとりを決してお忘れになることがありません。いつも心に懸けておられます。

 そしてイエス様は「羊をその名で呼んで連れ出」す(ヨハネ 10章3節)と書かれているように、イエス様はあなたの、私の名を知っている。つまりあなたの存在そのものをようく御存知だと言うのです。

旧約聖書のイザヤ書49章にはこう書かれています。

 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ 49章15節、16節)

これがイエス様の心ですね。

そしてイエス様は、
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」(ヨハネ 10章16節)
 と語られました。

 どういうことかと言ったら、これはユダヤ人も異邦人もイエス様によって集められ導かれていくということ、つまりイエス・キリストを信頼し生きる一人ひとりはみなイエス様を羊飼いとする大きな一つの群れとなっていく、とイエス様はおっしゃったんです。ま、私たちはすべてイエス・キリストにあって一つの群れとされているという訳ですね。

 私たちはみな違いのあるものです。性別も年齢も人種も国籍も肌の色も違います。しかしそのような違いはイエス・キリストにあっては問題ではありません。キリストによって集められ一つとされていくのです。イエス様はあらゆる隔ての壁を打ち壊すお方であり、イエス・キリストにあって私たちは一つとされていく仲間たちなんですね。

  (PBA制作「世の光」2013.10.28放送でのお話しより)

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■キリストの復活 / 羽鳥頼和

2013年10月26日 | Weblog
2013/10/26放送

 世の光の時間です。世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。先週はキリスト教会で行われている聖餐式についてお話ししました。そこでお話したのは聖餐式とはイエス・キリストの十字架のことを覚える時であり、キリストの十字架は人の罪を赦し永遠のいのちを与える神の救いであるということでした。

 今日はその十字架と深い繋がりのあるキリストの復活についてお話しします。使徒パウロはコリントの教会の人々に復活について語りました。その事がコリント人への手紙第一15章に記されています。パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(14節)と語って、キリストの復活がキリスト教の宣教またキリスト教の信仰に絶対に必要なことつまりキリスト教の真髄であることを教えています。

 そしてパウロは、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(17節)と語って、キリストの復活が人の救いのためになくてはならない出来事であったことを教えています。

 キリストの復活はキリストが死んで葬られてから三日後に実際にあった歴史的事実です。そしてキリストの死と復活によって人は罪から解放されて、永遠のいのちを与えられ神様による救いに生きることができるのです。キリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。それで私たちは罪を赦され新しい命を与えられて神の子として生きることができるのです。

 キリストの復活の事実はそのような神様の素晴らしい救いが確かであることを示す出来事なのです。

 キリスト教会はその始まりからキリストの復活に希望を持ってきました。教会が日曜日に礼拝を守るのはその日が休日だからではありません。およそ2000年前の日曜日にキリストは復活されたのです。ですから日曜日に復活されたキリストを覚えて教会は礼拝をするのです。

 明日は日曜日です。復活の希望を知るために、あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。


(PBA制作「世の光」2013.10.26放送でのお話より )
 
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■人生の底から / 岩井基雄

2013年10月25日 | Weblog
2013/10/25放送

世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。先月も紹介した河野 進という牧師の詩を今日も紹介したいと思います。この河野進先生は岡山ハンセン病療養所の慰問を50年以上続けた方です。彼は岡山県倉敷市の牧師であると共に、富田保育園の園長もしておられ、1990年に天に帰られました。おにぎり一つ分の献金呼びかけた「おにぎり運動」でも有名ですが、常に小さく弱い方々と一緒に歩まれマザー・テレサさんとも活動を共にされました。河野牧師はどん底のような人生の方とも一緒に歩まれたのです。

今日紹介するのは『海底』という詩です。

 海はどのように深くても
  かならず 海底がある
 悲しみや苦しみは
   どのように深刻でも
  時間という海底がある
  ほほえみという すばらしい珊瑚礁がある
  祈りという 限りない光がある

 深い海の底のような人生のどん底を私たちは様々なことで経験することがありますねえ。それはすべてから見放され見捨てられたような経験であり、永遠にそこから浮上することができないのでは無いかと絶望的な気持ちに陥るかもしれません。しかしどん底とはそれ以上は落ちることのない場所でもあるのです。そこで体験する悲しみや苦しみがどんなに深くともどん底にこそ神様の御手による不思議な支えとと神が創造される時の流れの中にある助けがあります。そして同じ痛みを知る人の微笑みという宝や更にはそのどん底から神に祈ることができる不思議な永遠の一筋の光があるとこの詩は歌っているのですね。

 聖書の中に次のようなことばがあります。

 「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」 旧約聖書 申命記33章27節 口語訳

 どんなに深い海底よりもなを深く神の愛はあなたに届きます。あなたが今どのようなどん底にいたとしても、そのどん底を支えているのは神様の永遠の御腕であり、それはあなたに限りない慰めと励ましを与えるのです。あなたもどんなどん底の状況でも、決して変わることのない神の愛の御手を深く感じ感謝をしながら、愛の光の中を神の恵みへと上って行きませんか。神はあなたを愛しておられるのです。


 (PBA制作「世の光」2013.10.25放送でのお話しより)

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■主にあって奮い立った / 福井 誠

2013年10月24日 | Weblog
2013/10/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主にあって奮いたった」です。それでは第一サムエル記30章6節から読んでみましょう。

ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

 前回は神様の憐れみによって自分の同胞の民イスラエルそしてサウル王と戦う危機から救われたお話をいたしました。ダビデはどんな思いで帰り道に着いたことでしょう。やれやれ何とか危機を脱した。しかし敵に匿われるのも限界だ。いつまで敵国ペリシテ人の地にいたらよいものかと考えたかもしれませんね。

さて先頭の隊列から外されて自分の町に戻ってみると何と町は焼き払われ無残な姿になっていました。暖かく出迎えてくれるはずの家族はみな捕虜として連れ去られていました。あまりの悲しみにダビデの部下がダビデに怒りを燃やしダビデを石打ち殺そうと言い出し始めました。ダビデにとってはまたもや思いがけない展開に気も動転するばかりであったことでしょう。サウルに追われているダビデを理解し、ダビデを助けようと行動を共にしてきた部下たちに手の平を返されるのです。絶対絶命の絶望的な状況でした。ダビデはは非常に悩んだ、とあります。しかしダビデはその苦悩の中にあって彼の神、主によって奮い立ったというのです。その苦境にあってダビデはへたり込むのではなく、神に助けを先に求めたのです。この時ダビデは詩篇25篇を歌ったとされます。そこにはこうあります。

 「私はただひとりで、悩んでいます。私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。」(16節、17節)

わたしはただ一人で悩んでいます。私の心の苦しみが大きくなりましたドームが苦悩の口から私を引き出してください。

 素直に自分の気持ちをぶつけていますねえ。人には自分で自分を奮い立たせなくてはならないときがあります。神と共に立ち上がるダビデに皆が応じました。皆が自分の家族を取り戻そうと立ち上がり神はみんなを祝福されました。完全にへたりこみそうな時にこそ主によって奮い立つことを学びたいものですね。

(PBA制作「世の光」2013.10.24放送でのお話より )

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■信仰に立つ / 板倉邦雄

2013年10月23日 | Weblog
2013/10/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「信仰に立つ」という題でお話ししましょう。

 宗教改革者マルチン・ルターは宗教裁判の法廷で「我ここに立つ」と言ったそうです。「我ここに立つ」とは神のおことばである聖書に立つことを意味していました。言い換えますと「我はただ信仰に立つ」といっても良いでしょう。

 さてヤコブは信仰に立ってシェケムの町を旅立ったのです。創世記35章の続きです。

 ところでヤコブの息子たちが妹ディナが辱められた事件でとんでもない悪行三昧を働きました。目を覆いたくなるような殺戮と略奪行為でしたねえ。しかし神への悔い改めと信仰を持って立ち上がったとき、大いなる恐れが周囲の街々に興ったのでヤコブの息子たちへの追ってはなかったのです。神様がヤコブ一家を守ってくださったのですねえ。

 次に、信仰に立つとき、再び神様がヤコブに現れて祝福してくださったのです。

 「わたしは全能の神である。・・・一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう。」 (創世記35章 11節、12節 口語訳)

 そして何よりも第三に、信仰に立つとき私たちは神様を礼拝するようになるのではないでしょうか。そこでヤコブは神が自分に語られた場所に一本の石の柱を立てました。そしてヤコブは神が自分に語られたその場所をベテル・「神の家」と名づけたのです。そこで神様を礼拝いたしました。信仰は信心ではなく神様を仰ぐことから来るのです。そして信仰は神の約束のことばを聞くことから始まるのではないでしょうか。

 聖書のことばです。

信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(口語訳)

そして

わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」(口語訳)

 ローマ人の手紙10章17節と、第一ヨハネの手紙5章4節です。


(PBA制作「世の光」2013.10.23放送でのお話より )
 
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■あなたを探す神 4 / 大嶋重徳

2013年10月22日 | Weblog
2013/10/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。聖書にはいなくなった一匹の羊を探すために九十九匹を野原に残して探しに行く羊飼いの話が出てきます。

 私は最初にこの話を聞いて、「えっ?、アホちゃうか?」と思ったのです。「もし一匹を探しに行っている間に他の九十九匹がメェーと迷っていたらどうすんねん。」 一匹を探すことのリスクが頭の中を駆けめぐってしまいます。そして残してきた九十九匹、私たちの抱える自分の現状の一つ一つ、大切な一人ひとりのことを考えると、「一匹のために動けるか?」と思うと動けないかもしれません。

 私たち人間には限界があります。もし今日あなたの友達がとてつもない悩みを抱えていて、悩み苦しんでいるとき、その問題を前にして逃げ出さず最後まで一緒にいられるでしょうか。私にも自分の家族がある、自分の仕事がある、自分の生活がある。人間は最後の最後まで探すことができるかというと、探すことのできない限界を抱えています。

 ではここでイエス様は九十九匹を置いてでも探しに行く羊飼いを語る意味とは何でしょうか。それは九十九匹を置いてでもあなたという存在を探すことのできるのは、神様以外おられないということです。

 私たちは私たちを取り囲む人間関係に深く失望させられることがあります。しかし今日もしあなたが自分の親や家族に失望させられていたとしても神様はあなたを失望させません。もし他の誰かに裏切られたとしても神様はあなたを裏切りません。あるいは自分で誰かを愛する愛の足りなさに落ち込み自分の無力さに失望してしまうということもあるでしょう。しかし今朝もしあなたが、誰かのために力になることができない、と自分の弱さ限界に落ち込んでいたとしても、神様はあなたの弱さを超えてあなたの大切な人を探し続け、そして必ずあなたの大切な人を見つけてくださるというのです。あなたの祈りを聞いてくださる神が今私たちの大切なあの人を探し続けてくださる。私たちの人間の限界を越えて最後の最後まで人を探し出す神、それがわたしだよ、とイエス様は今日私たちに語ってくださるのです。

 この神様の確かな招きに信頼してみませんか? ぜひお近くの教会を尋ねていただきたいと思います。

 ( PBA制作「世の光」2013.10.22放送でのお話しより )

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■良き羊飼い 2 / 関根弘興

2013年10月21日 | Weblog
2013/10/21放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。今日も新約聖書ヨハネの福音書の10章の中からお話をさせていただきます。イエス・キリストはこの章の中で

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11節)

 と言われました。ま、イエス・キリストは私にとっても素晴らしい素晴らしい羊飼いだという訳ですねえ。

 イエス様は私たち一人ひとりを心にかけてくださっているだけではなく、私たち一人ひとりのことをよく知っておられる方です。私たちの性格も個性も長所も弱さも知っておられるのです。そしてすべてを知った上で愛してくださっています。愛してくださる方にすべてを知られているなら安心できますね。イエス様の前で私たちは気負う必要がありませんし、格好をつける必要もありません。イエス様は私たちのありのままを良く知っておられます。どうしてこの方から隠れて生きる意味があるでしょう。照らわずに正直な自分であっていいのです。

 イエス様はこのヨハネの福音書の10章の中でこのように言われました。

 「また、わたしのものは、わたしを知っています。」(14節)
 「羊はその声を聞き分けます。」(3節)
 「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(4節)

 このように言われました。

 ジョージ・アダム・スミスという人がパレスチナ地方に旅行した時のことでした。一つの井戸の所に3、4人の羊飼いがそれぞれの羊の群れを連れてやってきたそうです。彼らは井戸から水を汲み羊たちに飲ませるのですが、いつの間にか群れがごちゃごちゃ、ま、ごちゃまぜになってしまったのだそうです。どれがどの群れの羊だか、まあはたから見ていと全く分からなくなってしまいました。

 しかし、しばらくして、それぞれの羊飼いが独特の声を上げて羊たちに合図する訳ですねえ。フムーとかハァーとかハーとかフーとかですねえ。何と見事に元通りにですねえ群れが分かれていったというんですね。羊飼いはいつも羊と共にいるので羊は羊飼いの声を聞き分けることができるという訳です。

 イエス・キリストを信頼し生きるということはイエス・キリストの声を聞き分け、イエス・キリストについて行くことができるということでもあります。

 一体どのようにしてそのようになことができるんでしょう。それは聖書という書物を通して私達はイエス様の愛と恵みの声を聞くことができるんです。イエス様の声はあなたを愛しあなたを諭す調和の声です。あなたを否定し恐怖におびえさせる声ではありません。たくさんの宗教的な戒めを与えてがんじがらめに縛りつけてしまう声でもありません。あなたを自由に、あなたに平安を与える声です。このイエス様を信頼し、歩んでいきましょう。

  (PBA制作「世の光」2013.10.21放送でのお話しより)

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