♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■起きて、床を取り上げて歩け -7 / 大嶋重徳

2017年01月31日 | Weblog
2016/11/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。


 聖書には38年間ベテスダの池で寝たきりの人が癒された出来事が記されています。イエス・キリストは彼に、38年間寝たきりであった彼の布団を畳むように語られ、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ 5章8節)と言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われた「起きて」というギリシャ語は、他の聖書では「復活する」という意味で用いられる重要なことばです。イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われた時の「建て直す」ということばが「起きて」ということばと同じです。つまり「起きよ」と言われた時、「復活せよ」という意味が含まれていました。イエス様は38年間寝たきりの彼に向かって「起きなさい」と言われた時、ご自分の十字架と復活を指し示しながら、「死んだままでいてはいけない。起きなさい。」と言われたのです。

 十字架とはすべて人間の罪をイエス・キリストが背負われ、その罪の報いとしての裁きの死をイエス・キリストが身代わりに背負われたことです。そして死んだだけでは終わらずに、イエス様は復活をされました。復活とは私たちにとって意味することは、イエス・キリストを救い主として受け入れる者にとって、共によみがえられたキリストは永遠にいてくださるということです。(参照 ローマ 4章25節、ローマ 8章3-4節、1コリント 15章3-5節、1ペテロ 3章18節 、1ヨハネ 4章10節)

 イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪のために死んでくださいました。それは、あなたがそのまま罪に死んでしまってはいけない、というためにです。

 イエス様は墓の中から復活をされました。それは、「あなたはその罪の布団を畳みなさい。いつまでもそこにてはいけない。立ち上がって歩き出しなさい。」と言うためでした。

 そしてイエス様は十字架と復活を指さしながら、今朝私たちにも言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。 弱さのまま開き直ったり、罪のまま開き直ったりするのではなく、その罪から起き上がりなさい。」 

 イエス様は十字架で死んだままではありません。墓の中から起き上がる方なのです。そして私たちをもまた死んだままには終わらせない。よみがえらせ新しく生きていくことのできる人生を与えてくださるのです。そして私たちに語りかけられるのです。「私と共に新しく歩き始めようではないか。復活の新しいいのちに生きよう。」と。このイエス様の招きに従って、あなたの身体を起こし、神と共に新しく生きていく人生へと踏み出していただきたいと思います

  ( PBA制作「世の光」2016.12.6放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



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■感謝しよう / 関根弘興

2017年01月30日 | Weblog
2016/11/28放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを紹介いたしましょう。
 新約聖書 エペソ人への手紙5章20節
 「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

 キリスト教会の特徴の一つは、たくさんの賛美を捧げるということです。そしてもう一つは、「感謝」ということばをよく用いることだと思うんですねえ。

 パウロは「すべてのことについて・・・感謝しなさい。」と記しています。でもこれはなかなか実行することが難しいですよねえ。良いことを感謝することはできますが、そうでないことはなかなか感謝などできません。でもパウロはそれでもなお敢えて、「すべてのことについて・・・感謝しなさい。」というのです。実はここに人生の大切な生きていくための秘訣があるように思うんですねえ。

 ローマ人への手紙8章28節には、
 「神を愛する人々、・・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる
 と約束されています。困難や失敗や悲しみがあっても、神様はそのことすらも益としてくださると約束しているんです。もちろん、その事が分からなくて辛い状態や悩みを抱えている状態の中にあるときがありますよ。でも、もし神様がすべてのことを働かせて益としてくださると約束してくださっているなら、その約束のゆえに勇気をもって神様に感謝のことばを出すことができるのではないでしょうか。

 でもこれは生活の中で実際に行なってみないと分りませんよね。「感謝します」と言うことが難しい中で思いっきり、「神様。感謝します。」と告白してみてください。もちろん私たちは神様の前に正直に自分の心を注ぎだし、時には涙を流して「神様、どうしてですか?」と疑問をぶつけることもあります。深い悲しみの中で、初めから感謝などできないかもしれません。だから自由に神様の前に自分の心を注ぎ出してください。それをしないでただ口先だけで感謝してればいいのだということでありません。まずありのままの自分の姿を神様に出しながら、そして聖書が語る約束、神を愛する人々のために神はすべてのことを益としてくださるという、そのことばを信頼し、一歩踏み出すのです。すべて主の御手にあること信じ、敢えて感謝を捧げていくのです。さあ、賛美と感謝の唇を携えてこの一日も歩んで行きましょう。

(PBA制作「世の光」2016.11.28放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■忍耐と励ましと希望の神 / 羽鳥頼和

2017年01月28日 | Weblog
2016/11/26放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 「絆」(きずな)ということばをよく聞きます。今、人と人がしっかりと繋がり、助け合い、愛しあって共に生きることが求られています。今日は聖書が教えている「共に生きること」についてお話ししたいと思います。

 新約聖書ローマ人への手紙15章には、キリスト教会の人々に、どうしたら共に生きていくことができるかが教えられています。そこには共に生きるための神への二つの願いが記されています。

 一つ目はこんな願いです。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」(5節)
 
 そして二つ目はこんな願いです。「どうか、希望の神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、希望にあふれさせてくださいますように。」(13節参照)
 これらの願いは、人が共に生きて行くときに、同じ思いを持つことができるように、そしてみんなが希望をもって共に生きていることができるように、という願いです。そしてこの願いでは、願いを聞いてくださる神のことを、「忍耐と励ましの神」「希望の神」と呼んでいます。これは共に生きるために必要な忍耐と励まし、そして希望は、神からしか与えられないものなので、神のことをこのように呼んでいるのです。共に生きるには忍耐と励まし、そして希望が必要です。

 聖書は言います。「力のある人が力のない人たちの弱さを担うために、そして隣人を喜ばせるために、神からの忍耐と励ましが必要です。さらに、共に生きるためには、皆が神からの希望に満たされることが必要です。」と聖書は言うのです。

 共に生きるのに必要な忍耐と励ましと希望を神は与えてくださいます。日本語の「絆」ということばには、「手枷足枷などで縛り付ける」というような意味合いもあるそうです。人と人とのしがらみです。しかしそのような状態になっても良い人間関係を築くことができるように、神は忍耐と励まし、そして希望を与えてくださるのです。

 明日は日曜日です。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

  (PBA制作「世の光」 2016.11.26放送でのお話より )
 
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が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■住職の子どもからキリストの大使へ 柏木義円 / 岩井基雄

2017年01月27日 | Weblog
2016/11/25放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の最後の金曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は柏木義円について学んでみましょう。
 越後の国与板藩、今の新潟県長岡市の浄土宗西光寺の住職の家に生まれた柏木義円は、明治11年に東京師範学校を卒業し、群馬県の小学校教員を経て、安中市の小学校校長として働いていた時に安中教会に導かれます。

 住職の息子の彼のキリスト教への入信はかなりの葛藤を伴いましたが、それ以上に柏木義円は自分の罪に悩んでいたのです。自分の罪を認め、イエス・キリストを信じ、海老名弾正牧師より洗礼を受けた彼は、罪赦された喜びから、もっと聖書を学びたいという思いを持ち、同志社大学へと進学します。そこで新島 襄から神の愛とイエス・キリストにあるいのちの恵みを深く学んだ後、卒業後は同志社予備校をはじめ熊本英語学校など、教職を勤めます。そして、同志社文学の本の編集を通して自分が悩みの中でキリストにあるいのちを見出した喜びを文章を通して伝えることに情熱を注いだのです。明治24年、彼は安中教会の牧師になります。翌年、上毛教会月報を創刊し、キリストの愛といのちを人々の生活の中に実現することを使命とします。そして自ら足尾鉱毒事件、廃娼運動、未解放部落問題などを取り扱い、神の愛に生かされキリストのいのちに生きる重要性を示し、キリストの平和の使者として豊かに用いられていきました。

 イエス・キリストはあなたにも語られています。

 「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、・・・、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
    新約聖書コリント第二の手紙 5章19節から21節

 イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかり、罪のさばきを身代わりに受けられました。罪の赦しはあなたにも備えられています。あなたも神と和解し、平和を造る者として用いられていきませんか? 神はあなたを愛していらっしゃるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.25放送でのお話しより)

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こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主によって奮い立った / 福井 誠

2017年01月26日 | Weblog
2016/11/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主によって奮い立った」です。それでは第一サムエル記30章6節から読んでみましょう。
  ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

 今日のエピソードはダビデにとっては最悪の事態を語るものです。先週お話しましたが、ダビデの軍隊はペリシテの戦争に巻き込まれずに済んで、自分の町に戻ることが許されました。ところがヤレヤレ、無事に町にたどりつくと、何と彼の町は何者かに焼き討ちにされており、暖かく出迎えてくれるはずの家族はみな捕虜となり連れ去られていたのです。悲しみ苦しんだダビデの部下たちは、そのやるせない怒りをダビデに向けて行きます。実にダビデはまたしても危機に陥り、しかも今度は外からではない内からの危機、孤立無援、もはやこれまで、という所に立たされていくのです。最後の砦、自分を守る部下たちにまで手の平を返されるような、絶体絶命の窮地に立たされたダビデは非常に悩んだと言います。

 しかしどうでしょう。信仰の勇士ダビデはその苦悩の中にあって、「彼の神、主によって奮い立った。」とあります。教えられる所ですねえ。実に神が私たちを見捨てられることがないのであれば、どのような苦境においても希望はあるものです。苦しい時の神頼みでも良いではありませんか。なす術尽きた時には、神の御名を呼び、主によって奮い立つ所に立たなくてはなりません。ダビデはその窮地にあって、神を怨んだりせず、絶望して自分を殺めるのでもなく、ただ神に期待を置いて自ら奮い立ったのですね。

 ピンチはチャンスと言われますが、それはまさに神の真実を味わう機会、神のみわざを仰ぐ機会です。ダビデはすぐさま全兵士を引き連れて追跡を開始しました。そしてこの危機も乗り越えていくのです。

 ラジオを聞いている皆さんの中に、四面楚歌、もはや自分には何の助けもない、と孤立無援の窮地にあると思う方はいませんか? ダビデのように主にあって奮い立ちたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.11.24放送でのお話より )

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■不信の罪を負って / 板倉邦雄

2017年01月25日 | Weblog
2016/11/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「不信の罪を負って」という題でお話ししましょう。

 聖書で「罪」というとき、法律を犯す罪、倫理道徳の罪だけではなく、主なる神様に対する不信仰の罪、すなわち宗教的な罪があると言うことです。そして私たち信仰者は不信仰の罪を背負って生きなければならないということです。

 さて主なる神様はモーセとアロンに言われました。
「わたしに向かってつぶやき、不信の罪を犯したこの悪い会衆をいつまで忍耐することができようか。わたしはイスラエルの人々がわたしに向かってつぶやくのを聞いた。あなたは人々に言いなさい。『主なる神様はこう言われる。わたしは生きている。あなたがたがわたしの耳に語り、つぶやいたようにわたしはあなたがたにするであろう。あなたがたはこうつぶやいた。ああ私たちはエジプトの国で死んでいれば良かった。この荒野で死んでいたら良かった。神よ、なぜ私たちを連れ出して剣で倒れさせ、私たちの妻子を餌食にされるのか。エジプトへ帰った方がいいのに。このつぶやきの通り、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れてゆくであろう。あなたがたの内、私に向かってつぶやいた者は、すなわち二十歳以上の者は、みな倒れるであろう。カレブとヨシュアだけは別である。しかしあなたがは餌食になるだろうと言ったあなたがの子どもは私が導いて約束の地に入るであろう。子どもたちはあなたがたが卑しめた地を知るようになるのだ。しかしあなたがたは死体となってこの荒野に倒れるであろう。あなたがたの子どもたちは、あなたがたの死体が荒野で朽ち果てるまで四十年の間荒野で羊飼いとなり、あなたがたの不信の罪を負うことになるだろう。あなた方は約束の地を探った四十日の日数に従って、その一日を一年として、四十年の間自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう。』」

 さて、つぶやきというものは主なる神様への不満と疑いの現れなのです。不信の罪を私たち信仰者は、この荒野の人生において償っていくことになるのでしょうね。「すべて信仰によらないことは、罪である。」(ローマ人への手紙14章23節 口語訳聖書)、という聖書のことばが響いて来るようです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.23放送でのお話より )

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■星に導かれて -6 / 大嶋重徳

2017年01月24日 | Weblog
2017/1/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
昨年から続きのクリスマスの物語をお話しします。

 聖書にはイエス・キリストの誕生の際に東の方からやってきて博士たちの物語が記されています。しかし彼らを持っていたのは誰もメシヤを待ち望んでいない信仰者たちの姿でした。

 恐らく博士たちはとても失望したでしょう。しかしそんな場所でも星は輝いていました。聖書にはこうあります。
 「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(マタイ 2章10節)

 このことばは「大いなる喜びをひたすら喜んだ」という意味です。「喜びが爆発した」と言って良い意味のことばです。

 マタイの福音書で唯一クリスマスに「喜び」ということばが出て来るのはここだけです。実はマタイの福音書で描かれるクリスマスは暗いシーンばかりです。よくクリスマスで見かけるロマンチックな光景などどこにもなく、ヘロデ王の悪意と、2才以下の赤ちゃんが皆殺しにされるという暗く恐ろしい話ばかりです。しかし「見よ」と星の輝きを見た時、彼らに喜びの爆発が起こったのです。博士たちは、この人生を懸けた旅は無駄ではなかった、やはり救い主はこの地上に生まれたのだ、と思った時本当に嬉しかったのです。

 今日、私たちにも「この星を見よ」と聖書のことばは語ります。たとえ昨年一年間、もしこのラジオをお聴きのあなたが悲しみの中を歩いていたとしても、自分のしてきたことを誰も誉めてくれず、無駄だったんじゃないかと後悔していたとしても、この星はあなたなたの上に今日も輝くのです。またあなたがどれだけ至らないクリスチャン生活であったとしても、この星はあなたの上に輝くことをやめません。そしてこの星の輝きをもたらす神様はあなたのしてきたことをすべて目に留めて、あなたのなしたことを何一つ無駄に終わらせたりはしないのです。あなたを導く星の輝きはイエス様のもとへと連れて行くことをやめないのです。

 博士たちの心は喜びで震えました。人間の思いを越えたものが輝いている。彼らは喜びに包まれました。

 クリスマスのテーマは「喜び」です。この「喜びの爆発」があなたの人生の中にも起こる、と聖書は語ります。あなたが救い主を尋ね求め、あなたがキリストに従って歩み続けるとき、その人生は決して無駄に終わることなく喜びで満ち溢れることとなるのです。この喜びの人生をぜひ受け取っていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2017.1.10放送でのお話しより )

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■賛美しよう / 関根弘興

2017年01月23日 | Weblog
2016/11/21放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを最初に紹介しましょう。
新約聖書 エペソ人への手紙5章19節
  「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。

 「詩と賛美と霊の歌」とは一体どのようなものなんでしょうか。

 「詩」とは旧約聖書の詩篇を指す場合もあります。そしてこのことばは原文では「弦楽器を弾く」という意味から出てきたことばだと言われます。また「賛美」とはギリシャ語ではヒュムノスということばで、英語ではヒム hymnと言いますよね。これは「神様を賛美する」という語源から出てきたことばです。そして「霊の歌」とあります。この「歌」と訳されることばは一般に広く歌われる歌という意味で特別な宗教的な意味はありません。しかし「霊の」という形容詞がついていますよね。ですから霊の歌とは「内側から出て来る心を込めた歌」と言うような意味なのでしょう。

 キリスト教会の特徴の一つは、礼拝の中でたくさん賛美を歌うことだと思います。楽器を使って賛美をしますし、神様を心から称えて賛美をするんです。また自分の心からの信仰の告白を歌にして歌うこともあります。つまり「詩と賛美と霊の歌」とをもって礼拝を捧げる訳ですね。

 そしてパウロは、そうした賛美は自分自身にも他の人にも語りかけられる大きなメッセージになるのだと教えているんです。私たちは賛美を通して感動を覚えたり、神様の励ましや慰めを得ることがしばしばあります。多くの人が賛美の中に励ましと慰めを得ているんです。

 詩篇の22篇の3節という所には、神様は私たちの賛美を住まいとしておられる、と記されています。私たちは神様を目で見ることはできません。しかし私たちが心から賛美を捧げて行くとき、神様がその真ん中にてくださるのだということを味わうことができるというのですね。

 新約聖書ヘブル人への手紙13章15節
 「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

 どんな状況にあっても神様に捧げる賛美(は)、大きな力になるんですね

(PBA制作「世の光」2016.11.21放送でのお話しより)

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■神のいつくしみときびしさ / 羽鳥頼和

2017年01月21日 | Weblog
2016/11/19放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は神の慈しみと厳しさについて新約聖書ローマ人への手紙11章からお話しします。
 11章はイスラエルと異邦人に対する神の救いの計画を教えています。その中に神の民であるイスラエルをオリーブの木に喩えた話があります。こんな話です。

 初めイスラエルは良い木として根を張り、枝を張りました。しかし彼らは神に対して不信仰となり、その枝が切り落とされてしまいました。そして別の野生の木の枝である異邦人がそのオリーブの木に接木されたのです。

 このオリーブの木の喩え話は、神の救いがまずイスラエルに与えられ、イスラエルが不信仰になったために神の救いが異邦人にも与えられるようになったことを教えています。イスラエルの救いがなくなった訳ではありません。イスラエルも再び神を信じるなら救いを受けることができるということもこの喩え話は教えています。イスラエルが不信仰のために神によって切り落とされたことは、神の厳しさが表わされた時でした。そして異邦人が救われる所に神の慈しみが表わされたのです。

 こうして聖書が語ります。
 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
    新約聖書 ローマ人への手紙11章22節

 聖書は異邦人にも注意しています。「高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(ローマ 11章20節) もし不信仰になってしまうなら、異邦人も神の厳しさの中に置かれるのです。今もすべての人の上に神の慈しみと厳しさがあります。神はすべての人がその慈しみの中にとどまることを願っておられます。神の慈しみの中にとどまるとは、神が人を救い主イエス・キリストによって救われたことを信じ続けるということです。神の慈しみの中にとどまりましょう。

 明日は日曜日です。慈しみ深い神を知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.11.19放送でのお話より )
 
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■花婿キリストとともにある喜び マルコ⑭ / 岩井基雄

2017年01月20日 | Weblog
2016/11/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。先月はイエスが「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と答えられたことから、キリストの愛は自分の弱さや穢れを認める人々にこそ豊かに注がれていくということを学びました。

 パリサイ人たちはイエスの弟子たちが断食をしないのを見て、キリストにこう言いました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないですか?」 断食とは肉体的苦痛を通して神への熱心な祈りと悔い改めを表現するものです。パリサイ人には週2回の断食の習慣があり、バプテスマのヨハネの弟子たちもそれを行なっていました。しかしいつの間にかその習慣は形式的なものになり、神様への愛ではなく自分の義を表すために用いられていくようになっていたのです。

 それを御存知だったイエス・キリストは、彼らの偽善を指摘し、更に豊かな真理へと彼らを導かれ、こう語られました。
 「「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
     新約聖書 マルコの福音書2章19節、20節

 キリストはご自身を花婿に喩え、自分と共にいる弟子たちの喜びを花婿に付き添う友のそれに喩えたのです。救い主の到来は大いなる喜びを伴い、断食する気持ちになれないほどの感謝に満たされていくのです。イエス・キリストがこの地上から取りされ十字架へと向かうときにこそ、弟子たちは自分の罪を示され、その罪を悔い改め、神に近づくというのです。どんな状況の中にあっても私たちは共にいてくださる主イエス・キリストによって豊かな喜びに満たされます。さらにキリストの十字架は私たちの罪を示し、それを認める者をキリストの花嫁として大いなる祝福へと導いてくださるのです。あなたのためにもイエス・キリストはこの地上に来られました。あなたも自分の罪を心から認め、癒しと救いを与える救い主イエス・キリストを心に迎え、喜びと祝福に満ちる人生を歩み出しませんか? 神はあなたと共におられるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.18放送でのお話しより)

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