ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「三日目の朝」

2014-09-15 09:48:38 | 説教 使徒信条
9月14日(日) 礼拝説教は
テキストは「詩編」16篇7節~11節 「マルコによる福音書」16章1節~8節
タイトルは「三日目の朝」でした。

使徒信条は、キリスト教会が歴史を通して何を信じてきたのかを明らかにしているものですが、
今日はその中で「要」ともいえる言葉「三日目に死人のうちよりよみがえり」を見てゆきましょう。

イエスのよみがえり、復活とはイースターの出来事です。 今の時期にイースターのこととは
少々外れているように思われるかもしれませんが、イースターの出来事(イエスのよみがえり)を
毎週日曜日に思いおこし喜び、語られるのが、実は教会の礼拝なのです。
聖書を読み、讃美歌を歌い、祈り、説きあかしを通して復活のイエスに出会うのが2000年の間教会が
守ってきた礼拝です。 日曜日、イエスの復活した日に集まるのはよみがえりの確認のためでした。 
聖書の時代、日曜は休みの日ではなく、週の初めの日でした。 今の感覚でいうと月曜日でしょうか。
復活のイエスに出会った嬉しい日曜日の早朝あるいは夕べに集まって喜び祝った、これが礼拝の始まりでした。
使徒言行録に礼拝の最中に居眠りをした若者が下に落ちた、という話がありますが、一日の労働に疲れた
若者が居眠りをした、夕べに礼拝が守られていたことが分かります。
日曜日が休みになったのはAC4世紀、ローマ帝国においてキリスト教が公認された時です。

さて、イースターに何があったのか、朝日の中にどんな喜びがあったのか。
安息日(土)が終わると、イエスの体に香油を塗りその葬りを完全なものとするため、婦人たちは
朝早くにイエスを葬った墓に駆けつけました。 ところが、待ち望んでいた日曜日の朝、イエスの墓は空でした。 
婦人たちは震え上がり正気を失い、また言葉を失うほど圧倒されました。 
恐ろしくて逃げ帰り誰にも言わなかったとマルコは伝えています。
そして「マルコによる福音書」は突然ここで閉じられています。
新共同訳の「マルコによる福音書」に記されている9節~20節の部分は信頼できる有力な写本には含まれていません。

ピラトが百人隊長に確認させ、弟子たちが十字架から降ろし、婦人たちが、自分たちが布で巻いたイエス。 
マグダラのマリアがしっかりと凝視した動かしがたいイエスの死。 死の現実がそこにあるはずでした。 
嘆くためにそこにあるはずの嘆きがなくなりました。 涙を流すこともできませんでした。

絶対的な死、誰にでも訪れる確かなもの、死は絶対で究極的なもので、それゆえそれは容易に私たちのなかで
絶対視され神格化されやすいものでした。 
その墓が空虚でうつろのままに残されていた。 真の神は命の神であることを示すために、死は神になり得ず、
神に飲み込まれたのです・・・・これがイースターの出来事です。
神の業は人間を圧倒します。
婦人たちは圧倒され、神の働きに震えました。 これは畏怖の念の現れです。
ボンヘッファーは「復活の奇跡は我々の間で支配的な死の偶像化を無力にする」と死に打ち勝つことを高らかに宣べました。
死に勝つこと、その一点を教会の礼拝は宣べ伝えてきたのです。
真実で根本的な「要」がイースターの出来事です。
死を滅ぼしたイエスキリスト、神に似せて造られた私たちを本来の人間の姿に解き放す、それがイースターの出来事なのです。

私が最初に伝道師として使わされた横浜指路教会で、一週間に三人の方が亡くなられたことがありました。 
教会が丸ごと死に包まれたような中で、私は本当に復活の主がおられる思いに打たれ続けました。 
朝日の中で復活された命に触れ、圧倒され続けました。 
この衝撃の中でむなしい言葉は失われ新しい命の言葉が生まれ出る、一週間のこの思いが私の牧者としての原点でした。

イースターの讃美歌「Lord of dance」(讃美歌21の290番)は踊りの輪の先頭で踊られるイエスを歌っています。
踊るイエス、喜びの先頭に居られるイエス、足の不自由な人が歩けるようになり、目の不自由な人が見えるようになり、
耳が不自由な人が聞こえるようになり、讃美を忘れた人、嫌われ者、諦めの人に喜びを与えられたイエス。
歌い、笑い、躍り上がるような讃美を歌うイエスは確かに Lord of dance だったことが分かります。

「本日の交読文」は詩編30篇からでしたが、
あなたは私の嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました、と読みました。
あなたはひっくり返された、私の嘆きはひっくり返された。 
ここには御子イエスの十字架と言う膨大なエネルギーが使われ、戦いがありました。
「死んだら終わり」の思いをひっくり返し、ほどき、脱がせて命を着せ掛けてくださったイエスから
新しい希望の証しをいただいて、今週一週間を過ごしましょう。    (以上、文責はゆうゆうにあります。)


復活されたイエス、踊りの先頭に立って喜びを一杯に表されるイエス。
死に打ち勝って私たちを導いてくださるイエス。
多くの人々にこの喜びを伝えたいものです。
悩む人、苦しむ人、空しい人、つまり私のような人々にどのようにしたらこの喜び、福音が伝わるのでしょう。
救われている私の平安はどのようにしたら他の人に伝わるのでしょう・・・・・
今週も神様に導かれて一日一日を歩みたいと思います。


公園に咲いていた白萩です。


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HP委員のHさんが、今ホームページの手直しをなさっています。
多くの方がアクセスしてくださるようなHP、Hさん頑張ってください!
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