ゆうゆうの教会便り

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「天国の在所(ありか)」

2014-09-22 10:00:44 | 説教 使徒信条
昨日の主日礼拝の説教
テキストは「詩編」2編11節~12節 &「マルコによる福音書」16章19節~20節
タイトルは「天国の在所」でした。

今日は使徒信条の「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」についてです。
使徒信条は本来、受洗する人への問答の言葉であったと言われます。 一つ一つ問い、受洗する人が答えてゆく形、
その中で編まれてきた言葉です。 使徒信条をかみ砕いていくとキリスト教が何を信じているのかが端的に正確に
分かってきます。 教会での聖書の読み方というのはこの信条を規範として読みます。
聖書の読み方は文学としてまたは芸術のモチーフとして、または研究資料として等色々あります。 
旧約聖書に限って言えば、ユダヤ教の人と研究を共にすることもできます。アメリカのユニオン神学校では
目の前のユダヤ教の学校から教師が来て講義をすることもありました。 しかし、教会で読む場合は
教会の読み方がありますから、同じ旧約聖書を読んでもユダヤ教とは違ってきます。 
教会は信仰告白に沿った読み方をします、信条は私たちが聖書を読むときの土台です。

マルコによる福音書16章19節は使徒信条の言葉と全く重なっています。 
使徒信条は聖書全体を見て、その中からエッセンスを述べているので、言葉が聖書とピッタリ重なるという事はあまりありません。
先週、ある方から、説教のテキストは一個所なのに、説教の中では聖書のあちこちの箇所が引用されるので戸惑ってしまう、
というご質問を受けましたが、使徒信条の場合は聖書の述べる所のエッセンス的なものなので、特にそうなってしまいます。

マルコ16:19では「イエスが天に昇った」ことと「神の右に座したもうた」ことが完結した過去形で述べられていますが、
信条では「天に昇り」は完全な過去形ですが、「右に座したまえり」は文法的にみると、今なお、現在もずっと続いている
というニュアンスをもつ現在分詞形で述べられています。 マルコ伝だけを読むと、イエスの今がはっきりしないということが出てきますが、
マルコ伝全体、聖書全体を読むと、信条の「今もなお」という現在分詞形の意味が分かってきます。
マタイによる福音書にはイエスが「世の終わりまであなたたちと共にいる」と語られていますし、「ヘブライの信徒への手紙」には
「イエスは昨日も今日も永遠に変わることがない」と書かれていて、使徒信条の信仰と合致してきます。
教会で聖書を学ぶときは聖句とともに全体を見ていきます。 その全体像を指し示すのが使徒信条です。 
今もなお、イエスは神の右に座しておられる、教会はそう信じてそれを語り続けてきました。

「天に上げられる」とは何を現わしているのでしょうか。
それは、新しい時代が始まったという、新しい時を告げているのです。
5月の礼拝で「使徒言行録」を取り上げた時に、ここには特徴的な歴史観があるとお話しました。
同じルカによって書かれた「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を続けて読むと一直線の歴史観があります。(コンツェルマン)
歴史を三区分して(聖書歴史観)真ん中にイエスの時、その前をイスラエルの時または旧約の時、その後を教会・聖霊の時と分けるものです。 
イエスが天に上げられて、一つの時代が終わり新しい時が始まったということを言い表しています。

「使徒言行録」1章8節 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
「マルコによる福音書」16章19節 主イエスは弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座につかれた。
「ヨハネによる福音書」14章~16章の「決別説教」
イエスは去って弁護者、仲介者としての聖霊が遣わされ、イエスの証人として思い起こさせるとあります。 
使徒信条はマルコ伝、マタイ伝などの様々な証しを凝縮して伝え、その時を、今、わたしたちは生きていることを思い起こさせるのです。

「神の右に座す」とはどのような意味でしょう。
「右」は聖書では「右の手による御業」など、象徴的に使われています。
「右」は場所と言うより神の権威、救いが表されていて、全権を与えられた者を意味します。 神と同質である方、同じ本質の方を表します。
右に座り続けておられる、と現在形で語られることは、人間となり痛み苦しみを受けて死んだ方が天に昇り、そこで終わりでなく、
今なお私たちを執り成し、慰め続けておられることを現わしています。
カトリックもプロテスタントもすべてのキリスト教が共に根底に持っている「ニカイヤ信条」では「主は我ら人間のため、
我らの救いのために天に昇り、父の右に座しておられる」と宣べています。
「ローマの信徒への手紙」8章34節には「キリスト・イエスが神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」とあります。
ニカイヤ信条、ローマの手紙で鮮明に分かっている救いに与りながら、喜びを忘れ、的外れに生きてしまう私たち、肉の弱さの私たちは
イエスの苦しみを理解せずに眠る弟子たち、イエスを見放して逃げ去った弟子たちに通じています。

どうにもならない悲しさ、切なさ、的外れな生き方をせざるを得ない私たちの弱さを知っておられ、今、天上にあって執り成し続けていて下さるイエス。

私たちの救いのために神の右に座しておられるという使徒信条の信仰に関して「ハイデルベルクの信仰問答」のなかにある
「問 49」キリストの召天は私たちにとってどういう利益があるのですか? は答えています。
①主が天において神の御前で執り成しをしてくださること
②私たちと同じ肉体をもって復活されたイエスを思い、その体なる教会に連なる者として天に向かって立ち上げられていること
③主に与えられた聖霊の力で上にあるものを求め、地上のものを求めないように確証を与えられ、今なおイエスを礼拝できること という利益がある。

今週も下を向いたり横を見たりすることもあると思いますが、どうか上を向いて一歩一歩、進んで行く事ができますように。
                                  (以上、文責はゆうゆうにあります。 今週の要約は特に自信なし、です。 m(_ _)m )



<彼岸花>が公園のあちこちに群れて咲いています。


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