ゆうゆうの教会便り

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「傍らにある助け」

2014-10-06 18:59:58 | 説教 使徒信条
昨日の礼拝説教
テキストは「エゼキエル書」36章25節~28節 &「ヨハネによる福音書」14章15節~17節
タイトルは「傍らにある助け」でした。

この二カ月間、説教を通してキリスト教の核ともいえる「使徒信条」をかみしめ味わってきました。
使徒信条は、父なる神、独り子イエス、そして聖霊の三段階に分かれています。

キリスト教の歴史のなかでは様々な信仰理解が現れては消えてゆきました。
AD20年ころ、マルキオンという人は「イエスは正に神として認める。しかし旧約の神はその造り給うた地球も
不完全であり神として劣っていて、礼拝するに値しない」と言いました。
「天地創造の神は礼拝されるべきだ、しかしイエスは人間であり礼拝の対象では無い」とサモサタのパウロスという人は言いました。
AD4世紀にはトロピキ(?)という人が「天地創造の神とその独り子イエスは神であるが、聖霊は神として礼拝する対象では無い」と言いました。
キリスト教の信仰理解は次々と、出て来ては退場する、を繰り返してきました。
教会はそのたびに長い年月をかけて会議を開き、礼拝を続け、皆で話あってきました。

信仰の内容を言葉にするのは難しいが何とか言葉にしなくてはこれから先立ち行かない。
礼拝を繰り返す中で確認した言葉、聖書全体を理解した上で結晶していったのが「使徒信条」、
すなわち、父、子、聖霊、同じ性質を持っている三位一体の神で、この神は自分たちが礼拝する神であると、何百年もかけて
教会で確認されてきた言葉なのです。

今日は聖霊の信仰についてひも解いてゆきます。
聖霊の神は捉えがたく難しいと思われます。 
「霊」はギリシャ語でもヘブライ語でも「息」「風」を意味しています。神の息、神の風、聖なる霊です。
聖霊の実態を捉えるのは難しいものですが、教会はこれを神として告白してきました。
聖霊は目に見えませんが、その成した結果を見ることで聖霊の存在を知ることができるものです。
起こった出来事を通して理解されるものです。

では、聖霊の具体的働きとは何か。それは聖霊が働く時、イエス・キリストがはっきりと示される、これが一番大事なポイントです。
イエスのいた時は遠い昔ですが、時空を超えてイエスがありありと私たちに指ししめされるなら、
それは私たちの想像や思い込みでなく、聖霊の働きそのものなのです。
パウロは「聖霊によらなければ誰もイエスが主であると言うことはできない」と述べています。
知識がどんなにあっても聖霊が働かなければ、イエスは主であると告白できないのです。
キリスト教の信仰は聖霊が与えてくれるもので、私たち人間の努力や修練によるのではありません。

聖霊を称える信仰から讃美歌がいくつも出て来ています。

ーー讃美歌第二編177番「あなたも見ていたのか」ーー

あなたも見ていたのか 主が木にあげられるのを
ああ、いま思い出すと、深い 深い罪に わたしはふるえてくる。

あなたもみていたのか 主が釘をうたれるのを
ああ、いま思い出すと 深い 深い罪に 手足がふるえてくる

あなたも見ていたのか 主が槍で刺されるのを
ああ、いま思い出すと 深い 深い罪に からだがふるえてくる

あなたも見ていたのか 主を墓に葬るのを
ああ、いま思い出すと 深い 深い罪に 心がふるえてくる

臨場感あふれる讃美歌です。
これは決して当時の弟子たちや民衆だけを指しているのではありません。
今生きている私たちのために、ここまで的外れに生きてしまった私たちのために主は十字架の裁きによって
身代わりになり執り成してくださったことが分かります。

ーー讃美歌第二集185番「カルバリの山」ーー

カルバリ山の十字架につき イエスはとうとき血しおを流し
すくいのみちをひらきたまえり 主イエスの十字架 わがためなり

この私を救うためにこの出来事が起こったのだと確認する時、聖霊が働いたと言うほかはありません。
イエスへの信仰は自力で手にするものではないということを、私たちは聖霊を信じることによって教えられます。
神が主導権を持っておられる事、まず聖霊が働いてくださいと祈り求めることにつきます。
クリスチャンは聖霊によって信仰を与えられた者なのです。
きっかけは何であれ、教会に来ることによって目に映る世界が違って見える時が来るならば聖霊はそこに働いておられ、
私たちはエゴイズムな生活から解き放たれ本当に自由に生かされていくのです。

聖霊は信仰を与え、そして祈りを与えます。
祈りを本当に必要とする時、祈りが分からなくなるほど魂が呻くとき、その時、神の前に立つ私たちを聖霊は助けてくれるのです。
同様に“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、
言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです
」(ローマ8:26) 
聖霊はうめきをもって執り成し、本当の祈りを知らない私たちを助けてくださるのです。 
祈りの言葉さえ失うほど沈み込む時、聖霊は沈黙のうちにその祈りを聴き、執り成して下さるのです。

聖霊はまた、弁護者です。
「弁護者」とは傍らに呼ばれる者、または、傍らにあって呼ばわる者です。
キリストに代わって遣わされる聖霊は弁護し、祈りに伴ってくださいます。 
私たちの内にあっていつも、いつまでもさやかにイエスの出来事を思い起こさせ、指し示して下さるのです。
そして教会はこの救いを毎週礼拝でいつも思い、伝えます。

これから聖餐式を持ちますが、御言葉を味わう聖餐式は、聖霊を通して救いを思い起こし伝えます。
聖餐式は「最後の晩餐」を現わしていますが、晩餐に招かれた弟子たちは、イエスを裏切ったり、十字架のイエスから逃げたりしました。
イエスから逃げ出した弟子たちは誰もイエスの十字架の出来事やその前後を思い出したくなかったはずです。
イエスが復活し、弟子たちに現れてくださり、パンを裂いて贖ってくださらなかったら、イエスの語りかけが無かったら、
教会に、礼拝に、弟子たちに喜びは無かったでしょう。

裏切り、逃げた弟子たちは今の私たちの姿でもあります。
私たちのために聖霊が働いてくださり、キリストをさやかに示されることによって、私たちは救いを、赦しを思い起こすのです。
聖霊が降り、その力で教会を建てた弟子たちの思いを私たちも共にし、私たちが今も招かれている十字架の、
その語り部として今週も礼拝から押し出されて行きましょう。
                                   (以上、文責はゆうゆうにあります。)

左近先生の説教は迫力があり、一瞬、時空を超えて自分がイエス様の時代にいるような気になることがあります。
聖書の出来事が本当に身近に迫って感じられます。
凄い! そして面白い! です。



水浴びをする<キビタキ(♀)>


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