ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「教会の信仰」

2014-10-12 22:23:58 | 説教 使徒信条
今日の礼拝説教 テキストは「イザヤ書」56章1節~8節 & 「エフェソの信徒への手紙」2章17節~22節
タイトルは「教会の信仰」でした。

今日は教会学校の分級の当番でしたので礼拝で左近先生の説教をお聴きすることはできませんでした。
左近先生がくださった説教のプリントを貼らせていただきます。





教会の中の人間模様、人間の集まりであるが故の反目、非難、排除などは教会発生の初めから
あって当然のことなのですね~
第三イザヤの書かれた時代の背景もな~るほど!と思わされてとても印象的です。
イザヤ書56章は行き詰まった社会に生きる人たちに向けて語られているのですね。

『人間の集まりである教会は破れや過ちがあって当然、その教会を信じると告白できるのは、
中心にキリストをいただいているから、聖なる食卓を通して聖なる方に与っているから。
他人同士の私たちがキリストによる赦しを通して「神の家族」とされている。
「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる」のは、互いの間に横たわる敵意をキリストの
平和によって叩き潰していただき、違いを持ったままでも共に座ることへと招いていただき
キリストの体とされて生きることへの召していただき、そのような私たちの交わりが、教会の
交わりが、キリストによって聖なる神殿、聖霊によって神の住まいとなると約束していただいて
いるから。』

今日の説教一段と迫力があって胸に突き刺さります。
メモを取りながら礼拝でお聴きするのと、文字を通して読むのとの違いはあるでしょうか?
ナント、ナント、人間は罪深いものなのでしょう。
人間に甘い期待を抱いてはいけません。 神様にだけつながっていなくては。
神と教会と教会の(赤の他人の)兄弟姉妹・・・・・・「聖なる公同の教会を信じる」こと、難しいです。
人間だから長所も欠点もある、等と言う甘い人間認識しか持ちえない私はだめですね~
同じ信仰を持っているから(人間同士も、教会の兄弟姉妹は)信じあえるという認識は甘いですね~
神さまがいてくだされば私はいいけど・・・・・こんな理解(信仰)で良いのカナ~


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