ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「主の僕の詩」

2014-04-23 12:35:06 | 今日の聖句
今日の聖句は「イザヤ書」42章1節~4節

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは
島々は彼の教えを待ち望む。

(ここでは「裁き」と言うのは、道、正しき道を現わしていると、
以前礼拝説教で聞いたような気がします。)

イザヤ書40章~55章は第二イザヤと言われています。
その第二イザヤ書には四つの主の僕の詩と言われるテキストがあります。

第1詩 42:1-4(5-9節はその付論)
第2詩 49:1-6(7-13節はその付論)
第3詩 50:4-9(10-11節はその付論)
第4詩 52:13-53:12

今日の聖句は第1番目の「主の僕の詩」です。

↓ 「聖書事典」の「主の僕」の項からの抜書きです。
最も問題とされるのは主の僕とは誰かという事で、集団説と個人説がある。
集団説は主の僕をイスラエルの民と考えるが、しかし、一連の四つの詩は直接的には
個人の生と死について語っているので、イスラエル説には難点が多い。
個人説はモーセからイザヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤ、エレミヤ、ヨヤキム、セルバベルなど、
第1詩に関しては、バビロン捕囚の解放直前の状況を想定してキュロスという説もある。
個人説ではメシア節が重要視される。
イザヤ42:1において「主の僕」と「選び」が結びついていて、この結びつきは
「イスラエルを除けば(イザヤ41:8)ダビデとその子孫に典型的である。
最後の第4詩は特に「苦難の僕の詩」と言われ、内容は旧約聖書の深みに到達している。
主の僕の受ける苦難によって人々は癒され、多くの人の罪が担われ執り成されたと告げられている。
初代教会が、イエスの十字架上の苦しみをこのテキストから理解したことは確実であろう。 

この先の「主の僕の詩」を丁寧に読んでゆこうと思います。 特に第4詩が楽しみです。

イザヤ書は勿論、「主の僕の詩」もこれまで何度も読んでいるのに、頭に残っていない・・・・
自分でも恐ろしいくらい聖書の御言葉が沁み込んでいきません。 
諦めず、赦しを乞いながら読み続けてゆくことにいたします。  (T__T)



<カイツブリ>ファミリー
親鳥の片方は餌を捕りに、その間、片方は必ず雛の傍にいます。

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