その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

割れたザクロのような…

2022-10-07 08:22:01 | 転職

我が家の「ザクロ」は実をつけない?

『爆ぜた(はぜた)柘榴のように』…江戸川乱歩の中編小説「柘榴」に出て来る一節のようである。『おやじぃ』は『爆ぜる(はぜる)』という表現を知らなかった。だから「割れたザクロのように…」と表現する^^; 四人の幼児を亡くした我が祖母は、鬼子母神を我が家の神棚に祀っておりました。そして、毎年、ザクロの実をお供えしておりましたが…。「割れたザクロの実」は、赤い果肉のひと粒ひと粒が現れ、見た目は「美味しく」思えるのですが、我が家のザクロは、途轍もなく酸っぱかった。「鬼子母神には千人の子どもが居て、他人(人)の子どもをさらっては食べていた…。お釈迦様は、鬼子母神の末っ子を隠し…。」と祖母は鬼子母神にまつわるお話を続けるのでありますが、「我が子を隠され改心した。」という一節と人の子の代わりに「ザクロの実を食べよ。」とお釈迦様が諭したという一節は、今でも納得出来ておりません。赤い果肉が、血の色や肉をイメージさせるとしても、あの酸っぱいザクロが、人肉にも思えない…子どもの頃に受けたイメージというものは、何年経っても払拭出来ないのでありますよ。(甘いザクロの果肉に当たった経験がないのでありますよ^^;)
千葉県江戸川の女児行方不明事件(事故)…「柘榴」を検索していたら、江戸川乱歩の小説がヒットしたのは偶然であり、「ザクロ」の実を見ながら、幼児を亡くした祖母のことを思い出したのは必然…このところ、幼子が事件(事故)に巻き込まれる事案が多過ぎる。我が家の場合は、事故無く(多少の病気や事故はあったけれど)成人することが出来ましたけれど、幼い我が子を亡くしてしまった親御さんの心痛を察すると居たたまれない。心の平穏など容易に訪れるものではないと思いつつ、ご冥福をお祈りするしか出来ることがありません。


そろそろ飽きてきた…「ペペチノ」

晩年、認知症で家の中を徘徊した祖母であったけれど、夜中の茶の間でちゃぶ台の四か所に煙草の吸殻を盛っていたことがありましたっけ…。我がお袋は「亡くした四人の子どもたちに取り分けたに違いない。」とその理由を解釈し、家人(親戚)も『霊的な存在』が祖母にそうした行動を取らせていると納得した。そして、菩提寺の水子地蔵尊を供養し、幼子(女の子)のために買い求めた雛人形を供養して…『困った時の神頼み』という例えもありますが、平静を保てているときは一笑に付してしまう行為も、何かに頼りたくなってしまう。今ならば、祖母の微かに残っている『記憶』が、そうした行動を引き起こしていると冷静に語ることも出来るのだろうけれど…。(しかし、供養後、確かに祖母の異常行動は収まり、次第に老衰へと向かっていくのでありますが…。)
はてさて、生きている5人の子どもたち(男の子)の中では、病弱で一番要領の悪かった叔父を一番心配し、亡くした子の中では、幼子としては一番利発な女の子の思い出語りをしていた祖母である…母親としての「慈しみ」や「記憶」というものは深いものだと思っている『おやじぃ』でありますよ。だから、そんな不遇や不幸に際して、「宗教」や「信心」を持ち出されてもねぇ…水子地蔵尊に手を合わせて、乱れる心に安寧を求めることは理解できる。(事実、自分もまたそうして救われる部分があるもの。)しかし、不遇や不幸の原因が「先祖の因縁によるものだ。」などと吹聴されたら堪らない。それで『救済』されるならば、まだヨシとしよう。一人の人間は、そんなに強い存在ではないのだから…人の『弱味』につけ込む『宗教』は認めようとは思いませんけれどね。

#戦争反対 不慮の事故で子どもを亡くした親たちの後悔…そんな姿を見ているから、避けられるはずの「戦場」に若者たちを送りたくはないのです。

 

 

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